BOOKレビュー 2009


2009.11.25
「はるさきのへび」椎名 誠(著)

以前読んだ「岳物語」「続 岳物語」は大変面白く、女房と二人で喜んで読んだ。
岳にお姉ちゃんがいる事を知ったのはそのずいぶん後で、
そう聞いた時にはご他聞にもれず目が飛び出るほど驚いたものであった。
そのお姉ちゃんが、本書のもっぱらの主役である(人称的には父{椎名 誠氏}であり、母なのだろうが…)。
同じ構成の家族を持つ身として、語られる物語、エピソードは非常に興味深いし共感を持つ。
さほど育児論・教育論にはなっていないから嫌味もない。
とても気持ちのいい三篇である。

しかしなんというか。
僕は椎名氏の著作を結構読んでいるのだが、最近ちょっと椎名氏のプライベートを
「知り過ぎてしまったな」と思うようになってきた。
氏はこの本を(をも)私小説として赤裸々に世に出しているのだから覗き趣味というわけでもないのだけれど、
僕としては「椎名氏の家庭の内情だから」この本を読みたいわけではないのだ。
例えばそれが(仮に)「椎名氏が描く『サワノ氏の家族』の話」でも構わないのである、面白ければ。
しかし事ここに至って僕は椎名家について、知らなくてもいい事まで知ってしまったような気がするのだ。
知らなくてもいい事、というのは物語を成立させるにあたって重要ではない事、とでも言おうか。
例を取ってみると、保育所の開設で細君がたいへんに忙しくしていた、という要素は
他の職種に置き換えてもなんとかなるはずで、なのにあえてなんとかしていないのは
「これは椎名氏の私小説である」というお題目があるからで、
そのお題目が重要視されている以上、読者である僕も「椎名家に興味があるんでしょ?」というような、
嫌らしい見えないレッテルを貼り付けられているような気がするのだ。
確かに今となっては椎名家のキャラクターは気になる存在だけれども、
「椎名家の事は何でも逐一知っておきたい」というわけじゃないのだ、本当に。
そこが僕にとってのジレンマである。

もう一つこれは個人的に主張しておきたい事なのだけれども。
物語中に、犬のリードを外しての散歩を咎められたエピソードが出てくる。
他の著作でも読んだような気がするからたぶんそれは実際に起こった事で、
その事について氏はよほど不服に思ったのだろう。
だけど僕はそのエピソードがどうも気に入らない。
「危険な犬ではないから大丈夫です」という返答に対し、爺さんは
「しかし不安を感じる市民がいるのだから繋ぐのがルールだとは思わないか」と丁寧に言うべきだった。
獣としての自然な姿、本来は土であった(獣が闊歩していた)道路、個人の散歩空間、
そういう要素はいかにもシーナ的であるから
読者はおおむね椎名氏の味方についていそうであるが、言ってる事は爺さんの方が正論なのである。
ここを、「やんちゃ」だとか「少年のような」だとか「昔ながらの」とか
そういったエキスを求めて読んでいる人は踏み外していそうだなと僕は思い、また嫌になってしまうのだ。
いかんな、と思ったらそれが椎名氏に対してであろうともいかんなと思う、
椎名氏の本を読む人はそうであってほしいものだがどうだろうか。

……いやリードの話は些末な話であった。この本は気持ちの良い本であったのだ。
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2009.11.09
「バ・イ・ク」柳家 小三治(著)

古本屋でタイトルに惹かれて手に取った一冊。
口述筆記で書かれたらしいエッセイは充分に整理されているし、
口語の文体も噺家という意識があるから受け入れやすい。

内容としてはバイク好きのおとっつぁんのよもやま話、といったところで、
なかなか楽しいエピソードが収録されている。
ツーリングレポートについても、非常に読みごたえのあるボリュームでありながら
飽きさせずに読ませるのはやはり、その道のプロたる所以であろう。

もっとも登場するバイク好きたちが「噺家たちである事」にはさほどの意味は感じない。
噺家だからといってバイクライフに面白おかしい出来事が起こるわけではないからだが、
これは特別な話が読めると期待する向きには拍子抜けかもしれない。
ただ、バイクを知らない読者層から見ると、
登場人物たちが親近感のある噺家たちである事こそが
バイクとの架け橋の役目を果たしているかもしれず、
その点では評価するべきなのかもしれない。

この本が最初に刊行されたのは 1984 年の事だそうで
バイクブーム真っ只中の時期である。
カバー裏の著者近影に小三治氏と写っているバイクは FZ750 だろうか。
その頃はもちろんまだインターネットなんていう物はなく、
だからツーリングレポートと言えば
バイク雑誌の後ろの方、わら半紙のようなページに印刷された、
素人(アマチュア)投稿の物を読んでいた。
そんな時代でのこの、噺のプロによるツーリングレポートは
さぞかし面白く読まれた事だろう。

