――14
5月12日――高知県沖300km、太平洋
シュルルルル……
小さな風切り音が鳴った次の瞬間、小さな物体が海面に叩きつけられ白い飛沫が上がった。その上空を白い機体に日の丸を付けた、ターボプロップエンジンの航空機が通り過ぎていく。P−3C対潜哨戒機――世界最高峰の対潜性能を持つ潜水艦ハンターだ。
『AOよりTACO<タコ>へ。ソノブイNo1からNo4まで投下完了!』
「了解。TACOよりSS1、SS2へ。音響対戦哨戒開始!」
『SS1、了解。』
『SS2、了解。』
フライトスーツに航空隊の識別帽、耳をすっぽりと覆うヘッドセットを付けた男――海上自衛隊岩国基地第31航空群第8飛行隊に所属するこの機のTACO(タクティカル・コーディネーター)である坂本一尉は、ソナーやレーダーのパネルと無数の計器の埋め込まれたコンソールと向かい合った。
このP−3Cの搭乗員は全部で11人。操縦に関わるのが操縦士と副操縦士、2名のFE(機上整備士)の4人、残りの7人が対潜作戦要員となる。坂本が務める魚雷やミサイルなどの武器全般の管制を担当するTACOと基地との交信や友軍とのナビゲーションを行うNAVCOM(ナビコン)が中心となり、各種ソノブイを中心とする音響センサーはSS1とSS2、二人のセンサーマンが担当。赤外線や磁気による探知など非音響センサーを担当するSS3、ソノブイや魚雷の投射を担当するAO(オーディナンス)、コンピューターやシステムの保守を行うIFE(電子機上整備員、と役割は分担されそれぞれが正確に任務をこなす。日本の対潜哨戒能力は世界有数と言われている所以だ。
「さあ、鬼ごっこの始まりだ。」
坂本はそう無線で機内に知らせると腕まくりをした。彼の乗るP−3Cはこれから、ASW(Anti Submarine Warfare:対潜水艦戦)訓練の為に海自潜水艦『みちしお』との演習に臨むのだ。
――海自潜水艦『みちしお』
モニター上に点滅する4つの輝点を見て、海上自衛隊第1潜水隊群第1潜水隊所属『みちしお』艦長、東二佐は舌打ちをした
「さすがは坂本一尉。お得意のソノブイバリヤーというわけか……」
ソノブイバリヤーとは、目標となる潜水艦の周囲を取り囲むようにソノブイを投下し、徐々にその範囲を狭めていく事によって目標の位置と進路を特定する対潜戦術の一つだ。東は訓練開始早々に不利な立場に置かれたにも関わらず、ニヤリと笑っている。そんな自信の根拠は、彼の操る『みちしお』の性能にあった。
『みちしお』は海自所属潜水艦の第3世代である最新型『おやしお』型の2番艦だ。第1世代の『ゆうしお』型、第2世代の『はるしお』型が真円に近い断面をした流滴型<ティアドロップタイプ>の艦影をしているのに対し、『みちしお』型は左右への幅が狭い葉巻型と言われる形状を採用している。また、艦橋<セイル>の形状も海面に対して傾斜するように角度が付けられており、発電のために海上航行を余儀なくされるディーゼル動力潜水艦としてレーダーに対するステルス性まで考慮されている。
航続距離や最高速度の点では原子力潜水艦に劣るディーゼル潜だが、メリットがあるのもまた事実だ。原潜が原子炉の稼動によって必要電力を常に発電しているのに比べ、ディーゼル潜は水中航行時では一旦発電しておいたバッテリーを使うために水中での駆動音が少ない。最新式の潜水艦である『みちしお』は艦の外側全体が外部からの音波を吸収するための特殊ゴムタイルで覆われ、さらに水中で潜水艦が発生させる雑音の大きな原因の一つであるスクリューのキャビテーションを低減させるよう3次元的にデザインされたハイスキュードプロペラを装備しているため、その静粛性は極めて高い。それゆえ東にはいかに不利な状況であろうとも、今回の演習で探知されない自信があった。
「――進路0−4−0、最微速!!」
「了解。進路0−4−0、最微速!!!」
東の指示は航海長によって復唱され、機関室でモーターの出力が上げられると、発令所の艦首側に座る操舵手によって実行される。『みちしお』のバッテリーモーターとハイスキュードプロペラは額面通りの性能を発揮し、ほとんどノイズを出さないまま、ゆっくりと排水量2750トンの艦体を進ませた。
