『第一章』
――5
4月21日――東京
品川駅前の再開発地区の一角に聳える高層マンション『Vタワー』、その一室に太陽の光がブラインドの隙間から薄っすらと射し込んでいる。すると、ベッドからTシャツ姿の男が身を起こして来た。身長は175cmほど、スリムな体格だが広い肩幅が彼の体を余分に逞しいものに見せている。長めに伸ばした前髪を掻き上げると、既に覚醒しているクールな眼差しが現れた。
この男――片山俊樹の朝は遅い。昼間よりも雑音の少ない夜中に頭が冴える性分のため、どうしても生活が夜型になってしまうのだ。この日も片山が目を覚ましたのは朝10時過ぎである。昨夜ベッドに入ったのが午前4時だったと記憶していたので、眠っていたのは6時間程ということになる。
片山はTシャツにトレーナーと言う姿のままベッドサイドに置いてあるスリッパを爪先に引っかけるとキッチンへと向かった。冷蔵庫を開けミネラルウォーターのPETボトルを取り出すと、それを持って部屋に戻ってくる。彼の部屋はどちらかと言えば生活感に欠ける雰囲気があった。男性の一人暮らしにしては小奇麗に整理され、壁一面に置かれた本棚には生物学や医学に関する専門書から『Nature』『Science』といった権威ある海外の論文集まで整然と並んでおり、デスクの上にはSONY『VAIO』のタワー型パソコンの最上級モデルが置かれている。そこには生活空間というよりも、どこか大学の研究室のような趣があった。
人が片山の経歴を聞けば、それは誰もが羨むものであろう。国立大学の最高学府の誉れも高い東都大学の理工学部理学科を優秀な成績で卒業し、卒業後は企業からの引く手数多のリクルートには見向きもせず単身渡米し、大学院に進学した。その後は長くアメリカで研究を続け、30歳にして生物学と医学の博士号を得るに至ったのだ。そして3年前、片山は”あるもの”についての研究を行うために帰国した。諸事情で1週間程度の短期滞在は何度かその間にしていたが、住民票を移し、新たにマンションを借りるなど本格的に日本に根を下ろしたのは大学卒業以来10年ぶりのことだった。
『――続いては大統領選挙のニュースです。』
片山がテレビをつけると外国人のアナウンサーがニュースを読む様子が映し出された。アメリカ生活の長かった片山は民放のテレビ番組などはほとんど見ない。プログラムの大半を占めるバラエティやドラマなどは見るだけ時間の無駄だと彼は思っていたからだ。ゆえに彼が見ることが多いのはBSデジタル放送の映画専門チャンネルや、BBC・CNNと言った海外のニュースチャンネル、BGM代わりのMTVなどであったが、それでも今見ているCNNですらこの3日ほどチャンネルを変えた記憶が無かった。
『最新の世論調査で、アンダーソン大統領の支持率は38%と就任以来、初めて40%を切る結果となりました。不支持率も50%を超え、これは大統領が就任以来最低の数字です。』
片山はボトルのミネラルウォーターを口に含みながら、しばしニュースに耳を傾けた。
『この原因としては今年上四半期の経済成長率が2年連続で前年を下回り、失業率も2ヶ月連続で5%を超えたことなどが考えられており、政府の経済政策に国民が明らかな不満を持っていることが結果に現れた形となりました。』
「(この人も悪い時期に大統領になったもんだ……)」
片山は心の中で一人語ちた。彼の言う『この人』とは第43代アメリカ大統領、ジェームズ・D・アンダーソンその人であり、アンダーソン大統領自身は就任当初はその庶民的なイメージと公約であった大型減税で人気を保っていた。しかし、議会との対立で減税案は当初の予定よりも大幅に縮小され、2000年後半から懸念されてきた経済の失速も明らかになるに至って、アンダーソン大統領は任期半ばから支持率の低下が続いていたのだ。
