白い旋律


………多分、子供の『大人に対する憧れ』みたいなものだったんだろうな、と自覚出来たのは、かなり後になってから。

 今日、香港にある人が俺達を尋ねてやってきた。俺達、というよりは、真の目的はもっと先にあるようだったけど……「香港島の李氏双龍兄弟」に用があると、俺達の事を探していた。
 その人は、女性だった。かつて、地下組織に単身乗り込んだという北京出身の元ICPOの女刑事の話を噂から語り話の様に聞いたことはあったけど、どうもその御当人らしい。街頭野試合にも手慣れた人物だとは聞いていたし、歳的にも、俺に話をしてくれたケン・マスターズ等は「いい小母さんだ」と言っていた…逆に隆等は「歳を感じさせない、素晴しく強烈な蹴り技の持ち主だ」とも聞いていたが…俺は功夫教室で会った事のある、大陸の國術体育連盟の指導員の様な初老の人物を想像していた。最も、双児の兄であるユン等は「どうせ年増のババァだろ」等と馬鹿にしていたりはしたけど。
 しかし、約束の灣仔近くのストリートのビルの屋上に行った時にいた人物は、想像していた姿とは全く違っていた。女性としては長身で、バランスの取れた体格、如何にも蹴り技の得意そうな足、如何にも功夫を積んだであろうという重圧感。そして、俺達より10以上は歳上な筈だが、ユン風にいう「小母さん」という処を全く感じさせないものがあった。この儘何年も経っても変わらないであろう、と思える様な綺麗な女性だった。
「貴方達が、香港の『双龍』ね。一つ、聞きたいことがあるんだけど」
 落ち着いた口調で彼女が切り出した。
「何の事かは知らねぇけど、タダでは答えたくねぇなぁ」
 強そうな相手だったら、とにかく戦って見たい、という意欲が丸出しなユンは、帽子を深くかぶり直しながらそう言った。
「そう言うと思ったわ……ケンから聞いた通りね。いいわ、私と戦って勝ったら聞かせて貰うことにしましょう。まずは貴方から?」
 ユンに向かってそう聞く。
「知れたこと!」
 ユンが真っ先に飛び出すのは判っていた。それに、俺は彼女の動きを見て、どういった戦いをするかも見てみたいと思っていた。俺は一歩下がり、ユンと彼女の路上格闘の様子を見届けることにした。
 ユンの無鉄砲な様で相手の小さな隙を突く動きに動じることもなく、重みのある蹴りと、強烈な発勁。無駄のない動き。一つ一つの動きが、舞っている様な、戦っている様な…ユンの攻撃にも胆を抜かれたような部分はあったが、ユンの足元の隙を狙い、蹴りの連続を決めて最後に蹴り上げた時、勝負は着いた。
「謝々」
 息一つ派手に乱さず、南拳北掌・普通語でユンに向かって一礼をすると、ひっくり返ってまだ起き上がっていないユンに向かって一言言った。
「攻めることばかり考えているから、足元がお留守になるのよ」
 何時もならユンを起こすのに真っ先に飛び出している自分が、彼女に見惚れて一瞬動きが遅れた。その一言を聞いて我に返ってユンの元に走った程だ。
「あ…哥哥!大丈夫か?!」
「……っつつ…流石に噂以上の蹴り技だぜ…」
 ユンが腿の辺りをさすりながら半身を起こすと、彼女が歩み寄ってきた。
「約束よ。私が聞きたいこと、教えて貰うけど?」
 近く迄来てユンを見降ろす彼女を見た。
「『地下組織』の噂。黒社会の方とも情報交換をした貴方達なら知ってるんでしょう?」
 言い方は静かだが、何か逆らえない威圧感を感じる。
「……組織の本体が、欧州地中海付近の島に隠れていること位までしか掴めてねぇよ……俺達だってまだ調査してる途中だって」
 不貞腐れてユンはそう答えるだけだった。相手はとてつもなく強いのは認めているが、こうも派手に完敗してしまったことにユンは不機嫌な様子だ。帽子を深く被って、彼女の視線から逃げる様にユンが歩き出してしまった。彼女の方はと言えば、一つため息を突いてユンの様子を見送っていた。俺は彼女とユンとを交互に見ながら立ち止まっていたが
「ヤンー!早く来い!」
 荒々しく声を立てる兄の後を追うしかなかったが、振り向いて彼女に告げた。
「2時間後、また此の場所でお待ちしています」
……南拳北掌で一礼してから、一度彼女の表情を見たが、承諾したのかは自分でも読めなかった。
「ヤンー!なぁにやってんだぁ!」
 ヒステリック気味に叫ぶので、慌ててその後を追っていった。彼女は、来てくれるだろうか…?