――P−3C対潜哨戒機
「こちらTACO。その後ソナーに反応は無いか!?」
『SS1よりTACO。ソノブイNo.1からNo.4、いずれも反応無しです。』
「変温層に隠れたのかもしれない。SS3、BTを使って再度水中の温度を測定して……データをコンピューターにかけなおしてみろ」
『了解!』
SS3担当の隊員は、そう言うとBTソノブイ投下の準備に入った。BTソノブイとは、水中の温度情報を測定するためのソノブイである。水中の音は温度によってその伝わり方が大きく影響されるため、水温の違う層の境目に潜行すると艦の発する音波を遮断する働きをすることがある。これが変温層であり、正確に相手の音を把握するには常に水温による伝達特性の変化を知る必要があるのだ。
「やるなぁ……東二佐……」
坂本は、先程より全く変化の無いモニター画面を見ながら唇を噛んだ。冬場の日本海ならまだしも、5月という今の時期、太平洋はベタ凪で聴音を阻害するような荒い波は立っていない。訓練開始の時刻を30分も過ぎているのに『みちしお』の動きが全く掴めないということは、相手がよっぽど慎重に音を立てずに進んでいるのに違いない。しかし、それも当然といえば当然の事だった。相手は海自の最新型潜水艦である『おやしお』型の艦長を任されている男だ。ディーゼル潜の特徴はもとより、P−3Cによる対潜作戦のノウハウまで知り尽くしている。その上を行かなくては、補足することは覚束ない。最新式の音響分析装置も、相手の音を拾えなくては何の役にも立たないのだ。
坂本はその時、一つ目の罠を使おうとした。ソノブイを投下する際、ブイが着水する音を『みちしお』に知られるのを承知でわざと、網に穴を開けるような位置にブイを落とした。もしそれを『みちしお』が捉えていれば、ソノブイバリヤーから逃れるためにその進路を選ぶかもしれない。彼がリップマイクを引き寄せ、クルーに指示を送ろうとした時、一つの疑念が頭に浮かんだ。
「(もし、東二佐がこの作戦を見透かしているとるれば!?)」
可能性の高い事だった。相手が絶対的に追い詰められている状況ならともかく、今回の演習は個々の技術習熟を目的としているため一対一だ。いくらでも上空の自分達を欺瞞する方法はあり、この演習は自らの艦と乗員の優秀さを上層部に見せ付ける絶好の機会でもある。そう彼が気づいた事は、偶然の閃きとも言えた。
「――TACOよりSS3、BT投下中止!パイロット、進路1−2−0、高度1000まで下降してくれ!SS3、MAD走査用意!」
坂本が続けざまに指示を飛ばし、機内は騒然となり始めた。進路を変えた機体が傾き、ゆっくりと下降する時の胃が浮き上がるような逆Gを感じる。しかし、体はしっかりとシートで固定しているため席から投げだされることはない。坂本はGPS(全方位型位置情報システム)の画面を食い入るように見詰め、機が自分の勘だけを頼り絞り込んだ場所に到達するのを待って口を開いた。
「MAD走査開始!」
『了解。MAD走査開始します!』
MADとは磁気探知システムのことだ。いかに潜水艦が巧妙に自らの音を遮蔽していても、巨大な金属の塊である限りは、地磁気を乱す。MADはそんな潜水艦の動きによる地磁気の乱れを感知し、目標の動きを特定するのだ。SS3要員の隊員が目を凝らすモニターには、P−3Cの機体下部に内蔵された磁気センサーの捉えた地磁気の様子が、その強さや動きが色分けされて映し出されている。すると一定の変化しか示していなかった画面に、微かながら不自然な色の乱れが見られた。非音響センサーのプロフェッショナルとして訓練を受け、この潜水艦ハンターに乗り込んでいる彼がこの反応を見逃すはずは無かった。
『SS3よりTACO!磁気反応探知!深度50、速力3ノット、進路0−1−0!!!』
「そんな浅いところにいたのか……」
