――26
19時30分――和歌山県和歌山市
――ゴジラ上陸の可能性が最も高い地域。
紀伊半島の西部に位置するここ和歌山県和歌山市の沿岸部は予てよりこう呼ばれていた。護衛艦のレーダーや対潜哨戒ヘリのソナーによって捉えられたゴジラの現在位置から、まるで台風予報のように割り出された予想進路がそのことを如実に物語っていた。それ故、自衛隊も和歌山県〜大阪府県境に主力部隊を配置し、ゴジラの北進を陸上でも阻止する作戦を立てていた。
ここ和歌山市内には、程近い信太山駐屯地の第37普通科連隊が実質的な先遣隊として展開しており、1個中隊が和歌山港、和歌山本港、和歌山東港の3つの港湾部を拠点として沿岸部の警戒に当たり、他の2個中隊は市内全域で住民の避難誘導を行っていた。
沿岸部を監視するのは第1中隊約150名の隊員達だ。彼らは小隊毎に分かれ、64式小銃や89式小銃を肩から下げた隊員達が隊列を組んで埠頭を駆け回れば、その脇を荷台をオープンにした高機動車や屋根の上に弾除けの囲いを付けた軽装甲機動車が84mm無反動砲<カールグスタフ>や110mm対戦車弾<パンツァーファウストV>を携えた隊員達を乗せて巡回に通り過ぎていく。さらに、住民退避の済んだ沿岸部のビルやマンションの屋上には三脚付きの望遠鏡や双眼鏡が持ち込まれ、高い視点から3つの港内の海面に目を凝らしていた。
中隊長の一尉は戦闘服の袖を捲り、腕時計が30分毎の定時連絡の時刻を示しているのを確認すると、82式指揮通信車の後部ハッチから身を乗り出しながらマイクを取った。
「中隊長より各班、定時連絡。送れ!」
『第1班より中隊長へ。1930<ヒトキュウサンマル>現在、港内の海面に変化なし――』
それを皮切りに、4つの小隊からそれぞれ同じ報告が入って来る。
「(異常なし……か……)」
中隊長は首からかけた暗視装置付きの双眼鏡を両目に当てて広がる海面に目を凝らした。光増幅式暗視装置<スターライトスコープ>は白と黒と緑の陰影によってのみ形作られた世界を作り出し、暗闇の中、肉眼では届かない距離の視界にさえも明確な輪郭を与えている。双眼鏡を目から離し、同じ方向に視線を向けると、暗視装置に慣れた目に新たな光景が広がった。
波が打ち付けられる岸壁の周囲は、投光機の強力なライトによって照らされ、鼠色と苔緑色を混ぜ合わせたような澱んだ色彩であったが、そこから離れるにつれ青色、群青色、藍色と変化して行き、遂には夜空の闇と交わり、月明かりの照り返しが空と海面の境界を現している。――先程まで見ていた暗視装置の景色の何と風情の無いことだ――作戦行動中にそんなことを考える自身の不謹慎さに舌打ちすると中隊長は、
「無線機を」
とハッチ下部の通信席に座る隊員へと言った。隊員の差し出した無線機のマイクを受け取る。
「第一中隊より連隊司令部へ定時連絡。1930現在、港内に変化なし。」
報告した先は、市内の和歌山城公園に陣取る第37普通科連隊の前線司令部だ。
『司令部より第一中隊長へ。了解した。引き続き警戒に当たれ。』
「それと司令部、現在の避難状況を知らせ。」
『市民の避難・誘導は第二、第三中隊が当たり、順調に進んでいる。あと2時間で危険区域の住民の避難が完了する。』
