ギリシアVSトロイアの戦闘(第一日)


◇第一日、その1(第三歌)

ギリシア軍とトロイア軍がイーリオン城下に布陣を済ませると、トロイアの陣からアレクサンドロス(パリス)が豹の皮を肩に掛け、背に弓と剣を負って出てくる。
手にした二振りの投槍を舞わせつつ、
「アルゴスの将領のなかで私と一騎打ちをする者はいないか!」
と呼ばわった。
これを見たメネラオスは怒りに燃え、戦車から飛び降りるとまっしぐらにパリス向け突進した。
メネラオスの姿とその勢いを目の当たりにしたパリスは早や戦意を失い、先ほどの大言壮語もどこへやら、トロイアの陣へ逃げ帰ってしまった。
ヘクトールはそれに向かって激しい罵倒の言葉を浴びせる。
「ろくでなしのパリスめ!お前は容貌こそ優れているが、その実はただの女たらし。お前のような奴は生まれてこなければ良かった、妻も娶らず死ねばよかったのだ!
私は心からそう思う・・・・」
パリスは、ヘクトールの怒りはもっともだと言い、
「両軍が矛を収め、その上で自分とメネラオスがヘレネーと財産を賭けて一騎打ちを行い、勝利したほうがそれを取り、その後和平を結ぶことにしよう」
と提案する。
ヘクトールはこれを聞くと喜び、まずトロイア軍を退かせると自らはギリシア軍の陣へ向かった。

ヘクトールが両軍にパリスの提案を告げると、メネラオスが口を開いた。
「私とアレクサンドロスとの戦いによって両軍ともひどい苦難を蒙ったのだ。このうえはすぐにでも引き分けたほうが良かろう。
私か奴か、どちらかが死ねばそれで充分だ」
これを聞いて、両軍ともこの長い戦いがようやく終わるかと安堵し、武具を外し始めた。
両者は誓約の儀式のためにそれぞれ犠牲の仔羊を用意した。一頭はゲー(大地女神)に、一頭はエエリオス(陽の神ヘリオス)に捧げるためである。
ヘクトールはプリアモス王を呼ぶように指示する。

この一部始終を見ていた虹の女神イリスはアンテノールの子ヘリカオンの妻ラオディケの姿をとり、ヘレネーのもとを訪ねてそのありさまを告げる。
ヘレネーは故郷を懐かしく思い、スカイア門へと向かった。
スカイア門にはプリアモス王やアンテノール、ほかイーリオンの長老たちが集まっていた。
長老たちはヘレネーの姿を認めると、声をひそめて言った。
「神にもまがう美女とはいえ、やはり船に乗せて帰すのがいいだろう。我々やその子孫の災いの種にならぬように・・・」

プリアモス王はヘレネーを見るとそばに呼び寄せ、優しい声をかける。そして、ギリシアの陣に見える偉丈夫たちの名を教えてくれと言う。
ヘレネーはそれに応え、アガメムノン、オデュッセウス、アイアス、イドメネウスについて説明する。そして、自分の二人の兄、双子のカストールとポリュデウケスの姿がないことを訝る。
だがこのときすでに勇名高きディオスクーロイはこの世になく、その身はラケダイモンの地に眠り、その魂は天上の星々の間にあった。
さてプリアモスとアンテノールは馬車に乗って両軍のもとへ向かう。ギリシア軍からはアガメムノンとオデュッセウスが出、ゼウスに向かって誓約を読み上げ、犠牲を屠った。
しかし大神ゼウスはこの誓約を受け入れる気はなかった。
プリアモスは息子の一騎打ちを見るに耐えないと言ってアンテノールとともにイーリオン城へ引き返す。

二人の決闘の場が決められ、籤でどちらが先に投槍を投げるかを決める。パリスが先に決まった。
両者は武具を身に着け、決闘の場に進み出る。その威容と決死の形相に両軍の兵はみな唖然と眺めるばかり。
まずパリスが槍を投げた。メネラオスは大楯でこれを弾くと、ゼウスに祈って槍を投げた。槍はパリスの大楯を貫いて胸当まで破り、その脇腹をかすめた。
体勢を崩したパリスにメネラオスが大剣で打ちかかるが、パリスの兜に打ち下ろした瞬間、剣は折れ飛んでしまった。メネラオスは二度にわたって仕留めそこなったことに
舌打ちするが、パリスをギリシア陣に引き立てるべく兜をつかんだ。
そのとき、アプロディテー女神が兜の紐を切ったので、メネラオスの手には兜だけが残った。メネラオスは兜をギリシア陣へ投げ込み、再び槍を取ってパリスに止めを刺そうとするが、
女神は濃霧を放ってパリスの姿を隠し、イーリオン城内へ運び込んだ。
メネラオスはパリスの姿を探したが、どこにも見つからない。トロイアの将はみなパリスを憎んでいたので、知っていれば教えるのだが、彼らにも皆目見当がつかない。
そこでアガメムノンは呼ばわった。
「メネラオスの勝利は明白!アルゴスのヘレネーを財産とともに返還し、相応の償いをせよ!」
ギリシア勢はこぞって賛成の声をあげた。


◇第一日、その2(第四歌)

神々の会議。ゼウスはヘーラーを怒らせるために言った。
「メネラオスにはアルゴスのヘーラーとアラルコメナイ(ボイオティアの町)のアテネがついている。お前たちはのんきにここで成り行きを見ているだけだが、
アプロディテーはもう一人の男に付きっきりだ。さて、勝負はメネラオスのものだが、われわれはどうしたらよいか・・・あくまで戦いを引き起こすか、このまま和平させるか。
その場合、プリアモスの町は永らえ、メネラオスはヘレネーを連れて帰ることになるが」
もちろん両者ともトロイアを許すつもりなどない。パラス・アテネは怒りをこらえて黙っていたが、ヘーラーは我慢できず口を開く。
「わたしのこれまでの骨折りを無にするおつもりですか」
ヘーラーはどうあってもトロイアを滅ぼしたい。ゼウスはそれを聞くと、逆にゼウスがヘーラーの愛する町を滅ぼそうと思った時は決して手を出さないという言質をとり、
アテネに命じた。
「直ちにトロイア、アカイア両陣に赴き、トロイア方が誓約を破り、アカイア方に打撃を与えるよう手配せよ」
アテネはすぐさまオリュンポスの峰を下っていった。

