『第二章』
――10
4月27日――ハワイ沖
この日で、空母『カールビンソン』を中心とするアメリカ第3艦隊の機動部隊が失踪、沈没してから1週間が経とうとしていた。
無数の残骸や遺留品、そして遺体が回収されたものの、捜索範囲は当初の想像以上に広く、深度600mの深さに沈む艦の沈没地点を洋上艦からのアクティブソナーや無人潜水艇によってだけで特定する事は困難を極めた。しかし、彼等の不休の努力によってその範囲が徐々に狭まっていたのもまた事実であった。
海上自衛隊の潜水艦救難艦『あづち』にから遠隔操作されている海中探査艇『わだつみ』の強力なサーチライトは太陽の光が届かぬ深度600mの海中を明るく照らし出しているが、流れの少ない穏やかな海の底ではプランクトンや細かな浮遊物が漂って視界は十数mしか無い。
『あづち』の操縦室では、『わだつみ』を操る長野一等海曹が疲れで霞む目をこすりながらモニターを凝視していた。短調なモニターの映像がまるで催眠映像のように続いている、その時――
「んんっ!?」
有視界による確認が難しいのであれば、デジタルに頼るしかない。そう思い始めていた長野はカメラの映像が映るモニターではなく、外部センサーの一つである磁気センサーの変化を見逃さなかった。
「副長!右舷30°距離400に磁気反応!!」
長野は操縦席の後ろに控えていた『あづち』副長の安西に向かって言った。本来、故障や破損で水中に沈んだままとなっている潜水艦を探索する目的で作られた『わだつみ』には高度な磁気センサーが取り付けられている。たとえ金属自体が持っている磁気が微量なものであっても、それが艦船のように大きな質量を持てば磁気の強さも大きくなる。この磁気センサーを使えば、目標にキャビテーションやエンジンノイズが無くても、目標の位置特定が可能なのだ。
「本当か!?」
安西はコントロールパネルも方に身を乗り出させてきた。
「ええ、目標に全く動きはありません。」
「よし。進路0−3−0、速力半減。目標との衝突に留意せよ。」
「了解。」
長野は舵とスロットルを調整して、安西の言う通りの進路と速度を取った。モニターを流れる海中の景色が目に見えて遅くなる。
「こいつは大きいです……。磁気の数値から全長は最低でも100m以上!」
『わだつみ』と目標の距離が近づくにつれて、センサーに示されている輝点が大きくなる。
「ライトを正面に集中させるんだ。」
「……了解!」
カッ!
長野の操作によって、前方の広範囲に向けられていたライトが正面に収束する。水中の浮遊物のベールをも貫くその光によって、今まで見えなかったその奥が映し出される――
「こいつか……!!?」
操縦室のモニターに、長野と安西は釘付けになった。特徴のある多面体のシルエットを持つ艦橋。そして、そこに埋め込まれた八角形のレーダー盤。
「イージス艦!だが……これでは全体が分からないな。スキャンソナーだ。」
「了解!」
『わだつみ』は目標に向けて何度も特殊な音波を放つ。海底から離れた操縦室のディスプレイに、音波の反射波によるデータが3Dコンピューターグラフィックスで処理されたイメージを形作った。
「――艦橋の形からすると……これはアーレイバーク級ですね……」
「となると、『ベンフォルド』か!?」
画面に現れたCGは、アーレイバーク級イージス駆逐艦の八面体サイコロのような艦橋の形を見事に捉えている。それ見て、長野と安西は半ば自分達の考えの正しさを確信していた。
「……見て下さい。艦首のソナードーム付近が激しく潰れています。おそらく艦首に強い衝撃を受け、そこから浸水を始めたのでしょう。沈降は艦首からと考えればこの破損状況も説明がつきます。」
「そして……この、艦を『く』の字に曲げるほどの左舷側の潰れ方……。まるで艦同士が側面衝突を起こしたようじゃないか……」
「ならばこれは……事故ですか?」
長野が『わだつみ』の操縦幹を放さないまま、画面を安定させながら言う。
「分からん!一方がこれだけの損傷を受けているんだ、衝突した方も只では済まないだろう。もしかしたら、この近くに沈んでいるのかも知れない……。とりあえず艦長に報告、しかる後米軍にも連絡だ。」
安西がそう言ってコントロールパネルを離れ、壁際に取り付けられた無線に向かおうとしたその時――
「待って下さい!左舷40°距離500の位置に新たな磁気反応!!!」
「何だと!?」
安西は踵を返す。
「間違いありません。大きいです……今度は少なくとも全長300m以上!!」
長野の言葉の意味するところはただ一つしかなかった。全長300mを超える、磁気を放つ鋼鉄の塊。一言でそう言われて、簡単にその大きさと規模を想像できる人がいるだろうか?喩えるならば、296mと日本一の高さを誇る高層ビルである横浜ランドマークタワーを横倒しにし、それをさらに一回り大きくしたものと言える。地上ならともかく、海中にそれだけの大きさと質量を持つ物体など存在しない。今、世界中の注目を浴びているたった一つの例外を除いては――
「――400……350……300……」
長野は慎重に、物体との距離を口にしながら『わだつみ』を進めた。モニターに流れる海中の景色がもどかしいくらい遅く感じられる。
「――80……50……スクリュー逆進、機関停止!」
「ライトアップ!!」
「了解!」
カッ!!!