時代は変わり、バイクを取り巻く状況も一変してしまったので
氏のよもやま話が役に立つ事はあまりない。
しかし、その時代にバイクを楽しんでいた人達がいる、という事実を
目の当たりにするのはとても気持ちのいい事だ。
人の幸福感の分け前にあずかる楽しみのある、いい本である。
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2009.11.08
「蟹工船・党生活者」小林 多喜二(著)

この本がブームになったのは、調べてみると 2008 年つまり去年の事らしい。
折りから注目されだした「ワーキングプア」という概念にマッチする小説として再度脚光を浴び、
2008 年の流行語大賞のノミネートの中にも名を連ねている。

僕が巡回するインターネット掲示板でもしばしば比喩として使われる事があったので
その意味するところを理解しておかなくては、とずっと気に留めていたのだが
今回やっと読む運びとなった。

さて内容であるが、僕にはどうも作品の趣旨を読み取る事が困難であった。
物語としては資本主義における搾取、不平等、劣悪な労働環境等を描いているのだが、
「こんなひどい事があった」「こんなひどい奴がいた」という
事象の羅列を以て何が言いたいのかと考えると、
「我慢できない」「許せない」「やっていられない」という感情以上の物を読み取れないのだ。

ストライキをするのは結構だけれど、どうも何かが引っ掛かる。
彼らには、「乗らない」という選択肢もあったはず、と思うからである。
序盤には生活苦から幼い子供を船に乗せざるを得ない親の描写もあるが、
そういった困窮の状態であればもうそれは非常事態なわけで、
例えば戦争などと同じくその場合の怒りの矛先は
「国家」や「時代」に向けられるべきだと思うのである。
しかし本作品ではそうではなく、怒りは搾取している浅川監督へ向けられる。
搾取している、とはいうが実はその浅川監督にしたところでブルジョワジーではなく、
やや上の階級の労働者に過ぎない。
その事は、当然小林多喜二もわかっているはずだ、と現代の読者感覚では思うのだが、
とすると話の流れがおかしい。最後のストライキの成功に「虚しさ」があまりこめられていない。
「本当の敵は浅川ではない」的な描写がない。

もしかして、小林多喜二としては本気で
「浅川監督=ブルジョワジー」という気持ちで書いているのだろうか。
そうだとしたら……ずいぶん視野を狭めて書いていないだろうか?

ちっぽけな船の上でストライキを成功させたところで他の船での搾取は止まらない。
読者としては当然そこまで考えるわけだが、
「蟹工船」はどうもそこから目を逸らしているように感じる。
本当の敵である「国家や時代」を直視せずに浅川監督をスケープゴートにしたのはつまり、
自分達の行動が実はとても無力であり、体制に影響など到底与えそうにない、
という事を認めると「負けてしまうから」だったのではないか。
「自分達は負けていない」「負けたつもりはない」、
そう言えば負けていない事になると本気で考えていたのではないか。

これは同文庫に収録の「党生活者」の方に特に顕著なのであるが、
(大局的に)無駄な戦いを続ける非合理性、またその虚しさを描いているにも拘らず、
それらを無視して「我々はいつか勝利するのだ」とシュプレヒコールをあげている。
その破滅的で分裂症のような作品の意図が、僕にはよくわからない。

そのシュプレヒコールが、決して報われる事のない悲しい叫びとして自虐的に描かれるならわかるが
どうも小林多喜二は本気で勝つ、勝ちたいと思っているようで、いったいこの小説はなんなのだ。

小林多喜二は日本の代表的なプロレタリア作家とされていて、
危険思想の持ち主として特高警察の拷問による死を迎えているけれども、
いったいどの立場に立って小説を書いていたのだろう?
自身の反体制のための思想をぶちまけようとしているのに、
時々、ともすれば水を差そうとする俯瞰からの観察が顔を出してしまっていたのだろうか。
いずれにせよ救いようのない矛盾、支離滅裂さが存在し、
こんな中途半端な状態で拷問死させられたのではちょっとかわいそうなぐらいだ。

社会主義、その考え方自体はもちろんあっていいのだが、
この小説の中で語られるそれは、あまりにも舞台が小さすぎる。
これ見よがしに描かれた独善的なその舞台は、もはや喜劇ですらある。
それでも勇敢に戦って死ぬ事が大切だと思うなら独りで、いや同志達とそうするがいいが、
それに共感するには現代はもっとリアルな問題を抱え込んでいる。

経済や世相を理解しようとこれを読んでも何の得にもならない。何の参考にもならない。
現代において読むならこれはただの娯楽作品だ。
娯楽作品としても、僕はちょっと出来が悪いと思うけれど、
パニック映画のように楽しむのであれば、まずまずだろうか。
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2009.11.05
「あやしい探検隊 海で笑う」椎名 誠(著)
「インドでわしも考えた」椎名 誠(著)
「地球どこでも不思議旅」椎名 誠(著)
「日本細末端真実紀行」椎名 誠(著)