両軍の間に輝かしきパラス・アテネが降り立ったのを見て、兵卒たちは呆然とする。
女神はすぐにアンテノールの子ラオドコスの姿を借り、リュカオンの子で、アポロンに弓射を学んだパンダロスに近づいた。そして言う、
「もしそなたがメネラオスに矢を射掛ければ、トロイアの将の皆からその誉れを称えられるだろう。
中でもアレクサンドロス(パリス)の喜びはひとしおだろうな。彼からは多大な褒美が下されるに違いない。
さあ、メネラオスを狙って射よ、弓矢の誉れ高きアポロン神に祈りながら」
この言葉にその気になったパンダロスは、すぐに自らの剛弓を取り出し、自らの師でもあるアポロン神に祈願しながら、メネラオス向け疾き矢を放った。

矢はメネラオスの腹に命中した。腿に、脚に鮮血が流れ落ちた。しかし、パラス・アテネが寸前で矢の軌道を変え急所を外していたので、深手にはならなかった。
アガメムノンはすぐさま弟を抱きとめると伝令使タルテュビオスを呼び、アスクレピオスの子マカオンにメネラオスを治療させるように命ずると、すぐさまギリシア陣を回って
将帥・兵卒の激励に入った。クレタのイドメネウス、アカイアの両アイアス、ピュロスのネストールとその配下ペラゴン、アラストル、クロミオス、ハイモン、
アテナイのメネステウス、ケパレネス勢を率いるオデュッセウス、そしてディオメデスと僚友ステネロス・・・
やがて怒りに燃えるギリシア軍は大海の波のごとく一斉にトロイア軍向け進撃を開始した。その背後には眼光輝く女神パラス・アテネが付く。
逆にトロイア勢には、軍神アレスが付いた。

両軍が激突した。まずギリシア方のアンティロコスがトロイアのエケポロスを討ち取った。
この武具を奪おうとして、アバンテス族を統べるエレペノルがアンテノールの子アゲノルに討たれる。その死骸を巡って激しい戦いが起こった。
さて一方、大アイアスはシモエイシオスを討ち取る。プリアモスの子アンティポスがアイアスを狙うが、
槍は外れてシモエイシオスの遺体を引っ張っていこうとしたオデュッセウスの部下レウコスに命中した。レウコスはシモエイシオスに折り重なって倒れ、絶命する。
これを見て怒ったオデュッセウスは槍を投げた。トロイア勢はすばやく退いたが、槍はプリアモスの妾腹の子デモコオンのこめかみを貫いた。
トロイア方の先鋒が退いたことでギリシア軍が攻勢に入る。イーリオンのペルガモン城砦の上から戦況を見ていたアポロン神は憤激してトロイア勢を叱咤するが、
一方ギリシア方にはパラス・アテネ女神があって兵士を激励している。

ギリシア方のディオレスがトロイア方のトラケ勢を率いるペイロスの投石に打ち倒され、止めを刺される。
そのペイロスにアイトリア勢を率いるトアスが槍を投げて打ち倒し、剣で命を絶つ。ペイロスの遺体を守るべくトラケ勢が殺到し、ここでも乱戦となった。


◇第一日・その3(第五歌)

パラス・アテネ女神はディオメデスに力と勇気とを授けた。そのとき、彼の兜と楯からは炎がほとばしった。
ディオメデスはまずヘパイストス神の祭司ダレスの二子ペゲウスとイダイオスを迎えた。ペゲウスの槍をかわし、反撃の槍を投げるとそれはペゲウスの胸を貫いた。
イダイオスもディオメデスに殺されるところであったが、ヘパイストス神がこれを黒い霧に包んで助け出した。
パラス・アテネ女神はアレス神に、これ以上の介入を避け、ともに一旦戦場を離れようと言ってアレス神を戦場から去らせる。これによってギリシア勢が一気に押し込んだ。

アガメムノンはハリゾネス勢を統べるオディオスを討ち取り、次いでイドメネウスがメオニエ人パイストスを討ち取る。
メネラオスも、アルテミス女神に狩を学んだスカマンドリオスを倒した。
さてイドメネウスの御者メリオネスもペレクロスを槍の一撃で討ち取る。ドゥリキオン勢を率いるピュレウスの子メゲスはアンテノールの子ペダイオスを討ち取り、
エウアイモンの子エウリュピュロスはヒュプセノルを斬り倒した。

この間、ディオメデスは獅子奮迅の活躍を見せていた。その勢いは激流のようで、トロイア勢の誰もその勢いを止められない。
その前に、メネラオスを射たパンダロスが立ちはだかった。彼は自慢の剛弓を引き絞ると、あやまたずディオメデスの肩に矢を突き刺した。
ディオメデスは僚友ステネロスに矢を引き抜いてもらうとパラス・アテネに祈る。すると女神は素早く彼のもとに来て四肢を解きほぐし、闘志を吹き込み、
神と人との見分けがつくようにしてやった。そして、神とは戦ってはならぬ、ただアプロディテーが出てきたら傷つけてやれ、と助言して去る。
ディオメデスは戦列に復帰し、アステュノオスを槍で、ヒュペイロンを剣で倒し、つづいてアバスとポリュイドスを討ち取る。さらにクサントス、トオン、
プリアモスの二子エケンモンとクロミオスを立て続けに屠った。

