――9
4月23日、夕刻――東京
杉並区永福町の閑静な住宅街にその家はあった。塀やフェンスではなく、高さ1m半ほど高さの生け垣に囲まれた広い庭を持つ2階建ての和風家屋。古めかしい門構えには『石原』という名の表札がかかっている。
リビングとなっている茶の間は数年前に改装され和洋折衷の趣きになっており、そこに置かれたソファーセットの一つに腰掛けながらこの家の主、陸上自衛隊第一師団長・石原一真は落ち着かない様子でいた。
「(こんなところを部下に見られたら間違いなく笑われるな……)」
石原はそう思うと心の中で自嘲した。若い頃の彼は防衛大学校を優秀な成績で卒業したが、そんなエリート達の持つスマートなイメージとは逆に厳しく叩き上げられてきた。もちろん、部下を指導する際に鉄拳制裁を加えた事も一度や二度ではない。ここ数年、隊内でも責任ある地位を歴任するようになってからはそんな過激な行為こそ影を潜めているが、かつての部下達、彼等も陸上自衛隊のあらゆる部門で確固たる立場にあるが、石原の事を未だに『鬼の石原』と皮肉と尊敬の念を込めて呼ぶ事を憚らない。
そんな石原が落ち着いていられない理由、それは一人息子であり、彼の指揮する陸上自衛隊第一師団の中で第4対戦車ヘリコプター隊に所属する勇真が両親に、
『会って欲しい女性<ひと>がいる。』
と週末を前に電話で伝えてきたからだ。勇真は子供の頃から母親の優子よりも石原に懐いていた。それは男同士であるという意味もあるが、勇真が父親の職業である自衛隊を、小さい頃から見ていた怪獣映画や特撮ヒーロー番組に登場する防衛隊と一緒であると思い憧れていたのが最大の理由だった。しかし成長するにつれて勇真が持っていたそんな幻想など消えて無くなるだろうという石原の予想とは裏腹に、勇真は父親が置かれている立場を何時の間にか理解するようになり、彼の背中を追い掛けるようになっていたのだ。高校卒業を控えた勇真が防衛大学校への進学を希望するに時間はかからなかった。
石原は本心から言えば勇真に自分と同じ道を歩んで欲しくなかった。彼が今自分の身を自衛隊という組織に置いている理由を勇真が知れば、息子は自分で信じて歩いてきた今までの道を否定してしまうかもしれないという恐れがあったからだ。しかし一方では勇真が自分の手を離れ、自らの足で歩き始めているという実感もあった。
石原は今年で50歳、そして勇真は25歳になる。自分が妻である優子と結婚したのと同じ歳だ。優子はかつて石原の上官の一人娘だった。石原はその上官に厳しく鍛えられながらも非常に可愛がられ、時折上官の自宅にも招待された。そんな時、いつも酒と食事を運んできてくれたのが優子だったのだ。優子は良く出来た女性だった。父親が自衛官という厳しい家庭に育った事で躾の行き届いた物腰、父親が任務で家を空ける事が多かった為に、優しい中にも『家庭を守る』という芯の強さを持っていた。若かった二人は当然の如く惹かれ合い、誰の目から見ても愛し合うようになっていた。しかし、優子の事を想いながらも当時の石原は彼女と『結婚する』ということについて決心する事が出来ないでいた。自分が何の為に自衛隊に入り、彼女の父親の元で戦う術を学んでいるのか――上官すら知らぬその決意を彼が心の内に持ち続けている限り、いつの日か自分はその所為で命を落とす日が来るかもしれない。優子の悲しむ顔は見たくない、彼女を一人遺すような真似はしたくない……そんな考えがあったからだ。だが、優子は石原が考えていた以上に強い女性だった。
『あなたが一人で悲しみを抱え込んでいるのなら、それが私が一緒に背負う事が出来ないものなら、代わりに私はあなたを側で一生支え続けてもいい――』
石原が心の中に人知れず闇を抱えている事を察し、彼女の方から気持ちを告白してくれたのだ。
