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4月21日――東京、首相官邸

 第3艦隊失踪の一報はその日のうちにホットラインで日本政府に知らされ、関係者を驚愕させた。内閣総理大臣・小林武明は国会での行事を急遽キャンセルし、ここ首相官邸にトンボ返りのようにして戻ってこなくてはならなかった。小林が官邸玄関にぴたりと着けられた公用車から降り、入り口に足を踏み入れると、待ち構えていた報道陣が総理を呼び止めて取材する、いわゆる“ぶら下がり”の為に殺到する。

「総理!国会での予定をキャンセルし、官邸に戻られた理由は!?」

 総理番の新聞記者達が小林に質問をぶつけるが、彼は質問を遮るようにしてSPに守られながら無言でその場を後にした。それに前後して、官邸のゲートを黒塗りの高級車が次々とくぐって行く。車から降りた関係者は一様に深刻な面持ちで、嵐のように焚かれるフラッシュ、向けられるマイクやテープレコーダーの中を掻き分けるように官邸の奥へと消えた。

 官邸の一室、二人の衛士が脇に立ち、中からは針が落ちるほどの音さえ聞こえない重厚な扉の向こうでは臨時の内閣安全保障会議が開かれ、国家の安全保障に関わる官庁の責任者達が今回の第3艦隊失踪事件を受けて、情報交換と今後の日本の取るべき対策を協議するために集まっていた。

上座に座るのは、白いものが半分ほど混じった豊かな頭髪を七三分けにして、シルバーフレームの眼鏡をかけた壮年の入り口といった男――日本国首相、内閣総理大臣・小林武明。円卓を囲んでいるメンバーは、内閣官房長官と3名の内閣官房副長官、内閣危機管理監、内閣情報調査室長、外務事務次官、防衛政務次官。議題の特殊性から、関係省庁からその道の専門家である外務省情報調査局長、防衛庁情報局長がアドバイザーとして参加していた。

 

「――アメリカ大陸沿岸の東太平洋、極東に面する西太平洋そしてインド洋とアメリカ海軍の空母戦闘群はそれぞれがパズルのピースのように各地域をカバーしています。今回、『カールビンソン』を中心とした機動部隊が突如消息を絶った――最新の情報に寄れば沈没ということですが――と言うことになると東太平洋、アメリカ大陸の西側の海岸線を守る部隊が事実上打撃力を失う事が予測されます。」

 照明が落とされた部屋の中で、防衛庁情報局・大西局長がスクリーンに投影された地図をポインターで指しながら喋っていた。政策における最終決定権を持っているのは総理を頂点とする閣僚達であるが、法案や予算の制作、内外からの情報収集と分析など事実上日本の国を動かしているのは総理を除いたここにいる彼等のような官僚達である。総理や閣僚の顔触れが変わっても経済や社会が滞りなく動いている事がその何よりの証拠であり、そのことに功罪はあるが日本が官僚国家と言われている由縁であった。

 しかし、官僚達にも今回の事件に際し、アメリカ側から充分な情報提供があったわけではなかった。空母機動部隊が行方不明、沈没の可能性ありという速報はホットラインを通じて行われたが、原因については依然不明。現場で巨大な生物のような影を見た、海中から熱線が戦闘機に向けて放たれた、などというアメリカ政府でも確証の持てない情報については当然の事ながらこの時点では秘匿されていた。

「すでに現在、横須賀に停泊中であった『キティホーク』が予定を繰り上げてパールハーバーに向けて出港し、インド洋の『ジョン・C・ステニス』も東進しています。大西洋艦隊の『セオドア・ルーズベルト』にも喜望峰からインド洋に向け移動中という情報もあり、これらのことからアメリカ軍は『カールビンソン』が事実上失った事を認め、空母戦闘群を太平洋よりにシフトし直している事は明らかです。」