「了解、引き続き警戒に当たる。」
中隊長はそう言ってマイクのスイッチを切ると心の中で一人語ちる。
「(あと2時間……か……)」
彼がちらりと指揮車の後方を振り返ると、そこには89式戦闘装甲車が威容を見せていた。戦車に随伴する作戦行動を前提としたその車体には7名の完全武装した隊員を収容出来、35mm機関砲と重MATと呼ばれる強力な対戦車・舟艇ミサイルを装備し火力と防御力、機動性を兼ね備えた普通科連隊の虎の子だ。
「(もしそれまでにゴジラが現れたとしたら……我々だけでやるしかない。)」
確かに和歌山市内には1個連隊規模の部隊が展開されているが、そのほとんどが市民の避難のために奔走している。さらには第3師団の主力部隊はここより離れた大阪府との県境付近におり、もし応援を呼んだとしても到着までには時間がかかるだろう。――戦いようによっては倒すことは無理でも時間を稼ぐくらいは出来る――それは悲壮とも言える決意だった。
『――観測班より中隊長へ!』
彼の物思いを遮るかのように、ヘルメットに装着したインカムに微かなノイズを伴った声が突如入ってきた。高所から港内を監視する観測班からのものだ。
「こちら中隊長。観測班、送れ!」
『和歌山本港沖、約500mの海域に航跡を発見!!!』
「航跡……だと……!?」
その報告の意味を一瞬咀嚼しかねるように言葉を詰まらせた中隊長だったが、次の瞬間には顔色が見る見る紅潮し、リップマイクを口元に引き寄せると大声で叫んでいた。
「中隊長より各員へ!和歌山本港沖に未確認の航跡が確認された!警戒を厳にせよ!」
彼の一言で周囲の空気が一変した。部隊が展開してからずっと続いていた張り詰めた緊張感のようなものに加え、気温が数度下がったかのような寒気が漂い始めたのだ。それまで淡々と訓練通りの動きを見せていた隊員達の間にも明らかに動揺の色が見られる。現場を支配し始めた空気の正体、それは隊員達がゴジラに対して感じている恐怖が作り出したものに違いなかった。
中隊長は命令を言い放つと双眼鏡を目に当てた。距離ゲージの数値が500前後になったところで焦点を調節し暗視装置の視界を左右に巡らすと、その片隅を白い波立ちが横切った。
「こいつか!?」
彼がもう一度姿を捉えようと視線を向けたその時、突如水面が隆起したかと思うとそそり立った水柱によって画面が白く塗りつぶされた。双眼鏡で見ていたはずの中隊長が間近で遭遇したかのように思わず身を仰け反らせる、それほど激しい水飛沫だった。舞い上がった海水は次第に落下を始め、まるで豪雨のように水面を打ち付ける。濛々と立ち込めた水煙が治まり始めると、その中心にある物体の姿が露になった。腰から上を海上に現れた小山のような胴体から生えた腕、盛り上がった胸板、左右に筋が張った太い首、頭部の深く裂けた口の間から象牙色の牙が覗き、双眸には周囲の闇よりも深く暗い光を湛えている。岩のような表皮の上を海水が滝のように滴り落ち、その巨体を覆っていた最後のヴェールも剥がされると、ゴジラはもはや逃げ隠れは無用と言うが如く天を仰いで咆えた。
グオオオオォォォン!!!
