――2『不吉の予兆』
南太平洋――ミクロネシアの某諸島
ホテルの一室で一人の女性が窓際にたたずんでいる。肩までの長さに揃えたやや茶色がかった髪、整った目鼻立ちは凛とした美しさを感じさせ、立ち居振舞いからは彼女の知性が内面から醸し出されるようである――真田美咲は窓の外を見て溜め息をついた。折角目当ての地層を見つけたと言うのに、昨日から止むことの無い暴風雨が続いている。さらに、朝早くやって来た政府の関係者と名乗る人間が許可のあるまで一切の外出を禁じられたことが、彼女の美貌を一層曇らせていた。
この30代半ばにして助教授となった才媛の研究対象は今や海底に沈んでしまった文明である。今まで発見されてきた高度な文明と言うのは得てして河川の流域に発達していた。しかし、彼女の興味はこのミクロネシアの島々がかつてはひとつの大陸であったという仮説に基づく、今まで発見されていない海洋文明を見つけ出すこと。
そんな時、部屋のインターホンが鳴った。窓辺にいた彼女よりも電話の近くにいたもう一人の女性がそれを受けた。彼女は美咲のゼミに所属する学生で、名前は木下梢。背中まで伸ばした長い黒髪と大きな丸い眼鏡が印象的だが、容姿はどちらかと言えば実年齢よりも幼く見える。体も華奢でフィールドワークよりも図書館で文献を調べている方が似合いそうだが、ゼミの入室面接で考古学への情熱を説く彼女の姿に昔の自分を重ねたのか、彼女を自分の初めてのゼミ生の一員として迎えたのだった。予想通り、彼女はフィールドワークでは他の学生より頼り無かったが、知識や遺跡に関する造詣は確かで美咲も助けられることがあった。
「先生にお電話です。」
そんな彼女が電話の受話器の話し口を押えながら、美咲にそう告げてきた。
「あら、大学からかしら?こんな時間に?」
美咲は呟きながら電話を受け取った。
「学校の人ではありません。でも、男の方です。」
「誰だろう?……もしもし?」
疑問に思いながら電話に出る。
『ああ、美咲かい?僕だ。』
聞こえてきたのは自分の良く知った人間のものだった。彼女は小声で傍らの梢に告げる。
「私の主人よ。」
それを聞いて梢は納得した表情を浮かべる。
「では、私は席を外してロビーで飲み物でも買ってきます。」
気を利かせて部屋を出て行く梢に美咲は軽く手を振って見送った。
『どうした?』
「いえ何でもないわ。でも、どうしたの?あなたが私の出先に電話して来るなんて……」
『ちょっと気になることがあってね。そちらの様子はどうだい?』
美咲は真田の言葉に違和感を感じた。別居はしていても、声さえ聞けば美咲は真田の表情が目に浮かぶように感じられる。
「こちらは昨日から雨続きよ。ろくに作業を進められないわ。それに……しばらく外に出られないらしいのよ。」
『どういうことだ?』
「朝早くに政府の関係者って人から連絡が来たの。こちらが許可するまで外出するなってね。ひょっとしてあなたが電話してきたことと何か関係があるんじゃないの?」
美咲は真田が今自衛隊でどんな仕事をしているのか聞かされている。それと彼の言葉から感じた違和感で女の勘と言うもので何かを直感していた。真田はやや間を置いてから答えた。
『……ああ、君の言う通りだ。詳しいことは機密になるので言えないが。いいかい、そちらで許可が出るまで外に出ちゃダメだ!出来れば作業も中断して帰国したほうがいい。』
それを聞いて美咲は溜め息をついた。
「そうはいかないわ。環境保護が目的で規制の厳しいこの国で、やっと発掘調査の許可が下りたんだから!期間一杯は居させてもらうつもりよ。」
真田は受話器の向こうで怒鳴りたいのをぐっと抑えていた。しかし、ここで怒鳴っては別居を決めた夜の二の舞だ。彼は出来るだけ感情を抑えて言った。
『――分かった。でも約束してくれ、現地で与えられる外出禁止の指示には絶対従うんだ。』
真田の静かだが得も言わせぬ迫力を持った口調には只ならぬ気配があった。どうやら、この件には自分の身の安全を脅かすような背景があるらしい。発掘が中断されている為の苛立ちが不意に引いていくのを感じた美咲は髪をかき上げながら言った。
「私も言い過ぎたわ。あなたは間違ったことを言う人じゃないし……」
『ありがとう、それじゃ気を付けて。』
真田の言葉には安堵があった。
「帰国したらまた連絡するわ。」
美咲は一方的に電話を切った――
日本国――防衛庁情報本部
「姐さん、何か言っていましたか?」