「確かに東側の脅威が薄れ、湾岸戦争後は中東におけるイラクの影響力が弱まっている現在、アメリカ軍が太平洋……もっと詳しく言えば中国や北朝鮮の動向に敏感になっている事は明らかです。それだけに太平洋艦隊の空母を失った事を重大視しているのだと思います。」

 外務省情報調査局長・荻原が大西の解説に捕捉する。

「つまり、この事件によって日本も現状の防衛体勢の見直しが必要と考えられる訳ですか?」

 総理の女房役と言われる内閣官房長官・松原が説明を終えた大西、荻原の両氏を見詰めながら言った。

「よろしいですか?」

 防衛政務次官である木山が手を挙げた。それを見て総理が静かに頷くと、彼が続けた。

「大西君と荻原局長のお話を伺った限りでは、少なくとも警戒だけは行う必要があるでしょう。」

 そう言った木山にその場の視線が集中する。

「ご存知のように北朝鮮は1998年に弾道ミサイル『テポドン』の実験に成功しており、この『テポドン』は日本全土を射程に収めるだけの射程距離を持っています。また現在、アメリカ大陸のアラスカまでを射程圏内に入れられる『テポドン2号』も開発中であると言う情報もあり、朝鮮半島情勢は未だ予断を許さない状況が続いています。」

 2000年から北朝鮮は対外的には融和に向けた政策をとってきた。2000年6月――北朝鮮の最高実力者、金正日(キム・ジョンイル)総書記と韓国の金大中(キム・デジュン)大統領の歴史的対話、2001年1月――非公式で中国を訪問した金総書記が首都北京で江沢民主席と会談するなど、北朝鮮が危険な国家ではないと世界世論に訴えようとした。世界的にも北朝鮮を経済制裁で危機的状況に追い詰め自滅を促すよりも、話し合いにより食料支援や経済援助と引き換えに核開発の凍結やミサイル技術の輸入禁止など譲歩を引き出して行くいわゆる『太陽政策』で北朝鮮が潜在的に持つ危険性を薄めて行く方向に対応がシフトしていた。

 しかし、北朝鮮の疲弊は関係諸国の予想を遥かに上回って進んでいたのだ。豪雨や干ばつの度に繰り返される慢性的な食糧不足、安定した外貨獲得手段を持たない経済、軍部の影響力が未だに根強く残る政治構造。表向きに平穏を保っているように見えてもいつ爆弾が爆発するか分からない状況は続いていた。爆弾とは言わずもがな、北朝鮮が軍事境界線である北緯38度線を越え、韓国の首都ソウルに南進する事態である。

 それに対し、極東――アジア地域において最大の抑止力を発揮しているものは3つある。在韓米軍の約3万人、在日米軍の約4万人、そして6万人を超える極東の番人アメリカ第7艦隊だ。それぞれは個々の戦力としても世界のトップレベルの装備と錬度にあるが、朝鮮半島有事があった場合は前線部隊としての在韓米軍、支援部隊としての在日米軍、機動部隊としての太平洋艦隊と機能してこそ最大の効力を発揮するのであり、それぞれが健在であるからこそ北朝鮮の暴発を抑え込めるのだと言える。だが現実問題として太平洋艦隊の背後を固める第3艦隊、『カールビンソン』を中心とした部隊が行方不明、事実上沈没が確認されたとなったことはその抑止力に綻びが見えたという事になる。安全保障を米軍に任せきりであった日本が少なからず神経質になる事は当然の事であった。

「ですから我々としましても必要な対応、あくまで北朝鮮を刺激しない程度に警戒をする必要はあるんじゃないでしょうか?」

「諸君の意見はよく分かりました……」

 木山の言葉が終わるのを待っていたかのように、今まで沈黙を守っていた小林総理が口を開いた。

「今回の事件、そして今後予想される事態に対し我々も何らかの対応をすべきであるならば、どんなことが必要かね?今ここで言える事があれば言ってもらいたい。」

 小林は静かにそう言うと、机を囲む全員を見渡した。この部屋に集まっている人間は与党の同じ派閥に属している官房長官を始めとして、小林が前の内閣で外務大臣を経験していた関係で彼との関係が深い人間が多い。しかし彼は官僚に頼り切るタイプの政治家ではなく、こうして意見を求める事で自分が相手の能力を引き出すという事に長けており、それが彼を首相にまで押し上げたリーダーシップの取り方だ。