大気がビリビリと震え、響きが天まで駆け抜けていく。発した咆哮が周囲に吸い込まれ、何時しか消え去ると、ゴジラは上空へ向けていた顔を正面に向け直した。視線の先は沿岸に陣取る自衛隊の照明によって明るく照らされ、そこから伸びてきた幾筋もの探照灯<サーチライト>が顔面を撫でるとゴジラは目を細め、牙を剥き出しにして低い唸りを上げると波を掻き分けながらゆっくりと歩を進め出す。
中隊長は通信士からひったくる様にマイクを取ると連隊司令部に繋がる直通回線に向かって叫んでいた。
「第一中隊より司令部へ!和歌山本港にゴジラ出現!!!交戦許可願う!」
ゆっくりと、だが真っ直ぐに近づいてくるゴジラの姿を目の当たりにしながら本部からの返答を待つ時間はほんの数秒にも満たないものが数分にも感じられる。だが、中隊長に答えたのは本部の通信士ではなかった。
『第一中隊長へ、連隊長の大塚だ!』
「はっ!」
第37普通科連隊長大塚一佐の声に中隊長は俄かに緊張した。
『交戦は許可できない。監視部隊は42号線の第二防衛線まで後退せよ!繰り返す、交戦は許可できない。監視部隊は第二防衛線まで後退せよ。』
「(……戦わないのか!?)」
半ば自分達が犠牲になってでもゴジラの上陸を食い止める気になっていた頭には連隊長の言葉が用意に染み込んで来ず、中隊長は心の中で一人語ちる。だが、一瞬の沈黙から彼の気持ちを察したのか、連隊長の次の言葉が彼を我に帰らせた。
『部隊から、無用な犠牲は出すな!』
「――了解。第二次防衛線まで後退します。」
中隊長は本部との交信を一旦切ると、無線を隊内の内線に切り替えた。
「中隊長より各員へ!連隊本部からの命令を伝える。第一中隊は速やかに第二次防衛線へ後退する。繰り返す、第二次防衛線まで後退する!」
言い終わると、周りで次々と命令が復唱され「乗車!!!」の掛け声と共に隊員達がトラックの荷台や装甲車の搭乗スペースへ駆け込んでいく。至る所で車両のエンジンがかけられ、幾重にも重なったアイドリングの重低音が響き出すと、中隊長は自らの乗る82式指揮通信車を発進させた。それに、部隊の車両が整然と連なっていく。彼はハッチを閉める前に海上のゴジラが居る方向に視線を向けると、発見時よりも沿岸に近づくゴジラの姿があった――
同時刻――東京、防衛庁中央指揮所
その時小林は画面を凝視し、そこに映る映像から目を離すことが出来なかった。建物の屋上から撮っているのだろうか、メインスクリーンの画像はフレームを動かさず引きの画で港の沖から沿岸までを映し出している。そしてその画面を黒い巨大な物体がゆっくりと陸地に迫ってくる。それと共に慌しくなった岸辺のライトの動きが港内に配置されている部隊の動揺を現場から500km以上離れたここ防衛庁の地下3階にある中央指揮所にも伝えていた。
「どうして部隊は攻撃しないんだ!?」
背後で聞こえた声に我に帰り振り向くと顔面を紅潮させた古館防衛庁長官が山之内統幕議長に言い寄ろうとしたところだった。統幕議長は長官の剣幕に臆す素振りも無く言い放つ。
「沿岸の監視に投入されているのは普通科――いわば歩兵の一個中隊に過ぎず、市街地に近づいてからの無闇な攻撃はゴジラを刺激し被害を拡大させる恐れがあります。部隊の任務はあくまで住民の安全確保です!」
「しかし、防衛出動まで発令しているんだ。むざむざ上陸させては……」
長官は納得できないように口篭る。小林には彼の心中が分かるような気がした。自衛隊を所轄する防衛庁のトップとして、そう簡単にゴジラの上陸を許してはその面子が潰されること――いや、事態が収拾した後の自身の保身が危うくなること――を恐れてのことだろう。
「ゴジラが上陸し北上した場合は、主力部隊を配置した大阪・和歌山県境、東に進んだ場合は紀伊・鈴鹿山地の防衛線にて迎撃する。これが本作戦の骨子です。」
自信に満ちた統幕議長の口振りに防衛庁長官は言い返すことも出来ず立ち竦む。小林はゆっくりと立ち上がると向かい合う二人へ言った。
「――長官、我々は既に決断を下しているんだ。ここから先は彼等の仕事だよ……。統幕議長、くれぐれも指揮はよろしく頼みます。」
「はっ……」
統幕議長は敬礼すると宮川陸幕長らを伴ってその場から離れると指揮所の幕僚席に戻っていく。小林は憮然とする古館の肩を叩くとそのまま椅子に腰を下ろして画面に視線を向ける。
そんな指揮所の雰囲気に、自らの無力さを改めて感じた小林は周りの者に分からぬ様嘆息すると、再びスクリーンへ視線を戻した。
19時40分――和歌山港
ゴジラは和歌山本港まで約300mの距離まで接近していた。腰まであった水深は腿の中ほどまで浅くなり、水を掻き分けて進む速度は次第に速くなっていく。ゴジラの前には港を囲むようにコの字型に突き出た防波堤が立ちはだかったが、ゴジラはそんな障害など目にも入らないと言った様子で進む。水面下に隠れたゴジラの脚部が圧し当てられると防波堤には見る見るうちに亀裂が入り、崩れたコンクリートが海中に没していく。さらにゴジラが歩を進めると、それにより基礎部のテトラポットが軽々と蹴り上げられ、低い放物線を描くと再び水の中に沈む。ゴジラが港内に入り、水位が膝までにも満たなくなると、岸壁はもう間近に迫っていた。ゴジラは大きく足を上げ、砂や海草の混じった粘質のヘドロをこびり付かせた足を岸壁に踏み出す。
ズシン!!!