電話でのやり取りを聞いていた相沢が、受話器を置いた真田に声をかけてきた。
「向こうはやはり嵐だ。それに政府から外出禁止令も出ている。」
「外出禁止令ですか。国連からの勧告も一応は行き届いているようですね。」
「しかし……雨が上がっても、もし雨に放射能が含まれていたとしたら、濡れた土をいじくるような作業をしたら元の木阿弥だ。」
真田は腕組みをしながら溜め息をついた。
「真田さんも辛い立場ですね。実験のことを個人的な理由でディスクローズするわけにもいきませんし……」
相沢もかぶりを振った。
5日後――南太平洋、ギルディア共和国実験場跡
実験直後より一帯に発生していた強力な熱帯低気圧は二日後にはすっかり晴れ、南国の強い陽射しを取り戻していた。IAEAと国連安全保障理事会加盟国を中心とした調査隊がギルディアの現地に到着。その中には陸上自衛隊の化学学校からも数名の技官がアメリカと同じチームで現地調査に加わっていた。
焼け焦げた砂浜に上空からUH−60ヘリコプターが近づくと、ダウンウォッシュで砂塵を舞い上がらせながらゆっくりと着地脚<ランディングギア>を下ろした。側面のカーゴドアが開くと、そこから数人の、南国の気候には明らかに不似合いの分厚い放射能防護服を着込んだ者達が降りてきた。彼等が砂浜の奥に建てられたコンテナ式の研究施設兼キャンプの前まで行くと、ホースを持った軍服の男達が彼等に近づき、ノズルから霧状になった液体を吹きかけた。防護服の男達はその場で体を回転させて全身に満遍なくその液体を浴びると、初めて防護服のマスクを取った。彼等は並べて顔中に球のような汗を浮かべている。
その中の一人の日本人――化学学校所属の渡辺一等陸佐はコンテナの中に入ると防護服を脱ぎ捨て、タオルで汗をぬぐいながらびっしょりと濡れたシャツを着替えないまま自分のデスクの電話を取った。
日本国――防衛庁情報本部
ここ数日、ずっとミッションルームに詰めていた真田の目の前で待ち焦がれていた電話が鳴った。
「真田です。」
『ああ、真田二佐?化学学校の渡辺です。』
声の主である渡辺一佐の声には明らかな疲労の色が見えた。重度の汚染地域への出張による緊張、防護服を着込んでの活動を考えれば想像に難くない。
「ご苦労様です。それで、そちらの様子はどうでしたか?」
『酷いものです。爆心点と予想される地点から半径10km以内に原型を留めている物はありませんよ。その他の地域も熱線や衝撃波でかつて楽園だった島々がこの世の地獄と化しています。調査隊のメンバーも皆軍属の技術関係者ばかりで、民間の研究者は一人もいません。こんな状況では彼等が尻込みしてしまうのも分かるような気がします。』
渡辺の言葉から読み取れる爆発の被害は相沢がシミュレートしたものから想像がついた。真田が今回の爆発で懸念しているものは他にあった。
「それで単刀直入に聞きたいのですが、放射能の方はどうなんでしょう?我々のシミュレーションではかなり広範囲に汚染が広がることが予想されているのですが…。」
真田の言葉に受話器の向こうが一瞬沈黙したが、渡辺のややトーンの落ちた声が返って来た。
『――放射能ですか……。今回の調査で一番腑に落ちなかったのはそれなんですよ。信じられますか真田二佐?この辺り一帯に放射能汚染はまったく見られないのです!』
「何ですって!!?」
真田は思わず椅子から立ち上がった。
「アメリカからの情報では、その場所で起こったものは間違い無く核爆発であると……。核じゃなければ一体何がこれだけの破壊力を生み出せるというのです!?」
『イヤ、核爆発が起こったことは事実なんですよ。』
渡辺は興奮する真田を静めるように口調を緩めた。
『こちらでは、核爆発後に発生した降下物<フォールアウト>――“死の灰”に相当するサンプルを分析しました。雨で大半が流されてしまっていたので入手は困難でしたがね。アメリカの人間も驚いていましたよ……この辺りにばら撒かれた放射性物質は発生後48時間できれいさっぱり消えて無くなっているんです!』
「そんな……僅か48時間で半減期を迎える放射性物質なんて考えられない!」
渡辺の話を聞きながら、真田は思わず立ち上がっていた。
『周辺地域の汚染状況のデータもほぼ出揃いました。お分かりかと思いますが、予想された周辺地域への放射能汚染は全く無しです。現在出揃っているデータは既にそちらのホストに送っておきました。現地ではさらに詳しい調査をする必要はありますが、データを見る限りはおそらく……』
