――13
5月9日――東京、飯田橋
「堤……清十郎……」
片山はそう呟きながら、手帳に殴り書きした名前と住所を目の前の古めかしい門構えにかかった表札と見比べた。JR飯田橋駅から神楽坂方面に歩くこと15分、細い路地が入り組み、都心とは思えぬ静寂が支配する住宅街の一角にその家はあった。広い庭に数寄屋造りの平屋一戸建ては独特の風格を漂わせている。それはこの家に住む主そのまま、といった感想を片山は持った。
片山がこの家を訪れるきっかけとなったのは2日前、彼が東都海上に友人の北野を訪ねた日の夜のことだった。
『よう、起きていたか?』
夜中の12時過ぎ、片山がいつものように次の日に大学の講義で使う資料を、愛用のVAIOを使ってまとめていた時、彼がコードレス電話を取るなりそう言ってきたのは北野だった。
「ああ、もちろんだ」
パソコンに向かっていた片山は、受話器を肩と頭で器用に挟みながら答えた。
『なるほど、大学時代からの習慣はそうそう変わらないってわけか。』
北野も、片山が昔から夜型人間で、夜遅くまで勉強や趣味に没頭していることを良く知っていた。笑いの混じる北野の声を聞きながら、片山は見事なブラインドタッチと淀み無いマウス操作でディスプレイ上のパワーポイントに図表を打ち込んでいく。
「雑談なら次の機会にしてくれ……。今日中にこのファイルを完成させないと明日の講義が進められないんだ。」
そう言いながら、片山の視線はモニター上から動かない。ただ彼の眼球だけがテキストのカーソルを追っている。
『もちろん、そんなつもりじゃない。昼間の……ゴジラの話で耳に入れておきたいことがあってな……』
北野の声のトーンが変わると同時に、片山の指先も動きを止めた。
「――聞こうか……」
その夜の、北野の話はこういうことだった。彼の後輩の一人に防衛庁に勤めるキャリア――国家公務員第一種試験合格者――がいて、その後輩は本当なら官僚にはならず防衛大に進みたかったくらいのミリタリーマニアだったので、何かゴジラについての心当たりが無いかどうか、今日の片山の話も含めて話をしたというが、ゴジラに関する情報は既に50年の時間がたっており、防衛庁も六本木から市ヶ谷に移転したことに伴って、その所在を知る者は少ないということだった。しかし、その後輩が言うには“堤 清十郎”という老人なら何か知っている筈ということだった。堤は元帝国軍人で、戦後は新たに創設された自衛隊の人材育成や組織整備に尽力した功労者だと言う。自衛隊の表も裏も知り尽くし、50年前のゴジラ襲撃時も最前線で事件を経験した人物だと、後輩は話した。
カラカラカラ……
引き戸を開けると、乾いた音が辺りに響く。門戸から玄関までは、青々とした芝生の上に打ち水された飛び石が続いている。
「先日、防衛庁装備課の大崎さんからご紹介いただきました、片山と申しますが……」
玄関の前に立ち止まると、片山はひとつ咳払いをして言う。すると、
「――話は聞いておる。玄関からではなく、庭に回ってきなさい。」
その声は家の中からではなく外から聞こえてきた。片山がその言葉通りに庭に向かうと、縁側に腰掛け、杖をついた和服の老人の姿が目に入る。
「……堤……清十郎さんですね。私は――」
「片山敏樹くんだね。」
片山が名刺を取り出そうとするのを、老人の皺枯れた声が遮った。
「東都大学理工学部を優秀な成績で卒業。その後は単身アメリカに留学し、ペンシルヴェニア大学で生物工学と医学の博士号を取得。MITのネイソン工学博士とも懇意であり、昨今注目された新型抗癌剤「CA+(プラス)」の開発チームの一員として学会の評価も高い。3年前に日本に帰国後は、私立慶能大学で医学部専任講師……。中々見事な経歴じゃの……」
そう言って笑う老人の顔を、片山は思わず見詰めてしまった。元帝国軍人と言うのならば、歳は少なくとも80歳を超えているはず。しかし、この老人は顔こそ皺だらけだが、血色は良く生気に満ちている。柔和な表情のなかにも視線は鋭く、それだけでも老人が今まで積んで来たキャリアが感じ取れた。そして何より片山を驚かせたのは、メモも何も見ずに片山の今までの経歴を挙げてみせたその記憶力である。片山は知らなかったが、先日防衛庁で極秘に行われた政府関係者と自衛隊幕僚との会議に同席し、“先生”と呼ばれていた老人こそ、この堤清十郎だった。
「君のことは少々調べさせてもらったよ。」
そう言った堤の顔に先程までの笑みはなかった。
「ならば、私があなたを訊ねてきた理由もお分かりですね?」
この老人に下手な探り合いは通用しない――片山は僅かな会話だけでそう悟ると、挨拶することも止めて切り出した。