 

 家に帰って素直に晩飯が出来る迄、こんな不機嫌ですねている状態のユンが大人しく待っていられる訳がない。俺達はその足で、屋台通りに出店を出している慧梅の店に向かった。多少ツケを許してくれることもあれば、幼馴染みだけにこういった時のユンの対処の仕方にもすっかり慣れているし、おまけで大盛りにしてくれたりもするし…何より、ユンは無意識だが慧梅に好意を寄せているから、何かにつけてこの店を選ぶことが多いのだ。
「あら。ユン、ヤン、いらっしゃい」
 慧梅が笑顔で声をかけてくれたのに、ユンは無愛想に店内のカウンター席に座り込んだと思ったら、
「今すぐ肉包子と小龍包と青椒牛肉絲と蝦仁炒飯大盛り!」
「挨拶もなし?何むくれてんのよあんた……ヤン、何かあったの?」
 あきれて言い返す慧梅に、ユンは机を叩いて叫び返す。
「うっせぇなぁ!ハラ減ってんだよ!早く!」
 水を運んで来てくれた慧梅の妹の暁梅が、びっくりしてコップを取り落としそうになった。正直、その時のガラスの音を聞くまで、俺は彼等の言い争いを仲裁するのも忘れて、ぼーっとしていたのだった。
「……哥哥。負けてイラつくのは哥哥の勝手だけど、関係ない人まで巻き込むな」
 ぼけていたから気の抜けた様な言い方で(恐らく慧梅には呆れた口調に聞こえたかもしれないが)こぼした俺の言葉で、既に慧梅はユンに何が有ったのか悟ったようだった。
「はいはい、これ出しといてあげるから、大人しく待ってなさい……全く、それ位で暴れられたら困るわよ」
 大きな汁錦薬包(固焼の肉まんの様なもの)を一つ、ユンに差し出した。それを大口でかっ食らうユンと、文句を言いたげに、しかし暴れられない様、厨房にいる父に注文を告げて落ち付かせる慧梅。まだそのやり取りに暁梅が怯えているのにようやく気が付いた俺は、「ごめんな」と言ってコップを受け取るのだった。
 何時もなら反論されつつも、その戦いでユンがまずかっただろう事をつっこんでいる俺だが、何か今日ユンが負けた敗因が思い当たらなかった。闇雲に適当にばらまいているだけのユンの攻撃を、さっと流してその隙に与える綺麗なまでの蹴り技……その時の彼女の動きと、その表情とに見惚れていたから。
「……ヤン!ヤンったら!」
 幼馴染みに背中を叩かれるまで、俺は呼ばれていたことにも気が付かなかった。
「どうしたのよ本当に。ユンはヤケ食いに走るわ、ヤンも気が抜けたみたいよ」
 慧梅が俺の事をじっと見ていたが、俺はまだあの人の事を思い出していた。ため息を付く様に答えるだけだった。
「……ん、まぁ……強い女性(ひと)が居たんだ。その人に哥哥は完封なきまま大敗して、俺は……」
 そこ迄言うと、山の様な肉包子と小龍包を頬張りながら、ユンが口を挟んできた。
「何だとてめーは!俺がさも弱いみたいな言い方しやがって!」
 バン!と大きく机を叩いて俺の方を向き直すユンに、慧梅がすかさず叫んだ。
「あんたがそうやって調子に乗ってるから負けたんでしょう!そんな事で腹立ててる暇があったら、お得意の功夫でも積んだらどうなの!」
 普段なら俺が言うべき台詞を、慧梅に言われていた。そのお陰なのか、ユンと慧梅は何時も通りの言い争いに転嫁してしまっていた。
「何をぉ!」
 行儀悪く、口に頬張りながら立ち上がるユン。慧梅は慧梅で、何時手持ちのトレイでユンの頭を殴り出すか判らなくなった勢いだ。暫くはこの調子が続きつつも食事となるだろう……そんな様子を怯えながら見ていた暁梅が、俺の腕を指先で2回つついてきた。
「……ああ、どうした?」
「お姉ちゃん達また始まった……ヤンもどうしちゃったの?さっきから殆ど食べてないよ」
 心配そうに聞いた来た暁梅の頭をグシャグシャとかき回す様に撫でる。
「いや……考え事だよ」
 適当にそう答えておいてから、ポケットから財布を取り出し、数十HK$程置く。
「ごめん、俺は用があるから、一応これ位代金を出しておくよ。足りない分は、後で言ってくれれば払いに来るから。落ち付いたら、哥哥には先に帰ってろって言っておいてくれ」
 まだ何か言いたそうだった暁梅を放っておいて、俺は店を出た。