地面はそれだけで数十cm陥没し、足跡の周囲には蜘蛛の巣のように亀裂が走る。ゴジラの数千トン以上の体重を支えきれない護岸のコンクリートが地滑りのように海中へ崩れていくのにややバランスを崩しながらも、ゴジラはさらにもう一歩を踏み出す。まるで太い樽が連なったような強靭な両足が地面を踏みしめると、海中から長い尾も引き上げられ、ゴジラの全身が50年振りに露になった。
グオオオオォォォン!!!
和歌山本港に上陸したゴジラは一吼えすると、ゆっくりと内陸部へ進み始めた。
ドシン!!!ドシン!!!
ゴジラが鉄槌が落とされるかのように足を踏み出すと周囲は地震のような縦揺れに襲われ、アスファルトの路面は砕かれて宙を舞い、路上に放置された乗用車やトラックは振動の起こるたびに1〜2mの高さまで飛び上がる。ゴジラの進路には港湾に隣接する工場や倉庫が立ち並んでいたが、せいぜいトタンやブレハブでしかないそれらの建物はゴジラの突進を前にしては紙箱のように潰され、尾の一撃により薙ぎ払われる。ゴジラの通った後は建物の残骸によって埋め尽くされ、踏み潰された車、ショートした電線、破損したガスボンベ――それらが火種となってあらゆるところから火の手が上がり、見る見るうちに港湾地域は炎に包まれていった。
20時10分――和歌山城公園内、第37普通科連隊前線指揮所
和歌山市役所と和歌山県庁に面し、三方を堀に囲まれた和歌山城公園が先遣部隊である第37普通科連隊の指揮所となっていた。園内には幾つもの大型天幕が張られ、市民の避難が進んでいるため周囲のビル街の明かりは少なく、和歌山城の天守閣とそれを取り巻く木々が投光機により煌々と浮かび上がっている。上空には数機のUH−1やUH−60ヘリコプターが円を描くように飛び交い、その眼下の中心にはゴジラが居るはずだった。
「和歌山本港より上陸したゴジラは現在、築地橋駅前を通過し加納町交差点を県庁方面へ進行中!!!」
ヘリコプターからの報告を受け取った通信員がそういうが早く、第37普通科連隊長大塚一佐は天幕を出ると小高い和歌山城跡の陣地からゴジラの近づく海岸方面を見下ろした。その距離およそ1km。視界の中にはオレンジ色をした火災の炎が点在し、そこから上がった黒煙が炎の照り返しを受けて赤く染まり、まるで街全体が燃え上がっているかのような錯覚を起こさせる。そして、ビル街の中に蠢く巨大な影がひとつ。その姿は建物に紛れ、肉眼で細部まで確認するには至らなかったが、ゴジラから発せられる妖気とも殺気ともつかない禍々しい気配は周囲を呑み込み大塚達の居る指揮所まで達し、彼等はゴジラの存在をまるで間近で目の当たりにしているかのように感じ取っていた。
大塚一佐はそれを確認すると踵を返して天幕の中に戻り、作戦担当の士官に言った。
「住民の避難は確認できたか!?部隊の退避状況は!?」
作戦担当士官の三佐は手持ちのボードと天幕の中心に据え置かれた作戦台の上に張られた地図を見比べながら答える。
「沿岸から第二次防衛線までの地域の住民避難は完了しております。第一、第二、第三中隊も安全圏に退避完了。市街地中心部の住民避難は現在第四中隊が確認中、ビル内部まで捜索している為時間がかかっています!」
「確認を急がせろ!ゴジラと遭遇した部隊は市街地での戦闘は極力避け、火器の使用は自衛にのみに限定する!」
言い終わると、大塚連隊長は自分の周囲が不意に静まり返っていることに気付いた。誰もが自分の目の前の任務に集中しようとしていたが、ある者は心ここにあらずといった雰囲気で宙に視線を彷徨わせ、ある者達はお互いの顔を見合わせる。
ズン……ズシン……ドシン!!!