トロイアの英雄アイネイアスは、ディオメデスによって自軍の戦列が混乱しているのを見るとパンダロスのもとに駆けて行き、トロイアの陣容を乱す者を射てほしいと頼む。
パンダロスは言った。
「あれはディオメデスに違いない。先ほどわたしが射てやったのだが、あれほど元気なところを見ると、どうやら彼にはいずれかの神が付いているようだな・・・」
アイネイアスはパンダロスとともにトロスの駿馬の牽く戦車を駆り、ディオメデスに立ち向かった。
ステネロスは、トロイア方の英雄二人が戦車に乗って襲い掛かってくるのを見つけると、徒歩のディオメデスに退くように声をかけるが、ディオメデスはあくまで戦うと言う。
パンダロスは名乗りをあげ、ディオメデスめがけ投槍を放つ。槍は大楯を貫き、胸当に当たった。パンダロスは歓声を上げるが、ディオメデスは、
「当たってはいない!おまえたちのどちらかを倒さぬ限りは、ここから引き揚げさせはせんぞ!」
と叫ぶや、槍を放った。アテネ女神の手に導かれた槍は、パンダロスの顔の中央に突き刺さり、顎の下に切っ先が突き出した。かくてパンダロスは絶命した。

アイネイアスは、パンダロスの遺体を守るべく戦車から降りた。そこへディオメデスが巨石を投げつけた。それが腰に命中し、アイネイアスはどうと倒れる。
そのとき、彼の母である女神アプロディテーがその傍らに駆けつけ、彼を守ってその場から助け出そうとした。
ステネロスはアイネイアスの戦車を引く名馬を獲得し、自陣へ牽いていく。
ディオメデスはパラス・アテネとの約束どおりアプロディテー女神に追いすがり、槍でその腕を突いた。女神は叫び声をあげ、その傷口から霊血(イーコール)が流れ出る。
アイネイアスを取り落とそうとするところ、ポイボス・アポロンが受け止め、黒雲で姿を隠してやった。ディオメデスは、女神に忠告する。
「ゼウスの娘御よ、戦からは手を引かれるが良い。さもなくば、戦と聞いただけで震え上がるようにしてさしあげる」
女神は逃げ去った。途中アレス神に出会い、その戦車を借りてイリス女神とともにオリュンポスに帰り、母神ディオーネーに恨み言を述べた。

さてディオメデスは、アイネイアスを討ち取るべく今度はアポロン神に突きかかった。しかし相手が悪い。三度の攻撃を軽くいなしたアポロン神は、厳しく彼を叱責する。
「テューデウスの倅よ、そこをのけ。神々と対等であるなどど自惚れるなよ!」
さしものディオメデスもわずかに退いた。アポロン神は城に帰りつくと母神レートーと妹アルテミス女神にアイネイアスを治療させ、アレス神に言った。
「あのディオメデスは、今なら父ゼウス神にも襲い掛かりかねない。ひとつ出かけていって奴を戦場から引き離してくれないか」
そして、自らは城の上に腰を下ろした。

アレス神は、トレケ勢を率いる勇将アカマスの姿を借りてトロイア勢に紛れ込み、将兵の戦意を煽った。
一方、リュキアの英雄サルペドンはヘクトールに向かって言った、
「ヘクトール、おまえの気概はどこに行ってしまったのだ。かねがね、兄弟たちの助けがあれば、一人ででも城を守ってみせると豪語していたではないか。
それがどうだ。お前の一族はみな尻込みし、戦っているのはわれわれ援軍ばかりだ。わたしもはるかリュキアから妻子と財産を置いてきたのだ。
だが、ギリシア勢といつでも一騎打ちを交える気概はある。ここには奪われるものは何一つないのにだ。それなのに、おまえは・・・」
これを聞いたヘクトールは胸を刺される思いがし、すぐに戦車を降りて全軍を督励して戦列を整え、再びギリシア勢にぶつかった。
アポロン神に闘志を吹き込まれたアイネイアスも再び城を出て戦列に復帰する。

ギリシア側も負けてはいない。総大将アガメムノンの投槍がアイネイアスの配下、ペルガソスの子デイコオンを仕留める。
一方、アイネイアスはギリシアの将、ディオクレスの生んだ双子クレトンとオルティロコスを打ち倒し、そして二人の遺体を守ろうと向かってくるメネラオスの姿を認めた。
アレス神は、アイネイアスに手柄を挙げさせるべくメネラオスの心を煽り、アイネイアスに立ち向かわせる。
二人が対峙したそのとき、老雄ネストールの子アンティロコスがそれを見つけ、メネラオスに不測の事態があってはと彼のもとに駆けつける。
勇士二人を前にしたアイネイアスはさすがにかなわぬと見てとり、一旦退いた。二人はクレトンらの遺体を部下に任せ、前進した。
メネラオスとアンティロコスは、まずパプラゴネス勢を率いるピュライメネスに襲い掛かった。メネラオスの槍がその頭を貫き、その御者ミュドンが戦車を翻そうとするところ、
アンティロコスが石を投げて肘を打ち、手綱を取り落とすところを剣で止めを刺した。

このありさまを見たヘクトールは、鬨の声をあげるや二人に向かって行った。トロイア軍がこれに続く。
それを導くのは槍を振るう軍神アレスと「乱戦(キュドイモス)」を従える戦女神エニュオー。
この光景を見たディオメデスはさすがに身震いし、ギリシア軍に自重を求める。
その間にもヘクトールはメネステロスとアンキアロスの二将を討ち取った。これを見た大アイアスは二人の亡骸の傍らに立つと、槍を投げてパイソスの住人、アンピオスを倒した。
その遺体から槍を抜き取り、さらに武具を剥ぎ取ろうとしたアイアスは、トロイア軍の猛反撃を受けてたまらず退いた。