『共和党の中でも大統領離れが広がっています。民主党が来年の大統領選挙に向けてカリフォルニア州知事であるライズ氏擁立で支持を一本化しているのに対し、共和党反主流派には次期大統領候補としてフォックス上院議員を推す動きもあり、アンダーソン大統領は再選に向けてこれからはまさに茨の道と言えそうです。』
アナウンサーが締めくくったのを見届けると、片山はTVのスイッチを切った。時計を見ると10時30分を僅かに過ぎている。
「(少し早いかもしれないが、学校に行くか…)」
そう心の中で一人語ちるとリビングを離れて洗面台に向かう。顔を洗い、電気カミソリで剃り残しの無いように髭をあたると、寝室に戻りクローゼットを開けた。中には黒やグレーを中心にスーツが並んでいる。片山は中から黒のマサースーツを取り出すとYシャツに袖を通し、ジャケットをその上に羽織った。彼はネクタイをしない主義だ。出掛けに再び洗面台に向かい、ムースタイプの整髪料で髪をサイドになびかせて彼の身だしなみは完成する。そのカジュアルな装いは、彼の30歳を超えた年齢を感じさせず、細面な顔立ちも手伝って20代に見える。彼は時計、携帯電話、財布、パスケースなどがポケットに入っていることを確認するとブリーフケースを持って廊下に出る。そしてドアをロックし、いつも通りエレベーターホールに向かった。
片山の日本での仕事は大学の非常勤講師であり、自宅であるマンションのある品川から二駅離れた田町にキャンパスを置く名門私大、慶能大学医学部で講座を持っている。当初、大学は片山を助教授待遇で迎えようとした。彼のアメリカでの実績を考えれば大学の対応は当然のものだったが、彼はその申し入れを断った。その理由は彼がアメリカに渡った理由の一つが、日本の『大学』という研究機関に失望する事件があったことで『大学』という組織から一線を引いていたかったという事。そして、彼には講師以外から充分な収入源を持っていたからだ。
片山が非常勤講師の身でありながら都内の一等地に建てられた高層マンションに居を構えられる理由は、アメリカ時代の研究内容にあった。アメリカでの研究員時代、医学博士を取る過程で指導を仰いだ大学の教授とともに抗癌剤の開発に携わった。その時の研究成果が今、アメリカのFDA(食品医薬品局)で認可を受け、臨床試験の段階で広く使われているのだ。マージンの中から大学を通じて片山の口座に日本円にして年間1000万円近い金額が振り込まれている。一人暮らしの彼にとっては充分過ぎる金額だ。
副業を持たなくとも充分に生活を送れるのにあえて大学に籍を置いている理由、それは片山が現役の生物学者として日本で研究を続けていくための基盤がどうしても必要だったからだ。アメリカで大成功を収めたにも関わらず、日本に戻って来てまで研究をしたかったもの、それに片山が出会ったのは5年前のことだった――
1999年――アメリカ、マサチューセッツ州
片山はその日、懇意にしている教授を訪ねてMIT(マサチューセッツ工科大学)に来ていた。片山の通うペンシルヴェニア大学もアメリカ国内で一流と名の通った学府であるが、片山は何度来てもその設備の見事さ、そして学内のアカデミックかつエネルギッシュな雰囲気に圧倒された。
「(俺も、今大学で行っている研究を必ず認めさせてみせる……!)」
まだ30歳に届かぬ片山はいつか、アメリカ一いや世界一の理系の研究機関に身を置きたいという野望を持ちつつ研究を続けていたのだ。
「トシキ、君に見せたいものがあるんだが時間はあるかな?」
研究データの交換が終わり、女性職員の淹れてくれたダージリンティーを飲みながら休憩していたところ、銀髪で眼鏡をかけた中年の男、ネイソン教授は突然そう切り出して来た。
「見せたいもの?」
片山はロイヤルコペンハーゲンのカップから口を離して、正面に座るネイソンの顔を見た。彼の顔は笑みを浮かべているが、目は爛々と輝いている。彼は世界で有数の遺伝子と生物工学の権威であるのだが、好奇心に満ちたその瞳はどこか子供っぽさを感じさせる。
