早に白帝城を発す

朝(アシタ)に辞す 白帝 彩雲の間

千里の江陵 一日にして還る

両岸(リョウガン)の猿声(エンセイ) 啼(ナ)いて尽(ツ)きざるに

軽舟(ケイシュウ) 已(スデ)に過(ス)ぐ 万重(バンチョウ)の山

<原文語釈>

*1啼不盡 「啼不住」になっている本もある。その場合は「啼いて住(ヤ)まざるに」。音声は「住」。

*2輕舟已過 「須臾過却」になっている本もある。その場合は「須臾(シュユ)にして過却(カキャク)す」。

<解釈>

 早朝、朝日に美しく染まった雲の中にそびえ立つ白帝城を出発し、千里も遠く離れた江陵までわずか一日で帰るのだ。

<出典>

唐、李白(リハク)(字(アザナ)は太白(タイハク) 701―762)の「早(ツト)に白帝城を発す」(早發白帝城)と題する七言絶句の第一・二句。詩題が「江陵に下る」(下江陵)になっている本もある。『李太白文集』巻二十二。『唐詩選』巻七。『唐詩三百首』巻八。

唐詩三百首

とうしさんびゃくしゅ

 清の乾隆(ケンリュウ)二十八年(1763)、こう塘退士注1(コウトウタイシ)の編。六巻。こう塘退士は、姓は孫、名は洙(シュ)、江蘇無錫(コウソムシャク)の人。乾隆十六年(1751)、進士に合格し、いくつかの県令を経て、江寧府教授に改められた。本書は五言古詩・七言古詩・五言律詩・七言律詩・五言絶句・七言絶句の各詩体別に各一巻として編集してある。採録した詩人は七十五人、無名氏二人で、詩数は合計三百十首である。杜甫が三十九首で最も多く、次いで王維・李白・李商隠などの作品が多い。序によれば、家塾の課本として初学の児童に教えるために編まれたものであるが、一般にもさかんに読まれた。その理由は、三百首という詩数が適当であること、人口に膾炙した詩を採っていること、選詩の基準が公平で唐詩の大体をはずしていないことなどによるであろう。テキストについては、清の章燮(ショウショウ)の注した『唐詩三百首註疏』六巻は原本に十一首を増しており、清の陳婉俊(チンエンシュン)の『唐詩三百首補註』は七言古詩を三巻に分けて全体を八巻としているなど、数種のテキストがあり、また多数の注釈書がある。(中村嘉弘)

  1.  こう

李太白文集

りたいはくぶんしゅう

 唐の李白(リハク)(701―763)の詩文集。三十巻。唐代における李白の作品集は、魏_(ギコウ)の編集した『李翰林集(リカンリンシュウ)』と、李陽冰(リヨウヒョウ)の編集した『草堂集』(十巻)とが存在したが、北宋の楽史(ガクシ)が『李翰林集』二十巻、『別集』十巻のテキストを編集してから、唐代の『李翰林集』と『草堂集』の原形は失われた。その後、煕寧(1068―1077)年間に宋敏求(ソウビンキュウ)が三十巻の詩文集を編集、曾鞏(ソウキョウ)もこれを改編して三十巻のテキストを編集したが稀覯本となり、清の康煕(1662―1722)年間に繆曰き注1(ボクエツキ)が曾鞏の編集したテキストを重刊した。主な注釈書に、『分類補注李太白集』(三十巻。南宋、楊斉賢(ヨウセイケン)集註、元、蕭士贇(ショウシイン)補注。四部叢刊に収められる)、『李太白文集輯註』(三十六巻。清、王き注2(オウキ)。四部備要に収められる)がある。(松本 肇)

注1  き   注2  き

 唐詩選

とうしせん

七巻。明の李攀龍(リハンリュウ)(1514―1570)の編と題するが、実は当時の書店が、李攀龍の編集した『古今詩刪(ココンシサン)』の中から唐詩の部分を抄録し出版したものという。李攀龍は、格調をたっとび、その最もすぐれたものが盛唐の詩であると主張した古文辞派の指導者である。収録の作家・作品は、主張にそっており、雄渾にして慷慨に富む盛唐の作品に重点が置かれ、杜甫五十一首・李白三十三首・王維三十一首・岑参(シンジン)二十八首などがきわだって多い。反面、中晩唐の作品は、韓愈(カンユ)は一首、李商隠は三首と少なく、杜牧などは一首も採られていない。唐詩全体から見ると、偏りは免れないところである。総詩数四百六十五首、五言古詩十四・七言古詩三十二・五言律詩六十七・五言排律四十・七言律詩七十三・五言絶句七十四・七言絶句百六十五、詩家は百二十八家、初唐二十九・盛唐四十二・中唐三十六・晩唐十七・逸名四である。中国では格調説の行われた明末にさかんに読まれたが、その後すたれた。日本では古文辞派の荻生徂徠(オギュウソライ)が高く評価し、服部南郭(ハットリナンカク)が『唐詩選国字解』を作って以来盛行し、現在に至っている。日本における唐詩のイメージはこの『唐詩選』によって作られている面が強い。(中村嘉弘

三峡

<解説>

 安・史の乱のさなか、玄宗皇帝の第十六子、永王_りん(エイオウリン)の挙兵に参加したかどで、夜郎(ヤロウ)(貴州省桐梓県(トウシケン))に流罪の身となった李白は、江陵(コウリョウ)から船に乗って白帝城(ハクテイジョウ)まで着いたとき赦免(シャメン)の知らせを受けた。彼は遡ってきた揚子江を下って江陵まで引き返すのである。そのときの解放の喜びを詠じた詩。乾元二年(759)、五十九歳の作と言われる。

 第一句は出発の時間(早朝)と場所(白帝城)をうたう。「白帝」は白帝城で、四川省奉節県(シセンショウホウセツケン)の東部、揚子江の峡谷を見下ろす古城。後漢の公孫述(コウソンジュツ)が築いた。「彩雲」は、美しいいろどりの雲。赦免に会った李白の晴れやかな心情が投影されていよう。それと同時に、白帝城が高くけわしい山の上に位置することを暗示して、峡谷を下る船足の速さに合理的な根拠を与えている。「‘白’帝」「‘彩’雲」という鮮やかな色彩の配合が、李白の出立を祝福する華麗な光景を創出するのに効果的である。

第二句は目的地(江陵)とそこに到達する時間の速さを詠じる。「江陵」は湖北省にある揚子江のほとりの町。「還」とは、最初の出発地点に引き返すのをいう。白帝城から江陵までの千里の距離を一日で舟航することについては、六朝(リクチョウ)時代、宋(ソウ)の盛宏之(セイコウシ)の『荊州記(ケイシュウキ)』に「朝に白帝を発し、暮に江陵に到る。凡そ千二百余里。」と見える。このような表現をふまえて、李白は、「辞」と「還」の動詞の照応、及び、「千里」というはるかな空間と、「一日」というわずかな時間の結合がもたらすスピード感によって、帰路を急ぐ歓喜の心情を表出したのである。(松本 肇)

以下、資料編は 電子ブック 「漢詩漢文 名言辞典」 東京書籍 より引用しています

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