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1.サンフレッチェ広島とは?
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児玉典:
「はい!まずはあたしから行かせてもらうけえね!ちょっと長いけど、覚悟してえな!」 |
「サンフレッチェ広島。かつてサッカー御三家の一角・広島にあって日本サッカー界に君臨し、メキシコ五輪などに日本代表を数多く輩出した東洋工業(現マツダ)が前身。しかし全盛期を過ぎた後は低迷、マツダと名を変えるもJFL2部から抜け出せない時期が続いたの。そこで海外よりヨハン・マリウス・オフト、日本ではハンス・オフトのほうが通りがええね、『ドーハの悲劇』の時の日本代表監督。彼を招聘してチームを立て直し、Jリーグ発足に際して1部に昇格を果たし、広島市民の支持を受けてプロのサッカークラブとして発足!公募によってクラブ名は「サンフレッチェ広島FC」と決定。
サンフレッチェの名の由来は、現在の広島県吉田町出身の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事に倣い、日本語の「三」と、イタリア語で「矢」を意味する「フレッチェ」を組み合わせたもの。最初はさすがに違和感あったけど、もう慣れたね・・・
略するときは、“サンフレ”あるいは“サンフ”。どっちが正しいかというと、どっちともいえない。新聞などで略するときは“サンフレ”で統一されとるね。“SAN-FRECCE”だから音節で略すと“SAN-FRE”になるからかな。でも一般的には、文脈の中での語呂によって言い分けてるというとこね」
「チームカラーは紫。でも!紫といっても、京都のパープルとは違って、“ヴァイオレット(すみれ色)”。パープルより青に近い。ここんとこ間違えちゃいけんよ!
んで、マスコットは熊。種類はツキノワグマね。名前はサンチェ君。下をはいていないけど、動物ということでひとつ勘弁ね!なんで熊なのか?ってことじゃけど、中国山地には熊が多いんよ。昔、ビッグアーチ周辺に熊が出没してニュースになったこともあったね。今は大丈夫だと思うけど、一応用心しといて!
最近、フレッチェさんっていう恋人ができたけど、ファン感謝祭でのお披露目の際は、そのまんまなネーミングにみんなずっこけてたなあ・・・
ユニの胸のDEODEOというのは、中国地方に展開する電器店ね。背中のJUKENというのは、住建産業という建築会社のこと。住建は今年一杯でスポンサー下りるみたいじゃけど、どうするんかなあ。今度は下岸建設あたり?」
「じゃ、次はサンフとしての歴史ね。
最初の監督はスチュアート・バクスター。「ディシプリン(組織・規律)」を重視したサッカーで、『地味ながら組織力のあるチーム』と、何だかよくわからない評価を博す。日本代表にはGK前川和也、MF森保一、FW高木琢也の3人を送り出し、森保は「守備的MF・ディフェンシブハーフ」という呼称を日本人に知らしめ、高木は「ポストプレイ、クサビ」という用語を浸透させた。前川はアジアカップでのトンネルで有名になったね・・・高木が木梨憲武とのPK勝負に負けて坊主頭になったってこととか、当時では話題になったっけ・・・」
「1年目のサンフは大体勝率5割くらいのまずまずの成績。Jリーグ日本人初ゴールが主将・風間八宏さんによって記録されたことは広島人ならゼッタイ覚えとかんといけんね。相手はリトバルスキーを擁しとったジェフユナイテッド市原いうんもね。でもって、2年目、監督はバクスターのままで、新外国人としてイヴァン・ハシェックを獲得。アルシンド、ていうか島さんみたいに頭が薄かったのが印象的じゃったけど、元チェコスロバキア代表主将であり、W杯出場の経験もある彼の加入で、チームは快進撃。FWに入ったハシェックは、上背はないもののタイミングの良いジャンプで空中戦を制し、ヘディングでのゴールを量産。当時J最強だったヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)相手のハットトリックは圧巻じゃったよ!そして、アウェイでのジュビロ磐田戦、先制されながらも高木さんのヘッドで追いついて、後半ロスタイム、高木さんが体を張ってキープしたボールを風間さんが右へ展開、ゴリさん(森山)がサイドを破って独走し、飛び出したGKと交錯しながらも中央へ折り返し、そこに走り込んだパヴェル・チェルニーが無人のゴールに・・・・そして94年1stステージ優勝〜!!この日はもう眠れなかったよ・・・・地元のTVも一斉に深夜まで特番組んだし・・・うれしかった・・・!」
「ちなみにこの頃の主力は、
GK前川(引退)、河野(現C大阪)
DF森山(引退、ユース監督)、佐藤(引退)、柳本(現G大阪)、片野坂(現仙台)、松田(引退、現神戸監督)、上村
MF風間(引退、現桐蔭大学監督)、森保(現仙台)、ノ・ジュンユン(現福岡)、チェルニー(まだ現役らしい)、小島(現福岡)
FW高木(引退、解説者)、ハシェック(引退、ストラスブール監督)、島(引退、サンフレッチェびんごコーチ)
というところ。パンチパーマの佐藤さん、話題になってたなあ。
ロングシューター松田さんもすごかった。今はヴィッセル神戸の監督だなんて・・・
今見てもベストメンバーという感じ!今サンフに残ってるのは上村だけ・・・時の流れというやつね〜・・・」
「でも表彰式の後チェアマン杯割っちゃったんよね。でも誤解されてるけど、あれ割ったんは森山ゴリさんじゃないけえな!Vゴール決めて上半身裸になって走り回ってイエローもらったあの人のキャラからしていかにもやりそうじゃけど!(笑)
(そのイエローもらったあとに川淵さんから『もう少し知的だと思ってたけど・・・』と苦笑されたのはここだけのヒミツ!)