椎名 誠のエッセイはちょっと鼻に付く所があり、
僕はあまり好きではない。
週刊誌への連載ゆえの時事性の強さなどもあり
特に単行本化されて時間が経った物などは非常に読みづらいのだが、
エッセイに比べて旅行記の方は、ちょっと恥ずかしいけれど憎からず思っている。
とはいえ惰眠をむさぼるようにダラダラ読む事がほとんどだし、
正直これほど冊数を読んでいては、
その度ごとに違ったレビューを書けようはずもない。
そんなわけで以後、椎名 誠の旅行記に関しては
レビューを無理して書くのはやめようと思う。
とりあえずは自分用のメモとして読んだものを列記。
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2009.10.01
「どくとるマンボウ航海記」北 杜夫(著)
僕がこの本を最初に読んだのは小学生の頃だから、もう2〜30年前の事である。
ちょっとふざけたタイトルが気を惹いて、親父の本棚から手に取ったのだろう。
読みやすい文体の旅行記は子供には理解しづらい部分もあったけれど、
旅というものに対する小さな憧れを僕に植え付けた。

冒険といえばジャングルや海底や宇宙といった、未開の地での大活劇をイメージしていたが、
大海原や外国という、知っているようで知らない場所を旅する事も、
ちゃんと冒険なのだと教えてくれたのもこの本だったと思う。

そんな思い出深い本だが、数十年の間に触れ直す事はなかった。
それを今回読み返したのは、椎名誠氏の著書に
氏が旅先でこの「どくとるマンボウ航海記」を読むくだりがあったからである。

だいぶん時代が移り変わった今読み返すと、
この旅行記が古き良き時代のものである事を強く感じられた。
諸外国の人達の物腰。
物の売買。
風俗街の雰囲気。
明日から僕もこんな旅を!と立ち上がってみても、もうこれらを手に入れる事は出来まい。
それは結構寂しく、そしてだから目を細めて想いを馳せるに値する。

「どくとる」をひらがなで使う、というタイトルから既に始まっているユーモアは、
この時代だから新鮮に感じられただろものであり、
現代では特に取り上げられるべきものではない。
北杜夫氏のホラやドタバタ等のナンセンスギャグもそうである。
しかしそれらの文章は、その時代が確実にあった事を強く感じさせる。
小学生だった僕が「ははは」と笑った、そんな追憶も
胸いっぱいに広がるのである。
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2009.08.30
「あやしい探検隊アフリカ乱入」椎名 誠(著)

ずいぶん前に読了していたのに、なぜかレビューを書く腰が上がらなくてここまで来てしまった。
と言ってもこの本がつまらなかったという事ではない。
むしろ、いやはや隊編(?)の中ではかなり面白かったと言ってもいい。

なぜ面白かったのかを考えるとそれはやはり
非常にありふれた言葉ながらも「本人達が楽しんでいるから」なんだろうと思う。
また、以前読んだ「バリ島」と比較してかもしれないが、
「旅行記である事に忠実である」事を感じるからかなぁ、とも思う。
このアフリカ旅では氏はマメにメモをとっていたのではなかろうか。
小さなエピソードの一つ一つが、ずいぶんと臨場感を感じるのだ。

もう一つ、心地いいと感じるのは
氏を含む一行が、自分達のダサさを隠そうともせずにさらけ出している事である。

卑屈な笑い、ごまかし笑い、媚びるような笑い、
そういう嫌らしい仕草は社会人なら誰でももっていると思うが
自分のそれをさらけ出すというのはなかなかできるもんではない。
なのに氏は自らのそういった部分を惜しげもなく書きこなしているのである。
これはなかなか、人間的に偉いなぁと思った。

例えば「俺たちはバカだからよぅ」と不貞腐れてみせる、なんていうのは
出来の悪さを露呈しているように見えて実はアウトローを気取っているわけで、
やっぱりどこか「あんまりダサ過ぎるのはヤダな」と思っているふうに取れてしまう。
そこを乗り越えた氏は、まぁ実に人物である。

採点が甘いのは一行の旅がトラブルまみれだった事も関係しているかもしれない。
アクシデントというのは実に面白い物であるのだなぁ。
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2009.06.23
「セイシュンの食卓1 勇気編」たけだみりこ と 東京ブリタニアン(著)

以前のレビューで「セイシュンの食卓」を 引き合いに出した事があるのだが、
その事がきっかけでもう一度読んでみたくなり、古本屋で見つけて購入した一冊。
「セイシュンの食卓」自体は全 4 巻構成となるが、これはそのうちの第 1 巻目である。
昔の記憶では貧しい食材をなんとかゴハンに仕立て上げる、というイメージがあったのだが、
改めてこの時代に読んでみると、みじめな感じが意外にも少ない。

例えば一つ目の料理の「ロールキャベツ」は、
焼くだけのハンバーグをキャベツで巻いてコンソメの素を溶かしたスープで煮る、という物だが、
2009 年においては「結構ちゃんとしているな」と思えてしまうのだ。

貧乏学生、苦学生という言葉が忘れ去られたかのような現代では、
一人暮らしの若者が煮炊きするという時点で既にレベルが高く感じられる、という点がまず一つ。
で、現代のファストフード産業のやってる事も同じようなレベルの調理だろ、という点がもう一つ。
しかし一番大きいのは、
「自分がロールキャベツを食べたいという気持ち」にこだわっている点ではないだろうか。

