――8
翌日――4月22日、ハワイ東方沖
この日の空も抜けるように青く、海は穏やかだった。しかし本来ならコバルトブルーを更に深くしたような色合いを持ち、日の光を白く照り返す海面はオイルの鈍い輝きに覆われ、所々に焼け焦げた破片やぼろ切れがゆっくりと波に任せて漂っている。
事件発生から丸3日過ぎた頃、現場海域にはアメリカ海軍の駆逐艦やフリゲート艦、潜水救助艇や深海探査艇の母船に加えて沿岸警備隊の巡視船、総勢十数隻がヘリコプターも使って大掛かりな捜索作業を行っていた。そんな中に、海上自衛隊所属の潜水艦救難艦『あづち』の姿があった。『あづち』は設備の老朽化が目立ち始めた『ちよだ』に代わる新鋭艦である。
昨日、小林総理に招集された臨時の安全保障会議の決定に基づいて、外務省と防衛庁からアメリカ海軍に向けて『あづち』による捜索支援の申し出がされた。事態の深刻さゆえ、情報漏洩を恐れて自衛隊に対しても態度を硬化させると思われていたアメリカ海軍だったが、関係者の予想とは裏腹に要請は受け入れられた。捜索しなくてはいけない範囲が彼等の想像以上に広く、パールハーバーに所属する艦船だけでは対応しきれなかったのだ。しかし海自による独自の活動は許されず、アメリカ海軍の指揮下に入らなければならなかった。
『あづち』の艦橋から甲板へと伸びる階段の上に二人の人影があった。一人は制帽を被った中年の男、この艦の長である吉村二佐。もう一人は制帽ではなく、ヘッドセットに付いたマイクに指示を送っている副長、安西一尉だ。彼等の位置から見渡せるデッキでは無人潜水艇『わだつみ』がクレーンで持ち上げられ、今まさに海面に降ろされようとしていた。『わだつみ』は遠隔操作により行動範囲の広さや機動性能に優れ、海中の情報収集をする探査艇をして高い能力を持つ。『わだつみ』はその船体の半分ほどを水中に沈めるとクレーンによる戒めを解かれ、電気モーターの唸りを上げながら薄らとオイルの広がる海へと消えていった。
「艦長、『わだつみ』潜水開始します。モーター、バラスト、ともに問題無し。」
「了解。ご苦労だった。」
緊張の強いられる段階を終え、副長の顔に安堵の色が見えるのを吉村は感じた。彼等の技量を以ってすれば今日のように穏やかな海なら失敗しろと言う方が難しい。しかし万が一にも『わだつみ』を海中へ投入するのに失敗すれば『わだつみ』はおろか母船である『あづち』も無事では済まない。彼は部下達の細心な仕事振りに満足した。次に気を付けるべきは、『わだつみ』を海中から引き上げる時だ。
「しかし艦長、まさかこんな形で我々が出動するとは夢にも思いませんでした……」
吉村がそんなことを考えていた時、安西が声をかけてきた。
「世界最強の艦隊、アメリカ第3艦隊がこの海の底に沈んでいるんですからね……」
安西はそう言うと視線を水平線へと向けた。海上に点在するアメリカ海軍や湾岸警備隊の艦船、上空を舞うヘリコプター、哨戒機。普段より船の数が多いことを除けばそれは平時の捜索訓練、救助訓練の様にも見える。しかし海面をベールのように被う油の皮膜と時折艦舷に流れ着く浮遊物が、これが訓練ではないことを如実に示していた。
「……一人でも多く、救助できれば良いのですが……」
「そうだな……」
安西の言葉に吉村は曖昧に頷く。彼は直感的にこの事故は絶望的な結果を迎えることが分かっていた。少なくともこの海上で救命ボートの類は未だ発見されていない。と、なると艦は乗員が避難出来る充分な時間の無いまま沈んでしまったことが容易に想像できる。着の身着のまま海に投げ出された乗員が、本来泳ぎに向かない衣服を身に着けたままどれだけの時間海中で耐えられるだろうか?救命胴衣を着けていれば希望はまだ持てるが、飢え、喉の渇き、夜の寒さ、日中の暑さ、そして鮫……。何も持たない者が生き延びるには海という環境はあまりに苛酷だ。現に、数十人が遺体で収容されたということを彼等は聞かされている。