時計を見るまでもなかった。こうして午後のティータイムに付き合っている事自体、片山がこの日の時間を持て余している何よりの証拠だった。しかし、一番の理由はこのネイソン教授が自分に何を見せてくれるのか、という期待感から来るものであった。
「是非、お願いします。」
片山は即答した。ネイソンは満足そうに頷くと、助手の一人に声をかける。
「リチャード、『コード・G』を見られるようにしておいてくれないか?」
「分かりました。Mr.カタヤマ、こちらへ……」
ネイソンと研究員のリチャード、そして片山はドアの外に出ると、しばらくリノリウム張りの廊下を歩いていた。
「ずいぶんと研究室から離れているんですね…」
MITの広い敷地を5分ほど歩いたが、まだネイソンは止まらない。
「少々厳しい管理が必要な物なのだよ。」
だが言葉と裏腹にネイソンの表情に緊張感が無い。その口調はまるで子供が玩具を取りに行くような感覚に思われる。そんな彼等の前に、一枚の物々しい扉が現れた。その扉には黄色い地に赤く小さな円とそこから広がる3枚の扇型が抜かれている、放射能を扱う施設である事の警告マークだ。そしてそれだけではなく、3つの三日月を重ね合わせたようなマークもその下に描かれている。これはバイオハザード(生物災害)警告マークである。
それを目にしてさすがの片山も一瞬顔を引き攣らせた。これらのことから、扉の向こうには生物学的に非常に危険な素材が保管され、研究されていることが容易に推測できるからだ。
「……心配ない。我々の管理は万全だ。万が一のことがあってもこのリチャードは専門の技術を持っている。」
ネイソンはそう言って、リチャードという研究員に視線を送った。リチャードは穏やかな表情で頷く。片山は彼とも知らぬ仲ではない。彼はネイソンの優秀な助手でもあり、一流のオペレーターでもある。片山も納得して頷くと、リチャードはドアの側面にあるカードリーダーにIDカードを通す。そして一つあるボタンに指をかけると、フラッシュのような光が一瞬瞬く。次の瞬間には微かな電子音とともにドアのロックが外れる音がした。
「Good morning,Richard.」
スピーカーから合成音声の挨拶が返ってくる。
「これは指紋照合装置ですか……」
片山はリチャードの押したボタンを見て呟いた。偽造されにくいICカードと指紋の照合を組み合わせた高度なセキュリティはここMITにあってもトップクラスの施設にしか採用されていない。
「我々に調査を頼んでおきながら、ここまでしないと政府が五月蝿いのだよ。」
ネイソンが皮肉げに笑みを浮かべながら言う。これほどまでの設備の中にある、ネイソンが自分に見せたい物とは……?いつのまにか片山の中で、放射能とバイオハザードの警告を目にした時の緊張は消え去り、その“物”に対する期待と好奇心が大きく頭をもたげて来ていた。
プシュッ…
ドアを開けると外気が内側の通路に流れ込んでいく。
「(内部が陰圧に保たれているという事は…)」
「――この施設はBL3の機能を備えている。」
片山の心の内を見透かしたようにネイソンが言った。BLとはバイオセーフティレベル(Bio Safety Level)の略だ。ウイルスや細胞を研究したり保管している施設は、扱う媒体の危険度によって4つのレベルが設定されている。片山が案内された施設のBL3は危険度で言えば上から2番目に当たり、発疹チフス、ロッキー山紅斑熱など重篤な症状を引き起こす病原体が扱われている。この一つ上、BL4となれば悪名高いエボラ出血熱、マールブルグ病など治療法も確立されておらず感染力も致死率も極めて高いものを扱うために、管理は輪をかけて厳しい。こういった施設は、万が一病原体が漏れ出した時に被害を最小限に食い止めるため、施設内部の気圧を下げ、空気が外に開放されないようにされていのだ。
「トシキ、私達はこっちだ。」