 小林は与党・自由民政党の“小林派”と呼ばれる派閥の領袖である。“小林派”は与党の中でも総理経験者を何人も輩出してきた名門の流れを汲むが、現在では党内第3派閥ということで政権基盤は必ずしも強いとは言えない。しかし、この年代の政治家の中では誠実でクリーンなイメージが強く、古くは外務官僚として培ってきた実務能力は政権の中で高く評価されており、第3派閥から総理を出している事に第一、第二派閥の中にはいい顔をしない者もいるが、彼の官僚使いの上手さや若手議員からの人気を考えると正面からそうした不満は言いにくいというのが現状だった。

「朝鮮半島有事の際、我々が最も警戒しなければならないのは国内で突発的に起こる事が予想されるゲリラやテロの類、そして弾道ミサイルです。北朝鮮のミサイルにはアメリカのものほど正確な誘導装置が付けられていないと思われますが、もしミサイルの弾頭に毒ガスや細菌兵器といったものが搭載されていた場合、都市部に落とされた時の混乱や被害は想像が付きません……」

 大西が顔をしかめながら言った。毒ガスに代表される化学兵器、毒素を持った細菌を利用した生物兵器は『貧者の核兵器』とも言われている。核兵器に比べて技術的にもコスト的にも生産が容易なことに加え、使用された際には相手に肉体的も心理的にも大きな影響を与える事が出来るのだ。

「しかし、今は日本版TMDが完成しつつあるのではないですか?海自自慢の新型護衛艦などはその為のものでしょう?」

 自信無さげに言った大西に噛み付いたのは外務事務次官の神山だ。やまと型護衛艦の建造に際して装備から総トン数、命名に至るまで周辺諸国からのありとあらゆる声を考慮しなければならず、外務事務次官の彼にしてみれば苦労の連続だった記憶の方が強かった。

「――神山次官のおっしゃる事は分かりますが……」

 今度は再び木山が口を開いた。

「日本版TMDはただ装備を整えただけで完成するものではありません。その装備にしても当初の計画では、やまと型護衛艦『むさし』の就航が来月ですし、空自のパトリオット迎撃ミサイルをより高々度で撃墜できる『PAC−3』への移行することも、来年度の予算の計上を待たなければなりません。それに加えて、装備が整った後も、システムを≪JICDOS≫に組み込み、稼動させるまでにはソフト面でクリアしなければならないハードルが数え切れないほどあります。」

 木山は官僚らしく、まるでそれが他人事であるかのように言った。彼の言う≪JICDOS≫とは、2004年度の次期防より計画されている、包括的な防衛行動を目的とする統合情報システム、『Joint Informated Command and Defence Operation System』の通称だ。海上は2隻就航する予定のやまと型護衛旗艦のアドバンスド−イージスシステムでレーダー網とソナー網を張り巡らし、空自が管轄する固定レーダや早期警戒機、パトリオットミサイルと連携して上空から飛来する弾道ミサイルに対して万全の防御を敷く。また指揮形態も、従来の空自が府中の防空総隊司令部、海自が横須賀の護衛艦隊司令部とセクションが分かれていた事を憂慮し、全ての指揮を市ヶ谷の防衛庁中央指揮所に集約する事になったのが画期的な点だ。