さて、英雄ヘラクレスの一子、ロドス勢を率いるトレポレモスは、雷鳴轟かすゼウスとラオダメイアとの間に生まれたリュキアのサルペドンに対した。
ともにゼウスの血を引く勇士(ヘラクレスはゼウスとアルクメーネーの子)のうち、まずトレポレモスが呼ばわる。
「リュキアのサルペドンよ、戦いのしかたも知らぬお前がどうしてここへやってきたのだ。お前がアイギス持つゼウスの胤というのはまっかな嘘だ。
お前など、ゼウスより生まれた古の英雄たちに比べれば、その足元にも及ばぬ。お前は知らないのか、私の父、剛勇ヘラクレスがどのような方であったかを。
父はかつて船六隻、寡兵にて見事にイーリオンを攻略し、ラオメドンを始めとする敵を殲滅した。
しかし、お前の部下はばたばたと倒れていくばかり、とてもトロイアの助けにはなるまい。
お前は私の槍にかかり、冥府の門をくぐることになるだろう」
サルペドンが応じた。
「イーリオン城がお前の父に破られたのは、ラオメドン王が約束を守らず、彼を侮辱したゆえだ。
お前はここで私の手にかかって倒れる運命にある。この槍に撃たれ、私には武勇談の種を、馬を持つ冥王(アイデス)には命を渡すことになろう」
二人は同時に槍をかざし、同時に放った。

サルペドンの槍がトレポレモスの頸を貫いた。その目をすみやかに暗黒が閉ざす。
トレポレモスの槍はサルペドンの左腿に鋭く突き刺さり、骨を削った。しかし致命傷には至らなかった。リュキア兵たちが大急ぎで彼を引き摺っていく。
この情景を見たオデュッセウスは猛然とリュキア勢に突撃した。そしてまたたくまにコイラノス、アラストル、クロミオス、アルカンドロス、ハリオス、ノエモン、
プリュタニスを血祭りに挙げる。この時ヘクトールがこのありさまに気づき、鉾先を転じてリュキア勢の援護に回った。
ギリシア勢は、戦神の加護あるヘクトールとあえて争わず、じりじり後退する。
それでもヘクトールは、テウトラス、オレステス、トレコス、オイノマオス、オイノプスの子ヘレノス、オレスビオスを次々に打ち倒していった。

これを見ていたヘーラー女神は、パラス・アテネに声をかけた。
「アイギス持つゼウスの娘アトリュトネーよ、このまま疫病神のアレスを荒れ狂うに任せて良いものか。さあ、われらの腕のほども見せてやりましょう」
そしてヘーラーは青春の女神ヘーベー(天上でのヘラクレスの妻)に命じ、燃えさかる火のように輝く黄金の戦車の支度をさせると自らこれに乗り込んだ。
アテネは女の衣装を脱ぎ捨て、ゼウスの肌着を身に付けると、その上に武具を纏った。そして肩には総を垂らした神楯アイギスを懸ける。
このアイギスの縁は「潰走(ポボス)」が取りまき、その表には「争い(エリス)」「勇武(アルケー)」「追撃(イオケ)」があり、
その中央には、かつて英雄ペルセウスが斬りおとした恐るべき女怪ゴルゴン(メドゥーサ)の首があった。
そして角二つ、星四つ、百の町の戦士の姿を描いた黄金の兜を被り、戦車に飛び乗ると長柄の槍を手に取る。
すぐさまヘーラーは馬に鞭を当て、季節女神たち(ホーライ)の守る天の門を抜けた。

オリュンポスの峰の頂にゼウスが立っているのを認めたヘーラーは一旦馬を止め、彼に語りかけて言った。
「ゼウスよ、アレスのあの乱暴狼藉を怪しからぬ事とは思いませぬか。どのような理由があって、あれほどのアカイアの将兵を虐殺したのでしょうか。
もしわたくしがアレスめを手厳しく打ち懲らして戦場より追い払いましたら、あなたはご立腹になりましょうか」
ゼウスは答えた。
「よかろう、戦利を集めるアテネを彼に立ち向かわせるがよい」
ヘーラーはすぐさま馬に鞭を当て、たちまちのうちにスカマンドロス河畔に降り立った。

二神が戦場にたどり着くと、ちょうどアルゴス勢がディオメデスを中心にしてトロイアの攻勢を耐えているところであった。
白い腕の女神ヘーラーは大音声で知られる勇者ステントルの姿を借りると、
「恥を知れ、アルゴス勢よ!貴様らは姿こそよけれ、中身は腐った腰抜けばかり。
アキレウスが戦場にあったころは、トロイア勢は彼を恐れてダルダノス門から出てくることはなかった。それが今は、われらの船のそばで戦っているではないか!」
と叫び、ギリシア勢の戦意を煽る。一方、眼光輝く女神アテネはディオメデスの傍に立った。ディオメデスはパンダロスの矢で受けた傷を冷やしていた。
アテネは呆れて言った。
「テューデウスは不肖の息子を生んだものだ。テューデウスは小柄だったが立派な戦士だった。
わたしはある時彼に、おとなしくしていろ、戦うなと忠告したことがあったが、彼はそれでも戦いを挑み、勝利してみせたものだ。
しかしお前は私の加護がありながらそのようにふがいないざまだ。それでも剛勇テューデウスの子か?」
ディオメデスは答えた。
「私はあなたのお言いつけを忠実に守っているだけです。あなたは、神とは戦わず、ただアプロディーテー女神のみと戦うようにとおっしゃいました。
いま戦場で暴れているのはアレス神です。ですから、私は引き下がり、アルゴス勢にもそう命じたのです」
アテネは笑った。
「テューデウスの倅よ、お前は愛い奴だな。私が何か言ったからとて、アレスなど恐れることはない。いやいかなる神も恐れることはないぞ、
私がお前に味方しているのだから。真っ先にアレスに向かって戦車を走らせ、間近から一突きを食らわしてやるがいい」
そして、ステネロスを戦車から降ろすと自ら戦車に飛び乗り、鞭と手綱をつかむとまっしぐらにアレス向け馬を走らせた。