途中でリチャードとは別れ、別の一室に片山は招き入れられた。そこにはディスプレイとコントロールパネルが並べられたモニタールームだった。部屋と部屋を仕切る分厚いガラス窓の向こうには実験室のようなものが見える。そこには見るからに高性能な電子顕微鏡、遠心分離装置、培養ケース、薬品や細胞を保存する倉庫などがあり、実験室で行われている作業の様子がこのモニタールームでつぶさに観察できるようになっているのだ。するとガラスの向こうの実験室に、白い防護服を着込んだリチャードが姿を現した。
「この部屋で作業する場合は基本的に完全装備だ。」
ネイソンは先程までは打って変わった厳しい表情を見せている。リチャードはそのまま部屋の中を進むと、冷凍保存庫の蓋を開けた。円筒形の容器の縁から液体窒素の白い蒸気が溢れ、床に流れていく。リチャードはその中からサンプルらしきものを取り出すと、慣れた手付きで電子顕微鏡の中にセットする。
『OKです、教授。』
「君に見せたいと思ったのはこれだよ…」
リチャードがそう言うのを待って、ネイソンが一つのモニターを示した。片山がそれを覗き込むと、何やら細胞の拡大図が映し出されており、画面の端には『G−Sell 1954』とコードが付けられている。
「(G細胞…?)」
片山は細胞から目をそらさないまま一人語ちた。片山も遺伝子や細胞の研究をしているので、あらゆるコードネームを持つ細胞を見てきた。それらは外部の研究機関や自分の大学で大きな発見や成果を上げた細胞を培養し分離したもので、この世界では世界的に有名なものも少なくない。しかし、今までの経験では『G細胞』なるコードの付けられた細胞にお目にかかったことは無い。
「――新種のハイブリドーマでしょうか?」
彼は素直な第一印象で言った。ハイブリドーマとは癌細胞とリンパ球を人工的に細胞融合して作られた細胞であり、リンパ球の性質を保っているため無限に増殖し、実験などに用いられる。もしネイソンが新しいタイプのハイブリドーマを培養したとしたら、自分が知らないことも頷ける。しかし、それではこの施設がBL3で隔離されている理由が説明できない。それにコードにある1954とは?見れば見るほど目の前の細胞が自分の第一印象通りのものではないように思えてくる。
「本当にそう思うのかね?」
「……いいえ」
もはや片山の中にハイブリドーマという頭は無かった。
「リチャード、放射線を照射してくれ!」
『分かりました。』
防護服のマスクに内蔵されているマイクを通しているからだろうか、スピーカーの向こうからリチャードのくぐもった声が聞こえてくる。彼は一旦サンプルを電子顕微鏡から取り出すと、別の光学式顕微鏡にセットしスイッチを入れた。すると、モニターの中が青い光で照らされる。
「細胞に、癌の治療に使われるものの数倍の強さを持つ放射線を照射している。通常の細胞ならば数分で死滅してしまうところだが、この細胞は……見てみたまえ――」
ネイソンに促され、片山は再びモニターを覗き込む。
「これは――」
片山は言葉を失った。モニターの中では彼の想像し得なかった現象が起きていた。ただでさえ解凍直後の細胞は活性が悪い。加えてそれに強い放射線を与えては、細胞はあっという間に死滅してしまうだろう。しかし、目の前に映し出されている細胞は、死滅するどころか眠りから覚めてさらに活性化しているように見える。まるでビデオテープの早送りのように細胞が分裂し、視界が細胞の作り出す、秩序を無視したような模様で埋め尽くされる。
「リチャード、もういい。G細胞を保管庫に戻してこちらに来てくれ。」
ネイソンがそう言うと、画面がブラックアウトした。ガラスの向こうでは既にリチャードが機器の中からサンプルを取り出し、冷凍庫に戻そうとしている。
「どうだね、トシキ?」