 しかし日本が現状で許される最大限の規模で計画され、最先端の技術が投入されているこの計画も遅れが目立っていた。その理由の第一は陸・海・空各自衛隊のイニシアチブ争いである。今まで、個々に指揮権を有していたそれぞれの自衛隊が、最終的な指揮権の所在を巡って面子をかけることは想像に難くなく、最終的にはそれぞれの指揮権を独立させつつ情報の完全な集約化・共有化を目指す事で決着が付いた。第二は官僚からの圧力だった。官僚が求めてきたのはシステムの何処にシビリアンコントロールを組み込むかと言うことだ。文民である官僚は実践部隊である自衛隊が治安出動時や防衛出動時に独断専行を行う事態に常に神経を尖らせており、現在でも自衛隊は内閣総理大臣の決定と防衛庁長官の命令が無ければ動く事が出来ない。そして軍拡への危機感を強める野党からの反発も計画遅れの原因の一つとなっていた。

「つまり……自衛隊は現時点で行動を起こす事は出来ないと?」

 松原が場に立ち込め始めた空気そのままの言葉を吐き出した。自衛隊の実情を知る彼等にとっては分かりきっていたことであるが、誰も総理の前ではその事を口にする事は出来なかった。皆、顔を上げる事無く机の上に視線を落としている。だが、プロフェッショナルとして自分の所属する組織の無能振りを認める事が出来なかった男が一人いた。防衛庁情報局長、大西だ。彼はこの場でこそグレーの背広を身に着け、紺のネクタイを締めて格好こそ官僚然としているが、防衛大学校を優秀な成績で卒業、陸上自衛隊幕僚監部調査部出身の、れっきとした一佐の階級を持つ自衛官だ。

「確かに現実問題として、現状では自衛隊の部隊を動かす事は難しいでしょう。今部隊を動かしてしまえば、周辺諸国に日本とアメリカは結託して何らかの軍事行動を行おうとしている印象を与えかねません。北朝鮮や中国はいまだ日本の事をアメリカの傀儡国家だと言って憚りませんからね……」

(安全保障に関してはその通りだがな……)

 心の中だけでそう付け加えると彼は話を続けた。

「しかし、自衛隊がすべき事は部隊行動だけではありません。部隊に指示を出す前には、事前兆候をいち早く察知する必要があるのです。つまり――」

 そう言った大西の言葉に、内閣情報調査室長・鹿取が真っ先に反応した。

「――情報本部が動くと言うわけですか?」

 その言葉に大西は頷く。鹿取の言った情報本部とは『防衛庁情報本部』のことだ。情報本部は統合幕僚会議直轄の、自衛隊における戦略情報組織であり、総務・計画・分析・画像・電波の各部署で構成されている。ここでは24時間体勢で極東全域をカバーするアンテナ網から得られる暗号通信や軍用電波に目を光らせており、2000年からはアメリカの偵察衛星から提供される衛星写真を解析する画像情報システムを運用し、有事の兆候を見逃さないように備えている。

「偵察用潜水艦の出港、兵力の軍事境界線への集中、弾道ミサイルへの液体燃料の注入など、北朝鮮が軍事行動を起こす時の兆候はすでにいくつものシミュレーションが行われております。北朝鮮と中国の電波を傍受している班の人員を増強し、情報分析の体制を強化することで事態に対応する準備を整えることは可能です。」