 

 あの女性が何を求めて、何を知りたくってこの街に来て俺達を尋ねてきたか……まずはその情報を仕入れないといけない。本人に聞くのが一番てっとり早いが、この場合、俺は彼女と約束をした時刻迄に彼女が知りたい情報を得て、交換条件にしたいと思っていたのだから、その方法は使えない。 頭脳労働は俺の管轄で、ユンは俺からもたらされた情報位しか知らないから、この交換条件なら有効だろう。
 幸い、俺達の下っぱの様にこまこま情報を提供してくる子供などもいるので、小遣い代りに硬貨をやれば、それなりの情報をくれる。他にも、街の噂やら……あまり取り引きはしたくない黒社会方向とか……俺は数人と話しをたり、そんな小遣い稼ぎの子供とかから話を聞いたりで、30分もしないうちに彼女がこの街に来た……と言うより立ち寄った真の目的と、その求めるものの先迄知ることが出来た。
 さて……と一息付くと、雨がちらつき出した。香港は亜熱帯なので、今の様な雨期にスコールが降るのは毎度の事だ。今は夜だから、熱気でほてった身体にはちょっとした清涼感を与えてくれることもあるが、だからといって濡れっぱなしでは風邪をひいてしまうし…今位の弱い雨脚なら、俺は傘を差して歩く事はない。それ以上に、この雨の中彼女は来るのか、そっちの方が気に係った。
 約束の時刻が近づいてきた…もう夜も遅く、近くの繁華街も大分明りが消えて暗くなってきている中、俺は夕刻にユンと居た場所に1人立っていた。自分が「来てくれ」と言ったからには、例え雨で向こうが来ないだろうとしても、待っているのが礼儀だ。俺は、先程の彼女の戦いと、その動きとを思い返していた。舞う様な美しい動き、功夫の度合いが判る強烈な発勁、戦う相手を見つめる、綺麗な目つき。唯、彼女と戦っていたいという欲求だけでなく、あの綺麗な眸で自分を見て欲しい、といった感情もない訳でなかった。彼女の技を思い出そうとしても、何故かぼんやりとそういう事が頭をよぎる……一体、俺はどうしたんだろう。
 そんな時、水溜まりを歩く足音が聞こえて、俺は音の聞こえた方に顔を向けた。
「……春麗さん」
 定刻通り、彼女はこの場所にやってきた。
「ユンよりも貴方の方が色々知っているって事、きちんと隆達から聞いていたわ。改めて呼び出したって事は?」
 綺麗な眸が俺を見つめていた。出来るだけ、表情を消して俺は言った。
「俺は、貴方が知りたいことを知っています。その情報を提供する代りではないんですが、俺と…」
 そこ迄言いかけた時、彼女が俺の言葉を遮った。
「私と戦って欲しいって事でしょう?貴方の目を見れば判るわ」
 その言葉に、一瞬胸が鳴った。俺自身、ポーカーフェイスを心掛け、決して回りに悟らせない様にしている筈が、彼女に見透かされてしまっていた…『彼女が』見透かしていた事に。でも、心の底で何か嬉しい気持ちが込み上げてくる。
「そうやって隠しているつもりで、何時もはユンの後で控えていても、心の底は彼と同じなんでしょう?」
「……」
 図星を突かれた俺は、全く言葉が出なかった。
「条件はOKよ。それじゃぁ、あまり雨が強くならないうちに始めましょう」
 彼女にそう言われて、俺は改めて彼女に南拳北掌(胸の前で左の拳を右の手で包むようにしする)で一礼をすると、彼女も同様、南拳北掌で一礼してくる。
「いくわよ」
 言って、軽く構えをとった……俺も虚歩(腰を軽く落し、効き足と逆の足を前に出して踵を上げた姿勢)の構えで彼女に対時した。完璧なまでに隙が見えない。そして、真剣な…綺麗な眸がまっすぐ俺だけを見つめていた。
……彼女が、自分『だけ』を見ている……
 そういう感覚に囚われそうになり、一瞬気をとられてしまった為か、気を練り出した「気功拳」を放たれた時、反応が遅れた。何とか防ぐ事は出来たが、既に彼女が空を切って踵を落して来たのが見えた。
「ハッ!」
 この踵も何とか防ぐことが出来た……しかし、防いだ腕がビリビリと痺れてくる……隆に聞いた通り「素晴しく強烈な蹴り」だ。気を抜けない…彼女は、素晴しく強い。結果はどうなってもいい、彼女と全力で戦いたいと思った……あの綺麗な眸が、ずっと俺を見てくれる。
 彼女が起き上がるより先に、俺は底蹴腿を放ち、そのまま蟷螂斬へとつなげる。この攻撃に彼女は防御が間に合わず、転倒した。
 更に俺は素早く駆けこんで、白虎双掌打を叩き込もうとしたが、その頃には彼女の方も起き上がり、発勁を放ってきた。
 ドン!
