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2003-05-26公刊,2003-06-15Web掲載
黒澤睦「西村春夫先生の古稀に寄せて」『行雲流水──西村春夫先生古稀祝賀自由小品集』(国士舘大学法学部内西村春夫先生古稀祝賀自由小品集刊行委員会,2003年5月26日)110-113頁。

  1. 原文は,B5判/横書/1段組です。

【p.110】

西村春夫先生の古稀に寄せて

黒澤 睦 

 先生に初めてお目にかかったのは私が1999年4月に明治大学大学院に入学した時ですから,先生とのお付き合いはまだ4年弱ということになります。先生が歩まれてきた長い年月から見ればとても短い期間であるかと思います。しかし,この間に私が先生から受けた学恩は非常に大きなものです。博士前期課程の授業では,各種実証研究の資料を用いての発表や国内外の文献講読などを通して,犯罪心理学の基礎をご教授いただきました。その後,Restorative Justice研究会にお誘いいただき,学外での研究の機会を与えてくださいました。また,RJ研究会によるハワード・ゼア著『修復的司法とは何か』の翻訳では,約2年にわたり編集会議でご一緒させていただきました。編集作業は困難をきわめましたが,先生は会議を終始リードされ,私たちメンバーを励ましてくださいました。ここにこうして先生の古稀をお祝いする小稿を寄せることができ,たいへんにうれしく思います。これからも,先生から授かった〈型にはまらない自由な発想〉を大切にして,さらに研究を進め,先生の学恩に報いていきたいと思います。
 ところで,本小稿を寄せるにあたって,これもまた先生らしいところですが,いくつかのお題を私信にていただきました。ここではそのひとつを素材に,修復的司法に関して私の考えるところを簡単に述べさせていただきたいと思います。

【p.110/p.111】
【西村先生の問題提起】〔筆者が一部要約した〕
 土井論文は,パターナリズム(保護主義や国親思想)と表裏一体をなしている「権力や支配の恣意性」を指摘している(土井 2002: 131-132頁)。
 これをRJについて考えてみると,国親思想がRJに入り込む危惧がある。ひとつは,我々が,地域で生きる拠点を見いだせないまま,警察,検察,裁判所がRJを代行しましょうという善意,つまり国親的役割に期待することへの危惧である。もうひとつは,少年法では,実の親に代わって国が健全育成という役割を果たそうとするが,今度は,その国が,「RJで期待する地域社会も崩壊寸前ではないか」,「頼りない当事者に任せておいてよいのか」という大義名分で,強権的にRJに乗り込んでくることへの危惧である。最大限型モデルに潜む懲罰主義とパターナリズムの混淆産物ともいえるのではないか。

 この問題提起の基礎にあるのは,修復的司法においては,コミュニティ(全体社会ではなく,地域社会や利益社会)を含めた当事者が事件対応プロセスの中心的主体となり,国家の介入は極力排除されるべきであるという考え方のようである(黒澤 2002a: 2-5頁)。
 しかし,こうした考え方は,どういったコミュニティや国家を想定するのかによって評価が左右される。たとえば,ある種のコミュニティ(ゲートコミュニティなど)は修復的司法の目的の中心的要素である加害者のコミュニティへの再統合を妨げる可能性がある(黒澤 2002b: 95-96頁)。また,国家が修復プログラムの資金的・制度的支援を行うことは修復的司法の実現にとって必ずしも悪いこととは断言できない。したがって,コミュニティは常に善であり国家は常に悪であるという二分論を用いることはできず,修復的司法において,コミュニティは中心的役割を果たし〈てもよい〉(果たす〈べき〉かどうかは,事件対応プロセスとして何が望まれるかという,別の次元の問題である)が,国家は排除されるべきである,という結論には必ずしも至らない。つまり,ここでの議論において問題とされるのは,修復的司法の理念たる(関係)修復主義を標榜していながらも,権力や支配を恣意的に行使しようとする,〈悪しき〉コミュニティ主義・共同体主義(ゲートコミュニティがその一例であるということではない)や〈悪しき〉国家主義・国親思想 【p.111/p.112】 なのである。結局のところ,コミュニティであれ,国家であれ,事件対応プロセスへの関与そのものが問題なのではないのだから,その「権力や支配の恣意性」が排除された形であれば,修復的司法の目的を実現する手だてを講じることが許されてもよいのではないだろうか。
 もっとも,現行法においては,国家が事件に(少なくとも一定限度で)介入してはならないという法制度が存在している。すなわち,告訴がなければ公訴の提起をすることができないという親告罪制度である。とくに器物損壊罪や一定親族間の財産犯などにおいては,親告罪とされた趣旨として,いわゆる軽微思想のほかに宥和・和解思想(広義の修復的司法の思想)が挙げられる(黒澤 2001: 6-15頁, 2002a: 11-14頁)。政策論としても,こうした事件に対して公訴提起という形で強権的に介入していくとなれば問題であるが,少なくとも被害者と加害者の両者の求めに応じた支援であるならば,その関与は不当なものではないとされる可能性はあるだろう。
 いずれにしても,重要なのは,「権力や支配の恣意性」を排除する担保を設けることである。修復的司法の導入を少年司法に限ろう(あるいは,先に導入しよう)という議論の根底には,たとえば,成人事件におけるのと同様の適正手続の要請が必ずしも厳格に適用されなくてもよいという,「権力や支配の恣意性」を容認しかねない考え方があるように思われる。修復主義という〈目的〉を実現するためには,司法的コントロールや立法的コントロールを内包する適正手続主義(プロセスの適正さ)という〈手段〉が必ずしも排除されなくてもよいのではないのか,あるいは逆に必要とされるのではないか。また,修復主義という〈目的〉そのものに内在している可能性がある〈事件対応プロセスの結論の恣意性〉は,被害者と加害者,そしてその関係者(より広くはコミュニティ)による〈各自が公平な形で話し合いを尽くした上での合意〉によって排除されるべきものである。
 これらの具体的施策,制度的担保を考えていくことが,これからの私の研究課題である。

(明治大学大学院博士後期課程)

〔引用文献〕
黒澤 睦(2001)「親告罪における告訴の意義」法学研究論集15号1-19 【p.112/p.113】 頁。
 ───(2002a)「修復的司法としての親告罪?」法学研究論集16号1-16頁。
 ───(2002b)「<紹介>ケント・ロウチ『犯罪対応過程に関する四つのモデル』」法律時報74巻7号92-96頁。
土井隆義(2002)「犯罪被害者問題の勃興とパターナリズム─少年法改正をめぐる構築と脱構築の力学─」法社会学57号114-134頁。


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