あ、そういえば前に(2000年)セレッソが優勝争いしてるときに、ヒーローインタビューで真中が、
『西のほうのチームで優勝したところないんで・・・』
って言うとったね。BSで見たけど。
あたしはそれ聞いてぶち切れたから、すぐにセレッソのHPに抗議のメール出しといたけえね」
「さて続き。1stステージ制覇したサンフは2nd4位。そしてチャンピオンシップの相手は王者・V川崎。でも、あまりにパターン化されたサンフの攻撃は川崎に完全に研究し尽くされてて、サンフは2戦とも落として優勝ならず。ラモスの伝説的ループシュートは悔しかった・・・
そしてこのシーズンでバクスター監督は勇退。後任は、オランダ人のヴィム・ヤンセン監督。さらなるレベルアップを目指したけど、ここからサンフの暗黒時代がはじまったの」
「ヤンセンさんはオランダ・サッカー界の重鎮で、今なおオランダ代表監督候補に名前が上がる大物。今は浦和のコーチやっとるけど、監督のオフトよりずーーーーーーっとえらい人なんよ!見た目は商店街の買い物おばさんじゃったけど!浦和のフロントは何考えとるんじゃろうね。
さて、ヤンセン監督は『ムービング・サッカー』を提唱して、レベルの高いサッカーを展開しようとしたけど、運悪く主力に故障が相次ぎ、さらにクラブの経営が悪化したことで補強もままならず、チームはどんどん深みにはまっていく。前川、上村、路木、森保、柳本、ノ・ジョンユン、高木ら代表クラスのメンバーを多数抱えながら、彼らが揃って出場できた試合はほとんどなく、控えメンバー中心では監督の提唱する高度なサッカーは実現すべくもなかった・・・・
この時期やってきた外国人、ファン・ルーンは見事なまでの電柱だったし、ハウストラは凄い左足のクロスを持っていたけど、当時のサンフには宝の持ち腐れ・・・関東圏のクラブだったら凄い人気出てたと思う。とってもカッコよかったしね・・・
っと、閑話休題。最後にはチームのモチベーションもなく、ノーさんが一人で頑張ってるという状況に。ノーさんが、周りのサポートのまったく無い中をドリブルで打開しようとする姿は痛々しくってたまらなかったなあ・・・それでも天皇杯決勝に二度も出場できたのは奇跡的だったけど、元旦には名古屋とV川崎に完膚なきまでに負けちゃった・・・
で、ヤンセン監督は辞任。でも、そのあとスコットランド・リーグのセルティックを率いて、当時一人勝ちの状態だったグラスゴー・レンジャーズから覇権を奪ったことを見ると、彼は決して無能じゃなかったんよね」
「97年。どん底に落ちてしまったチームを立て直すべく、総監督の今西さんは、元オーストラリア代表監督のエディ・トムソンを連れてきた。過渡期にあるチームということで、若手育成に定評のある彼にチームを託したの。エディも、やはり最初はパスをつないでしっかり攻めるサッカーを目指していたけど、ここでも主力に故障が相次いでまともにメンバーが組めなくって、あえなく頓挫。この頃は、選手のコンディション管理をするフィジコも雇えないくらい財政が逼迫しとったんよ・・・で、シンプルなカウンターのチームへの変身を図った・・・・その中、いよいよ経営が厳しくなり、ついに高木、路木、森保ら主力の大量放出のニュースが!ここでサポーターたちは一斉に立ち上がって抗議、ついに森保さんの京都への移籍をレンタルに変えさせたの。「森保さんの7番は、来年帰ってくるまで欠番にしてほしい!」という要望にはじいんとなったよ・・・結局は外国籍選手のイアン・クルークがつけたけどね。
外国籍といえば、この頃在籍していたサントス(ヒゲの人)は面白い選手じゃったなあ。ファンタジスタを地で行ってた。横浜戦でGK川口能活を翻弄しまくったシーンは忘れられない!」
「98年。どうにか経営が持ち直したサンフだったけど、主力がごっそりいなくなって2部落ちの危機!でもでも、ここで強いのが貧乏に慣れている強化部、エディ監督ルートでオーストラリアU−21代表DFフォックス、そして野に下っていた元日本代表のFW山口敏弘を獲得!この二人がチームの危機を救い、さらに新しく社長に就任した久保允誉さんがクラブを大胆に改革して上向きとし、めきめき頭角をあらわしてきたFW久保竜彦や優秀新人に選ばれたFW高橋泰らのゴールもあって見事に残留決定!翌年には森保さんが復帰、レギュラーの座を奪い返すと、吉田康弘・山口敏弘とともに円熟の中盤トライアングルを形成、さらに柏から沢田謙太郎さま!あと福岡から藤本主税を獲得してチームの層も厚みを増し、95年以降最高の6位にまで浮上!このころのエディのセリフ、