『……もし、今から僕が言う事を受け入れてくれるのなら……僕は……君に側にいて欲しい――』
石原の言葉に大粒の涙を流す優子の真っ直ぐな想いに心を打たれ、石原は彼女に全てを告白した。自分の幼少期の生い立ちから青年時代、そして自衛隊に入隊をした経緯の全てを……
その半年後、二人の結婚式が取り行なわれた。優子の父が自衛隊の幹部であったということもあり式には統幕議長や幕僚長といった層々たる顔ぶれが出席し、披露宴も盛大なものとなった。その翌年、二人の間に長男が産まれる。優子は二人の名前を取って『優真』と名付けたかったようだが、自衛官の家系に産まれた男子には優しすぎる、と石原は音だけ同じく『勇真』と決めた。
その後の石原は前にも増して自分に厳しく振る舞うようになった。優子と結婚した事で『幹部の婿殿』と揶揄される事を嫌ったのだ。今では、『石原が出世してきた裏にはコネがある』などと陰口を言う輩はおらず、彼は陸上自衛隊第一師団長という地位を得て現在に至っている。
石原は優子の煎れた、既に冷め始めたコーヒーを口に運んだ。かく言う優子は、
『今日は美味しいものを作らなくては』
と、言い残して夕方から台所に篭もりきりだ。今も、廊下からは醤油と鰹出汁の煮立ついい匂いが漂って来ている。料理上手の優子がこれほど力を入れて作っているならば、今日はさぞご馳走が出てくるのだろう……そんな事を考えた石原がコーヒーを流し込み続けた胃に空腹感を感じ始めたその時、玄関のチャイムが軽やかな音を立てた。部屋の置き時計に目を遣ると、約束の時間の10分前だった。“社会人たる者、大事な約束で人を待たせてはならない、約束の10分前に訪ねるのは礼儀である“、これも石原が勇真に教えた事だ。このチャイムは勇真達のものに間違い無いだろう――
「はーい、ただ今〜」
石原がソファーから腰を上げるよりも早く、優子が喜びを隠し知れないといった調子の声を上げながらパタパタとスリッパの音を響かせながら台所より駆け出して来る。
「(まったく、これじゃあどっちが子供だか分からないな……)」
まるで仕事から帰ってきた父親を迎える娘のような反応をする優子の姿に石原は苦笑した。
「お帰りなさい!」
妻の声を待ったタイミングで石原は廊下に出る。玄関には二人の人影があった。一人は石原も見慣れた陸上自衛隊の制服を皺一つ無く着こなした若い男、もう一人は長めのスカートとゆったりとした上着を身に付けた小柄な女性だ。優子へと穏やかな表情を向けていた若い男の方は、石原の姿に気付くと表情を引き締めると直立不動の姿勢で敬礼を向けてきた。だが、次の瞬間には笑みを浮かべて言った。
「ただいま、父さん……」
「ああ、お帰り。勇真……」
石原も軽く敬礼で返しながら答える。石原は目の前に立つ息子の姿をしみじみと眺めた。身長は170cm程で男子の、自衛官と言う戦う職業に就いている者の中では決して大柄ではない。しかし、均整の取れた体型は制服の上からでも鍛え上げられた肉体であると分かった。そして、優子曰く『うりふたつ』という瞳が自分を見返している。
「父さん、母さん。こちらが……お付き合いをしている倉田真奈美さん。」
勇真は軽く咳払いをすると一歩脇に寄り、後ろに控えている女性を示した。
「初めまして、倉田真奈美と申します……」
女性――倉田真奈美は緊張の為か身を固くしながらも丁寧に、石原と優子へ綺麗な姿勢でお辞儀をした。整った顔立ちに優しい瞳をしており、あどけなさの残る紅潮した表情と肩を越したところまで伸ばされた黒髪を掻き上げる仕草が石原に初々しさを感じさせた。ひょっとしたら年齢は勇真より年下……22、3歳と言ったところなのかもしれない。
「わざわざようこそいらっしゃいました。どうぞ、お上がりになって下さい……」