 大西は総理を真っ直ぐ見詰めると、それを聞く小林は言葉を小さく頷いた。

「……大西くんの言う通り、我々のすべきことはまずは情報を集めることだ。軽率に動いて周辺諸国を刺激することだけは避けねばならない……」

 この場で重要な決定を行うには彼等には情報が少なすぎ、アメリカからは第3艦隊の失踪が『事故』としか知らされておらず、その原因をもはや疑うようなことはしなかった。

「外務省はアメリカ政府との情報交換を密にするように。それと……木山次官?」

 小林が木山に顔を向けた。

「はい?」

「自衛隊がアメリカ軍の活動を支援する方法は何かないかね?何か方法があればその旨、外務省を通じて知らせる準備をさせよう。」

 それを聞いた木山が隣に座る大西に促すように顔を向けると、彼に代わって大西が答えた。

「――先日まで、護衛旗艦『やまと』がパールハーバーで行った第3艦隊との訓練に随伴した、海上自衛隊所属の潜水艦救助艦『あづち』が現地にまだ残っています。『あづち』には水深600mまで潜れるDSRV(潜水艦救助艇)と無人潜水艇を搭載可能で、もし『カールビンソン』以下が沈没したのならばハワイ沖の水深を考えれば充分捜索活動に参加できる装備を持っています。ただ……空母やイージス艦はアメリカにとって最大の軍事機密の一つです。情報の漏洩を恐れることと、彼等にも面子がありますからそう簡単には支援を受け入れるとは思えませんが……」

 大西の言っている事はもっともなことだった。日本とアメリカは極めて親密な関係にあり、日米安全保障条約によって強い同盟関係にある。加えて『日米間における防衛協力の指針』、いわゆる<ガイドライン>によって極東地域で有事が起きた際の日米間の協力関係はより具体的なものとなっていた。しかし、その実はアメリカがアジアにおいて軍事的覇権を維持する為の戦略であることを、この場にいる馬鹿ではない人間達はよく分かっていた。

「では、そのようにしてもらおうか。皆さんご苦労様、今日のところはこれくらいにしておきましょう。」

 小林がゆっくりと立ち上がったことが合図となって、この会議は終りを告げた。しかしこの時、抜群の外交感覚を持つ小林さえも、この事件が日米間に及ぼす事態を想像する事は難しかった。

「このことは明日の閣議にて内閣の皆さんに伝える。外務省からの情報によると、今夜中にアメリカのアンダーソン大統領が声明を発表するらしい。決定はそれからでも遅くはあるまい。それと……松原君。至急、比古さん、岩井さん、亀山さんにアポイントをとってくれたまえ。」

「分かりました。」

 総理の女房役である松原官房長官はそう言うと足早に会議室を出ていった。小林の言った3人はそれぞれ与党である自由民政党の幹事長、政調会長、総務会長、いわゆる三役である。いくら優秀な官僚でも最終的な決定まで行う立場には無く、彼等の役目はあくまで領袖である大臣に進言することだ。決定権を持つのはそれぞれの大臣であり、さらには重要な決定は与党のトップである三役のコンセンサス無くしては有り得ない。もっともこの会議に参加した面子は情報を分析し、提供することは出来ても決定を行える立場には無い。彼等は、先程自分達の進言した内容が大臣からの『命令』となってトップダウンしてくるのを待たねばならないのだ――

 

 

同日夕刻――東京

「今日の講義はここまで。」

 片山が時計を見ると授業は終了時間を3分オーバーしていたが、昨日の深夜の4時までまとめていた内容を滞りなく終えることが出来たのに彼は満足していた。学生達も超一流私大の慶能大学の中でもエリートである医学部で学んでいるだけあって、その程度で不満を漏らすようなことはなかった。しかし彼等も授業が終わると歳相応に隣同士で雑談を始めたり、携帯電話を取り出して友人と連絡を取り始めている。その時、片山が一組の学生達の会話を耳にしたのはまったくの偶然だった。

 

「今週の競馬、どうするよ?」

「ああ?そうだなぁ……先週の皐月賞で思いっきり外しちまったし、来週の天皇賞まで金が続かないかもしれないぜ……」

「天皇賞なんてガチガチの鉄板で、買ってもオッズがつかないぜ?今週のオークストライアルの方が、メンバーばらけていて面白いだろう。」

 大学のキャンバスではどこでも聞かれるようなたわいも無い雑談。学生は机の上に新聞を広げ始めた。新聞と言っても政治や芸能のゴシップ記事を中心に載せている、いわゆるタブロイド版と言われるような夕刊紙の類だ。彼が中面に載っている競馬の記事をめくると、何気なく資料の束を整えていた片山の目に一面の記事が飛び込んできた。それの記事に片山の視線は吸い込まれた。