実家で食べたロールキャベツをふと思い出して「食べたいな」と思った時に
近所の手頃な店のメニューにないから「自分で作ってみる」。
食べたいというこだわりの前には食材の良し悪しなんてたいした問題ではないし、
料理の腕前がなくったってそれ「らしい」物が作れれば、
その料理には昔の記憶の味が甦るのだ(再現できていないな、という観点からも甦る)。
これは、現代社会が失いつつある「ゆとり」である。

それを、
美味しく作れない、
見栄えがする物を作れない、
調理する姿が格好良いとは思えない、
そういった理由から
「たいした物(ロールキャベツ)が作れないから、今はいいや」と
自分の食べたい気持ちを殺してしまうのは、
食の記憶への執着心が薄いのだと思う。

グルメな人──つまりエンゲル係数の高い人は増えたし、
お金をかけなくても、例えばラーメンなどにこだわりを持つ人は増えた。
しかし、文化としての食事の「シーン」への思いやりは
どんどん少なくなっていくような気がするのだ。
ロハスやスローフードなどの「自分に向かうもの」はそれなりに見直されたりしているけれど
(記憶を含めた)人との触れ合いを組み込んだ「食事」という行為は
あまり見直されていないようである。

だから、そういう郷愁などを意識したこの本は、「結構ちゃんとしているな」と思えるのだ。


僕がこの本を再度読みたいと思った理由には、
キャンプ料理の参考になりそうだと思ったという事もある。
簡便に手間なくという点で、両者には共通点が多いのだ。
実際に作るかどうかは別にして、
これはキャンプで作れそうだ、これは無理そうだ、等と
考えながらページをめくるのはなかなか楽しかった。
残り3冊も欲しいかと言われたら微妙だが、まぁ、面白い本でありました。


※「焼くだけのハンバーグ」ってやっぱりマルシンハンバーグだよな、
まだあるのかな、と思って検索してみたらまだ販売しているようだ。
僕がCMソングを聞いていたのはたぶん'70s初頭だから、これはすごい事だ。
味のほうはと言うと一人暮らしの頃に試した事があって、
湯煎のレトルトハンバーグよりはいいなと思ったけれど
歯触りがあまり好みではなかったから何度も買う事はなかった。
見かけたらまた買ってみよう。
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2009.06.03
「恐るべきさぬきうどん 麺地創造の巻」麺通団(著)

僕は讃岐うどんがちょっと好きである。
「ちょっと」というのはマニアの人に気を使って「ちょっと」と言っているだけで、
自分では「結構好きなほう」だと思っているのだが、
僕程度が「結構」というのがはばかられるような奥深さ(?)が讃岐うどんにはある。
その奥深さを追い求めるマニアを生み出した
讃岐うどんブームの仕掛け人(仕掛け本?)が「恐るべきさぬきうどん」シリーズで、
今回読んだ「麺地創造の巻」は、そのシリーズ初期の選り抜き加筆修正版である。

うどんの店舗紹介が軽妙な語り口で綴られるこの本は、
ガイドブックでありながらしかし、エッセイとしてもなかなか面白い。
店舗を知らなくても…そして今後も行く予定がない店についても、
なかなか楽しく読む事ができる。
これはなかなかたいした事なんじゃないかと思う。
もっともこれには、讃岐うどん界を徘徊する人達の風変わりっぷりが
大きく貢献しているだろう。

うーんだがしかし。
讃岐うどんを意識して食べた事のない人にとって面白いかどうかは、正直自信がない。
讃岐うどんではないうどん、を思い描きながらこの本を読んでも、
あまり比較の楽しみがないと思えるからだ。

セルフ&製麺所系が、いわゆるキワモノとして耳目を集めていたのは確かで、
評価基準の大部分をそういった「怪しさ」にあてていたこの本は、
「ネギを自分で刻む」という事例に耳新しさのなくなった今、
本としての価値を当時よりも明らかに下げている
思えば時期的には、「○○の秘密」「〜〜研究序説」等の本も同じ頃に世に出ており、
この本のヒットもまた、うまく潮流に乗ったヒットであったのかもしれない

存在意義を考えると、客観的な味の記述ももっとしておいたほうがよかったのかもと思うが、
そうしていたらこのヒットはなかったかもしれず、結局世に出た形が一番良かったのだろう。
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2009.05.05
「魚でごちそう」本山 賢司(著)

この本はもう絶版なのだが、
ネット上でちょっと見かけたコンセプトに惹かれてネットストアの古本で購入した。
出かけた現地で魚介類を購入・その近所で調理して食べる、というテーマで
一回につき見開きの魚のイラストレーションと見開きの顛末記の、
計 4 ページで構成されている。
購入前に推測していた通り「図解 さかな料理指南」とのネタかぶりは多いが
同じネタでももっと深く読めると期待して買ったのでそれはいいだろう。