優子は膝を床に付いてスリッパを並べると玄関に立ったままの二人に勧める。こうした気配りも優子の良さの一つだ。石原も勇真も自衛官と言う職に就いている為、この永福の実家を空ける事が多い。二人が安心して仕事に、任務に集中出来るのは優子がしっかりと家庭を守ってくれているという精神的な後ろ盾があるからに他ならなかった。
「失礼します……」
軽く会釈した真奈美が敷居の上に上がろうとすると、勇真がさり気なく彼女に手を差し伸べる。その手を取った真奈美と勇真が視線を合わせるのを見て、石原は確信した。二人は本当にお互いを想い合っている。そんな二人の結婚に反対する親が何処にいようか――
リビングで、石原と優子は勇真と真奈美から二人の出会いの話を聞いていた。二人が出会ったのは1年ほど前だった。
勇真は千葉県木更津に駐屯地を置く第4対戦車ヘリコプター隊に所属している二尉だ。防衛大学校を卒業した勇真は、まず飛行科で戦闘ヘリの操縦技術と戦術を学ぶ事となった。勇真がここに配属された背景には彼が防衛大での研究で、日本国内に他国の工作部隊が侵入し破壊活動やゲリラ戦を開始したと想定した場合の戦闘ヘリの有効性をシミュレーションしていたからだ。いかに防大卒のエリートと言っても、こうした現場での経験無しに指揮官になる事はない。
東京湾を横断するアクアラインが通ったと言っても、便利さでは横浜や東京近郊では遠く及ばないこの木更津では近年大手スーパーや百貨店が市の中心街から撤退し、郊外のゴルフ場や九十九里の海岸線を目指すドライバー達にとっても通過点に過ぎない。しかし、勇真を始め自衛官と言う日々の娯楽に乏しい職に就いている若い隊員達にとっては、休みとなれば数少ない繁華街に繰り出すのが常であった。
休日を迎えた勇真は、その日一緒に出かける仲間もいなかった為、買い物がてらに駐屯地近くのバス停から木更津市内に足を伸ばした。普段から訓練と勉強に明け暮れている為、私服などはめったに着ず、こうした外出の時しか着る機会が無いのだが季節は3月、ふとした気候の変化から春物の洋服が欲しくなったのだ。一通りの店を回り必要なものを買った後、勇真は遅い昼食を摂ろうとした。商店街の一角を歩いていると、ふとその店が勇真の目に留まった。行列が出来ていると言うわけではないのだが、お客さんが頻繁に出入りしている。そして、店から出てくるお客さんは一様に満足そうな表情を浮かべていたのだ。
『レストランくらた』
看板にはそう書いてあった。レストランと言うよりも洋食屋と言った方が似合うような大きさだが、外見はフレンチとイタリアンを折衷したような本格的な雰囲気がある。その店に惹かれるものを感じ、勇真は年季の入った木製のドアを押し開けた。
カランカラン……
ドアベルの軽やかな音が店の中に響く。すると、
「いらっしゃいませ〜。」
品の良い身なりをした中年の女性が勇真に寄ってきた。
「お一人様ですか?」
「ええ……はい。」
「では、こちらへどうぞ。」
そう答えると女性に案内され、勇真は奥のカウンター席に腰を下ろすと店の中を見回した。キッチンに面したカウンターの他にも数台のテーブル席があるか、そちらは既に一杯になっている。日曜日とは言えお昼をかなり過ぎた時間であるのにこれだけのお客さんが入っていると言う事は、この店はかなり評判の良い店なのだろうと容易に想像できる。だが、店の中にはメニューが見当たらない。勇真がきょろきょろと視線を巡らせていたその時――
コトリ……
勇真の脇から白い手と指が伸びてくると、氷水の入ったグラスがカウンターの上に置かれたと同時に、先程の中年女性とは違った若い女性から声をかけられた。
「いらっしゃいませ。メニューはこちらになります。」