アテネはアレスに近づくと、姿を隠す「冥王の兜」を被った。アレスは今しもアイトロイ勢の巨漢ペリパスを討ち、武具を剥ぎ取ろうとしていたが、
ディオメデスの姿を見ると、アポロンとの約束を思い出しそちらへ襲い掛かった。そして彼めがけて鋭い槍の一撃を繰り出したが、アテネがそれをつかんで突き放す。
瞬間、ディオメデスが槍を繰り出した。アテネがその槍をアレスの腹に導く。アレスの肌が切り裂かれ、彼は戦場全体に轟く恐ろしい絶叫を放って天に駆け上っていった。
アレスは、ゼウスにアテネの行いを告発するが、逆にゼウスに一喝されてしまう。
ヘーラーとアテネも目的を達すると天へ帰っていった。


◇第一日・その4(第六歌)

神々の介入は終わったが、ギリシアとトロイアの戦いは続く。
まず大アイアスが、トラケ族第一の勇士アカマスを投槍で仕留めた。次いでディオメデスがアリスベのテウトラスの子アクシュロスと従者カレシオスを倒す。
ディオメデスの配下エウリュアロスも、ドレソス、オペルティオスを倒し、さらにアイセポスとペダソスの後を追った。
ラピタイ族のペイリトオスの子ポリュポイテスはアステュアロスを討ち、オデュッセウスはペルコテのピデュテスを、大アイアスの異母弟テウクロスはアレタオンを討ち取る。
アンティロコスはアブレロスを、アガメムノンはエラトスを、ボイオティアの勇士レイトスはピュラコスを、テッサリアのエウアイモンの子エウリュピュロスはメランティオスを倒した。

さらに、メネラオスが予言者メロプスの子アドレストスを追撃してこれを生け捕りにする。アドレストスは命乞いをし、メネラオスもこれを許したが、そこへ兄がやってきた。
「メネラオスよ、敵に情けをかける必要があるのか。おまえがトロイアを訪れたとき、奴らがおまえをもてなしてくれたというのか(注)
トロイア人は、たとえ胎児であろうと、それが男ならば許してはならん。彼らは一人残らず、このイーリオンから殲滅してやらねばならんのだ」
アガメムノンの言葉にメネラオスはうなずき、アドレストスを突き飛ばした。アガメムノンがそれを槍で一突きし、息の根を止める。
老雄ネストールが叫んだ。
「アレスに仕えしダナオイの勇者たちよ、多くの戦利品を持ち帰りたいと思うあまり、武具を奪うことに夢中になって後ろに残ってはならん。
まず敵を倒せ!そうすれば戦の後、戦場に転がる死体から、ゆっくりと武具を剥ぐことが出来ようからな!」

トロイア勢の不利を見てとったプリアモスの子、予言者ヘレノスはその時、ヘクトールとアイネイアスに進言した。
「われらの戦いの帰趨はひとえにあなた方の働きにかかっています。まずは全軍を督励し、ダナオイ勢を防ぎとめるのです。
その上でヘクトールよ、あなたは城へ戻り、われらの母上(ヘカベー)に伝えてください。パラディオンを納めるパラス・アテネの神殿に赴き、
イーリオンの民への憐れみと、あの獰猛なテューデウスの子の排斥を祈願してくださいと。
私は今まであの男がこれほどまでに恐ろしいとは思わなかった。アキレウス以上だ、あの男には誰もかなわない」
そこでヘクトールたちは戦車を降り、軍中を駆け回って将兵を激励し、彼らの戦意を呼び覚ました。かくてトロイア勢はギリシア勢を受け止め、押し返す。
それを確認したヘクトールは、一旦イーリオン城へと引き返していった。

さて、サルペドンとともにリュキアの精兵を率いるヒッポロコスの子グラウコスは、猛威を振るうテューデウスの倅ディオメデスを見つけると、
まっしぐらにそちらに向かった。ディオメデスもそれに気づくとグラウコスに向かい、両者は対峙した。ディオメデスが呼ばわる。
「なかなかの勇士と見受けるが、どこの何者か。これまで貴公の姿を戦場で見かけたことはないが、わが槍を前にしてたじろがぬところを見ると、
余程の肝の太さの持ち主であろう。わが剛勇に立ち向かう男の親は哀れだな。もし貴公が天空から天下られたいずれかの神であれば争う気はないが、
畑の稔りを口にする人間ならば、もっと近くに寄ってくるのだ。そうすれば早くこの世から別れられようぞ」
グラウコスは答えた。
「テューデウスの子よ、どうして私の素性を訊ねるのか。人の世の移り変わりは、木の葉のそれと変わりがないのに。しかしどうしても知りたいというのであれば、
お教えしよう」
そして、グラウコスは自分の系譜を語り始めた。

グラウコスの祖は、大洪水を生き延びたデウカリオンとピュラーの孫アイオロスの子シーシュポス。エピュラ(コリントス)の創建者。
彼は人間のうちでもっとも狡猾な男で、大神ゼウスをも騙したことがあり、罰として、地獄において急坂の岩を押し上げる刑罰を科されている。
今一息のところで岩は転げ落ち、彼は未来永劫これを繰り返さねばならない。
シーシュポスの子グラウコスの子がベレロポン(あるいはベレロポンテス)。
テュポンとエキドナの子で、体の前は獅子、後ろは蛇、胴は山羊で口からは烈炎を吐き出す怪物キマイラを、天馬ペーガソスに跨りその背を矢で射て仕留めた。
またソリュモイ人を討ち果たし、アマゾネス族を殲滅した。リュキアの王となり、イサンドロス、ヒッポロコスの男子と、娘ラオダメイアを得た。ラオダメイアはサルペドンの母。
ベレロポンはのちに天に登らんと欲し、ペーガソスを駆って天に向かったが、これを不遜としたゼウスはペーガソスに虻を放って彼を振り落とさせた(あるいは雷霆で打った)。
墜落したベレロポンは不具者となって余生を過ごした。
彼の子のうち、イサンドロスはソリュモイ人との戦いで戦死し、ラオダメイアはサルペドンを生んだあと死んだ。次子ヒッポロコスの子が、グラウコスである。