「……一見、どこにでもある癌細胞のようにも見えました。しかし、よく見れば細部の多くが異なりますし、いくら癌細胞でも放射線を照射されればほとんどが死滅してしまいます。それが放射線を照射してなお生きている……いや、余計に活性する細胞なんて少なくとも私は聞いたことがありません!」
「うん、君の言うことは当たらずとも遠からずだな。私も初めてこの細胞を目にした時、同じような感想を持ったよ……」
ネイソンはどこか遠くを見詰めるような表情で言った。
「しかし、この細胞は一体何なんです?G細胞なんてサンプルは聞いたことありません!」
片山は真剣な表情でネイソンを見詰めたがネイソンはいつもの、歳に似合わない悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そのヒントはコードネームに書いてあったが……」
「コードネーム?」
片山は画面に細胞の画像と共に画面の隅に映っていたコードネームを思い出した。確かそれは『G−Sell 1954』、“G−Sell”が識別するコードだとすると“1954”が発見された年になる。
「……1954、1954年?」
「どうやらトシキは学生時代、歴史が苦手だったようだな。」
ネイソンはからかうように笑いながら続ける。
「よく思い出すんだ。1954年、君の母国――日本で生物学の常識を根底から覆す事件が起きた……!」
それを聞いて片山はハッとなった。それは、生物学者はもとよりそのニュースに一度でも触れた者であれば忘れようのない出来事だ。彼はこんな簡単なヒントに気付かなかった自分を恥じると同時に難解な問題を解いた時のような高揚感を覚えていた。
「G−Sell…、つまりこれはあの怪獣、ゴジラの細胞なのですか!?」
「うむ……」
その答えにネイソンは黙って頷いた。
「これは凄い!!この細胞はまさに研究材料の宝庫です!!冷凍保存されていたと言っても1954年から45年も経過している細胞がこれほどの活性を見せているとは…、それに放射線条件下で細胞分裂が活性化するなんて言葉で簡単に説明できるものじゃありません!まさに生命の神秘を私は見せてもらったんです!!!」
片山の口調はすっかり興奮している。
「だから、君にこれを見せたんだよ。」
「えっ?」
ネイソンの言葉に、片山は我に帰った。
「君の言う通り、このG細胞は我々研究者にとって神秘の宝庫だ。私も私なりに研究を続けてきたが、最近はどうにも越えられない壁があってね……」
「まさか教授に限って……」
自嘲気味に言うネイソンを片山は笑う。しかし、ネイソンは真剣な顔になっている。
「しかし、私が歳を取り始めているというのは自分が一番良く分かっているよ。だからこの細胞の研究は、若く有望な科学者に任せておきたいと思った訳だ……」
そう言うと、ネイソンは片山を見詰めた。
「単刀直入に言おう。トシキ、君にMITに来て欲しい。もっとも今、君の研究が大事な時期に来ているとこも十分承知している。結論はその後でいい……」
「――!!」
ゴジラという生物学上最大の謎との出会い、そしてネイソンからの思っても見なかった誘いという二つの驚きで、この時片山は言葉を失ってしまったのだった――
2年後――2001年
片山は再びMITに来ていた。その後、彼は頭の片隅にいつもG細胞の存在を感じつつ、今までの研究に打ち込んできた。結果として彼と彼の大学の研究チームは癌の発生と増殖のメカニズムについて画期的な視点に基づいて、新しい抗癌剤を開発することに成功する。その抗癌剤はアメリカの厚生省にあたるFDA(食品医薬品局)からの認可を受け、臨床試験の段階に使われることとなった。だがそれは片山の行っていた研究が一応の区切りを迎えたことを意味し、彼はネイソンとの約束に答えを出す事となったのだ。
「待っていたよ、トシキ。」
ネイソンは片山が部屋に入るなり、彼の手を両手で握って迎えた。
「早速だが答えを聞かせてくれるかな?大学側には充分な条件で君を迎える用意がある……」