勇真が顔を上げると、そこには清潔な白いエプロンを身に付けた若い女性が、胸の前で銀のお盆を抱えて佇んでいた。肩まで伸びた黒髪を後ろで束ねてポニーテールのようにしており、飾り気の無い服装と相俟ってその優しげな表情を際立たせている。高校時代は勉強と部活の柔道に明け暮れ、防衛大に進んでからも女性とはあまり縁の無い生活を送っていた勇真にとって、その出会いは衝撃的以外の何物でもなかった。
『こんな女性<ひと>がこの世にいたのか――!?』
まさに彼にとって理想の女性が目の前に現れたに等しかったのだ。思わず彼女の微笑みに見惚れそうになったが、慌てて勇真はメニューを受け取った。
「あ……ありがとうございます……」
自分でも顔が赤くなるのを感じる。この時ばかりは勇真は席が明るい窓際ではなく薄暗いカウンターであった事を感謝した。そんな勇真の心の内を知ってか知らずか、意外にも彼女の方から話し掛けてきた。
「――お客様は、このあたりの方ではないですよね?」
「ええ、そうですけど……。どうして分かったんですか?」
勇真は気持ちを落ち着けながらゆっくりと答える。
「この店――あっ、ここは私のお父さんのお店なんですけど、お客さんはほとんど商店街からとか、近所のお得意様ばかりなんです。だからお客さんの顔は大体覚えていて……。ですから初めてのお客さんは雰囲気とかですぐ分かるんです。」
「そうなんだ……」
同じ年頃であるということで親近感を感じ始めたのか、彼女の喋り方や表情はいくらか柔らかくなっている。勇真はメニューと彼女の顔を交互に見ながら頷いた。結局、その時はこの店のお勧めと言うランチメニューを注文した。そして、勇真が食べ終わるころになるとさすがにお店の中もお客がまばらになってきている。
「ちょっといいかな?」
彼女がテーブルの上を拭くなど特に忙しくないような様子を見計らって今度は勇真から声をかけた。
「えっと……」
話し掛けて始めて自分は彼女に名前も聞いていない事に気付いた。思わず言葉が口から出てこなくなる。
「真奈美です、私の名前……。名字は店の看板にあるのと同じ、倉田です。」
「倉田……真奈美さん……」
気を利かせてくれたのか彼女の方から名乗ってくれたその名前を勇真は小さく呟いた。
「真奈美さんはいつもお店を手伝っているんですか?」
「いえ、私は普段大学に通っていて、今年で3年生になります。大学の無い日やお休みの日だけこうして手伝っているんです。週末はお手伝いがお母さんだけじゃお店が忙しいですから……」
彼女――真奈美は微笑みながら言った。ウィンドウから差し込む西に傾き掛けた陽が彼女の表情をより温かく見せる。
「大変ですね……。それじゃ、ご馳走様でした。」
石原は彼女と一緒にいられる時間に後ろ髪を引かれる思いになりながらも伝票を持って立ち上がる。それに合わせるようにして真奈美も小走りにレジへと向かった。勇真が財布から千円札を取り出し、お釣を受け取ろうとすると、
「……そう言えば私、お客様の名前を伺っていませんでしたね?」
「えっ?」
そう聞いてきた真奈美が少し俯き加減で彼を見詰めていたのに勇真は気が付かなかった。自分は彼女の名前を訊ねたのに自分は名乗るのを忘れていたと、それくらいにしかその時は考えなかったのだ。
「すいませんでした。石原……勇真です」
「勇真さん……。もし良かったらまた来て下さいね。娘の私が誉めるのも変かもしれませんけど、お父さんは若い頃外国で修業して、東京のホテルのレストランでも働いていたから腕は確かです。お勧めは今日のランチばかりじゃありませんよ。」
「そうだな、どの料理も凄く美味しそうだった。全部のメニューを食べるまで通わせてもらおうかな。」
勇真は笑いながらそう言った。しかし、それは社交辞令などではなく店の料理を食べた正直な感想でもあり、これから先も彼女に会いに来たいという本心の現われでもあった。
「ありがとうございます。お待ちしていますね。」