「分かりました、ありがとうございます。帰ってきたら連絡を下さい。是非、化学学校の皆さんの慰労をかねて一杯やりましょう。それでは失礼します。」
真田は渡辺が電話を切るのを待って受話器を置いた。
「(どういうことだ……)」
心の中で疑問を繰り返す。
「(データはホストに送ったと言っていたな。では部長も既に目を通しているはずだ)」
24時間体制で緊急事態に備えている緊急動態部のオフィスから人が居なくなることは無い。今日、相沢はすでに退出したが、緊急動態部部長・氷川直之一等陸佐はまだ自室にいるはずだった。真田は踵を返すと氷川のオフィスに向かった。
コンコン…
真田は緊急動態部長室と書かれた扉を二度ノックしたあと告げた
「真田です。」
「開いている、入りたまえ真田二佐。」
「失礼します。」
扉の向こうから低い声が聞こえてきた。真田は扉を閉めると敬礼する。オールバックにした髪とワイヤーフレームの眼鏡の男、氷川直之はモニターから目を真田に移した。
「渡辺一佐からの報告はご覧になったでしょうか?」
先に口を開いたのは真田だ。
「ああ、事件発生直後、相沢一尉が作ったシミュレーションと一緒にな。今まで見ていたところだ。」
氷川は落ち着きのある声で言った。真田が驚愕した相沢のシミュレーションと渡辺からのレポートを見ても動揺した素振りすらない。真田は直属の上司である氷川が取り乱したところを見たことが無かった。もっとも、情報本部の中にあって文字通り緊急を要する事態に関する情報を扱うこの部門における長に報告のたびに一喜一憂されても困るのだが。
「部長はどう考えましたか?特に、放射性物質が発生から48時間で消滅したという事実を?」
「――その前に、真田二佐の見解を聞こうか?」
ギッと椅子を軋ませながら氷川は見を乗りだし、デスクに肘をつく。一層鋭くなった眼光が真田を貫こうとするが、真田はその目をまっすぐ見据えて言った。
「地球上で、放射能を48時間という短期間で消滅させられる可能性があるのはただひとつと考えております。」
「ゴジラか?」
氷川は真田がそう言うのを分かっていたかのように呟いた。
「はい、シミュレーションと現地の調査によれば爆発直後に高濃度の放射能が最低でも半径100kmの範囲まで広がったと予想されます。そして、海底のどこかに眠っていたゴジラは爆発の衝撃と放射能によって目覚め、自らのエネルギー源として、排出された放射能を吸収してしまったのではないでしょうか?」
「私の見解は違う。」
氷川は真田に向けていた視線を中空に向けながら言った。
「真田二佐の担当がゴジラなのでそう結びつけてしまうのはしょうがないとしても、過去のゴジラのデータと照らし合わせて見ると、今回の現象とゴジラが無関係なことを結論付けられる。」
氷川はまるで頭の中からデータを読み出すかのように、口以外の部分をほとんど動かさずに喋り始めた。真田は黙ったままそれを聞くしかなかった。
「今回のシミュレーションで、爆発と現地の気象状況により放射能は半径100kmに及ぶ範囲に広がったと想定しよう。もしゴジラが放射能を吸収したとしても、ゴジラの移動速度は過去のデータより地上で時速40km、海中でも50ノットが最高だ。たった48時間でゴジラがこの広大な全範囲をくまなく動き回れたとは思わない。また、放射能が全く観測されなかったということも非常に疑問が残る。もしゴジラが原因であれば、放射能を吸収したとしても自らが代謝した残留放射性物質を周囲に残していくはずだ。」
真田はそれを聞いて言葉を失った。氷川が言っていることは全て理路整然とした正論である
「では、一佐はこの原因を何だとお考えに……」
「私の答えは、“原因不明”としか言い様が無い。こんなことは私も経験が無いし、情報本部にもデータが無い。もしかしたら我々の想像を超えた超常的現象が起こったのかもしれん。こんなことをいうと私らしくないかな?」
「いえ、そんなことは…」
氷川は背もたれに体を預けると、答えに困る真田の顔を見て珍しく苦笑した。ふたりはしばし黙りこんでいたが、
「そうそう、今私が言った中で間違ったかもしれないことがある。もしかしたら、放射能消失と直接関係が無くともゴジラが今回の爆発で目覚めてしまっている可能性も万に一つある。」
ふと思い出したように氷川は言ったのだった――
1 災厄を呼ぶ楔
3 静かなる遭遇