SS3からの報告を聞き、坂本はほくそえむと同時に、東の大胆な操艦に嘆息した。上空から潜水艦を探知する場合、当然ながら深深度にある方が潜水艦は探知されにくい。これだけ浅いところを航行していたと言う事は、よっぽど『みちしお』の静粛性に自信があったのだろう。しかし、MADでその動きを捉えてしまえばどんな深度にいようと、後はソノブイのアクティブソナーで位置を特定し、攻撃に移るだけだ。攻撃と言っても魚雷を撃つわけではなく、訓練では特殊な音響弾で捕捉したことを知らせるだけなのだが。
「AO、5番から7番までソノブイ投下用意!!!」
坂本は、いまだ訓練で誰にも捉えられていない最新型潜水艦とその艦長に最後通告をすべく指示を出した。
――海自潜水艦『みちしお』
艦長の東二佐は頻繁に時計を見るようになった。元々隠密性の高いディーゼル潜水艦だが、その行動中に最も気をつけねばならないのはバッテリー切れが近づき、発電するためにエンジンを動かす時だ。その為には海上にシュノーケルを露頂させ、新鮮な空気を艦内に取り込まなくてはならず、海上に突き出たシュノーケルを哨戒機の水上レーダーに探知されることも十分にありえる。『みちしお』は今まで最微速で進んできたが、バッテリー充電のために潜望鏡深度まで浮上しなければならない時間が近づきつつあった。
『みちしお』の発令所全体が東の指示を待ち、訓練で最も緊張した時間を迎えたその時――
『ソナーより発令所!ソノブイ着水音探知!!!距離500……350……410……3本です!』
「囲まれた!?」
副長が声を上げたのと間髪を入れずに、甲高いソノブイの探信音<ピンガー>が『みちしお』の艦体に叩きつけられる。
『ソノブイよりピンガー!!本艦は完全に捕捉されました!!!』
「機関増速、急速潜行!深度300!!」
ソナーからの報告が終わる前に東は叫んでいた。訓練とはいえ、自艦が捕捉されたことを知らせるアクティブソナーのピンガーは潜水艦乗りの肝を冷やすものだ。残された手は魚雷発射代わりの音響弾が投下される前に深度と距離をとることだが、ソノブイの距離から推測する事にP−3Cはそれほど遠くにいないだろう。東は力強い唸りを上げ始めたモーター音を聞きながら、唇を噛み締める。
だがその時水中ではアクティブソナーのピンガーに反応するように、巨大な“何か”が蠢き始めていた――
――P−3C対潜哨戒機
『「みちしお」、速力を上げながら急速潜行します!』
「もう逃がさんよ……」
坂本はモニターを見ながら言った。そこにははっきりと、水中で大きなモーター音を上げながらキャビテーションを発生させる『みちしお』のノイズが映し出されている。
「攻撃用意!!!」
『SS2よりTACO!攻撃は待ってください!!!」
坂本の命令を、SS2からの声が遮った。
『当該水域にUnknown探知!速度を上げながら浮上中!!』
「何だと……?艦の特定は出来るか?」
『分かりません!目標にはほとんどノイズが無く……、一定間隔でバラストを排出<ブロー>しているような音が聞こえます!』
ソナー員は言った。潜水艦の発するノイズに関しては相応の知識を持っている彼だったが、それが生物が水中で息を吐く呼吸音に酷似していたなど、その時には頭の片隅にも浮かぶ事は無かった。
『……このままでは……』
「このままでは……何だ!?」
音に耳を澄ませていたのか、SS2はやや間を置いて言葉を続ける。
『Unknownと「みちしお」は接触します!』
「――『みちしお』はUnknownの接近に気づいているのか!?」
『分かりません!依然急速潜行中!』
「このままでは……『みちしお』が危ない!?」
降って湧いた事態に、坂本の頭の中からは訓練の事など消し飛んでしまっていた――
――海自潜水艦『みちしお』
「現在深度150……160……!」
「(何故、攻撃表示をしてこないんだ……?)」
航海長の読み上げる深度メーターの数字を聞きながら、東は納得いかない表情を浮かべていた。アクティブソナーによる探知から既に数分が経過しようとしている。たかだた数分と言えども、実戦となればその数分が作戦の可否を分けることを知っているならば、この絶好の機会をP−3CのTACOである坂本一尉が逃すはずが無い。機体に何かトラブルでも起こったのか?――そんな考えが東の頭をよぎったその時だった。
ガガンッ!!!