全部で 41 編の行状がまとめられているのだが、
「図解 焚火料理…」と「図解 さかな料理…」を既読の僕に限っては、
途中で飽きてしまった。

41 編それぞれにあまり変化がないのがまず大きい。
もっともそれは、図鑑のような体裁で作っているのだから
そういう物かもしれない。

根本的な事を言えば、(編集部の)企画内容が中途半端なのである。
読者に何を楽しんでもらうのか、があいまいなまま始めているから、
非常に散漫なつくりになってしまっているのだ。
これは本の構成にかなりの責任がある。
本山氏自身があとがきで
「生の魚をモデルに絵を書きたいというのがいちばんの目的」
と書いているが、図鑑のように背景のない切抜きで描かれる絵に、
現地で書く必要性があるだろうか。
現地に足を運ぶのなら、そこでしか描けない背景をも取り込むべきではなかったか。
もしくは、料理の方をイラストで見せてもらうべきだったのではないだろうか。
また、行く場所は決まっているのに入手する魚は現地で見繕い、というのも
41 編ともなるとズボラな感じがしてしまう。
その魚で作る料理が、なぜその料理なのかという理由に乏しいのもまた、
エンタテインメント性に欠けるのだ。
素人の投稿する旅行記ではないのだから、
説得力のある流れであってほしいものである。

この本のタイトルは「魚でごちそう」であるが、
「ごちそう」という語感から期待する、舌なめずりしたくなるような描写が
この本の中にはちょっと少な過ぎる。
美しいイラストはあくまで「素材」である。
文章は多少想像力を刺激するものの、
本人達の喜び様の描写の方が強いので、蚊帳の外感がある。
それらをフォローするべき調理写真であるが、
ライブ感に固執したのか、美味そうに撮ろうとはされておらず、
したがって一冊を通して
「あたかも読者も一緒に美味しい思いをしたような」感じがあまりしない。
「図解 さかな料理指南」ではご相伴にあずかったような幸福感を感じたのに
もっと手間をかけた企画であろう「魚でごちそう」がこれでは、非常に残念である。
美しい本山氏のイラストが、もったいない。
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2009.04.21
「素人庖丁記」「素人庖丁記・ごはんの力」嵐山 光三郎(著)

「文人悪食」にいたく感動し、
氏の著作を読んでみたくなり購入した二冊。
「ごはんの力」を先に買ったのだが、
読み終わらないうちに古本屋で「素人庖丁記」を発見、
ならば、と初代の方から読んでいってみた。

結論から書くと、過去に読んだ食エッセイの中で
一番面白かった(少なくとも初代は)。
もう最高である。
何が最高って、読んだ事のない文章なのだ。
おそらくは「だ。」「である。」と言い切る文体のせいだろうが、
もうものすごい説得力。
呑み込まれる様に、夢中になって読んでしまう。

あまりにも一気に読んでしまったので、
このレビューを書くためにもう一度読み返してみた。
まず、一編はおよそ 10 ページで構成されているのだが、
その中にネタがおよそ 15 個ぐらい入っている。
これはかなり多い。
自然、1 ネタにかける文字数は少なくなるのだが、
決して説明不足な感じはしないし
さっきも言った通り、文体の説得力のせいで、
ちゃんとお腹に溜まる。
個々のネタは基本的に大きな括りからさほど逸脱しないから、
大きな括りとしての題材は
いろいろな視点から色濃く語られたように感じられる。
例えて言えば、
「非常に脱線好きな教授の、
しかし振り返ってみれば素晴らしかった授業」のようで
もう本当に手放しに素晴らしい。

ネタを数えてみると、この本が
取材やメモ、覚え書きの羅列から構成されているのがわかってくる。
しかし、それらの紡ぎ方がたいへん上手いので、
とても読み応えがあるように感じられるのだ。

「ごはんの力」はちょっと軽薄である。初代の方が断然面白い。
初代から読む事をお薦めする。

ちなみに、氏の話はどこまでホラなのか、非常にわかりにくい。
それもまた魅力なんである。
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2009.04.15
「美味放浪記」壇 一雄(著)

嵐山光三郎氏の著作を読んで檀氏を気に留めていたところ、
古本屋のワゴンセールで背表紙が目に飛び込んできて購入。
氏の代表作「リツコ その愛」「火宅の人」は未読なので順序が逆であるが。

「檀流クッキング」というレシピ本(?)も書いた氏が、
国内、国外の食を綴ったエッセイ…かと思いきや。
そもそもの掲載が雑誌「旅」の依頼によるものだったらしく、
「食」一辺倒というわけではない。
美食を求めて、という名目はあるものの、
食べ物そのものに関する記述よりも
それを取り巻く環境、状況の方が仔細に描かれており、
だからどちらかというと旅行記に近い気がする。

裏町の立飲屋専門の野暮天を自認する氏であり、
その姿勢は親しみを感じさせるがその実
「ドイツの裏町だったら」「つい先頃、私はソビエトへ」
「ニューヨークでも… パリでも… ロンドンでも…」等と
諸外国への外遊経験が引き合いに出されているのを見ると
やはり生活基盤の違う人なのかと少し落胆もする。

