――16
5月12日午後2時――陸上自衛隊木更津駐屯地
基地の上空を数機の機影が舞っている。それは自衛隊の現主力戦闘ヘリであるAH−1Sコブラのスリムで直線的なシルエットとは違い、ボリュームを持った作りであるのが分かる。その5機のヘリコプターが一糸乱れぬフォーメーションを崩さず降りて来ると、明らかにコブラとは異なるヘリであることが明らかになった。
AH−64D――通称“ロングボウ・アパッチ”。耐用年数を迎え始めたAH−1Sに代わり、2003年から配備の始まった次期主力戦闘ヘリだ。AH−1Sよりもずんぐりとした機体をしているのは、そこに様々な最新機器が搭載されているからであり、正面から見てコックピットの左右に張り出したアビオニクス、ブラックホールタイプと呼ばれる排気の赤外線放出を抑止する機能を備えた2基のターボシャフトエンジン、横から見て前方に突き出した鼻先のように見える部分には赤外線照準装置や夜間暗視装置などが内蔵されている。スタブウィングの武装架には対戦車ミサイル『ヘルファイア』、円筒形ポッドに19発収められた70mmロケット砲、機体下部には口径30mm機関砲、対地上制圧火力としては世界最強を誇るヘリコプターだ。
しかし、この“ロングボウ・アパッチ”がAH−1Sとも従来のアパッチとも決定的に異なる点は、メインローター上部に射撃管制レーダーが装備されている点である。このレーダーを搭載している事で視界不良な状況でも目標を捕捉する事が可能となっている。また従来はミサイルなど誘導式火器を使用する時、ヘリはホバリングしながら目標にレーザーを照射し続ける必要があった。しかし、このレーダー装置を備える事によって高速移動する物体への攻撃、また自機も移動しながらの攻撃が可能となる為、目標撃破能力や自機の生存性は飛躍的に向上している。
2004年現在、約30機配備されているこのヘリが導入されているのは、自衛隊でも唯一の機甲師団である第7師団、最新装備の技術習得を目的としている富士学校教導団、そして首都圏を守るこの第1ヘリコプター団の第4対戦車ヘリコプター隊だけである。
地面に降り立ったAH−64Dのオリーブドラブに塗られた機体に触れながら、それを誇らしげに見上げているフライトスーツ姿の青年がいた。身長170cmほど、均整の取れた体格にまだあどけなさの残る優しげな表情が印象的な男――陸上自衛隊第1師団長、石原一真陸将の息子、陸上自衛隊東部方面航空隊第4対戦車ヘリコプター隊所属、石原勇真二尉だ。
「いい動きだったな、石原二尉。」
突然呼ばれて、勇真は振り返った。
「――榊さん。」
勇真は声の主を榊と呼んだ。榊晴彦一尉、勇真よりも3年先輩であり、彼の所属する小隊のリーダーを務める、ヘリコプター隊において戦技飛行では一番の腕を持つパイロットだ。180cmを超える身長に彫りの深い顔立ちは日本人離れした容姿を見せている。彼は自分を見る勇真を見るなり、口笛を鳴らした。
「なるほど、真奈美さんと結婚することが決まって操縦にも度胸が付いたということか?」
「止して下さいよ……。そんな事は無いです。」
悪戯っぽくにやりと笑う榊に見詰められ、勇真は頭を掻いた。それは、パイロットとして自分以上の技量を持つ榊に自分の操縦を認められたという事と、婚約者の真奈美の名前が出た照れの両方だった。3年前ここに配属された勇真にパイロットとしての技術を叩き込んだのは、当時、今の勇真と同じ年齢でありながら既に隊でトップクラスのパイロットして評価されていた榊だった。一人っ子であった勇真は隊での兄貴分である榊と公私ともに親しくなり、真奈美と交際をしていることも彼の知るところになるのも当然だった。
「分からんぞ……。守るべき者がいるという事は、自分を奮い立たせることでいつも以上の力を引き出すことも出来る。逆にそのものへの執着を生んでしまうこともあるが、そのどちらに働くかどうかで時に重大な結果を招く事もある。特に俺達のような道に進んでいる者は……な……」