「・・・父は私を送り出す時、常に最高の手柄をたてよ、わが祖先はエピュラ、リュキアにて並びなき勇士と称えられた方、その家名を辱めてはならぬと言われた。
私の家名と血筋は以上だ」
これを聞いたディオメデスは大いに喜んだ。そして手にしていた槍を地に突き立てると、穏やかな声で話しかけた。
「それならば、貴公は父祖の代からの古い友人だ。
その昔、わが祖父オイネウスは、勇士ベレロポンを二十日もの間館に引き止めもてなした。そして、友情のしるしに互いに見事な品を贈り合ったという。
ならばわれわれは、戦場で槍を交えることは避けることにしよう。互いに、ほかに討ち取ることのできる相手は沢山いるのだからな。
さあ、皆にわれらが先祖以来の友人だと示すために、武具を交換しようではないか」
二人は戦車を降り、手を握り合って誓いを交わした。しかし、そのとき身に着けていたのは、グラウコスは黄金製だったが、ディオメデスは青銅製だった。
よって、ものの価値としてははなはだしく不公平な交換となった。

さて、ヘクトールはイーリオン城へ戻ると、プリアモスの宮殿に向かった。すると、ちょうど母ヘカベーがその娘ラオディケと出てくるのが見えた。
彼は母に、女たちを連れてパラス・アテネの社に赴き、トロイアの無事とディオメデスの駆逐を祈っていただきたいと頼む。
ヘカベーは承知し、自らの持つもっとも美しい衣裳を取り、女たちと共にアテネ女神の社に赴いた。女祭司であるアンテノールの妻テアノが彼女らを迎え入れ、
女神の像に衣裳を捧げて祈願したが、パラス・アテネはこれを聞き入れなかった。

一方ヘクトールはパリスの館に向かった。パリスはヘレネーの部屋にいた。
ヘクトールは激怒した。
「兵士たちはこの城壁の周りで戦い死んでいるのだ。この城がこういう運命にあっているのもみな、お前のためなのだぞ!さあ立て!」
パリスは恥じ入り、すぐに後を追うから先に行ってくれと言う。しかしヘクトールは口も聞かずにそこへ立ったまま。ヘレネーがとりなそうとするが、
ヘクトールは彼女にパリスを急がせるように言い聞かせると、自らの館へ向かった。
しかし、妻アンドロマケーの姿はなかった。小間使いに訊くと、戦況を心配して城壁の櫓へ向かったとのこと。
ヘクトールはスカイア門へ向かった。

彼がスカイア門に着くと、アンドロマケーが走りよってきた。傍らの侍女がヘクトールの子・アステュアナクスを抱いている。
妻は、夫の身を案じ、このまま櫓にとどまってくださいと懇願するが、ヘクトールは、それは出来ないと言い、息子を抱いて祝福した。
そして涙にくれる妻を撫でながら諭し、館に帰す。館に帰り着いたアンドロマケーは、侍女たちと共に夫を悼むように泣いた。

スカイア門のヘクトールのもとに、準備を整えたパリスが駿足を飛ばして追いついてきた。二人は共に門を出て行く。


◇第一日・その5(第七歌)

ヘクトールとパリスは猛然と城門を飛び出すと、たちまち戦場に姿を現した。
まずパリスがアレイトオス王の子、アルネの住人メネスティオスを打ち倒す。ヘクトールもエイオネウスを槍玉に挙げた。
勢いづいたトロイア勢は、さらにリュキアのグラウコスがデクシオスの子イピノオスに槍を投げてこれを仕留める。

これを見たパラス・アテネはオリュンポスの峰を駆け下りると、イーリオンへ向かった。イーリオン城の上からこれを見つけたアポロン神は女神のもとへ急ぎ、
二神は樫の木のもとで向かい合った。アポロンが言う。
「ゼウスの娘よ、何を気負い立ってやってきたのだ。ダナオイ勢を勝たせようという心積もりか?だが、今日のところは両軍を退かせてはどうかな。
彼らは後日、イーリオンの命運尽くまで戦わせてやればいい。どうせそれがあなたたち女神の願いなのだから」
アテネもうなずいた。
「遠矢の神よ、ではそうしよう。私もそう思って降りてきたのだ。だが、どうやって戦いをやめさせる?おまえに何かよい案があるのか」
「ヘクトールを奮起させよう。彼に、ダナオイ勢の勇士に一騎打ちを挑ませるのだ。そうすれば、ダナオイ勢もそれに負けぬ勇士を出してくるであろう」
二神は互いに同意した。