彼の表情は片山が自分の元に来てくれることを確信していた。それがかえって決心を固めていたはずの片山の心を痛めた。
「――申し訳ありません、教授!!!」
片山は大声で叫ぶと深々と頭を下げた。それを見たネイソンの表情が驚きで凍り付く。
「確かにMIT<ここ>でG細胞の研究が出来ることは私にとって非常に魅力的な誘いです。教授に初めてG細胞を見せてもらってから今日まで、私はG細胞のことを忘れたことはありませんでした。しかし……G細胞のことを考えれば考えるほど、私はその根源を知りたくなりました。G……『ゴジラ』は一体どこから来たのか?そして何物なのか……!?」
それまで頭を下げたまま俯いていた片山は初めて顔を上げると、目の前のネイソンから視線を逸らさず言った。
「私は日本に戻ります。この目で、この耳で、1954年に一体何そこで何が起こったのか、何が現れたのか、確かめたいと思います。……私は研究の場を日本ではなくアメリカに求めてきたくらい、自分のやりたいことに我侭を通してきた男です、申し訳ありません……」
片山は再び頭を下げた。
「――分かったよ……」
「――!?」
思いがけないほど穏やかなネイソンの言葉に片山は体を震わせた。
「心のどこかで君が断ることを予感していたのかもしれない。あの時、G細胞を初めて見せた時、君が即断で了解してくれなかった時からな。君はすでにあの時、G細胞の根源について私が考えていた以上に可能性を見出していたのかもしれないな。」
そう言ってネイソンはいつも通り笑った。
「ありがとうございます――」
片山はネイソンの、非難など微塵も感じさせない寛容さに最大限の感謝をしたのだった――
再び2004年――4月21日、東京
片山は住居のVタワーを出ると、品川駅に向かった。突然の眩しさにふと顔を上げると、3つの高層ビルからなる品川インターシティの威容が目に入る。インターシティの一面を被うガラス張りが太陽の光を反射し、彼の顔を照らしていたのだ。
50年前――1954年、ゴジラはここ品川に現れて人々を恐怖のどん底に陥れた。しかし今は目に入る景色にも、行き交う人々の表情にもそんな面影は微塵も無く、日々の生活を平和に過ごしている。それは裏返せば50年という歳月が人々の記憶からゴジラという存在を薄れさせてしまったからに他ならない。自分が5年間追いかけてきたものは、既に過去に葬り去られてしまった存在なのか――彼の脳裏にそんな弱気な思いが浮かんだ。3年前、意を決して日本に帰ってきたものの、ゴジラに関する情報は新聞・雑誌・テレビなどのマスコミに報じられてきた以上のものは国家機密という壁の向こうにあり、辿り着けないでいるからだ。
『これならばMITに移って研究を続けていた方が良かったのでは……』
そんな後悔の念に駆られたことも一度や二度ではなかった。しかし、その度に彼は自分を信じて送り出してくれたネイソンの顔を思い出し、自分の信念が正しいことを再確認していた。
「(ゴジラは間違いなく50年前、この地に上陸したのだ。きっと、奴の根源に辿り着いてみせる……!!)」
片山は駅への連絡通路を歩きながら弱気を振り払うようにして決意を新たにする。すると、彼は急に空腹感を覚えた。考えてみれば、今日の朝は起き掛けにミネラルウォーターを飲んだだけで何も食べていない。彼は自分の不摂生な生活に心の中で苦笑しながら、駅ビルの中に入っているファーストフード店に向かった。
「(午後の講座まではまだ時間がある。講義の内容は昨夜にまとめてあるので大丈夫だろう…)」
朝食からファーストフードというのは日本人には一種抵抗があるかもしれないが、アメリカ時代にそんな生活に慣れ親しんでいた彼には日常茶飯事のことだ。確かに塩分の取り過ぎの感はあるかもしれないが、メニューによっては栄養のバランスは悪くない。
片山が遅い朝食、いや少し早い昼食を取ろうとした時、太平洋の向こうアメリカ合衆国では事態が動き始めていた。