「さて、ここは暑い……。中に戻って『わだつみ』のモニターを見るとしよう。」
「分かりました。」
吉村が制帽を被り直しながらハッチを開けると、艦内の空調の効いた冷気が彼等の汗ばんだ肌を舐めた。その時、アメリカ海軍フリゲート艦の後部甲板から一機のヘリが猛スピードで飛び立って行くのに彼等は気付かなかった。そして彼等はまだ知らなかった。そのヘリに救助活動が始まって初めての、そして最重要人物の生存者が乗っていた事に――
4月24日――
男はゆっくりと目を開いた。視界に清潔な白い天井が広がり、消毒液の匂いが微かに鼻につく。それは、彼の慣れ親しんだ空母『カールビンソン』の特徴ある明るいグレーで塗り潰された天井でもなく、鉄とオイルの入り交じった匂いでもなった。
「(ここはいったい何処なんだ……?)」
額に包帯を巻き、頬に大きな番創膏を貼ったこの男――『カールビンソン』艦長、アレックス・D・ルービンは自分の体を起こそうとした。しかし、いくら起き上がろうとしても下半身に力が入らない。力が入らないと言うよりも、もともと下半身など存在していないような、そんな錯覚を覚える。
「――無理をするな、アレックス……」
すると、自分の傍らからしゃがれているが張りのある声が聞こえてきた。その声の主を知っていたアレックスは顔だけをそちらに向けると、驚きの余り目を丸くした。
「父さん!?」
そう、ベッドの傍らで寄り添うように座っていたのはアレックスの父、元アメリカ海軍太平洋艦隊副司令官・アラン・F・ルービンだった。
「父さんがどうして……ここは一体!?」
アレックスは混乱した。雰囲気からここが『カールビンソン』の内部では無い事は分かるが、自分がどうしてここにいるのか全く記憶が無かったからだ。
「……君は丸2日間眠り続けていたのだよ……」
もう一人別の、そして彼もまたアレックスの知っている男の声がした。霞む目でアレックスはアランの背後に立っている人物に焦点を合わせる。その男はアレックスの直属の上官、太平洋艦隊司令・ノートンだ。
「ハワイ沖で君が救助されたと言う知らせを聞いて飛んできた。それを父上に伝えたら是非会いたいと言うのでな……」
「そうだったんですか……司令……。じゃあ、ここは?」
アレックスは窓の外の景色を見ようとしたが、ベッドの位置からは外をうかがう事が出来ない。
「パールハーバーの海軍病院だ。君は救助されてすぐ、ヘリでここまで運ばれてきた。」
「――それでは、私の艦は?クルーは!?」
もう一度アレックスは体を起こそうとするが、はやり腰から下が動かない。
「動くな、アレックス!『カールビンソン』と護衛の巡洋艦、駆逐艦は現在、湾岸警備隊や日本の自衛隊の協力を得て捜索中だ。残念ながら、まだ君以外に生存者は発見されていない……。それに君の体は――」
「私の体が何です!?」
アレックスは何とか、自分のどうしようもない感情を表そうと声を荒げた。
「――君は背骨が腰の辺りで複雑骨折を起こしている。砕けた脊椎が神経を切断してしまった為、命は何とか取り留めたが……半身不随だそうだ……」
ノートンは感情を押し殺しながら、淡々と告げた。アランもやり切れない表情を隠せずかぶりを振っている。部下が犠牲になった事と自分の体の自由が失われた二つのショックがアレックスから表情を奪った。
「今回の事は非常に残念でならないよ……。優秀な乗組員と優秀な艦、二つを同時に失ってしまったのだからな。しかし、いつまでも悲しんでいられないのも事実だ。何故、一体何が『カールビンソン』を沈めたのか突き止める為に私はここまで来た。」
そう言うと、ノートンは視線をアランに向けた。
「お父上には申し訳ありませんが、ここからの話はご遠慮いただけますか……」
ノートンの言葉にアランは頷いた。
「では司令官、息子の事をくれぐれもよろしく頼みます。また来る、息子よ……」