突然の衝撃に襲われ、『みちしお』の艦体は速力を失い始めた。
「一体どうした!?」
「何かがスクリューに接触したようです!推進力が得られません!!」
「隔壁に破損は!?浸水は無いんだな!?」
「はい!艦尾区画に浸水警報無し!」
航海長は発令所のモニターに映し出された艦内状況表示パネルを見ながら答えた。エンジンやモーターの動力機には異常は無いが、プロペラシャフトの異常を現す赤い表示が点滅している。
「機関停止!潜舵水平、艦のバランスを保て!ソナー、外の状況は何か分かるか!?」
『……左舷40°、距離300にUnknown探知!速度を弱めながら遠ざかって行きます!』
「どうして探知できなかったんだっ!!!」
東が珍しく怒りを露にして怒鳴る。
『はっ、本艦が急速潜行中で外部の音を探知しにくかったと言う事もありますが……それよりも目標の発する音が極めて小さかったので……』
「言い訳は後で聞く!航海長、バラスト排出。浮上だ!ソナー、目標の動きだけは見逃すなよ!」
『了解!』
ソナー員がそう言うのを聞くが早く、東は無線機をパネルに叩きつけた。『おやしお』型潜水艦である『みちしお』には艦首<バウ>ソナーの他にも左右の艦舷に沿うように内蔵されたフランク・アレイ・ソナーを装備しており、聴音能力はバウソナーのみの艦よりも飛躍的に向上している。急速潜行中であり、自らの発する音が通常よりも大きかったとしても、この『みちしお』の性能をして接近する物体を捕捉出来なかったのは彼にとって痛恨だった。
『みちしお』の耐圧隔壁の内側に無数のブロックで仕切られたバラストタンクから海水が圧縮空気によって押し出されると、艦体はゆっくりと海面に近づいていった――
――P−3C対潜哨戒機
『「みちしお」がモーターを停止させたようです。スクリュー音も聞こえません。おそらく……接触で動力部にダメージを受けたものと思われます。――待ってください!バラスト排出音……浮上を開始します!』
SSからの報告を聞き、坂本は窓へ身を乗り出させた。P−3Cの機体に窓は少なく、またそれほど大きくもない為肉眼で目標を確認する事は難しいが、1000フィートの低空にいたことで眼下の海面の一点が気泡で白く染まり始めたのが見て取れる。そこにまず細長い潜望鏡と水上レーダーの小型アンテナが突き出ると、しばし海上の安全を確認した後、海面が大きく盛り上がった。
ザザザザ……
青い波間を押し退けるように、漆黒の『みちしお』の艦体が姿を現す。葉巻型独特の膨らみの少ないスリムなシルエットはセイルがなければ巨大なマッコウクジラを思わせる。
その時、P−3Cの無線が鳴った
「坂本です!」
『――「みちしお」艦長、東二佐だ。潜行中にUnknownと接触し、スクリューを破損してしまった。そちらの無線から、呉の第1潜水隊群に救援を要請して欲しい。』
「了解しました。東二佐、そちらに怪我人はいないですか!?」
『ああ、幸い軽傷者が数人いるだけだ。しかし坂本一尉、そちらでもUnknownは捉えられていなかったのか?』
「はい。Unknownを探知出来たのは、ソノブイによるアクティブソナーによってが初めてでした。それまではパッシブにも全く反応がなく、まるで突然現れたようです……」
そう言った坂本にも、無線の向こうの東の声に釈然としない雰囲気があるのを感じ取れた。
『――正体は気になるところだが、今は帰港することが第一だ。『みちしお』が動けなくなっては、今後の潜水艦オペレーションに支障を来たすからな。それでは坂本一尉、頼んだぞ……』
「了解!TACOよりNAVCOM。第1潜水群司令部へ連絡、『みちしお』が未確認艦と接触し座礁した。至急、救援を送ってくれたし。なお現在、未確認艦はロスト――」