彼等を戸惑わせている原因の正体は地響きの様な足音を響かせながら確実に近づいて来ていた。大塚はその場に居る皆の気持ちを代弁するように再び天幕の外に出た。
ゴジラの一歩は重量感に満ちてはいるが一見緩慢にも思える。しかし身長50m以上の巨体から繰り出される一歩は人間の想像をはるかに超えて大きく、指揮所のある和歌山城公園との距離約1kmはあっと言う間に縮まり、ゴジラは県庁前を過ぎてオフィスビルの立ち並ぶ市街地中心部へ到達していた。
ゴジラの進路に当たる県庁通りに原型を留める物は存在しなかった。アスファルトの路面はゴジラが歩行する際に生じる数千トンの衝撃に耐え切れず無残にひび割れ、4本の爪を持った足跡が1m近くの深さまで穿たれている。街路樹、電信柱、ガードレールなど路上に立つ物は根こそぎ薙ぎ倒され、路上に放置されていた車はひっくり返ってタイヤを空に向けているか、踏み潰されて炎を燻らせているかのどちらかだった。
人気がほとんど無く、ビルの窓から漏れる明かりも疎らである街中は上空から遠巻きに追跡するヘリコプターの爆音が響く以外は不気味なほど静まり返り、ゴジラはただでさえ暗い空間にさらに濃く暗い影を落としていた。淡い明かりがゴジラの岩肌の様な表皮に微妙な陰影を作り出し、黒い岩山のような巨体の頂点にはどこか虚無的な光を湛えた双眼が浮かび上がっている。
指揮所の隊員達は思わずその異形に目を奪われる。その時だった。ゴジラの尾が不意に跳ね上がると、そのまま薙ぐように側面のビルを殴り付けたのだ。尾は10数階立てビルの5階付近に激突し、奥行きの半分近くまでめり込んでいた。尾が引き抜かれると、壁面を抉られ支柱を圧し折られたビルは自重に耐え切れず通りに向かってゆっくりと傾き始める。コンクリートが砕かれ、鉄骨が引き千切られる不協和音は次第にその密度を上げて行き、遂には人が本能的に嫌悪を感じる破壊そのものの轟音をなると次の瞬間、ビルは県庁前の大通りへ向かって倒壊し、膨大な量の瓦礫と化すと多量の粉塵が撒き散らされ通りを埋め尽くす。
その光景を目の当たりにした大塚連隊長が感じたもの、それは一個連隊約1000名の力でも到底及ぶところではない圧倒的な無力感でしかなかった――
同時刻――和歌山市内
「こちらは陸上自衛隊です!この地区には避難命令が出されています!どなたか残っていませんか!?」
戦闘服姿の男達はそう言うと懐中電灯を暗い部屋の中に巡らせるが反応は無かった。それを確かめると彼等は踵を返し、隣の部屋で同じことを繰り返す。
繁華街のビル街で市民の避難を確認するのは困難を極めた。住宅街ならばローラー作戦で一軒一軒を当たっていけば良いところを、オフィスビルは地上十数階建もありフロアも入り組んでいる。さらに今は避難命令が出されて以来どのビルも電源が落とされ、エレベーターやエスカレーターが使えないために上階へ行くには非常階段を使わなくてはならなかった。またセキュリティシステムが導入されているビルも多く、進入するためにビルの持ち主や警備会社の協力を得る必要があり、ゴジラの上陸が明らかになった後も、作業はまだ終わっていなかった。
市中心部の住民の避難・誘導を担当していた第四中隊の中隊長は忙しなく戦闘服の袖を捲ると時計に目を落とした。もうその動作は何度目になるか分からない。時間は午後8時を過ぎ、指揮所からはゴジラが既に上陸し市内を東へ進攻中である事が伝えられていた。つまり、ゴジラはこうしている間にも彼等に近づいてきているのだ。あと一つのビルをチェックし終えれば彼等も安全圏へ撤退出来る、中隊長が部下達の入って行った建物の様子を見ようと指揮車の後部席から身を乗り出させると、立哨している一人の隊員が目に入った。彼は怯えた視線を宙に彷徨わせ、小銃を握る手も震えている。そんな彼を見て中隊長は思わず口を開いていた。