「もちろんじゃ。少々長話になる。上がってくれ……」
堤は杖を置くと、草履を脱いで縁側の上に上がった。その足取りは杖に頼る必要が無いと思われるしっかりとしている。
「――お邪魔します。」
縁側から上がるのは失礼と思いながらも、片山は堤の脱いだ草履の隣に革靴を揃えて置く。そして、堤に続いて入った部屋に、彼は再び驚かされた。
「これは……」
彼の目に入ってきたもの、それは8畳の和室の壁一面に床から天井までの本棚にぎっしりと並んだ書籍と、明かり取りの障子の前、年代物の卓の上に置かれた業務用パソコンだった。書籍のジャンルは堤の経歴を表しているかのように戦史関係から軍事情勢の研究書、国際政治まで幅広い。中でも純和風の書斎に、それも80歳をとうに過ぎた老人の持ち物として、SOHOにも対応できるワークステーション機能を持つコンピューターは異彩を放っていた。
「……さすが堤清十郎元帝国陸軍大尉、いや、今は防衛大学校名誉教授と言った方がいいですかね?研究と情報収集は常に怠っていないということですか。」
「老人の玩具<おもちゃ>にしては過ぎた物じゃよ。」
片山が自分の受けた印象を自分に納得させるように言うと、堤は自嘲気味に笑った。しかし、パソコンはただ埃を被っているというわけではなく、明らかに持ち主によって使い込まれている跡が見られる。そう、この書斎自体、片山の自室のように現役の研究者の匂いがするのだ。堤はパソコンの前に座ると片山ほどの早さではないが、迷い無い動きで操作を始めた。
「(やはり、この老人は只者ではない……!)」
片山の驚きが確信に変わる。その時――
「しかし、その若さでゴジラのような前世紀の遺物に興味を持つとは変わった人じゃの……」
堤に言われて片山はハッとなった。
「いえ……」
彼は堤の後ろ姿に視線を戻す。
「私はゴジラが前世紀の遺物などとは思っていません。逆に、21世紀を迎えた今だからこそ、その正体を突き止められると思っています。50年前――1954年当時の日本の科学技術ではゴジラの細胞や遺伝子を分析することなど到底不可能。MITを始め、アメリカの研究機関に細胞が保存されていること自体、日本政府がゴジラの正体について何も掴んでいないことの証拠でしょう。」
「確かに君の言う通りじゃ。」
堤はそう言うと、モニターから振り向いた。
「1951年のサンフランシスコ平和条約の締結で日本の占領期間は事実上終わった。しかし、戦争によって工場、港湾などあらゆる設備を失い、政府も軍隊も解体させられた日本が終戦から僅か6年で国家としての基盤を回復させることは不可能じゃった。同じ年の日米安全保障条約、1954年のMSA協定の締結が良い例じゃ。当時の日本は一人では経済も……防衛もままならない、マッカーサーが喩えたような、“12歳の子供”だったのじゃよ……」
片山は静かに頷いた。歴史には疎い彼でも、この二つの取り決めによって戦後、日本がアメリカ軍の領土内での駐留と、西側陣営への参画を認めたという事実は知っていた。そしてその後、パックスアメリカーナ――アメリカの軍事力によって作り出される平和――の元で、日本は高度経済成長を遂げることとなるのだ。
「――では、何故そこまで分かっていながら君は日本に帰ってきたのかね?事件の後、日本はゴジラに関する生物学的解析の全てをアメリカに任せた。ゴジラから受けた破壊の復興資金や、設立されて間も無かった自衛隊への兵器開発技術の供与など、多くの援助と引き換えに……だ。50年前に採取された標本で状態の良いものは、ほとんどがアメリカに送られており、研究データの蓄積もアメリカの方が多いはず。君がゴジラの研究をしたいのなら、アメリカに残っていた方が良かったようにワシには思えるのじゃが……」
「そうでしょうか?」
片山の真意を問いただすかのように鋭い堤の目を、片山は正面から見返す。
「ゴジラ襲撃から50年が経つというのに、ゴジラの正体について学術的な結論は出されていません。ゴジラの正体を明らかにするということは、つまり……ゴジラ誕生に大きく関わっていると言われているビキニ環礁の水爆実験を行ったアメリカの責任、ひいては原子力利用のあり方にまで問題を投げかける事態になりかねなかった……。この50年間、機密と言う壁によって表ざたになるのが妨げられてきた可能性も否定は出来ません。ならば――」
「被害者である日本からゴジラの正体を明らかにするよう、働きかける……か……」
堤の呟きに片山は頷く。
「理由はそれだけではありませんが……。私が興味を持ったのはゴジラという存在そのものであり、ゴジラの細胞だけではなかったからです……」