坂本がNAVCOMに指示を送ろうとした、その時だった
『SS1よりTACO!アンノウン転進!増速しつつ浮上中!!』
「何だと!進路は!?」
坂本は『みちしお』との回線が繋がっていることを忘れて、マイクに向かって叫んでしまった。
『……このままだと……『みちしお』との衝突コースです!!!』
「――!?」
モニターに目を遣ると、水上レーダーに捉えられた『みちしお』を現す輝点に、ソノブイが捉えたUnknownの輝点が猛スピードで接近してくるのが分かる。
『何事だ!?』
一変した場の空気を察した東が声を上げる。
「Unknownが『みちしお』との衝突コースに浮上中です!回避できませんか!?」
『ダメだ!スクリューのプロペラが飛んでしまって回頭する事も出来ない!そちらから何とか止められないか!?』
「やってみます!」
坂本は『みちしお』との無線を切ると、コントロールパネルに向き直った。とは言ったものの、敵とも味方とも分からない相手にどうやって警告を発すればいいのか?P−3Cは武装としてハープーン対艦ミサイルやMk48魚雷を搭載できる……が、それは自衛隊が他国の艦船と交戦状態になって初めて許されるものであり、訓練や哨戒活動などの平時では目標を探知するだけのソノブイ等と装備は限られている。
「――AO、発音弾投下!これで脅かしてやるしかあるまい!」
『了解!』
坂本の言った発音弾とは、訓練時に魚雷の代わりとなるものだ。投下すると水中で特殊な音波――潜水艦のクルーに言わせれば、これが聞こえると不愉快極まりない音を発する。これを使う事によって、お互いの艦が接近しつつあることを知らせようと言うのだ。『みちしお』との衝突が迫りつつある現在、未確認艦の特定はこの際後回しだった。ソノブイ等のセンサーで捉えられた音響データは大型の磁気テープリールに全て記録されているので、基地に帰還した後にあらゆる潜水艦のデータを蓄積しているASWOC(対潜作戦センター)で分析できる。
高度を下げて飛ぶP−3Cの下部から魚雷に似た筒状の物体が投下され、パラシュートを開きながらゆっくりと着水した。次の瞬間には発音弾から放たれた甲高い音波が水中に広がっていく。
「これで相手がどう出るか……」
モニターを見詰めながら坂本は呟く。すると――
『目標の速度上昇!深度20……10……浮上します!!!』
SS1隊員の声が機内に響いた。坂本はコントロールパネルから立ち上がり、小さな円形の窓に身を寄せ、海面に目を凝らす。
漂う『みちしお』の左舷から100mほどの距離のところに激しい気泡の発生が見られた。まるで水中に高エネルギーを持った“何か”がおり、その場所だけ海が沸騰しているかのようだ。潜水艦の急速浮上は艦の流線型に沿った形で海面が隆起する事が普通だ。P−3Cの窓からその様子を凝視する坂本、『みちしお』の潜望鏡から覗く東、二人の海の男の目から見ても、こんな浮上の仕方をする潜水艦があろう筈はないことは分かっていた。そして――
ザザザザザ……
水中から岩山のような物体が現れ、その表面を滝のように海水が滑り落ちていく。岩山――と見えたのはあくまで一瞬の印象であり、次の瞬間には見ていた者全ての表情が凍り付いた。冷え固まった溶岩のようにゴツゴツした表皮を持つ巨大な黒い塊が頭を上げると、その頂点に二つの鈍い輝きが灯る。その輝きは、正面に浮かぶ『みちしお』の艦体を捉えると、そこで止まった。輝きが消えた後には濁った白目と濃緑色の黒目を持つ、巨大な眼球としかいえないものが現れる。眼球のやや下、岩肌が捲れ上がるように裂けると、そこから象牙色の、形から牙としか言えないものが覗く。物体がその“口”から空気を吸い込み、ぶ厚い胸板が大きく膨らんだ、次の瞬間――
グオオオォォォ……ン!!!