『わだつみ』のサーチライトの眩いばかりの光が僅か50m弱の距離に迫った巨大な物体に向けられる。そこに映し出されたのは海中に灰色に浮かび上がる鋼鉄の絶壁だった。絶壁は湾曲しながら上へ延びており、長野はそれに合わせてカメラをゆっくりと上に向けていく。しばらくすると、視界がまるで崖の上に広がる棚のように大きく開けた。自然の地形にしては不自然に真平らな平地の上でホバリンングする『わだつみ』が船体を左に向けたその時――
「「――!!!」」
長野と安西は同時に言葉を失った。そこに映し出されたのは空母の巨大なビルのような構造物であり、その側面には白抜きで『70』と大きく記されていたのだ。
「――『カールビンソン』……」
「ああ……間違い無い……!!!」
海上自衛隊に勤めるものなら、それを見紛う事など無かった。『70』の艦番号を持つ空母はこの世に一つしか存在しない。アメリカ海軍第3艦隊旗艦、ニミッツ級空母『カールビンソン』だ。湾曲して聳え立つ絶壁に見えたものは空母の舷側であり、その頂上に広がる平面は飛行甲板に相違ない。その雄姿を彼等は少なからず目に焼き付けている。
「艦長に報告……だ……」
薄々予想していた事態ではあるが、アメリカ海軍の象徴とも言えるスーパーキャリアが沈んでいる姿を実際に目の当たりにした衝撃は想像以上だった。安西は驚きの余り呟くように言った。だが、二人は気付かないうちに心の中で生じている違和感を実感できないでいた。それだけ、自分達が沈んだ『カールビンソン』を発見した驚きが大きかったのだ。
そう――『カールビンソン』の艦橋に記された『70』の番号の上には、何かで切り裂かれたような傷痕が一直線に走っていたのだ――
4月28日――小笠原諸島西方沖
日付が変わって翌日――ハワイ沖での『わだつみ』による『カールビンソン』発見がまだ世界に伝わっていない早朝、サウジアラビア船籍の石油タンカー『サザンクロス』は10万トンの原油を満載して、小笠原諸島西方沖約400kmの位置を毎時約12ノットの速度で東京湾の石油コンビナートを目指していた。
「――霧が濃い。レーダーの反応に注意せよ。」
『サザンクロス』の船長はブリッジの窓から双眼鏡で外を覗き込みながら言った。彼の言葉通り、船の周りはこの海域のこの季節にしては濃い霧が立ち込め、海も空も区別が付かない程、世界が白く塗り潰されてしまっている。船から周囲を照らしているライトだけでは微細な水滴の集まった分厚いカーテンに遮られ、肉眼では視界を得ることが出来ない。
「了解……」
クルーは真剣な表情でレーダー画面を視線で追う。大人でひと抱えはありそうな大きさをした真円形のレーダー画面は緑色に輝き、アンテナから照射されたレーダー波が走査した範囲の中には僅かな影も認められなかった。
「――本船の全方位に障害物無し!」
それを確認してクルーが答えた。
「よし。進路、速度そのままだ。このままで行けば……予定の本日15時には東京湾に入れるだろう。」
船長は左腕のオメガのダイバーズウォッチを見て言った。
「しかし船長、ここが太平洋で良かったですね。もしもマラッカ海峡でこんな霧に出会ったら、私は無事に乗り切れる自信はありませんよ……」
船長の隣では副船長が苦笑していた。彼の言うマラッカ海峡はマレー半島とスマトラ島の間にあり、中東方面から極東地域へ石油を運ぶタンカーの通航量の多い海域である。海峡の最も狭いところの幅は、日本の瀬戸内海とほぼ同じく数km。“タンカーの銀座”と呼ばれ、航路上で一番の難所として知られている。
「しかし、霧であれ嵐であれ、運ばなければならないのが我々の仕事だ。日本は石油を始め、海外から資源を輸入しなくては経済が成り立たないことくらい、小学校の社会科で習っているだろう?」
「もちろん、それくらい分かっていますとも。」