榊は勇真の隣に並び真剣な表情で、しかし彼等が命を預けるアパッチの機体を愛しそうに撫でながら言った。
「……」
榊の言葉に、一瞬勇真は言葉を失った。守るべき者を持つ覚悟――勇真が自衛隊に入隊する時に決めていたはずだったもの。その時、守るべきものとは日本という国、そしてそこに生きる全ての人々のはずだった。幼い頃からその背中を見続け、知らず知らずのうちに同じ道を歩いていた父がそうだった様に。しかし、真奈美の存在が出会いから今まで、勇真の心の中でゆっくりとだが確実に大きくなっていったことを榊には気付かれていた。
確かに最近の勇真の上達振りは目覚しいが、それは単に技術の伸びだけで通じるものではなかった。精神的な高揚のもたらす大胆さ、積極性が彼の持つ実力を余すところ無く発揮させているのだ。勇真自身はその変化に気付いていなかったが。
「……俺は守りますよ。自衛官としても、男としても、守るべきものを……。俺の父さんがそうであるように……」
「――師団長か……」
榊が父の肩書きを呟くのを聞いて、勇真は最も尊敬する男であり、彼らの所属する組織において遥かに上の階級に居る男の顔を思い浮かべた。確かに榊の言う通り、守るべき者がいるという事に功罪があるのは確かなのかもしれない。しかし、勇真は知っていた。父の存在こそ守るべき者と愛する者、その全てに命を懸けることが並び立つ証明なのを。
「(だが……もしこの国が戦火に巻き込まれ、自分が“ロングボウ”を駆る事になった時、俺の目には守るべきものとして何が見えているのだろう……?)」
それが日本というこの国なのか、そこに住む国民なのか、それとも愛する真奈美なのか。勇真には想像が付かなかった。
「どっちにしろ、小隊長として隊員の技量が上達する事は喜ばしい事だ。遅くなったが飯を食って、次の訓練に備えるとしよう。」
いつもの笑い顔を取り戻した榊は、未だ試案顔の勇真の背中を平手で叩いて、ガレージの外へ促す。その時、整備の為にロングボウを取り巻いていたメカニックのである兵曹の一人が顔を上げた。
「榊一尉、石原二尉。午後の訓練はありませんよ。竹井二佐から話を聞いていませんか?」
「部隊長から?初耳だが……」
兵曹の言葉に榊は眉をひそめた。竹井勝二等陸佐は、15機の戦闘ヘリコプターと30人のパイロット、メカニック他100人以上のスタッフを擁する第4対戦車ヘリコプター隊の隊長だ。彼らの間では小隊長と区別するために“部隊長”と呼ぶのが通例となっていた。
「はい。本日午後の定時訓練は中止。パイロット及び士官は別命あるまで待機せよとのことで、我々メカニックは機体に出動前メンテナンスを実施せよとの指示です。予備機も含めて全て……」
「何かあったんでしょうか?」
「さぁ……私もそこまでは聞いていませんので……」
兵曹はそう言ってかぶりを振る。勇真と榊は只ならぬ気配を察して顔を見合わせた。
「まだ俺達が判断できる状況じゃないってことさ。今のうちに飯を食うぞ。何かが起きてからでは遅いからな……」
「はい……」
榊は釈然としないまま、さばさばした様子で格納庫を後にしようと踵を返した。勇真もそれに続くが、この時まだ彼らは何故訓練が中止されたのか、その真相まだを知る由もなかった――
同日午後0時――市ヶ谷、防衛庁
時間は少し遡る。
防衛庁の地下、CCPと呼ばれる巨大施設の一角に位置する会議室の中は10人前後の人間がいるにも関わらず、異常なほどの静けさを保っていた。陸上自衛隊は練馬駐屯地から石原一真第1師団長、朝倉恭平第1普通科連隊長、朝霞駐屯地から上泉昇一東部方面総監、田所昌明第31普通科連隊長。そして航空自衛隊から府中より野上哲雄航空総隊司令、入間より永澤英一郎中部航空方面隊司令。加えて宮川卓也陸自幕僚長、長谷川裕二空自幕僚長、既に小林総理からの指示を受けて『みちしお』の捜索と対ゴジラ哨戒活動の準備に入っている海上自衛隊の関係者はいないが、ここには短い時間で集まれるだけの自衛隊の責任者達が揃っていた。