『米原子力空母、ハワイ沖で沈没か!?』

 紙面の3分の2は仰々しいまでの極太ゴシック体の見出しと空母の写真で埋められ、記事自体は僅かしかない。詳しい内容までは読み取れなかったが、片山はその見出しに直感的に事件の匂いを感じていた。彼は思わず彼等の持つ新聞に飛びつきたい衝動に駆られたが、思い留まった。そして、足早に教室を後にすると講師の控え室に向かった。非常勤講師といっても大学から給料をもらっている身であり、課せられた仕事をこなさなければ勝手に帰宅することは出来ない。片山は仕事の途中であっても、新聞記事の見出しが頭から離れなかった。

 

 その日の講義と仕事を全て終えた片山はいつも通り、大学のある田町から品川まで、僅か一駅ではあるけれども山手線を使って帰宅の途に付いた。そして品川駅のキオスクを覗くと、店頭の籠<かご>には到着して間も無い夕刊各紙が筒状に丸められてうず高く積まれているのが見える。

「これ……全部下さい!」

 片山は一部ずつ、全ての種類の夕刊を抜き出すと、それを売り子の若い女性に差し出した。いつもなら絶え間無くやって来る客を捌く為に無表情に対応しているであろう彼女も、その時ばかりは彼に奇異な視線を送ったが、すぐに我に帰ると暗算で素早く値段をはじき出す。釣り銭と抱えるほどの新聞を受け取って、片山は駅を後にした。

 

 マンションに帰り着いた片山は買い込んだ新聞をリビングのテーブルの上に広げて記事を通読した。各紙とも扱いの大きさや見出しで、『アメリカ海軍の空母が失踪』『第3艦隊が消息を絶つ』などとニュアンスの違いこそあれ、同じ事件の内容を報じていた。記事に共通する概略はこうだ、

 日本の最新型護衛艦『やまと』との演習に臨む空母『カールビンソン』には多くのメディアが取材の為に乗船していた。そして、帰港の途に付いているはずの20日未明より、『カールビンソン』の取材クルーから一切の連絡が届かなくなったのだ。そんな中、好奇心旺盛なアメリカのメディアは海軍関係者や政府関係筋に取材攻勢をかけ始める。しかし関係者の口は彼等の想像以上に堅く、マスコミをはね付ける態度は彼等により一層事件性への確信を深まらせる効果しか上がらなかった。決定打となったのは翌日、アンダーソン大統領がミシガンへの遊説を急遽取り止め、ホワイトハウスに閣僚や軍幹部をはじめ安全保障に関する担当者を集めたと言うニュースが伝わったことだ。マスコミのパワーを知るアメリカ政府の対応は早く、午後一番には大統領が夜に重大発表を行うと言う内容のコメントが大統領報道官を通じて各マスコミに明らかになった。情報は衛星の電波に乗り世界中に――当然日本にも伝わった……

 

 記事を読んで、片山は背筋が寒くなるのを感じた。『空母』『巡洋艦』『太平洋艦隊』『事故』『沈没』……彼は特に軍事マニアというわけでは無かったけれども、こういった単語が彼の頭の中でぐるぐると回った。そして、その中の一つが脳裏にこびり付く――

『原子力』

 ニミッツ級空母である『カールビンソン』の動力は原子力である。横須賀を母港とする第7艦隊空母『キティホーク』は日本の非核三原則に配慮してか蒸気タービン通常動力であるが、この場合莫大な燃料タンクが艦のスペースを占拠してしまい、航続能力も補給をしない限り限られてしまう。原子力は動力部をコンパクトに出来、艦載機の収納スペースや乗員の居住性を向上させる意味で長期航海を強いられる空母にとっては効率の良い動力と言える。しかし、万が一の事故が起こってしまった場合は、乗員への危険性、周囲に与える影響も通常動力とは比べ物にならない。