如何に元海軍の重鎮と言っても、退役してしまえば重要な軍事機密に触れられる立場ではない。彼にはこれからアレックスの口から語られるであろう事の重要性が分かっていた。二人はアランの後ろ姿がドアの向こうに消えるまで見送ると、再び向かい合った。
「アレックス……辛い事は分かっている。しかし、何としてでも今回の事件の全容を明らかにせよと大統領からも厳命が下っている。その為には、君が何を見たのか、証言が必要だ――!」
ノートンは険しい表情でアレックスを見詰める。しかし、アレックスは彼と視線を合わせようとせず、焦点の定まらないままだ。
「(あの時……俺は何を見たんだ――?)」
――この時、アレックスは信じられないものを目の当たりにしていた。『カールビンソン』の艦橋と同じ高さまで聳え立つ巨大な黒い影。そしてブリッジの窓越しに、大人で一抱えはありそうな大きさの巨大な眼球がこちらを見詰めていたのだ。濁った白目には細い血管が網の目のように走り、濃緑と茶色を混ぜ合わせたような色をした瞳孔が盛んに収縮しながら、まるでこちらに焦点を合わせようとしているようだ。
クルー全員がその光景に息を呑み、顔面蒼白となる中でアレックスだけが指揮官としてのプライドで正気を保っていた。すると、その巨大な目玉と自分の視線が合ったような気がした。
「お前は一体何なんだ!!?」
アレックスが叫ぶと、まるでそれに応えるかのように巨大な影が吼えた。
ぐおおおおぉぉぉ……!!!
一瞬、ブリッジの窓ガラスが振動したかと思うと同時に全てが砕け散った。なおも叫び続ける獣の声が、遮るものの無くなったブリッジの内部に容赦なく流れ込んでくる。苦痛の余り耳を押さえてうずくまるクルー達の中で、聴覚が麻痺するのを感じながらもアレックスは立ち尽くしていた。だが次の瞬間、強い衝撃がブリッジを襲った。同時に、金属が引き裂かれる音が響き渡る。ミサイルの1発や2発ではびくともしない空母の装甲が破壊される音を聞くなど、アレックスにとっても初めての経験だ。
すると影が突然窓の外から姿を消し、大きな水飛沫が上がった。影の正体が水中に潜ったのだ。だが、乗組員を安堵させる暇無く、次の悲劇が『カールビンソン』を襲った。窓の外で何か稲妻のような光が煌くと次の瞬間、凄まじい爆発が『カールビンソン』の船底付近で起こる。その衝撃は排水量9万トンを超える巨艦を揺るがせるに充分だった。
「各部に損傷を報告させろ!!!」
アレックスは叫ぶが、副長は艦長に行うべき報告をする事は出来なかった。
「駄目です!!機関部より応答無し!!!」
「何だと!?」
ガツン!!!
再び襲ってきた衝撃にアレックスの言葉は中断させられた。そして、その衝撃は彼の予想を上回って大きかった。艦が大きく右に傾き、アレックスはバランスを失う。体が床を転がり、コントロールパネルにぶつかったかと思うと、彼は自分が体重を失う妙な感覚を覚えた。目を開くと、ブリッジの天井ではなく夜空が見える。アレックスの体は、砕け散った窓から外に投げ出されていたのだ。自分の体が落ちていく間、全てはスローモーションのように見えた。遠ざかっていく艦橋、艦の側面から吹き出す炎と黒煙、そして――巨大な影。恐竜のような顎を持った頭、鋭く突き出た背鰭、そして2本の腕と長い尾を持っている。それが、彼の見た影の正体だった。海面に叩き付けられた時、アレックスは痛みを感じなかったが、そこで彼の記憶は途切れていた――
「……」
「――何か思い出したか!?」
アレックスが僅かに口元を動かしたのをノートンは見逃さなかった。
「あれは……」
「あれは……何だ?」
まるで催眠術に掛かったかのように、アレックスが口を開く。
「あれは……Monster……」
「モンスター?」
ノートンには彼が何を言っているのか分からなかった。しかし、この時のアレックスの言葉が意味していた物の正体をノートンも彼自身も分かろう筈が無かった――