皆が口を開かないのは今、山之内統幕議長から知らされた事実が衝撃以外の何物でもなかったからだ。
――ゴジラが生きていた。
1954年に東京を襲い、街を戦中ながらの焦土と化した怪獣が50年の沈黙を破って甦り、海上自衛隊潜水艦『みちしお』を撃沈し乗員70名のうちそのほとんどの命を奪った。そしてなお日本近海に潜伏中だというのだ。
「最新の報告によれば最初にゴジラを発見し、追跡していた岩国基地のP−3Cもゴジラをロストしてしまったと言う事だ。見失った地点は高知県沖約450km。『みちしお』が撃沈された地点よりは本土から離れているが、海上交通の安全確保の為、これは予断を許さない状況だ。」
山之内はホワイトボードに張られた海図をポインターで指しながら言った。
「現在、海上自衛隊には出動準備命令が出されている。既に『みちしお』捜索の為、鹿児島の第1航空群、岩国の第31航空群は哨戒機を現場に派遣しているが、呉の第4護衛艦群も旗艦『ひえい』、第4護衛隊『いなずま』『さみだれ』を捜索の支援と現場の情報収集の為に派遣する。本日1400<ヒトヨンマルマル>に出港する予定だ。」
「統幕議長。」
そこまで山之内の話を聞いて、野上総隊司令が挙手をした。
「ゴジラが太平洋に潜んでいる以上、海上自衛隊が前面に出る事は問題ないでしょう。それでは、哨戒の段階における空自<われわれ>のオペレーションは?」
「その事については、長谷川幕僚長から話してもらう。」
山之内が目配せすると、長谷川空幕長が口を開く。
「防衛出動の命令が下されていない以上、我々に出来る事は限られている。だが、今はゴジラの早期発見、補足が第一だ。総理権限で哨戒活動、情報収集の命令が下っており、私はRF−4EJの出動が現時点で妥当と判断した。永澤中空(中部航空方面隊の略称)司令には部隊の編成、派遣計画を早急に検討して欲しい。」
「了解しました。」
長谷川に言われ、表情を引き締める永澤。長谷川の言葉の中にあったRF−4EJは航空自衛隊の偵察航空隊の有する、F−4EJファントム戦闘爆撃機をベースとした偵察機である。偵察専用である為に武装は無く、両翼下部には航続距離を伸ばす為の増量タンク、機首のバルカン砲も撤去され、空撮用カメラが内蔵されているのが特徴だ。
「なお、防衛出動の是非は明日の国会で審議され、これが承認されればオペレーションは現在の目標の捜索と追跡から攻撃オペレーションへと変わることなる……」
――防衛出動。山之内のその一言で、場の空気が一気に重くなった。外部からの武力攻撃が行われた、または行われる恐れがある場合、自衛隊法76条に基づいて内閣総理大臣により命じられる自衛隊の中で最も臨戦態勢の執られる出動だ。これが発動されると言う事は、日本が事実上戦争状態に突入する事と同義である。
「……この決定は本日15時に全部隊へ向け通達され、18時には今回の事件に関して総理の記者会見が行われる。明日からは我々にとって今まで最も長い日々となるだろう!幕僚監部にはあらゆる事態を想定したオペレーションを立ててもらう。迎撃作戦に付随した、警察や自治体との連携、住民の避難誘導、被害管理、全てだ!今回は必ずしも我々が予測していた事態ではないが、陸・海・空一体となって自衛隊の存在価値を示して欲しい!」
山之内が見渡すが、無駄に口を開く者はいない。誰もが山之内の言葉に真剣な眼差しで頷いている。その中で、石原は机の下で握った拳の内側に爪を血が滲むほど食い込ませていたのだが、そんなことを表情には微塵も出していなかった。
「(奴が……ゴジラが来る……!!!)」
今、山之内から聞かされたことは彼に、初めて母から知らされて以来ずっと心の中で燻り続けていたゴジラに対する怒りと憎しみに再び火をつけるのに十分な衝撃を持っていた。石原はこの時、母親から聞かされた父親の死の真実、その一字一句全てを思い出していた。