プリアモスの子、予言者ヘレノスはこのありさまを心の耳で聞いた。そしてヘクトールにそのことを耳打ちする。
ヘクトールは奮起し、勇躍最前列へ出向くと、長槍を振ってトロイア勢の軍列を止めた。これに応じてギリシア勢の総大将アガメムノンも軍を止める。
両軍はともにその場に腰を下ろして座り込んだ。
ヘクトールは両軍の間に出て行き、全軍を代表しての一騎打ちを申し込んだ。
ギリシア勢は、これを受けぬのは恥辱と思いつつも彼が恐ろしく、誰もこれに応じない。
これを見てメネラオスが怒って立ち上がった。
「あなた方は口ではたいそうなことを言うが、アカイアの男とはいえぬ、アカイア女ばかりだ。今われらから誰も彼に立ち向かわねば、これに勝る恥辱はない。
あなた方は汚濁にまみれて座ったまま、水と土に帰るがいい。私が彼の挑戦を受けよう・・・」
そして武具を身に着け始めた。
アガメムノンと将領たちがあわててメネラオスを止め、やっとのことでなだめる。メネラオスではとてもヘクトールにはかなわないからだ。
このとき、老雄ネストールが立ち上がった。
「いやはや、アカイアの国にとって、なんと悲しむべきことが起こったことか。ヘクトール一人の前にアカイア勢がそろって腰砕けとは、
これではペーレウス殿(アキレウスの父)も、声をあげて嘆かれることじゃろう。
せめてわしに若いころの力があれば、輝く兜のヘクトールにも戦う相手ができるのだが。
だがお前たちにの中には、進んでヘクトールに立ち向かおうという気概のある奴はいないのだな」
老人にここまで言われては、さすがに黙ってはおれない。九人の将領が立ち上がった。
総大将アガメムノン、ディオメデス、両アイアス、イドメネウスとメリオネス、エウリュピュロス、トアス、そしてオデュッセウス。
ネストールは彼らに向かい、籤を引いて一人を選び出すように言う。早速各々の籤が作られ、アガメムノンの兜に入れられた。
ネストールが兜を振ると、そこから躍り出たのは、大アイアスの籤であった。

自らの籤を確認したテラモンの子、誉れ輝くアイアスは勇躍青銅の甲冑に身を固め、颯爽と一騎打ちの場へ向かった。アルゴス勢は天に向かって祈る、
「父神ゼウスよ、願わくばアイアスに勝利を賜り、輝かしき栄誉を得しめたまえ。
もしヘクトールをも愛しその身を気遣われるならば、両人に同じ力と誉れを授けたまえ・・・」
ギリシア勢随一の巨漢であるアイアスは、獰猛な面に笑みを浮かべ、大楯を構え、長槍を振り回しながら大股に歩いてゆく。これを見たアルゴス勢は狂喜したが、
一方のトロイア勢は怖れて身を震わせた。ヘクトールすらも心中穏やかでなかったが、退くことはできない。
テラモンの子アイアスはヘクトールの前に立つと言い放った。
「ヘクトールよ、この一騎打ちにておまえにもはっきりわかるはずだ、ダナオイ勢には獅子のごときアキレウスのほかにも手ごわい勇将たちがいるということがな。
アキレウスはアガメムノンとの遺恨により船の陣屋で無聊を囲っているが、わが方にはおまえに太刀打ちできる者などいくらでもある。
さあ、おまえから仕掛けて来い!」
輝く兜の偉大なるヘクトールは言った。
「テラモンの子アイアスよ、わたしをか弱い女子供のように見ることはよすことだ。わたしは戦の術も、人を殺す術も心得ている。
楯を自在に捌くこともできるし、駿足の馬牽く戦車の群れに突撃する事も知っている。白兵戦では残忍なるアレス神の前に戦踊りを踊って見せることもできるぞ。
だが、わたしはおまえほどの男に隙を狙って打ちかかる真似は好まぬ、正々堂々とやってみたい」
そして影長く曳く槍を構えると、アイアス向けて放った。

ヘクトールの槍は、アイアスの持つ七枚皮の大楯の上に八枚目の層をなす青銅板に撃ち当たった。穂先はそのまま六枚の皮を貫き、七つ目の皮で止まる。
次いでアイアスが影長く曳く槍を投げた。槍はヘクトールの楯に当たるとこれを貫き、胸当てをも通して脇腹をかすめ肌着を切り裂く。
ヘクトールはとっさに身をよじって致命傷は避けた。
双方は槍を引き抜くと猛然とぶつかり合った。プリアモスの子ヘクトールは手槍を揮って大楯を撃ったが、アイアスの楯はこれを弾き返した。
アイアスがヘクトールの楯を突くと、楯はもろくも貫かれ、槍の穂先がヘクトールの頸をかすめた。血がしたたる。
ヘクトールはひるむことなく、後ずさって大石を持ち上げるやアイアス目がけて投げつけた。青銅の音が辺りに響き渡ったが、楯は破れない。
アイアスも負けじとさらに大きい石をその豪力で持ち上げ、ヘクトール向け投げつけた。ヘクトールの楯は内側まで破れ、彼はそのまま楯の下敷きとなってしまった。
ここでアポロン神がヘクトールに加勢してすぐに立ち上がらせた。二人はさらに撃ち合おうとしたが、
ここでトロイア方からイダイオス、アカイア方からタルテュビオスの二人の伝令使が飛び出して、争う二人の勇士の前に杖を差し伸べた。

イダイオスが言った、
「若殿方、今はもう戦いはおやめ下さい。お二方は立派な勇士、ゼウス神はお二人をともに愛しておられます。
それに、今やもう夜になってしまいました。『夜』の言うことを聞くのも悪くはございますまい」
アイアスが答えた。
「その答えはヘクトールにさせよ。われらに戦いを挑んだのはヘクトールなのだから、彼が先に答えるべきだ。わたしは喜んで彼の言うとおりにするぞ」
これに応じてヘクトールが言った。
「アイアスよ、おまえがアカイア軍中に槍をとっては無双の将だとわかった以上は、今日は戦いを中止しよう。
神がわれらのどちらかに勝利を授けられるそのときまで、勝負はお預けということだ。もう夜ということもある。
そうすればおまえはアカイア勢、とりわけ配下の軍勢を喜ばせることができようし、わたしもトロイア人を喜ばせることができる。
ところで、互いに何か立派な品を贈りあおうではないか。そうすればいつかこう言ってくれる者もあろう、
『あの二人は命がけの決闘をしたが、和解して和やかに別れて行ったのだぞ』と」
そして銀鋲打った剣を鞘ごとと、見事に裁った吊り革とを手にして贈った。アイアスはお返しに真紅の色も鮮やかな帯を与えた。
かくて二人は別れ、各々の陣営に帰っていった。