からかうように言う船長に、副船長は大袈裟に声を上げて答えた。二人は続けて笑い始める。
彼等の言う通り、輸入資源――中でも石油は“経済の血液”とも言われ、その用途は自動車・航空機・火力発電所などに使われる燃料、繊維やプラスチックなど化学製品の原料と、例を挙げればいとまが無いほど多岐に渡っている。環境問題が叫ばれている昨今、燃焼時に排出される二酸化炭素や窒素酸化物による地球温暖化、分解されずに地球上に半永久的に残るプラスチック製廃棄物の問題など石油製品は環境破壊の元凶であると槍玉に挙げられているが、人類は2004年となった未だに性質やコストにおいて石油に代わる代替物を発見し得ていないのもまた事実である。彼等の操っているような巨大な石油タンカーが世界の海から姿を消す時、それは人間が地球に埋蔵された石油を使い尽くした時なのかもしれない。
そして、彼等はブリッジで交わしている雑談とは裏腹に、規模で言えば世界で唯一空母に匹敵するこのタンカーという艦船を細心の注意を以って航海させていた。『サザンクロス』のような大型石油タンカーは積載量一杯に原油を積んでしまえば、その機動性は当然の如く悪くなる。自重に加えて積み荷の重さで一旦動き出してしまえば自由に舵を切ることも、止まることもままならず、湾の中ではタグボート無しでは岸への接近も出来ないのだ。
また、ごく限られた時にしか海を渡ることのない放射性再処理燃料輸送船などと比べて、その存在の身近さ故か、タンカーの安全について疑問符を投げかける者は少ない。確かに、万が一の事態に備えて何重もの防御の施された船体、全ての原油が一気に流れ出すことを防ぐ為に細かく仕切られた貯蔵部分と、この『サザンクロス』を始め多くの大型タンカーには完成された安全措置が施されている。しかし、想定された以上事態が起こり『サザンクロス』から全ての原油が流出するようなことになれば、それは史上最悪の海洋汚染事故として報道されることになるだろう。
「(サウジアラビアからの長かった航路ももうすぐ終わる。願わくは今回もこのまま、残り僅かな航海の安全を――)」
無信教で特に祈る神も持たない船長にとって、信じられるのは長年その恩恵も試練も与えられてきた“海”そのものだけだといえる。彼がいつも通りの言葉を心の中に浮かべた、その時――
「船長!!右舷後方60°距離800の位置にレーダーの反応あり!!」
「何だと!?」
クルーの突然の叫びが船長の祈りを途中で妨げた。
「見逃していたのか!?」
「いえ……波も遮蔽物も無いこの海域で、発見できないなんて考えられません。突然現れました!」
彼の見詰めるレーダーパネルには、扇状のレーダー波が走査するたびに緑色のパネル状に白い輝点が浮かび上がる。その輝点はパネルの中心――『サザンクロス』のいる位置――にゆっくりと近づいていた。
「速度15ノットから20ノット、本船に近づきます!!」
「まさか潜水艦ではあるまいな?」
最新型の音響・音波探知装置を備えた潜水艦ならば、全長300m、最大積載量10万トンの『サザンクロス』の巨大な船体を見失うはずが無い。しかし、外部の情報収集をレーダーとソナーに頼る潜水艦は、それが故障してしまえば目と耳を塞がれた状況に等しい。潜望鏡を使っての視認もこの霧では無理だろうとすれば、この不可解な動きも頷ける。いくら機械の性能が良くなっても、完璧な安全など存在しないのだ。
「霧笛を鳴らせ!!」
ボーウ……ボォー…
艦長が叫ぶと、霧笛の古めかしい響きが霧の太平洋上に響き渡る。もし、接近してくるものがレーダーやソナーの故障でこちらを見失っているとすると、霧で視界が利かない今、自らの存在を知らせられるものは音しかない。だが――物体は接近を止めようとしない。
「取り舵一杯!!」
船長の叫び声に近い指示がブリッジに響く。操舵手は舵を左方向に目一杯回転させているが、『サザンクロス』の船首はもどかしい程ゆっくりと曲がり始めただけだ。