それは石原が小学校5年生の時だった。まさに高度成長時代華やかなりし頃、戦争の傷が急速に癒され始め、人々の暮らしが少しずつ豊かになっていた時代。戦中や終戦直後と違って、この頃には両親がいると言う事が当たり前になっていた。しかし、石原には父親がいなかった。母親からは消防士だった父は、自分が生まれる前に事故で亡くなったと聞かされ、その言葉を信じて少年時代を過ごしていた。
きっかけとなったのは小学校の授業参観日。クラスの他の生徒達は親のどちらか、もしくは両親が教室の後ろから彼らの姿を暖かく見守っていたのだが、石原は父親がいなかったこと、そして母も家庭を経済的に支える為に休みの日を削って近所のスーパーマーケットに勤めていたので授業参観に来てくれる家族がいなかった。小学校入学直後には出来るだけ学校のそういった行事、運動会や発表会に顔を出してくれていた母だったが、石原が高学年に進む頃には仕事も忙しくなり、来る事も出来なくなっていた。
「ごめんね、一真。今年も一緒に行ってあげられなくて……」
そういう時の母はいつも石原の肩を抱きしめてそう謝ると、彼の好物が一杯に詰まった手作り弁当を持たせてくれたものだった。石原は精一杯の母の愛情を感じ、父がいないということに自分が負けないよう、強く過ごしてきたつもりだった。参観日の翌日までは……
その日、彼が登校して来ると、教室の黒板一杯に石原を中傷する落書きが書かれていた。彼に父親がいないこと、そして運動会や授業参観にも母が来てくれない事を、人の痛みと言うものをまだ知らない小学生らしい、無邪気でそれでいて残酷な表現で記していたのだ。その日、石原は初めて人を殴った。クラスメイト達を煽動した、同じ学級のガキ大将と殴り合いの喧嘩をしたのだ。父のいないことで自分がどう言われ様と我慢出来るつもりでいたが父、そして母まで貶された時、溜め込んでいた怒りが爆発したのだ。その時は悪戯した子供が悪いと、教師とその両親が石原と母にお詫びをしに訪れたのだが、夜になると石原は母に、今まで心の中で堪えていた疑問をぶつけたのだ。
『どうして僕は父さんがいないの?父さんはどうして僕達を残して死んじゃったの?』
ボロボロと涙をこぼしながらも、彼は母から視線を離そうとはしなかった。母はそんな石原少年を抱きしめ、彼女もまた涙を頬に伝わせながら、震える声で答えた。
『お父さんは……お父さんはね……』
そこまで言うと、悲しみだけでなく怒りまで抑えるように口をキッと結ぶ。
『――ゴジラに……殺されたの……!!!』
1954年――11月、東京
その日は2回目のゴジラ東京上陸の日。ゴジラは湾岸の防衛線を破り、都心へ向け進んでいた。進路に当たる港区、中央区、千代田区、江東区にはすでに避難命令が出され、石原一真として生まれる事になる子供を身篭っていた石原みどりもまた避難を余儀なくされていた。とりあえず身の回りのものと貴重品だけを風呂敷に包み、旅行鞄に詰め込む。
「あなたは……本当に来ないの?」
彼女はそう言うと、不安げに見上げた。視線の先には、普段着から薄汚れた防火服に着替えている大柄な男がいる。彼女の夫で、彼女のお腹の中にいる子供の父親、石原慎一郎だ。
「下町まで火が回り始めているんだ。消防士の俺が今、逃げるわけにはいかない!」
慎一郎は防火服の袖に腕を通しながら言う。
「大丈夫だ。危なくなったら俺も避難する。お前は自分と……お腹の子の事だけを考えていればいい。」
彼は妻を安心させるよう、微笑んだ。その時彼らの家の前に、けたたましいブレーキ音と共に、赤く塗られた消防団のトラックが横付けされる。
「慎さん!急げ!!もう銀座まで火は来ている!!」
「分かった!!!」
トラックの運転席から同じ消防団の仲間の声がかかり、慎一郎は大声でそれに答えると脇にヘルメットを抱えた。
「あなた……」
みどりはまだ不安げな表情のままだ。それを見て、彼は妻の側に寄ると彼女の大きくなりかけているお腹をポンポンと軽く叩く。
「すぐに帰ってくるからな、お母ちゃんと一緒に大人しく待っているんだぞ。早くお前の顔を見せてくれ……な……」