「やっと試合ごとにメンバーをチョイスできるようになった・・・」
は泣かせるね。つまり今までは選手層が薄すぎて試合ごとの臨機応変の起用ができんかったいうことなんじゃから・・・」
そしてミレニアム・イヤーの元旦には三たび天皇杯決勝に進出!久保や森保を欠きながら名古屋相手に奮闘したけど、ピクシーの舞の前に力尽き、またしても準優勝に・・・」
「この頃のメンバーは、
GK下田、前川(引退)
DFポポヴィッチ(現クリスタルパレス)、上村、フォックス(現ポーツマス!川口のチームメイトね)、伊藤(現FC東京)
MF森保(現仙台)、吉田(現清水)、山口(どこにいるのか)、沢田、服部、藤本、古賀(引退、某高校監督)、桑原、森崎和
FW久保、高橋、ヴィドマー(現豪州リーグ)、大木
ポパ、フォックス、上村のスリーバックは、その圧倒的なフィジカルとセットプレイの強さで「邪悪三銃士」と恐れられたり。その鉄壁の守備はJにその名を轟かせてた。
伊藤さんのクレバー&シャープな守備は素敵すぎ。相手の背後からピンポイントでボールを射抜くタックルにはしびれた〜!」
「上向きのチーム、優勝も視野に入れて始まった2000年シーズンじゃけど、あまりにも守備偏重のシステムの弊害で得点力不足が深刻になり、競り負ける試合が続出。それでも、中盤のつなぎ役として頭角をあらわし新人王に輝いたMF森崎和や、エースに成長した久保のゴールなどで中位に持ちこたえたけど、あたしたちは当然大不満。これでエディ監督の時代は終わり、今度は攻撃サッカーへの転換を目指して、ロシア人のヴァレリー・ニポムニシ監督に白羽の矢が立った・・・」
「2001年はハラハラドキドキの展開。たしかにそれまでのサンフからは想像もつかない華麗な攻撃を繰り出すようになったけど、Jナンバーワンの邪悪さを誇るといわれたディフェンス陣が一気に崩壊、取った以上に取られるという悪循環で一気に降格ゾーンへ。第2ステージは緒戦に快勝したもののその後連敗を重ねて本当に危険な所へいってしまう。しかし、ここでみんなが踏ん張った!第11節、ホームでの神戸戦で3−2と競り勝ち、第12節、金沢での雨のアウェイ戦・ガンバ戦に2−1と逆転勝利!下田の神域のセーブには感動した!続く第13節、ホームの清水戦は久保の伝説的35mロングシュートで3−0とモノにして、ここで残留決定!!第14節の磐田戦は0−1で敗れるも、磐田に何度も冷や汗をかかせた。そして最終節、優勝を決めて広島へ鼻歌交じりで乗りこんで来た鹿島を4−1で粉砕し、8勝7敗勝ち越し!そしてビッグアーチのみんなもビックリの、第2ステージ3位の成績!
ここでニポ監督の辞任が発表された・・・奥さんの病気療養のためってことじゃったけど、12月になると中国リーグの山東への就任が発表されて・・・複雑じゃったなあ・・・
この年はスリートップという超攻撃的布陣で臨んだけど、これを支えたのがオーストラリア代表のスティーヴ・コリカ。粘り強いキープと正確なパス、そして二ケタゴールで、攻撃の要だった。いまはイングランド1部のウォルソールに行って大活躍らしいけど・・・戻ってきてくれないかな〜・・・」
「で、今年。ニポ監督の推薦したガジ・ガジエフ監督のもと、攻撃的精神にバランスを加え一回り大きく成長しようとしたけど、監督の意図が見えてこずチームも迷走、ついに監督は辞任して、サンフ初の日本人監督、木村孝洋監督が誕生した。ユース監督時代は森崎兄弟や駒野を育て、トップチームでは長くコーチの立場からチームを見てきた木村さんがチームをどう立て直すのか、要チェックね!さらに日本代表の参謀として活躍してきた小野剛さんがヘッドコーチに就任、その理論と戦術でさらなる力を与えてくれる!まだまだこれから!」
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