 お互いの勁力がぶつかり合って、二人で同時に転倒した。俺は何とか受け身を取って起き上がった……彼女も受け身を取り、坐盤式(両方の足を横に広げて腰を落した姿勢から状態を逆足方向にひねり腰を落した姿勢。軸になっている利き足の膝を逆足の後で地面に付けて身を屈めている)で俺の出方を探っている状況だ。
……何処から攻めれば…
 ユンと戦っていた時の彼女の攻防を思い出す……ユンが闇雲にばら捲いた攻撃は、あっさりと返されていた。向こうに付け入る隙がないなら、こっちが虚を付いて向こうを動かすしかないのだろう…彼女の眸がまっすぐ俺を…俺の動きを見ている。
……この女性(ひと)は、その真剣な眼差が一番綺麗だ…
 ふと、気を抜いた瞬間、彼女の方が動き出した。そのしゃがんだ姿勢から両腕をついて、寸勁を放ちながら勢い良く身体をひねって蹴りを放ってきた。
「Spining bard kick!」
身体を回転させながら、カポエイラの様な蹴りを放ってくる。もの凄い勢いだったが、動きが見えたので防御が間にあった。しかし、強烈な蹴りの連続で本当に両腕が痺れて、だるくなりかけてきた。
……まずい、この儘いけば、俺は満足に拳を放てなくなる!
……もしや、彼女の狙いはそこにも?!
 考えていたら、彼女の地を這う様な拳が放たれ、俺は足元を取られ転倒する。
……足技を或る程度封じなければ勝気はない!
……奇襲をかけ、転身穿弓腿を放つしか…!
 俺は受け身を取って起き上がり、続けて尖杖蹴を狙ってくるのを勢いよく飛び上がって交わした。
「?!」
 彼女が一瞬上を見上げた時、雷撃蹴で奇襲を仕掛ける。素早く着地して、底蹴腿を放とうとした時……
「哈ーッ!」
 彼女が大きく両腕を振り上げ、息を吸い込む。強い震脚と共に振り降ろして胸の辺りで止めた両手から強烈な「氣」を放ってきた!
「気功掌!!」
「うわぁッ!!」
 その強烈の「氣」の力で俺は大きく後に吹き飛ばされた。受け身もとれずにビルの屋根に叩き突けられて、一瞬息が出来なかった。
……勝負あった…
 あまりの功夫の違いを見せつけられた事に、俺は彼女への「惨敗」を認めた。フラフラと半身を起こすと、彼女が歩み寄ってきていて手を差し伸べていた。
「唔該…」
 その手を取る事が照れ臭かった。しかし、戦っている時と違う眸で俺を見つめている方がもっと照れ臭く、目をそらしてその差し出された手に甘えた。
「いい攻防だったけど、考えながら戦ってると、一瞬づつ遅れるのよ。だから、隙が出来るの」
 俺は立ち上がって、彼女に南拳北掌で礼をする。
「…………唔該」
 顔を上げると、彼女が何かをいい出す前に俺の方から手早く口を開いた。そうでもしないと、またこのひとに戸惑ってしまいそうだったから。
「春麗さんが探している、行方不明になった子供の件です。世界にまたがる『地下組織』の『総統』とか呼ばれる人物が、メキシコの『エル・タヒン古代都市』遺跡の奥地の方で潜んでいるそうです。どうも先導しているのはこの人物の様で、組織の本部の方はまだ場所の限定が出来ていない状況ですから、こちらの方が確実なのは事実です……」
 目を合わすのが怖くなって、俺は附いた儘べらべらと言い続けていた。此処迄言ってから、恐る恐る顔を上げると、驚いた表情で俺を見ていた。
「私の目的まで調べられるなんてね……」
「失礼とは判っていますが、此処で直接お会いする前に事の前後を掴めたので……すみません 」
 俺は深く頭を下げた。
「いいえ、教えてくれて本当にありがとう」
 俺の両肩に彼女の掌の暖かさを感じた。頭を上げると、もうすぐそこに彼女の顔があって、自分でも判る位頬が上気していったのが判った。
「……い、いえ……!」
 祖父やユン、精々慧梅以外に、こんな感情を露にしてしまったことはまずない。慌てて飛び退いて、彼女から離れてしまった。そんな俺の様子に、彼女の方は何か懐かしそうな表情をしていた。
「まだ、貴方は学ばないとならない事が沢山ある筈よ。『街を守る』っていう目的が有るなら、沢山吸収出来る事はあるから……ユンにも、頭が冷えたらそう言っておいて欲しいわ」
 功夫教室の子達の事に対して教えている様な感じの言い方だった。自分がもう「一人前になった」とか考えていた事が恥ずかしい程、「まだ子供なんだ」と思わされた様な。恥ずかしくなって、顔を上げる事が出来ず附いてしまった。
 雨もかなり弱りはじめ、夜も遅くなってきた。俺は南拳北掌で彼女に深々と礼をして、帰路に着いた。