物体は口と言うべき頭部の裂け目を目一杯開き、内部の深紅に蠢く舌を震わせながら吼えた。この世の物とは、とても生き物が上げる声とは思えぬ轟音だった。彼らの前に姿を現した物体は海面から数十mの高さに聳え、巨体に見合った力に満ちた2本の腕を持つ。だが、この物体をもっとも異様なものに見せているのは、首の付け根から、時々海面に跳ね上がる鋼に覆われた鞭のような尾の半ばまでずらりと並んだ背鰭だ。ギザギザとした輪郭で、根元に近い部分ほど表皮に質感が近く、刃物のように鋭い先端部分は不純物の混ざった水晶のような半透明だ。その意匠は神が創造した生き物のそれではない、現世<うつしよ>に巣つくう悪意が集まり、形を成したかのような異形としかいえない姿を曝している。
「か……怪獣……!?」
坂本は自分の目で見ているものが信じられなかった。突如現れた黒い魔獣はゆっくりと『みちしお』に近づいていく。
『TACO!攻撃しましょう!このままでは「みちしお」が危険です!!!』
AOがまるで自らが攻撃されているかのように悲鳴同然の声を上げる。
「ダメだ!!!『みちしお』との距離が近すぎる!!!第一……今の我々には武器も無いし、『怪獣を攻撃せよ』と命令も受けていない!!!」
坂本は窓の外の光景から目を逸らすことなく答えた。
まさに『みちしお』は海上に浮かぶ巨大な棺桶だった。スクリューを破壊された潜水艦は自力で動く事が出来ず、艦首は右舷に近づく怪獣とは90度反対を向いているため、魚雷を撃つことも出来ない。もっとも、魚雷を撃てる体勢にあっても、坂本が言ったのと同じ理由で攻撃する事は不可能だった。
「艦長!!」
副長が我慢し切れずに声を上げた。得体の知れない恐怖――それは、発令所はおろか東に命を預ける『みちしお』乗組員全員の気持ちを代弁した叫びだった。
「怪獣……だ……」
東は潜望鏡から顔を離すと呟くと、それを聞いた発令所にいた全員が沈黙した。東の頬を一筋の汗が伝う。しかし、それは密閉された艦内に充満する熱気だけがそうさせたものではなかった。迫りくる得体の知れない怪物からクルー達の命を守るためにどうすればいいのか――そのまま艦内に留まるか、それとも外に飛び出すか……。二つの選択肢が彼の頭の中でせめぎあう。
「――総員退艦!!!救命胴衣を着用し、各自艦尾、艦首ハッチに集合せよ!!航海長が避難の指揮を執るんだ。急げ!!時間が無いぞ!!!」
「了解!総員退艦準備!!!……艦長?どこへ行かれるのですか?」
航海長が言った時、東は既に救命胴衣を羽織り、発令所を後にしようとしていた。
「……艦橋から直にあの怪獣を見てみたい……。ここは頼んだぞ……」
そう言い残すと、東は振り返りもせず気密ドアをくぐっていた。航海長はその背中を見ながら嫌な予感を感じた。もう二度と艦長の顔を見る事は出来ないのかも知れない……と――
「――何!?冗談で言っているんじゃない!!!『みちしお』が危ないんだ!早く応援の護衛艦を遣してくれ!!!」
坂本は無線の向こうにいる岩国基地ASWOCのオペレーターを怒鳴りつけたが、いきなり『巨大な怪獣が現れた』と言った彼の言葉が信用される筈無く、よく知った仲のオペレーターの失笑だけが聞こえてきた。
『TACO!「みちしお」に退艦命令が出たようです!』
取り付くしまの無い言い合いを遮って、NAVCOMの報告がヘッドセットに聞こえてきた。彼の言う通り、『みちしお』の艦橋の前後に設置されたハッチが開くと、そこから乗組員達が飛び出し、狭いハッチから引っ張り上げたゴムボートを海面に放り込んでいく。折り畳まれ、丸められていたボートは圧縮空気の力で瞬時にして船の形を成すが、すでに怪獣は文字通り『みちしお』に手が届くところまで近づいている。坂本には、隊員たちが上げる恐怖の悲鳴が聞こえるような気がした――
艦橋のハッチを開けた東の頭上に黒い影が落ちた。見上げると、怪獣が目の前まで迫っている。皮膚の岩のような質感、口の端から洩れる凶悪な息遣い、潜望鏡でみたより遥かに巨大で醜悪なその姿。恐怖と嫌悪が入り混じって全身の毛が逆立ち、手足の先から血の気が引いていくのが感じられる。その時、怪獣はかすかに首を下に曲げると、『みちしお』艦橋に視線を遣った。東は戦慄した。見るだけで命が吸い込まれていきそうな、“死”そのものといった双眸が自分を見つめているのだ。しかし――東は気付いた。怪獣はこちらを見ているが、焦点は自分に合っていない。それはつまり――!!!