もっとも、檀氏自身が私小説中の存在そのものであり、
だから当時の大衆も氏の存在に対して
コスモポリタンっぽさを求めていたのかもしれないから
氏もそれに応える形でモダンさ、インテリっぽさを
わざと文章の端々に塗り付けていたのかもしれない。

これが書かれたのは1965年と1972年らしい。
最初の掲載がどういう文体で書かれていたのかはわからないが、
僕の読んだ版では完全に現代の口語体であり、非常に読みやすい。
また言い回しについてもコミカルな味があり
当時としてはかなりくだけた物言いだったのではないだろうか。

さて、食の内容であるが
読んでいくとやはりというか、かなりの高級店志向である。
例えば新潟編において、
「鍋茶屋」は高級だから「本陣」か「松井」辺りがいい、と書いているが
平成21年の(そして未曾有の不景気の)今日において
料亭「鍋茶屋」は夜のご予算 \25000 から(←きっと料理のみ)、
割烹「本陣」は \10000 から、という感じで、
そりゃ芸妓さん等付ければ料亭「鍋茶屋」の予算は跳ね上がるだろうが、
割烹「本陣」とて決して庶民が気軽に利用できる店ではない。
ただ大人が食事を楽しむならば、
例えば旅先で美味しい物を食べようとちょっと奮発するならば
決して手が届かない額でもなく、
だから旅行雑誌が取り上げる価格帯としてはなかなか悪くない。
だが、普段使いの食のエッセイを読みたい僕には
この本で取り上げられている店は、やはり高級店過ぎる。

もっとも、馴染めないのは氏が行く高級店であって、
本の中で紹介されている土地々々の食材は
庶民的な市場で我々にも手に入りそうな物だから
そこのところには非常に親しみを覚える。
知らない食材が出てくると、
それらの土地に足を運んだ時にはぜひ探して食べてみたいと思ってしまう。
これはひとえに、食べ物を美味しそうに書いてみせる氏の手腕によるものだろう。

グルメを自認する人ならいざ知らず、
今日の、低いエンゲル係数で生きている者にとっては
食のエッセイとして読むにはちょっと生活基盤の合わない所があるが、
本の中にトリップするのなら、その読みやすさでなかなか悪くない、
そんな一冊だった。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.04.06
「あやしい探検隊 バリ島横恋慕」椎名 誠(著)

あやしい探検隊シリーズという事で、中も見ずに買った一冊。
シリーズに惚れ抜いている、というわけでもないのだけれど
暇つぶしとしては僕的に安全パイであるし、
古本屋の格安コーナーでの買い物であるから
楽しめる一節があったらラッキー、程度の気楽な購入である。

この本が書かれたのは 1998 年、
椎名氏がバリを訪れたのはその一年前の 1997 年らしい。

実は僕もバリに行った事がある。2001 年の 10 月の事だ。
当時、バリはブームの真っ只中にあった。
旅行会社の組んだ安いツアーで行ったのだが、
滞在中はずっとフリータイムのプランだったから
かなり歩き回った、つもりである。
とはいえ言葉も通じないし地理にも疎いので
ツアーの観光客がちょこちょこ散歩した程度に過ぎない。

アジアの片田舎といった風景は確かに叙情的であったが
ビーチには三つ編みやマニキュアの客引きが居付いていて
とてものんびりするムードではなかったし、
ブームに合わせてバリ風雑貨などが豊富に売られる町の商業地域は
町並みこそ有機的な造りになっているもののネットカフェなどもちゃんとあり、
僕としては牧歌的なリラクゼーションリゾートといったイメージよりも、
アジア人特有のしたたかさみたいな物を感じた場所であった。

さて、僕のそんな印象とこの本に描かれるバリは
違う国の話かと思うほどに違っている。
4年間という時間の経過を踏まえても
バリがそんなに急変するわけもないからそれはつまり、
僕が行ったバリの観光中心部と、
椎名氏ら一行が訪れたオリジナルバリが
まったく違うものだという事なのだろう。
持つ者と持たざる者の事情の違い、なのであるが
この本で書かれたような、一種オーダーメイドのような旅をするのは
普通の観光客には到底無理というものだ。

そんな、手の届かない世界をまざまざと見せ付けられた時に
「すごいなぁ」「いいもんだなぁ」と感嘆してみせるのが
一般的な紀行文の読み方なのであろうが、
事それがあやしい探検隊シリーズとなると
どうもなんだかダマくらかされたような気分になって
素直に受け止める事ができないのである。
もっとダサくてユルいのが、あやしい探検隊ではないのかと。
という僕は、あやしい探検隊(東ケト会)を語れるほど
イッパシのファンというわけではないのだが。

なんかみんな商売してしまっているのだ。
描かれている各人の考え、気持ちが、
自然に湧き上がってきてるものではなくて
仕事として絞り出されたもののように感じるのだ。
仕事だから任務遂行しよう、終わらせようって雰囲気を、
非常に強く感じてしまう。
この本が、書かれるまでに時間がかかってしまったからだろうか。
ちょっと、義務感漂う一冊であった。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.03.27
「文人悪食」嵐山 光三郎(著)