「――怖いか?」
「ハッ……いえ、自分は……」
驚いたように中隊長へ向き直り、曖昧に答える隊員に彼は自分にも言い聞かせるように言った。
「心配するな。俺も……怖い。」
誰かに正直な自分の気持ちを打ち明けることで彼は僅かに気が楽になったように感じた。しかしながらビルの間から見える西の空は火災の炎が黒煙に照り返して赤く染まり、近づくゴジラの足音がまるで地中から沸き上るように響きその場の不穏な空気を増幅させ、ビルが崩れ落ちる雷鳴のような轟音が隊員達の背筋を凍り付かせる。
その時、無人だったビルのロビーに人影が現れたかと思うと、手にした懐中電灯の明かりを伴って捜索の隊員達が駆け出してきた。
「安全確認終了!住民の避難は完了しました!」
「了解。中隊長より総員へ。直ちに指揮所まで撤退する!」
班長が敬礼して報告するが早く、中隊長はこの時を待っていたとばかりに指示を出すと、矢継ぎ早に指揮所へ回線を切り替えた。
「第四中隊より指揮所へ。安全確認終了、これより撤退する。ゴジラの現在の位置と進路を知らせ!」
『こちら…指揮…。ゴ……在、岡…丁を……山駅方面……中、警…され……』
「もしもし!?通信状態が悪い!もう一度言ってくれ」
中隊長はマイクに向かって叫ぶが、返って来た声にもノイズが多く混じり、後ろで何やら騒ぎが起きているため聞き取り難いものだった。
「しょうがない。地図だ!」
彼は助手席の隊員から引っ手繰ると、それを目の前に広げる。
「最後に聞いたヘリコプターからの報告では、その時ゴジラの位置はここだ。その後県庁通り沿いに東へ進んだとなると、指揮所のある和歌山城を通り過ぎて今この辺りに出てくるはずだ!」
中隊長は地図の一点を指し示す。
「我々はゴジラの進路から3ブロック離れたこの通りから、市役所方面より和歌山城内に入る。いいな!?」
集まった班長達の顔を見回し、反論が無いことを確かめる。誰もこの場で議論しているより一刻も早く仲間の元に戻りたがっているのが分かった。
「よし、出発!」
班長達が別れ、通りに横付けされていた指揮通信車や装甲機動車、装輪装甲車、偵察警戒車のハッチやドアが閉められエンジンがかけられると車両は隊列を保ちながらその場を離れていった。
地上におけるゴジラの追跡が危険を極める為、ゴジラの正確な位置の把握はヘリコプターからの情報が主であった。しかし、ゴジラが指揮所付近を通過する前後からヘリと指揮所の間の通信状態が悪くなり始めたのだ。
「一体どうした!?」
パイロットである機長が、通信士も兼ねるコ・パイロットへ言う。
「指揮所と地上部隊との通信状態が悪化しています。現在のところ、原因は不明!」
「地上の部隊はゴジラの正確な位置を把握していない。回復に全力を挙げろ!」
「了解!」
無線機のコンパネに取り付く副操縦士を確認し、機長が視線をキャノピー正面に戻したその時、国道沿いに真っ直ぐ進んでいたゴジラが突如向きを変え、十字路を向かって左側の路地に入るのが見えた。その方向転換の際、遠心力により振られた尾が大きな弧を描き、角のビルの壁面を殴りつけると割れたガラスやコンクリートの破片が飛び散る。
「オスカー03よりCP(戦闘指揮所)。ゴジラは屋形町交差点を進行方向左、三木町方面へ進路を変えました!」