東が何かを叫ぼうとした次の瞬間だった。怪獣は右腕を振りかぶると、4本の指に鋭い爪を生やした手を艦橋に向かって振り下ろしてきたのだ。畳2畳分はあろうかという掌が迫ってきた事、それが東が最期に見た光景だった。『みちしお』の艦橋はまるでアルミ缶のように叩き潰され、その衝撃で艦全体が海中に沈む。
怪獣はその一撃でも満足することは無かった。自らの眼下にある金属の塊を見下ろしながら、半開きの口から息を吸い込むとその胸板が大きく盛り上がる。すると背鰭が青白く輝き出し、発光が最大限まで高まるにつれて怪獣の周囲の海面から白い蒸気が立ち上り始めた。怪獣の体内から発せられる高熱によって、海水が沸騰しているのだ。口の中にずらりと並ぶ鋭い牙の間から洩れた呼気が大気と交わると、それは口火のような小さな炎となる。怪獣がその双眸を見開いた、次の瞬間だった――
怪獣の体内で高まったエネルギーが大きく裂けた口の中に集まり、凝縮された青白い閃光と化した。そして、爆発的な呼気と共に吐き出されると、エネルギーは一条に渦巻く灼熱となって『みちしお』に向けて放たれた。光線でも火炎でもない、熱線としか言いようの無い一撃は水深500mの水圧にも耐える『みちしお』の高張力鋼NS110製耐圧隔壁を易々と融解させ、艦内を貫いていた。
『みちしお』艦内に侵入した業火は、行き場を求めて荒れ狂った。浸水を食い止める気密ドアなどその勢いの前には何の役にも立たず、蝶番の根元から吹き飛んだ。まるで潜水艦映画にあるような、沈没寸前の艦内に雪崩れ込んでくる白い怒涛、それが紅蓮の炎に置き換わったような光景が繰り広げられたのだ。逃げ遅れた隊員たちはその中に飲み込まれ、悲鳴を上げる間も無く炭化する。
発令所付近から発生した火災が前部の魚雷発射室および格納庫、後部の機関室に及ぶにいたって、『みちしお』の崩壊は最終段階を迎えた。魚雷弾頭の炸薬とディーゼル燃料が引火した爆発が艦を内側から破壊すると、バラスト排水と換気用の圧縮空気のボンベが破裂し、新たに発生した酸素が爆発を加速させた。もはや艦体の外殻は内側からの圧力に耐え切れず膨張し、表面に張られた無反響タイルが剥がれ落ちる。生じた亀裂から炎が噴き出した次の瞬間、『みちしお』の内部からオレンジ色の火球が出現し、最新型の自衛隊潜水艦を引き裂いて、鋼鉄のスクラップへと変えた。
その光景を見れば、艦内にいた者の末路は容易に想像できるが、悲劇は一足先に脱出できた乗組員達にも襲い掛かっていた。粉砕された無数の破片がまるで散弾のように水面へ飛び散り、ボートの上で身動きの取れない隊員たちにも降り注いだのだ。
「このドアホ!しっかりせんか!」
『みちしお』乗員のひとりである古株の曹長は負傷した若い隊員を抱えながら、懸命にゴムボートにしがみつこうとした。
「先任曹長が……お先に……!」
若い隊員は血の気の失せた蒼い顔で言うが、中年の曹長は彼を関西弁で叱咤しながら取り合わない。
「何を言っとるか!歳も階級も関係ない、怪我人が先や!そら、頼むで!」
曹長が頭まで水を被りながら、若い隊員の腕をボートの縁に掛けると、ボート上の乗員が若い隊員を引き揚げる。
「さあ、曹長早く!」