 

「ヤン、なぁ〜〜〜〜にぼけてんだよ!」
 こつん、とユンが俺の頭を小突いてきた。昨日の今日だが、立ち直りの早いユンは早速俺の部屋迄来て、誘いをかけに来たのだろう。
「お前、昨日は勝手に先に帰りやがるし……何やってたんだよ?」
「別に………哥哥だって、どうせあのまま暁梅か誰かが止めるか、慧梅が殴るかまで喧嘩続けてたんだろ?何時もの事だ」
「何だよ、それ!勝手に決めるな」
「……でも、何時もの事だろ?」
 ぶうぅ、と頬を膨らます。この辺り、まだユンが子供っぽいと思われる処だと俺は思う。ユンは反論しなかった。俺はそのまま、手にしていた分厚い國術技法書なんぞに目を戻したが、書かれている事を読むでもなし、唯、あの夜の対戦と、彼女の言葉だけが頭の中を渦巻いていた。
「頭にはいんねー状態で理論だけ見たって、ちっとも判りゃしねーだろ?今から実践しようぜ!」
 ……このいい天気に、家の中でじっとしていられない性分のユンだ。要するに、散打のお誘いである。実際、技法書の内容は頭を素通りしてしまっているのだが、何だか気が抜けてしまったみたいで、今の俺にはユン程外の活力がない。そしてまた、昨日の彼女の事を思い出すのだ。
「……ヤン、お前さー。あのオバハンにホレたんじゃねー?」
 その言葉にカチンときて、荒々しく声を上げた。
「そういう言い方をするな!」
 持っていた技法書をユンに投げつけようと、高く持ち上げた。
「おいおい!冗談だって!ヤンちゃん落ちつけ!」
 俺が暴れ出しそうになる前に、ユンが俺の右腕と技法書を両手で受け止めた。
「冗談にも程がある!」
 平然と言い返したつもりが
「図星だな、顔が赤いぜ。お前、年上の綺麗なお姉様タイプ、好きだもんなぁ」
ニヤリ、と笑みを浮かべて言われた。ずっと一緒にいる兄だけに、誤魔化せない。
「……べ、別にいいだろ!」
 更に自分の顔が上気してくるのが判った。
「ま、姐御からしてみりゃ、俺ら十分ガキだからなぁ…」
「……そういうつもりじゃない…!」
 上気した頬の温度が下がらず、いい様にユンに言われるのが悔しい。
「お前さぁ、そんな気が抜けたみたいにぼさっとして、何の解決になるんだよ。だから、せめて功夫で見返せる位、また強くなりゃいいだろ。ホラ!だから来いって!」
 無理やり腕を引っぱられた。ユンに此処迄言われてしまうとは思わず、逆に、その言葉で何かが吹っ切れた。
「……ま、負けて人に当たるよかマシだと思ったけどな」
「言ったな!」
 ユンが拳を振り上げた来たのを軽く交わす。俺はユンと、何時も通りの他愛もない言い合い等をし乍ら、庭先の練習場へ向かった。
 今はまだ子供だったとしても、何時か彼女に「一人前の大人」として認められる位、色々吸収して学んでいこう。あの綺麗な眸に褒めて貰える様に。




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