そう言った直後、ビルの明かりが少なくなり闇の部分が多くなった市街地を貫くライトの列が機長の視界に入った。既に一般車両は市街地にはいないはずだった。そうならば、向かってきた方向からして車列は今まで市内の安全確認を行っていた第37普通科連隊の一部隊であろう。しかし、彼等はゴジラと距離を取っていると安心しているのか、迷うことなく真っ直ぐ連隊指揮所へ向かって来ている。上空から見る機長の目には、彼等の進路とゴジラの進路が間も無く交差することが分かってしまった。機長は、相変わらずノイズの混じるのも構わずヘルメットと一体形成されているリップマイクに向かって叫んでいた。
「危ないぞ!後退しろ!」
「中隊長、先程から何度も通信が入っていますが、不鮮明で聞き取れません。」
隊列の先頭を行く指揮通信車の車内、ヘッドセットを被った隊員が不安げな表情で振り返ったが、中隊長はそれを遮るように言った。
「復旧はまだなのか!?」
「はっ。通信機器に異常はありませんので、指揮所との回線を妨害している原因が解消されるまで復旧は困難かと……」
「分かった。状況は指揮所に戻れば分かる。今は帰隊を急ごう。」
UH−60からの懸命の警告も、ノイズ交じりの通信に耳を貸さなくなっていた第4中隊には届いていなかった。
通信士が無線を切ると、車内に静寂が戻ってきた。響いてくるのは床下に据え付けられている10気筒ディーゼルターボのエンジン音と、チューブを持たないコンバットタイヤ特有の底堅い揺れだけであり、乗員は一様に焦りを隠せない硬い表情で俯いており、一言も喋る気配は無い。そんな息が詰まるような沈黙が続く中、彼らの耳に車両の発するものとは明らかに異質の音が聞こえてきた。
ズン……ズン……ズン……
規則正しく間欠して聞こえる重低音は地面を響かせ大気を震わせながら、包み込むというより呑み込むと言った方が当てはまる不吉さを持って周囲に広がり、遂には彼等まで届いて来た。
ズシン……ズシン……ズシン
それが振動ではなくはっきりとした音として感じられるようになった頃、車内の隊員達は皆俯いていた顔を上げ、引き攣った表情でお互いの視線を見合わせていた。言わずもがなその音を発するものの正体を直感した彼等は、すし詰めとなっている車内の暑さとは別の理由で噴き出した汗を顔中から滴らせ、音の大きさと比例して膨れ上がる恐怖に目を見開く。
ドシン!……ドシン!!……ドシン!!!
揺れはもはやしがみ付いていなければシートから投げ出されてしまう程の大きさとなり、その度に車両が地面から浮き上がりタイヤが空回りする。隊員からのすがる様な視線に我に帰った中隊長は弾かれる様にマイクを取った。
「中隊長より各車へ。車を止めろ!」
先刻から周囲を支配しつつある只ならぬ気配に気圧され判断が遅れたことを自嘲しつつそう言った直後、目の前にしていた三木町交差点の黄色表示のまま点滅する信号が突然何か黒い巨大な影によって覆い隠された。彼らの目には影のように見えたその暗黒は実体化して岩のような塊の正体を露わにすると、次の瞬間には勢いよく地面へ向けて叩きつけられた。今までとは比較にならない激震が彼等を襲い、狭い車内がバランスを失った隊員達が転倒し、制動中だった車両も隊列を崩しスピンすると後続車両が次々と玉突き式に追突する。
振動が止み、車両のブレーキや衝突の喧騒が収まると辺りに静寂が戻って来た。
「何が……起こったんだ!?」