そう言うと、慎一郎は玄関に向けて踵を返す。
「それじゃ……行って来る……!」
まだ前のボタンを留めていない消防服の裾が翻る夫の後姿を、みどりは無言で見詰めていた――
「急げ!!想像以上に火の回りが速い!!」
「燃えそうな物は構わずぶっ壊せ!!!」
「オイ!ポンプ車はどうした!?」
江東区に程近い住宅地では消防隊員達の怒声が絶え間なく響いていた。下町のこの地域ではゴジラの襲撃によって起こった火災の火の粉があっという間に飛び火し、燃えやすい木造家屋が次々と炎に包まれていく。その炎がまた新たな火災を呼び起こし、火災によって生じた熱対流が突風となって炎を煽り立てる。その時起こっていた厄災の悪循環は関東大震災の時に多くの人々を死に追い遣ったものと同じだ。ゴジラ接近の報を受けて、早くに住民たちの避難が進んでいたことを除けば……。その場にいたのは、主を失った家々――非難した人々が帰ることのできる場所を守る為に奮闘する慎一郎達、消防隊員だけだった。
「ダメだ!怪獣にぶっ壊された建物が道を塞いで、ポンプ車がこちらまで入って来れない!!!」
「ちくしょう……!!!」
無線で本部との連絡を取っていた仲間から知らされた無情な事態に、慎一郎は火の海の前で立ち尽くした。道端の消火栓から汲み出した水を運ぶバケツリレー、防火服を着た隊員が火の付きかけた家屋に上り、壊すことで延焼を食い止める作業など、人海戦術は文字通り焼け石に水だった。
「慎さん!俺達ももう避難しよう!これ以上ここにいれば、火に囲まれて逃げられなくなる!!!」
「しかし……!!」
慎一郎は目の前の状況がもはや自分達の力では絶望的と分かっていながら、その場を動く事は出来なかった。それは消防士として今まで数々の現場を潜り抜けてきた正義感が、これ以上被害を悪化させたくない、自分が何かしなければと思わせていたからであった。
「――お前さんがここで無駄死にしたら、みどりさんは……それにもうすぐ生まれる赤ん坊はどう思う!?俺だけ逃げて……恨みを買うような真似だけはさせないでくれ!!!」
仲間の呼びかけは、もはや叫び声に近かった。
「……分かった。引き揚げよう……」
妻と子供の事を聞いてようやく心が動いたのか、慎一郎はうなだれながら呟くと、後ろ髪引かれる思いでトラックを改造した消防車に乗り込んだ。それ待って、他の隊員たちも荷台に飛び込んでくる。
ブロロロ……
車はゆっくりと、燃え盛る家々の間をすり抜けるようにして走り続けた。その間皆は疲れ切り、無力感と失望感の為、口を開こうとする者はいなかった。その時――
ズシン……
荒れた路面にボロの車、相当乗り心地が悪い中でも確かに感じられるような振動が地面から伝わってきた。
「何だ?」
運転席の仲間が声を上げた。
ズシン……!
間を開けずに再び振動。今度のものは明らかに前のものより強い。そして――
ズシン……!!!
車そのものが揺れるほどの振動が彼らを襲ってきた。すると炎上していた建物が崩れ、目の前の道路を塞ぐ。
「ちくしょう!!!」
仲間は急ブレーキを踏み、車は炎の壁の前で間一髪停止する。慎一郎は思わず車の外に飛び出た。すると、
ズシン!!!
尚も強烈な振動が続けざまに来た。そう、まるで震源が彼らに近づいてくるかのように。慎一郎は自分の頭上に何かしらの気配を感じた。今までに感じた事の無い感触。本能的が危険を察知し、逃げ出すように命令を出しているのだが、何故か体が動かない。慎一郎は蛇に睨まれた蛙という例えの意味を始めて理解した。目の前では仲間達が一様に驚愕の表情を浮かべている。ある者は怯え、ある者は恐怖に表情を凍りつかせ、腰を抜かして、自分同様逃げる事も出来ない。慎一郎は精一杯の勇気を振り絞って何とか振り向き、気配の正体の方を見上げる事が出来た。その時彼の見たものは、まさに破壊と絶望によって形作られた異形、今日この首都東京に厄災をもたらした怪獣、ゴジラだったのだ。
グオオオオォォォン!!!