隊員が海の中の曹長に手を伸ばそうとした、その時
「うわあああぁぁぁ!!!」
複数の悲鳴が同時に海上に響き渡る。曹長が見ると、彼らの頭上から巨大な顎が降りてくる。正に、彼らを飲み込まん勢いで――
「あかん――!!!」
危険を察した曹長は渾身の力でボートを押した。ゆっくりと、彼からボートが遠ざかっていく。
「曹長?何をするんです!?曹長!!」
彼等は叫ぶが、不安定なボートからでは彼らの手は届かない。
「食うてみぃ!ワシは生まれも育ちも大阪や!大阪人は腹が黒くて不味いでぇ!!!」
曹長が精一杯毒づくが、彼の体は大量の海水と共に怪獣の牙の間に飲み込まれていった。怪獣が顔を水面に突っ込んだ時に起こった高波が、隊員達の乗ったボートをも転覆させる。
「曹長……曹長は!?」
海中に投げ出された隊員は上官の姿を見失った。だが次の瞬間、再び怪獣が頭をもたげ、滝のように落ちて来た海水によって、隊員達も海の中に沈む。すると、怪獣の鋭い牙と牙の間からなにやら海面に落ちてきた。それは腹から下を食いちぎられた曹長の上半身だった。
怪獣が彼の体を飲み込んだのは偶然に過ぎなかった。怪獣が相手にするには人間一人の体など小さすぎる。だが、血の気が消えた曹長の顔はどこか誇らしげに笑みを浮かべているようにも見えた――
一撃で『みちしお』とその乗組員をこの世の地獄に引きずり込んだ怪獣は、自らが生み出した炎の海で体を焼かれることがまるで快感であるかのように天を仰ぎ、何度も何度も咆哮を上げている。そんな光景を上空の機内から目の当たりにして、坂本は顔面蒼白となっていた。しかし、なんとか理性を取り戻すと呟くように言った。
「今のを……撮ったか?」
『何ですか?TACO?』
「怪獣だ!!怪獣の姿をビデオに撮ったかと聞いているんだ!!!」
言葉を聞き取れなかったのか、それとも上の空だったのか聞き返すNAVCOM担当の部下を彼は怒鳴りつけた。
『ハッ!記録してあります!!』
部下が慌てて答える。
「――基地に戻って報告している暇は無いぞ……!『みちしお』のクルーを皆殺しにしてくれたあの化け物を逃すわけにはいかないからな……!!データと画像は全てLINK17に載せてASWOCと自衛艦隊司令部に送れ!!!」
『了解しました!!!』
NAVCOMはそういうと、この海域で起きた事件の全てを収めたデータを、海上自衛隊のデータリンクシステムであるLINK17で送信を始めた。このデータは海上自衛隊だけでなく、JTIDOSによって乗り入れている陸上・航空の両自衛隊、さらには戦術任務編成の観点から一体として行動できるよう情報の共有化の行われているアメリカ第7艦隊横須賀司令部にも一瞬にして伝えられる事となった。
『怪獣……いや、目標が潜行を開始します!!!』
SS1が声を上げる。見ると、怪獣は既に頭を海中に没させ、背鰭と尾だけが海面に露出していた。
「逃がすな!!!全クルー、対潜追跡体制!『みちしお』の仇だ……。北極でも南極でも……日本海溝の底まででも追いかけてやる!」
坂本は叫ぶように言った。
2004年5月12日午前10時43分、あの惨劇から測ったように50年後、ゴジラが再びその姿を白日の下に現した瞬間だった――