「このままでは衝突します!!!」
副長は血走った目で船長見詰めた。しかし、船長もただ唇を噛み締めながら波を砕く船首を凝視している。その時、彼の脳裏には『サザンクロス』の側面に穴が開き、船体を斜めに傾かせながら積荷の原油を垂れ流している姿が浮かんだ。原油は揮発性が低い為、ガソリンや軽油のように爆発して被害の出る可能性は極めて少ない。しかし原油はその安定した性質上、空気中に曝されて油分を失うとコールタールのように固まり、長い期間汚染を留める事となる。湾岸戦争でイラク軍の攻撃や多国籍軍の誤爆で破壊された石油精製所や、日本海で座礁したロシア船籍タンカーから流れ出した原油が生態系や景観に与えた影響は人々の記憶にも新しいところだ。まさにそれと同じことが『サザンクロス』から起ころうとしている――が――
「船長!物体の接近が止まりました!右舷約30m!!!」
「30m!?」
「目と鼻の先じゃないか!」
レーダーを見ていたクルーの言葉が場の空気を一変させた。こんな大それたことをする『何か』の正体を見極めんがために誰もがブリッジの右舷を臨む殺到し、船長と副長はドアを乱暴に押し開けると甲板に降りるタラップに飛び出した。
この時『サザンクロス』の周りでは風が強く吹き始めており、海上を覆っている霧の層がそれとともに、むらとなって流れていく。風によって立った白波が『サザンクロス』の、海面からほぼ垂直に聳え立つ絶壁のような艦舷に打ち付けているが、巨大な船体はその影響をほとんど受けていない。
ザザザ……
何かが海面を掻き分け、波を立てる音がする。その“何か”は『サザンクロス』周囲を旋回しながら、警戒するようになかなか近づこうとしない。
「何を……しているんだ……」
船長を副長は霧の切れ目から見え隠れする影に目を凝らすが、その姿は明らかに船のものとは思えない。船体が無く、まるで巨大な艦橋<ブリッジ>だけが海面に浮いている、そんな印象を受けるシルエット。しかし、世界には船長が知る限り、今自分達の目の前を通り過ぎている影のようにいびつな形をした艦橋を持った船は存在しない。鋼鉄というよりも岩肌の如き表面、直線的な部分などほとんど無く、ぎざぎざと切り立った輪郭は周囲を取り巻く霧と相まって、雲海に浮かぶ岩山を思わせる。この物体の不可解さは、彼らの不安を掻き立てた。その時――
ビュウウゥゥ・・・・・・!
海上に激しく風が渦巻き、霧の一部を吹き飛ばした。そして、それに呼応するようにして“何か”が咆哮を上げた。
グオオオオオォォォォォン!!!
大気がびりびりと震えるのを感じながら、船長は、副長は、クルー達は見た。衝撃波のような咆哮の中心に、この世のものとは思えないような異形が佇んでいるのを……。明らかに船などではない、海面から数十mはあろうかと言う、その頂点では血走った白目と濁った黒目を持った眼球が光を放ち、深く裂けた口の端からは鋭い牙が覗いている。2本の腕を持ったその姿はティラノサウルス型の肉食恐竜を思わせるが、その巨大さは明らかに生物として学術上の常識を逸脱していた。だが、最も特徴的なものは背に並んだ背鰭だ。首筋から背中に行くにつれて大きくなっていき、その先端は水晶の様に半透明で、刃物のように鋭い。驚愕を通り越して呆然となり、声を失う人間達を尻目に、その“物体”は『サザンクロス』への興味を失ったかのように進路を変えると、再び霧の中へと消えて行く。最後に彼らに見えたもの、それは水中から弾ける様に跳ね上がり、海面を叩く鋼の鞭の如き尾だった。
その光景を目の当たりにして、船長はただ一言呟いた。
「あれは……怪獣だ……」
数日後、彼らの見たものは報告書となって、海上保安庁、依頼主である日本の商社・石油会社、船体と積荷に掛けられた保険の引き受け先である損害保険会社に提出されることとなる――