ゴジラの上げた咆哮が大気を振るわせる。慎一郎はただ目を見開いてゴジラを見ていた。そして、ゴジラは背鰭を白く輝かせると、眼下に向けて青白い熱線を放つ。慎一郎たちが居た所に向けてゴジラが熱線を吐いたのは単なる偶然に過ぎなかった、が、彼らにしてみればそれは運命の悪戯だった。ただ一つ言えた事は、全員が苦しまずに死ぬ事ができたということだ。
直撃したのは彼等が停まった場所から10mほど離れていたが、地面に吸い込まれた熱線は膨張して火球を成すと、火災を飲み込みながら彼らに向けて雪崩れ込んで来た。赤い炎が白い炎の中に消えていく。目の前まで炎の壁が迫ってきた時、慎一郎の目に見えていたのはその地獄のような光景ではない、愛する妻が珠のような赤ん坊を優しく抱いている姿だった。
「――男だったら俺が名前をつける。一真、一真だ。男らしい良い名前だろう?」
そうみどりに言った事を彼は思い出した。その暖かな幻想が消えた時、彼の命も炎の中で尽きた。
死体が無く、行方不明扱いだった慎一郎たち消防隊員の死亡が認められたのは、ゴジラが海に去ってからさらに2週間の時間を要したのだった――
母から父の死の真相を聞かされ、一真は変わった。中学、高校と普通の学生生活を送りながらも母を支える日々。心の中でゴジラへの憎悪を燃やし続けていた彼が、母親に負担をかけることがなく、ゴジラに対抗しうる兵器火器を擁する自衛隊の幹部を目指す事が出来る防衛大学校を進路に選んだ事は至極当然の事だった。
「ゴジラは俺が倒す。この役は誰にも譲れない!!!」
彼が陸上自衛隊第1師団長にまで上り詰め、幕僚長まで目指す地位に押し上げた原動力はまさにゴジラに対する憎しみからだった。
再び2004年――東京、防衛庁
会議が終わり、自衛隊の幹部達が廊下に出て行く中で、石原は会議中ずっと握り締めていた為にじっとりと汗ばんだ掌を行儀が悪いと思いながらもズボンで拭った。その時、
「石原!」
背後から声をかけられた。声の主は陸上自衛隊幕僚長、宮川卓也陸将。石原よりも4歳年上で、部隊では幾度も直属の上官となった、彼が最も信頼を置く人物だ。
「どうした?会議中、少し様子がおかしかったが……」
宮川のその言葉に石原は内心どきりとした。自分が過去の回想をしている間、出来るだけ表情には出さないように努めたつもりだった。しかし、胸の内から湧き上がる負の感情は抑えられなかったのか、長い間同じ釜の飯を食べて内も外も知り尽くした宮川にそのことを悟られていたのには動揺を隠し切れなかった。
「……少し……考え事をしていまして……」
石原は声を潜め、呟くように言った。それを聞いて、宮川は納得したような表情を浮かべる。
「そうか……そう言えばそうだったな。」
「一体何を?」
今度は石原が疑問をぶつける番だった。宮川も、石原の父がゴジラに殺されている事、そして自分がゴジラへの復讐のために自衛隊に入ったという事は知らないはずだった。
「息子さん、ユウちゃんの婚約が決まったばかりだったな。父親としてこれほど嬉しい事が無いはずなのに、こんな事が起こってしまって……」
「……」
石原は否定とも肯定ともつかない沈黙で返した。しかし、あえて宮川の気遣いを無下にする必要は無いと思い、苦笑しながら口を開く。
「宮川さんまでご存知だったんですか?」
それもまた、石原の正直な思いだった。
「ユウちゃんはちょっとした有名人だからな。それは本人の努力の成果でもあり、不本意な理由でもあるが……」
石原は宮川の言葉に黙って頷いた。勇真が個人的に注目されている理由、それはヘリパイとしての操縦技術を認められ、最新鋭の戦闘ヘリAH―64Dロングボウ・アパッチのパイロットになった事。そして、父親が第1師団長である石原自身であるということと切っても切れない。父親の友人も、部下も、上官もほとんどが自衛隊関係者で占められている中で、勇真の一挙一動が注目されないというのも無理な話だった。かく言う宮川も、妻が病気を患い子供出来なかったということもあり、気の合う部下であった石原の息子である勇真を子供の頃から可愛がっていた。勇真も宮川の事を、隊を離れたプライベートでは“卓也おじさん”と呼んで慕っている。
「こんな事がなければ、俺もお祝いで一席設けたいところだがしょうがない。ユウちゃんの結婚祝いは、ゴジラを退治した後で盛大にやろう。」
「ありがとう……ございます。」
石原は素直に頭を下げた。宮川も表情を引き締めながらも、納得した顔で石原の肩を叩いた。そんな、甘い期待が無残に打ち砕かれる運命など知る由も無く――