「ゴジラの存在……そのもの……?」
「はい――。ゴジラの細胞を研究すれば、細胞の構造や遺伝子などからゴジラという生物について新たな発見があるでしょう。実際、アメリカ時代に懇意にして頂いたネイソン博士が、ゴジラの細胞が中性子線に対する耐性を持ち、放射性物質を代謝してエネルギー化出来る可能性を指摘しています……が……そこまでなのです。ゴジラの存在そのもの――ゴジラという怪獣がどうして生まれなければならなかったのかという誕生の根源、そしてどのように生き、どのように死ぬのか――ということをこの目で確かめたいと思ったのです!」
「ふむ……」
これを聞いて唸った堤の目が光る。
「片山君の話は、ゴジラが既に死んでいると思っていないように聞こえるが、どうなのじゃ?普通の科学者なら目の前にある研究材料……それも二度と手に入らないと思っているならばそれに飛びつくのではないのかね?『どのように生き、どのように死ぬのか確かめたい』などとは言わないはずじゃ……」
片山は頷いた。
「確かに……私は今まで、心のどこかでゴジラに生きていて欲しい、その姿をこの目で見てみたいと思ってきました。それが、私の考えるゴジラという存在を解き明かす最短の方法だったからです。そして現在、現実にゴジラが生きている、その凶暴さが目覚めつつある、と私には確信に近いものがあります!……元帝国陸軍参謀士官であり、自衛隊近代化の功労者と言われている貴方ならば、私が言わんとしていることが分かっているんじゃないですか?」
「――『カールビンソン』じゃな……」
堤が迷い無く答えた。
「私は軍事問題に関しては全くの素人ですが、今回の事件をマスコミ……そして、アメリカ政府が見解を出しているような、事故もしくは第3国による大規模なテロというようには思っていません。これは明確な根拠があるわけではなく、直感に過ぎないところがあるのですが……」
「東都海上に行ったのもその為ということかね?」
「えっ!?」
堤の意外な言葉に、片山は一瞬どう答えたらいいか分からなかった。
「はい……。もしゴジラが生きていて、目覚めているとすればその兆候はここ数日に始まった事ではないと思ったのです。今回のように沈没とまでいかなくても、接触やニアミス、目撃談などが海上事故の保険を引き受ける損保会社に報告書という形で残っていると思ったのですが、同期の友人にも社外秘ということで断られました。
何せ、一介の大学講師に過ぎない私には秘密という壁の向こうにある現実など知ることは出来ないですからね……」
片山は苦笑した。
「ほっほっほ。こいつは傑作じゃ。」
「何が可笑しいのです?」
「すまない。君の事を笑ったわけではないのじゃよ。今回の事件に関して自衛隊内でもっとも情報を入手できる立場にあるわしの教え子が、情報と常識に翻弄されて結論を出せないままでいたのを思い出してしまってな。素人である君が情報の少ない中、自分の直感と信念に従って結論を導き出している。少しはこの態度を見習って欲しいものじゃ。」
堤はそう静かに笑う、が――
「堤さんはどう考えていらっしゃるのですか?お話を伺う限り、あなたも事故説やテロ説を信じてはおられないようにお見受けできますが!?」
片山が言うと表情から笑みが消え、鋭い目つきが戻る。
「……日本と言う国は50年前のあの惨劇を忘れてしまった……。この50年間に起こった様々な重大事件が新たに人々の記憶に入り込み、ゴジラの記憶を薄れさせてしまったのじゃ……。そして、国民の多くはゴジラの記憶すら持っていない。儂のようにゴジラのことを知っている人間も、もはや僅か。いや、儂ですらどれくらいゴジラの事を知っていると言うのか……」
堤は遠くを見るような目をしていた。激動の昭和を生き抜き、戦前、戦中、戦後のあらゆる事件を経験し、その身に記憶を刻みつけている彼だからこそ、その視線の先にゴジラの姿を誰よりも鮮明に映し出しているのかもしれなかった。
「だが、今度の事件だけは別じゃ!」
堤は、感傷に浸りかけた自分自身を一喝するように叫んだ。
「儂は曲がりなりにも60年以上、戦前は軍、戦後は自衛隊に関わる事を生業としてきた。そのおかげで軍隊、もしくは兵器が出来る事の限界というものを誰よりも知っているつもりじゃ。だからこそ、今回の事件は明らかに兵器を超越した何かが引き起こしたと悟った。兵器、すなわち人間の持ち得る力を超える、人間以外の自然に存在する力とは何なのか?……これが儂の結論じゃ。」
「(間違いない。この人はゴジラの危機を現実のものとして感じている!)」