中隊長は何時の間にかどこかに打ち付けたのか、痛む頭を抑えながら半ば義務感に駆られて起き上がると、頭上のハッチを開けて上半身を乗り出させ、前方に視線を向けた。辺りの電柱は傾き、歩道の電話ボックスは周囲のガラスが全て砕けて骨組みだけの無残な姿を晒している。そして、目の前に横たわる黒い巨大な塊。それは一部を砕けたアスファルトの路面にめり込ませており、本来ならば交差点で見えるビルとビルの間の景色を覆い尽くしている。中隊長は塊の輪郭を追って視線を上へと移していく。一個の小山のように見えるそれは二本の腕を生やし、胸板が力強い鼓動に合わせて微かに上下している。やがて見上げるように顔を向けると、そこには暗い光を湛えた双眸が彼等を見下ろしていた。
「ゴ……ゴジラ……」
中隊長は思わず後ずさりしようとするが、背中に固いハッチの感触がし、それ以上動くことが出来ない。停車と同時に只ならぬ雰囲気を感じ車外へ飛び出していた隊員達も皆一様に手にした小銃や機関銃をぶら下げたまま感情を飽和させた呆然とした表情を浮かべながら目の前の異形を見上げている。そんな彼等を見下ろしていたゴジラがやや屈み、その顔と彼等との距離が縮んで呼吸すら顔に感じられるような錯覚に陥ると、隊員の一人の恐怖が限界を超えた。
「うわあああぁぁぁ!!!」
一人の隊員が絶叫と共に64式小銃を構え、発射手順を無視して発砲すると、それが契機となって隊員達はそれぞれが手にした火器を乱射し始めたのだ。
「待て!撃ち方止め!」
まだ指揮官としての理性の残っていた中隊長が叫んでも彼等の耳には届かない。交差点は恐怖から逃れようと搾り出される絶叫と銃声とマズルフラッシュに埋め尽くされる。だが、ゴジラは表皮に直径10mmにも満たない金属の塊が突き刺さることなど蚊に刺されたほどにも感じないであろう。それよりも鳴り続ける銃声と閃光に煩わしげに目を細め、低く唸ると下げていた頭を不意に持ち上げると天を仰いで吼える。
グオオオオォォォォン!!!
その瞬間、銃声もぴたりと掻き消えた。銃から弾き出された最後の空薬莢が宙を舞い、地面に落ちて乾いた音を立てる。まるでそのタイミングを見計らったかのように隊員達は脱兎の如くその場から走り出した。ある者は運転席から転がるように飛び出し、ある者は弾を撃ち尽くした小銃を路上に撃ち捨てる。
彼等が交差点から離れようとする僅かな間に背鰭の発光は頂点に達し、ゴジラは息を吸い込んだ胸板を盛り上げたまま眼下に向けて口を開く。咽喉の奥に青白い炎が灯ったかと思うとそれが渦を巻き、凄まじい勢いで迸り出た。放たれた熱線は舗装のアスファルトを蒸発させ、地面に激突すると自らの勢いで一瞬その場に凝縮されたが、次の瞬間にはその熱量を大気中に解き放っていた。爆発の圧力は数千気圧に達し、地面はそれによってすり鉢状に抉られた。火球と化した熱線は膨張するに従ってその色を青白色から白、オレンジ色と変え、遂には紅蓮の炎となって荒れ狂う。衝撃波と同時に殺到する炎の壁に呑み込まれた自衛隊の車両は上空に舞い上げられ、エンジンに引火して火の玉となると逃げ出す隊員達の上に振って来た。数名の隊員がそれに押し潰されて絶命したが、直撃を逃れた者達もやや遅れてやって来た炎の波に呑まれて断末魔を上げる暇さえ与えられず灰と化した。
ビル街という半ば閉鎖された空間に放たれた熱線の威力は四方八方に捌け口を求めた。道路沿いに沿って走った炎と衝撃波はビルの壁面を舐め上げ、窓ガラスを破砕するとその内部にまで侵入して触れるもの全てを焼き尽くした。黒煙の間から赤い炎によって照らし出されたゴジラの姿。爆発がその勢いを失い、ようやく火災の広がりが止まった時、爆心地上空には濛々と立ち上る茸雲が出現していた。それはまるでゴジラから人類への、宣戦布告の狼煙の様だった――