お金を使わないで恐縮ではあるが、
またまたこれも図書館から借りてきて読んだ本である。
きっかけはまたも、とある本の巻末の刊行物紹介頁。

僕は嵐山光三郎氏についてほとんど知らず、
テレビタレント業を主体とする文化人か、ぐらいに思っていた。
考古学の吉村作治氏のようなイメージである。
作家とも認識していなかったので、
氏の著作に触れるのはこの「文人悪食」が初めてだ。

読んでみて驚いた。
なんと力強い文章だろう。しかも説得力に満ちている。
氏の、伝えたい気持ちが、文章を磨き、修飾していく作業からよく伝わってくる。
編集者アガリという経歴からも、
文章のプロフェッショナルであるのは間違いのないところなのだが
とにかく努力して書かれた事がよくわかる文章なのだ。

氏は口語調やカタカナ表記を使う事で軽薄とされる事もあるらしい
(事実、後に読んだ「素人庖丁記 ごはんの力」では、
「なの。」の多用に少し辟易した)が、
この「文人悪食」にはそんな兆候は微塵もない。
おそらくは氏が、文壇そのものを敬愛しているからであろう。

さて内容であるが、
近代作家を食というテーマから分析・紹介するという趣旨で
37人の文士を取り上げ、それをまとめる形で一冊の本に仕立てあげている。
夏目漱石や宮沢賢治といった、教科書に載るような
誰でも知っている文士も取り上げられているし、
そのあたりの文学がサブカル的に人気がある事もあって、
非常に面白く読む事ができた。
なんといっても面白かったのは、今まで知らなかった文士の姿を
ある程度体系立てて知る事ができた事である。

お札になった樋口一葉が、陰湿な恋愛物の小説の人だったとは知らなかった。
有島武郎の「一房の葡萄」がフェティッシュな小説とは気付かなかった。
恵まれた環境に育った石川啄木がコンプレックスの塊だとは知らなかった。

今まで額面通り受け取っていた物語が、
いろんな事情を知ると、違う見方で見る事ができる。これは面白い。
また、雑学的なネタも、多数散りばめられている。
芥川龍之介の段落の、羊羹としゃぶしゃぶの因果関係の話は
検索して知ってみたいと思わせる一節であったし、
樋口一葉の著作の登場人物・美登利と寿司の関わりは、
寿司屋に美登利という屋号が多いのと何か関係があるのかな、等と
想像するのは楽しかった。

すでに故人となった文士を題材とするには
もちろんなんらかの資料からネタを引っ張ってくるわけで、
だからそれぞれの文士のファンからしてみると
既知のネタばかり、という事になるかもしれない。
実際僕の場合でも、池波正太郎氏についての話などは、
池波好きの女房の影響で主だった著作が既読だったから、
ほとんど知っているネタであった。
嵐山光三郎氏と交友のあった檀一雄氏、深沢七郎氏らについては
オリジナルなエピソードも紹介されていると思うが、
ほとんどの文士(の食に関する部分)に関して、この本は「まとめ」である。
しかしそれでもこの本が有用なのはやはり、
著名な37人もの文士を集めた部分にある。
特に後半部分では文士と文士がリンクしていくので、
次々と知的好奇心が満たされていく感覚があってたいへん面白い。

中には、取り上げてはみたものの
どうにも「食」のテーマでは切り出せなかった文士もあったようだ。
無理矢理食にこじつけてあるけれど、どうにも苦しそうである。
でも全体としてみるとやはり、
その文士も取り上げられていてよかった、と思えるのだ。

作家が描き出す作品世界に、読者はなんとなく
作家そのもののイメージを重ねてしまう。
しかし実際には作家の人格はまったく違う物だったりする。
それが如実に現れるのが、食の嗜好であるのだろう。
その切り口で文士たちを繋げていった嵐山氏のセンスとテクニックには
ただ脱帽するしかない。本当に面白い一冊だった。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.02.04
「面白南極料理人」西村 淳(著)

とある本の巻末の、
「弊社刊行物紹介」みたいな欄で興味を持ったので
図書館から借りてきて読んでみた。
南極での調理が話のメインなのかと思ったが
意外にもそうではなかった。
調理に関するエピソードもあるにはあったが
どちらかというと料理という要素は薄い。

しかし作品にはこの料理人であるという点が大きく関わってくる。
なぜなら、観測・研究への責任が
かなり免除されている(ように見える)からである。
この事によって氏は、悪ふざけや悪のりを含む
軽妙な文章を書く事をも許されていると思うのだ。

国費を使っての派遣であるから
不真面目な生活態度や豪華な食生活は
反感も買いやすかろう。
しかし、氏は料理人であるから
そういった事を悲壮感もなしに楽しく語れてしまう。

日記の形式を取る、とても軽快に読める本である。
時間潰しにはとても楽しい一冊だった。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.28
「不味い!」小泉 武夫(著)