心の底から嬉しそうに言った真奈美の笑顔は勇真の心の中に深く焼き付いた。
その後、勇真は週末になると彼女のいるこの店に通うようになった。自分が自衛官である事を真奈美に告げると彼女は心の底から感心したようだった。そして、自分が小さな頃からTVや映画の防衛隊に憧れていた事、尊敬する父親の背中を追って防衛大、自衛隊に進んだ事に真剣に耳を傾けてくれた。こんな事を女性に話すのも勇真にとって初めての経験だった。二人で店以外の場所に出かける機会も自然と増え、お互いに感じていた興味が好意に、そして特別な感情と変わるまで半年と時間はかからなかった。勇真が真奈美に思いを伝えると、彼女もそれを受け入れてくれた。そして、真奈美が大学を卒業するのを待って結婚する約束をしたのは初めて出会ってから丸一年後のことだった――
「私が優子と結婚したのも今の勇真と同じ歳だったから……。子供はいつのまにか大人になっていくものだ。」
「父さん……いつまでも子供扱いしないで欲しいな!」
話をしながら、石原と勇真は同時に紅茶のカップに手を伸ばした。
「しかし、中学高校と女の子に縁の無かった勇真がこんな素晴らしいお嬢さんを見つけるなんて、夢にも思わなかったよ。」
「それを言うなら父さんも、母さん以外の女の人と付き合っていたことがあるなんて話は聞いた事無いよ?」
「まあまあ、勇真はそういうところも父さんに似ているのよ。」
「む……」
「それは……まぁ……」
優子が言うと、二人とも言葉が返せなかった。それを聞いて真奈美も口元を隠しながら笑っている。
「それはそうと真奈美さん?」
「はい?」
優子が視線を真奈美に向けた。
「ご実家はお店をなさっているそうですけど、真奈美さんが結婚すると後を継ぐ人がいなくなってしまうんじゃないですか?」
「いえ、大丈夫です。」
真奈美は少し俯き加減で、ゆっくりと言う。
「もともとお店はお父さんが好きでやっている店ですし、お母さんも二人で体が動く限り続けられれば良いと言っています。それに……お手伝いで料理を覚えた程度の私が父の味に追いつけるわけ無いですし。」
「へぇ……お父さんの料理はそんなに美味しいの……。一度、挨拶も兼ねて食べに行かなきゃなりませんね、お父さん?」
「ああ、そうだな。」
「はい!是非来て下さい!!」
3人の会話の中で、勇真一人が心の中で首を傾げていた。確かに真奈美の父親の料理は美味しい。しかし、真奈美の手料理がそれに劣るとは思えなかったのだ。もちろん、本職のシェフである真奈美の父親と料理の味を比べる事自体があまり意味が無い事なのだが、やはり愛情が最高の調味料だからであろう。
「もう一つ、あなたに確かめておきたい事があります――」
先程と打って変わって、優子の表情が厳しくなった。
「私は父親が自衛官と言う家庭で育ちました。母がそうであったように私は、夫が昔のように戦場に送られて危険に晒されることは少なくなったかもしれませんけど、彼に万が一のことがあってもおかしくないという気持ちで今まで支えてきました。そして……あなたの最愛の人である私の息子も自衛隊という場に身を置いています。あなたは勇真の身に何かがあった時、その時自分の感情に耐えられますか?」
「――」
優子の言葉を聞いて、真奈美の他、石原も勇真も言葉が無かった。特に、勇真は自分の母親が常にこんな覚悟を持って自分に、そして父親に接していた事を初めて知り、驚きを隠せなかった。それはまさに父子3代に渡って自衛隊一家に生きてきた優子だから言えた言葉だった。
「――私は……」
真奈美は言葉に詰まりながらもまるで自分の気持ちを確かめるようにゆっくりと口を開き始めた。
「私は……勇真さんがいなくなるなんてことは考えられません。いつも……いつまでも……勇真さんが無事に帰って来ることを祈ります。お義母さんのように強くはなれないかもしれませんけど……、私に出来るのはこれくらいです……」