 だが片山がこの単語に目が止まった理由は、新聞各紙が推測しているような原子力事故についての可能性を恐れたわけではない。数千、数万の艦船が航行する広大な太平洋で何故原子力空母を擁した艦隊がこのようにセンセーショナルな失踪をするに至ったのか、片山の頭の中では一つの結論が形作られようとしていた。

「これは……事故なんかじゃない――」

 

 

同日深夜――

 その日の夕方、そして夜のニュースはこの事件が大きく報じられた。CNNが速報したのに始まり、AP通信がアメリカ政府の公式見解として『カールビンソン』以下第3艦隊の主力艦が失踪、現場に到着した哨戒機の報告によれば沈没の可能性が高いことを発表したからだ。テレビでは軍事評論家、国際政治学者と言った人物達が現在アメリカ海軍の行っている行動の意味、今回の事件に関連して考えられる様々な事態――もちろん北朝鮮への対応や中国政策に与える影響も含めて――を深刻そうな表情でコメントしている。そして、深夜に行われるであろうアンダーソン大統領の演説が事態打開の重要な鍵になると盛んに繰り返していた。

 NHK、民放各局、BS、デジタル放送――片山は夕食を摂ることも忘れてテレビのニュース番組をザッピングしながら大統領の演説が始まるのを待った。とにかく情報が欲しい、原子力空母を沈めた物の正体が何なのか――彼の思考はその一点に支配されていた。

 

 深夜の12時を過ぎ、ニュースの時間帯を終えた民放各局は番組編成を深夜の娯楽番組へと移しつつあった。地上波ではNHKでさえ日本が直接被害を受けたわけではないと言う理由からか、画面上部に『アメリカ軍艦沈没関連のニュースは情報が入り次第お伝えします』とテロップを入れているだけだ。張り詰めていた糸が緩んだのか、片山は急に喉の渇きを覚えた。演説がまだ始まる気配が無いと見ると、彼はリビングから立ち上がるとキッチンへと向かった。冷蔵庫のドアを開けいつものミネラルウォーターを取り出そうとしたが、オレンジ色をした内部灯の明かりの中でエビスビールの500ml缶が金色の輝きを放っているのが見える。片山はミネラルウォーターに伸ばしかけた手でエビスの缶を掴むとブルタブを引き上げ、中身を一気に3分の1ほど喉に流し込んだ。水分を欲していた体に、良く冷えた麦酒が喉を通りながら染み込んでいくような錯覚を覚える。そして、胃の中に辿り着いた液体が大量に含んだ炭酸を一気に膨張させると独特の清涼感が体を包んだ。

「ふぅ……」

 心地よい脱力感を感じながら片山は中身の残った缶をつまむように持ち上げてリビングに戻り、ソファーの上に体を投げ出す。やや遅れて、アルコールが彼の体の隅々まで巡り始めると、リラックスした体とは裏腹に脳細胞は覚醒し、夕方から絶え間無く取り入れてきた事件に関する情報の一つ一つが浮かび上がってきた。その時――

『番組の途中ですが、アンダーソン大統領の記者会見が始まるようですのでお伝えします。ワシントンの大宮さん?』

 突然、NHKのチャンネルが歴史ドキュメンタリーの教養番組からシンプルなスタジオに変わった。画面の中でグレーのスーツを着込んだ中年男性のアナウンサーがカメラに目線を送ると次の瞬間、夕闇の迫ったホワイトハウスを背景にして、ポロシャツ姿の特派員がマイクを持って立つ姿が映し出される。

『間もなく、アンダーソン大統領から声明を発表されるようです!アメリカ海軍の第3艦隊が沈没、失踪すると言う前代未聞の事態に対し大統領の口からどんな言葉が出てくるのか?全世界から注目が集まります!』