アイアスはアカイア勢の喝采を受けつつアガメムノンの元へ帰還した。
総帥アガメムノンは彼らをねぎらうべく、五歳の牡牛をゼウスに贄として屠り、それから切り分けて焼き上げ、皆で食事をした。
アイアスには長い背肉を与え、その武功を讃えた。
食事が終わるころ、老ネストールが立ち上がって言った。
「アトレウスの子ならびに全アカイアの大将たちよ、いまや髪長きアカイア勢の多くが戦死し、スカマンドロス河畔に血を撒き散らしておる。
さればアガメムノンよ、あなたは夜明けとともに、アカイア軍に戦いを止めさせるのが良かろう。われらは彼らの亡骸を集め、牛と騾馬に積んでここへ運ばせよう。
そしてその遺体を焼き、われらが帰国するときに、骨を持って帰れるようにしたい。
亡骸を焼いた所には、原から土を運んで戦死者のための塚を造ることにしよう。
さらに、この塚に接して、船とわれらを守る高い防壁を早急に造りたい。そしてその周りに濠を掘れば、驕慢なトロイア勢もおいそれと押し入ってはこれん」
一同はこれに賛同した。

一方トロイア方では、ヘクトールがアイアスの前に敗れたことで議論が紛糾していた。
和平派のアンテノールが言った。
「アルゴスのヘレネーをその財宝とともにアトレウスの子らに送り返し、連れ帰らせようではないか。
現在、われらは誓約を破って戦をしているのだ。こうでもせねば、われらに益あるようにはなるまい」
これを聞いてヘレネーの夫、アレクサンドロス(パリス)が立ち上がった。
「それは承服できぬ。本気でそのようなことを言っているのであれば、それは神々があなたの頭を狂わせてしまったからに違いない。
わたしは今の提言を断固として断る。妻を返すつもりはない。だが、アルゴスから持ち帰った物はすべて返却しよう、それにわが家の財宝を付け加えても良い」
彼が腰を下ろすと、ダルダノスの後裔、その深謀神にも劣らぬプリアモスが立ち上がって一同に語りかけた。
「さしあたって今は、平常どおり食事をとり、警備を怠らず、眠らずに待機してくれ。夜が明けたらイダイオスを敵の船へ遣り、アレクサンドロスの言葉を伝えさせよう。
さらに、われらが遺体を焼き終えるまで、厭うべき戦いを止めることを先方に提言したい。
その後はまた戦うことになろう、神がわれらに判定を下し、いずれかに勝利を授けられるまで・・・」
王の言葉を聞き、一同はそれぞれの部隊に戻って食事をした。

夜が明け、イダイオスはダナオイ勢の船陣に向かい、彼らの集会の中でアレクサンドロスとプリアモス王の言葉を伝えた。
一同は静まり返ったが、それを破ったのは大音声の誉れも高きディオメデスだった。
「この際なんぴともアレクサンドロスから財宝を受け取ってはならぬ。いや、ヘレネーすらだ!
いかに愚かな者にもわかるはずだ、すでにトロイア方には破滅の綱がしっかりと結わえ付けられているということが!」
アカイア人らは一斉に歓声を上げた。アガメムノンはイダイオスに向かって言った。
「答えは今のとおりだ、わしもそれでよいと思っている。しかし遺体を焼くことに対してとやかく言うつもりは全くないぞ。
戦死者の遺体については、一刻も早く火葬に付して霊を慰めることに意義を唱える道理はない。
休戦の誓約に対しては、ヘラの夫君、雷を轟かすゼウスに証人になっていただこう」
そして手に持つ杖を神々に向かって高く掲げた。イダイオスはイーリオンへと帰っていった。

イダイオスが復命すると、トロイア人は遺体の収容と薪の調達に出発した。アルゴス勢も同じく遺体の収容と薪の調達に出かける。
両軍は戦場で顔を合わせたが、矛を合わせることなく各々の戦死者を収容して別れた。
互いに悲しみつつ遺体を焼いた後、両軍は帰還した。

次の日、アカイア勢は戦死者のための塚を築くと、さらに防壁を造り始めた。
神々はこれを見て目を見張っていたが、大地揺るがす神ポセイドンが口を開いた。
「ゼウスよ、アカイア人はあれほどの防壁を築き濠をめぐらしておきながら、われらには神意を尋ねず、生贄をささげることもしなかった。
このままでは、この防壁の評判は曙の光の広がる限りまで伝わり、人間どもは、わたしとポイボス・アポロンがラオメドン王のために築いた城壁のことなど忘れてしまうでしょう」
雲を集めるゼウスはむっとして答えた。
「そなたほどの者がそんな事を言うものではない。そなたより権勢がはるかに劣る神ならばこの企てに恐れを抱くかも知れぬが・・・
アカイア人が故国へ帰る際には、構わぬから壁を粉々に叩き潰してことごとく海に投じ、再び長大な浜辺を砂で覆ってやれ、おまえの望みどおりにな」
夕方、防壁は完成し、アカイア勢は夕食をとった。そこへレムノス島から多数の船によって葡萄酒が運ばれてきた。
これを遣わしたのはアルゴナウテースの長イアソンとヒュプシピュレーの子エウネオスだった。
兵士たちは青銅、鉄、牛の革、生きた牛、奴隷と引き換えに酒を調達した。

その夜、ゼウス神はアカイア・トロイア勢に禍難を企み、凄まじい雷を鳴らせ続けた。
・・・そして、再び戦闘がはじまる。


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