涼州詞

<原文語釈>

*1涼州詞 涼州は、今の甘粛省武威県(カンシュクショウブイケン)。唐代、辺塞の要地であり、河西節度使が置かれた。この地で流行した「涼州歌」を、玄宗のとき、西涼府都督の郭知運が朝廷に献じた。その曲に歌詞をつけたものが、「涼州詞」であり、王之渙(オウシカン)その他にも歌詞がある。*2夜光杯 夜、光るという白玉の杯。実際にはガラス製の杯であろうか。*3琵琶 『釈名(シャクミョウ)』「釈楽器」に、「本(モト)胡中より出(イ)ず、馬上鼓する所也。」とある。

<解釈>

 葡萄の美酒を夜光の杯についで、さて飲もうとすると、琵琶が馬上にかきならされ、早く飲めよと催促する。

<出典>

 唐、王翰(オウカン)(字(アザナ)は子羽(シウ) 687―726)の 「涼州詞(リョウシュウシ*1)」。『唐詩選』巻七。『唐詩三百首』巻八。

唐詩三百首  とうしさんびゃくしゅ

 清の乾隆(ケンリュウ)二十八年(1763)、こう塘退士(コウトウタイシ)の編。六巻。こう塘退士は、姓は孫、名は洙(シュ)、江蘇無錫(コウソムシャク)の人。乾隆十六年(1751)、進士に合格し、いくつかの県令を経て、江寧府教授に改められた。本書は五言古詩・七言古詩・五言律詩・七言律詩・五言絶句・七言絶句の各詩体別に各一巻として編集してある。採録した詩人は七十五人、無名氏二人で、詩数は合計三百十首である。杜甫が三十九首で最も多く、次いで王維・李白・李商隠などの作品が多い。序によれば、家塾の課本として初学の児童に教えるために編まれたものであるが、一般にもさかんに読まれた。その理由は、三百首という詩数が適当であること、人口に膾炙した詩を採っていること、選詩の基準が公平で唐詩の大体をはずしていないことなどによるであろう。テキストについては、清の章燮(ショウショウ)の注した『唐詩三百首註疏』六巻は原本に十一首を増しており、清の陳婉俊(チンエンシュン)の『唐詩三百首補註』は七言古詩を三巻に分けて全体を八巻としているなど、数種のテキストがあり、また多数の注釈書がある。(中村嘉弘)

唐詩選  とうしせん

 七巻。明の李攀龍(リハンリュウ)(1514―1570)の編と題するが、実は当時の書店が、李攀龍の編集した『古今詩刪(ココンシサン)』の中から唐詩の部分を抄録し出版したものという。李攀龍は、格調をたっとび、その最もすぐれたものが盛唐の詩であると主張した古文辞派の指導者である。収録の作家・作品は、主張にそっており、雄渾にして慷慨に富む盛唐の作品に重点が置かれ、杜甫五十一首・李白三十三首・王維三十一首・岑参(シンジン)二十八首などがきわだって多い。反面、中晩唐の作品は、韓愈(カンユ)は一首、李商隠は三首と少なく、杜牧などは一首も採られていない。唐詩全体から見ると、偏りは免れないところである。総詩数四百六十五首、五言古詩十四・七言古詩三十二・五言律詩六十七・五言排律四十・七言律詩七十三・五言絶句七十四・七言絶句百六十五、詩家は百二十八家、初唐二十九・盛唐四十二・中唐三十六・晩唐十七・逸名四である。中国では格調説の行われた明末にさかんに読まれたが、その後すたれた。日本では古文辞派の荻生徂徠(オギュウソライ)が高く評価し、服部南郭(ハットリナンカク)が『唐詩選国字解』を作って以来盛行し、現在に至っている。日本における唐詩のイメージはこの『唐詩選』によって作られている面が強い。(中村嘉弘)

<解説>

 葡萄の美酒、夜光の杯、琵琶と西域の景物を続けて、異国的なふんいきを盛り上げ、ゆったりと情緒豊にうたわれる。後二句は、転じて兵士の征戦の悲しみがうたわれる。沙場は戦場のことでもある。その砂漠に酔いつぶれたとしても、笑ってくれるな、古来いくさに出て、何人が生きて帰れたか、それを思えば、とことんまで飲まざるを得ないではないか。豪壮な中に哀切な情が流れる、辺塞詩の傑作である。(中村嘉弘)

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