先生の前で宿題の答え合わせをする小学生のように、真奈美は優子を不安げに見詰めた。真奈美の答えを聞いた優子は既に穏やかな笑みを浮かべていた。
「……それがあなたの愛し方ならば、それでいいんですよ。真奈美さん……息子をよろしく頼みます……」
優子は真奈美に向かって深々と頭を下げた。
「いえっ、私はそんな……!?」
顔を真っ赤にしながら、真奈美はその前で手をぶんぶんと振っている。
「それじゃ、ご飯にしましょうか。勇真の好きなものばかり作ったので、真奈美さんも覚えて行って下さいね。」
「私もお手伝いします!」
そう言って、優子と真奈美の二人は立ち上がるとキッチンへと消えていく。リビングには石原と勇真の男二人が残された。僅かな沈黙が流れたその時、母親と婚約者の姿を目で追っていた勇真が、目の前の父親にだけ聞こえるような声で言った。
「父さん、母さん……本当にありがとう――」
優子の手料理による晩餐も終わり、時間が宵の口を迎えた頃、石原はまだリビングのソファーに身を預けていた。すると、廊下から片付けを終えたばかりなのか、エプロン姿の優子が現れた。
「二人はどうした?」
テレビを見ていた石原はそちらに向けて顔を上げて言った。
「勇真は久し振りに家に帰って来たって部屋の整理をしていますよ。真奈美さんはお風呂に入っています。……あなた、少し飲みましょうか?」
「ああ、ウィスキーがいいな。」
先程まで食事と一緒に飲んでいたビールの酔いが覚め始め、体が強いアルコールを欲していた。
「分かりました。」
優子が戸棚から国産のウィスキーを取り出そうとした時、
「いや、それよりもバランタインにしよう。お義父さんから貰った17年物があっただろう?」
「そうですね、折角の記念日なんですから奮発しましょうか。私も頂くわ。」
石原の提案に優子も素直に頷いた。今まで戸棚のコレクションとしてディスプレイを飾っていたスコッチウィスキー“バランタイン”の封を切ると二つのグラスに、一つには底から指2本分ほど、一つには一本分ほどの高さまで琥珀色の液体を注ぎ込む。瓶の口で、密度の高い液体と空気が触れ合う特有の音が奏でられる。
「……いいお嬢さんですね……」
舐めるようにグラスに口を付けながら、優子は感慨深げに言った。
「そうだな……。君の若い頃に似ているようで似ていない。優しそうな、おおらかなところは似ているかもしれないが、表面上は強がっていても本当の意味での芯の強さは君に敵わないかもしれない。」
一口、石原はバランタインのストレートを口の中に流し込んだ。熟成された年代物特有の芳香と生のアルコールが同時に鼻孔を刺激する。
「でも、私達とは育った時代が違うんですもの。さっきは気持ちが高ぶってあんなことを言ってしまいましたけど、真奈美さんの年代で彼女ほどしっかりした考えの持ち主はなかなかいませんよ。」
優子は真奈美を庇うように言った。その時の顔は石原が久しく見ていなかった彼女の“母親”としての顔だった。だが石原が言葉を発する前に、優子はグラスに残っていたウィスキーを一気に煽る。頬が赤く染まり、眼が少々座った表情で彼女は石原に向け口を開いた。
「――まだ勇真にあのことを伝えないつもりですか?お義父さんがなぜ亡くならねばならなかったのか、あなたがどうして自衛隊に入る決心をしたのか……。あなたもさっき言ったじゃないですか?勇真はもう子供じゃないって……。私はこの事だけは直接、あなたの口から伝えて欲しいんですよ……」
酒の影響もあったのか、この時の優子は目を潤ませながらも少々声を荒げていた。
「――」
石原は優子の問いには答えなかった。無言のままウィスキーを啜ると、何事か考え込む様子で視線を宙へと漂わせるのだった――