 大宮と呼ばれた特派員が早口でまくし立てると、今度は画面がホワイトハウス内のプレスルームに変わる。すると、画面の左から一人の男が現れた。濃紺のスーツに深紅のネクタイを締めたブラウンの癖毛の中年男――アンダーソンは演台の前に立ち、数枚のペーパーを広げると正面のカメラに視線を向ける。

「――親愛なるアメリカ国民、そしてこの映像を見ている全世界の皆さんへ、今夜……私は残念なお知らせをしなくてはなりません……」

 アンダーソンは精一杯苦悩に満ちた表情をしていた。

「現地時間の昨日未明、アメリカの財産である、太平洋第3艦隊に所属する空母『カールビンソン』、巡洋艦『バンカーヒル』『プリンストン』、駆逐艦『ベンフォルド』、補給艦『ブリッジ』がパールハーバーからサンディエゴに帰港する途中のハワイ沖にて突如失踪、乗員の多くが行方不明となっています……」

(そんな事は分かっている……!原因は一体何なんだ!?)

 画面を食い入るように見ながら片山は心の中で一人語ちていた。だが、アンダーソンは表情を変えないまま続ける。

「その後、パールハーバーからスクランブルした哨戒機からの情報によると、現場海域には広い範囲に渡って艦船の残骸やオイルが広がっているとのことです。唯一、帰還出来た『カールビンソン』艦載機パイロットから、当時艦隊が巨大な浮遊物と遭遇していたという証言もあり、これによって『カールビンソン』以下が破損、沈没した可能性も出てきました。これは、我々にとって無視出来ない事態です!!」

 ここからアンダーソンの表情と口調が悲劇を嘆き、行方不明者とその家族を気遣う様子から力強い、説得力と威圧感を持った政治家のものへと変わる。しかし、浮遊物――大統領が言葉の中でそう表現したことを片山聞き逃さなかった。これはただの事故ではない。彼の脳裏に、写真でしか見たことの無い“奴”の姿がよぎる。

「アメリカ海軍は太平洋上の安全保障に重要な役割を果たしているものと自負し、その責任を果たす為に現在『カールビンソン』以下に代わる戦力の整備を急いでいます。しかし、それはあくまで太平洋の軍事的現状を維持する為のものであり、太平洋における軍備拡張に直接繋がるものでないことを関係諸国にここで約束しておく!」 

 国際政治が専門ではない片山の目にも、アンダーソンの言葉が極東――もっと細かく言えば中国や北朝鮮を悪戯に刺激しない為のものであるのが分かった。

「――既にパールハーバーからは部隊が多数出動しており現地時間の早朝には現場に到着し、空と海から捜索活動を開始する予定です。同時に、何故『カールビンソン』以下、アメリカの為に命を捧げてきた勇敢なる者達が海に沈まねばならなかったのか、今回の沈没事件の原因を徹底的に究明し、当時艦隊に接近していたと言う浮遊物の正体を総力を挙げて突き止められることを私は確信しています!!」

 そう言うアンダーソンの顔は興奮で紅潮し始めている。

「アメリカは……どんな困難な状況にも屈しない!もし、この事件に何らかの悪意が働いたとするならば、それは相応の見返りを受けることとなるでしょう……!」

 言葉を切ると同時に、アンダーソンの表情に冷静さが戻る。会見場の記者達はアンダーソンの迫力に一瞬静まりかえったが、一転して目の前の大統領の放った言葉の重大性を理解すると矢継ぎ早に質問を投げかけ始める。場が騒然となり、映像が再び東京のスタジオに戻ってくるとテレビ画面の向こうではアナウンサーとNHKの国際政治担当記者が今のアンダーソンの声明が意味するところを分析し始めている。しかし、片山はそんな常識的な議論など耳に入らず、人の目の届かぬ海の底で蠢く“奴”が静かに迫ってくるイメージを日本に帰ってきて5年目にして感じたのだった。


第一章―6

第一章―8

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