そんな堤を見ていると、片山は自分が、ゴジラが日本に上陸した時の惨状を真剣に想像してものを言っているのか、という疑問が浮かんだ。彼が生まれてから今まで経験してきた重大事件と言えるものは何なのであろうか?彼が生まれた頃に起こったオイルショックは後にニュースで流された、人々が必死に物資を買い求める姿は現在の規則正しく製品が供給されている状況と比べれば滑稽この上ない。東西冷戦の時代でも、米ソが人類を数百回滅ぼせるだけの核兵器を貯蔵していると聞いても、逆にその恐怖を実感できないでいた。さらに湾岸戦争は情報化社会の波の中でメディアというフィルターを通して知らされ、民間に被害を出さないと謳われたピンポイント爆撃のイメージは、戦争が本来持っている悲惨さを失わせた。阪神大震災が起こった時もアメリカにいた彼には、日本の安全神話の一つを崩壊させた衝撃を実感できなかった。――いくつかの事件が片山の頭に浮かんでは消え、これらが自分にとってブラウン管の向こうの出来事であったように、ゴジラも学者としての範疇でしか見ていなかったのではないのか?ゴジラが現れた時、間違いなくその先頭に立って戦うであろう自衛隊の覚悟、家や家族を奪われる人々の悲しみ……。ゴジラの真実を見極めるなどと格好の良い事を言っておきながら、自分はそういうことを見逃していたのではないか?ゴジラの出現、それはすなわち悲劇でしかないのだから。
「……堤さんもゴジラの復活を信じておられるのですね……」
片山の言葉に堤は答えず、ただ立ち上がると書斎の本棚に向かう。片山はその行動を肯定と受け取った。堤は答えの代わりに一冊の分厚いファイルを手渡した。
「折角ここまで足を運んでもらったのだ。つまらない物だが、土産を持って帰るといい……」
「これは……!?」
数ページ、ファイルを捲って見ると片山は目を見張った。そこに記されていたのは、先日東都海上に勤める同期の友人を頼って入手しようとした、この10年間に起こった海難事故に関する調査報告書だった。それも、東都海上だけではなく他の大手損害保険会社のものの網羅されていた。片山が思わず堤を見やると、老人はにやりと不適な笑みを浮かべている。海上保安庁や関係各省庁に提出される以外は企業秘密とされるこれらを外部の人間が閲覧するためには、然るべき手続きを踏まなくてはならない。それはとても個人で出来るものではなく、政府内部に強力なコネクションを持っていなくては不可能だ。片山は堤の能力だけではなく、長年築き上げてきたであろう人脈の広さにも驚きを感じ得なかった。
「これが欲しかったのじゃろう?君の出来の良い頭ならここから何か、ゴジラに関する重要な手がかりをつかめるかも知れん……」
歳不相応に熱っぽく語る堤に、片山は深々と頭を下げる。
「ありがとう……ございます!」
「それと……じゃ。もうひとつ君の耳に入れておきたい事があった。」
「――なんでしょう?」
何かを思い出して手を打つ堤を片山は見上げた。
「……『ゴジラ白書』のことを何か聞いた事はあるかな?」
「『ゴジラ……白書』?」
それは片山にとっても初めて聞く名前だった。彼は日本に帰国してからこの方、事件後ゴジラについて書かれた研究書からドキュメンタリーまで、様々な資料に目を通した。しかし、その中には今堤が言った『ゴジラ白書』と呼ばれるものは入っていなかった。
「正確には『“ゴジラ”と呼称される巨大生物に関する報告書』じゃ。1954年、ゴジラの出現から事態の収拾までの経緯と被害状況、当時導き出されたゴジラに関する生物学的考察のありのままが纏められているので、通称『ゴジラ白書』と呼ばれておる。もっとも、閲覧が許されたのは政府首脳や事件の中心にいた人物のみで、表にはほとんど知られていないがな……」
「――堤さんも当然、『ゴジラ白書』はご覧になっているのですね!?」
その問いに堤は黙って頷く。片山は今日、堤に会ってから何度驚かされたのか数える事がもはや馬鹿らしくなっていた。この老人は自分などよりも遥かにゴジラの真実について知っている――片山はその真実の一部分を記しているであろうその本を何が何でも読みたくなった。
「その『ゴジラ白書』は今どこに!?」
片山は食い入るように堤を見詰めた。そして、堤はその言葉を待っていたかのように口を開く。
「――最後の一冊は国会図書館に保管されているはずじゃ。しかし、そう簡単に見られるものでもない。もし興味があるなら儂から話を付けておこう。」
「是非お願いします!!!」
片山は堤に最敬礼した。この時、彼は喜びのあまり分からなかった。堤との出会いが片山とゴジラの運命を大きく左右することを……。そしてこの時、堤すら知らなかった。脅威は誰の想像よりも早く日本に近づいていた事を――