最初は、結構読めると思った。
大胆で力強い文章には説得力があり、
「あぁ、そりゃ不味いだろうね」
「あぁ、そういう不味いものってあるよね」、と。
しかし途中から、ある事に気付いて楽しめなくなってきた。
実は氏は、その異名に反して
味覚がとても虚弱なんじゃないだろうかという事である。
確かにゲテモノは食べるし、発酵食品には強かろう。
けれどもそれは味覚レンジがそちらへ少しシフトしているだけの事で、
レンジ幅自体は普通の人とさして変わらないような気がするのだ。
例えば焼肉屋で、氏は食べる気にならない焼肉を、学生にやっている。
氏が食べられなかった物を、学生は食べているのだ。
例えばそれが実は汚染されていただとか、
そういう知識の差で食べる食べないが発生していたならともかく
獣臭がするので食べないとあっては
とてもじゃないがジュラルミンの胃袋とは言えまい。
ともかく氏には、食えない物が多すぎるのだ。
感覚が鋭敏なのはいい事だけれど、美味くない事と食えない事は別であり、
レベルが低い物は食べられないというのは誇れる事じゃないと思う。
そんなわけで、氏と物差しの尺度が違っているかも、と感じ始めると
この本は結構陳腐になってしまうのだ。
で、そういう見方になってくると、
氏がなんでわざわざ嫌な思いをするために
安っぽい食材を買い込むのか、という事に疑問符が付き始める。
「あぁ、ネタって事か」と思ってしまうともう一気に醒めてしまう。

氏はシュール・ストレミングもホンオ・フェも不味いと言っているが、
喜んで食っている現地人はいるわけでしょ。
チャレンジしただけで「発酵仮面」ってのはないんじゃないかなぁ。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.27
「図解 さかな料理指南」本山 賢司(著)

少し前にレビューを書いた「図解 焚火料理大全」と一緒に購入したもの。
「さかな料理〜」はレシピページの文章に脱線が少ないので変化に乏しいかと思ったが、
数ページに渡る文章はむしろ「焚火〜」よりもこちらの方が多いので、
なかなかに満足できる。
魚介類に絞ったレシピ(?)集は本領発揮という感じで、
その決して詳し過ぎない手順紹介が
かえって想像力を逞しくさせてくれるのが魅力的だ。
氏の料理の文章が魅力的なのは、食通ぶったところがない点と
使う食材が読者にも身近に感じられるような点だろう。
スーパーで買った〜とか、パックの〜という描き方には安堵感を覚える。
ただ一つ難があるのは
「焚火〜」、そしてついつい買ってしまった「魚でごちそう」と
かなりネタがかぶる事だ。
これは仕方ないといえば仕方ないが…。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.25
「トコロテンの夏」沢野 ひとし(著)

沢野氏は椎名 誠氏の著作の挿し絵で結構前から知っていたけれど、
氏の文章を読んだのは昨年末に読んだ「少年少女絵物語」が初めてだった
(いやもしかしたら誰かの本の解説とかで読んだかもしれないが)。
その「少年少女…」はややノスタルジー的な回顧録で
ちょっと古いタイプの読み物だったが嫌味のない文章で読みやすく、
僕としては非常に好感を持った。
だから古本屋でこの「トコロテンの夏」を見つけた時は
ほとんど躊躇しないで購入したのだった(\105 円だったしね)。

そんなふうに手に入れたこの本だが、
古本屋でペラペラとめくって確認した最初の方の雰囲気が、
全体の1/4ぐらいを過ぎたところで
なんだかずいぶん変わってしまったのには正直アレレ?と思った。
構成としては1/4ずつ
「少年時代」「女性達」「サラリーマン(&男と女)」「男と女」
という感じか。
トコロテンの話は「少年時代」区分のページに含まれるのだが、
このタイトルがこの本を表しているとは到底思えない。
奥付け前の注釈を読むと、この本は
「新サラリーマン物語」が文庫化にあたり改題された物だという。
「新サラリーマン物語」ならナットクなのだが
売れるタイトルにしてしまった、のだろうか。
ちょっとよろしくない感じだ。

さてこの本の大部分を占める女性観、恋愛観なんだけれど
21世紀現在、既婚者である僕にはあまり馴染めない、
そうまるで「ハートカクテル」のような時代性を感じてしまう。
それがツボにはまる人にはいいのかもしれないけれど、
普遍的な内容ではないと思う。
じゃあ買うなよと言われれば
まさにその通りです、すみません。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.21
「図解 焚火料理大全」本山 賢司(著)

図書館で借りた「旅のむし・腹のむし―アウトドアフィールドノート」のイラストが
とても温かみのある素敵な水彩イラストレーションだったので、
著者を調べて購入した一冊。
なんだか懐かしいような気がするのは、
子供の頃に親しんだ野外入門書や動植物図鑑などの
精緻な挿絵を思い出させるからかもしれない。

さて内容は、アウトドアクッキングに寄った料理紹介の本である。
だが気をつけなければならないのはレシピ本ではないところで、
材料の分量は記されていないし、工程もはしょられたりしているしで
(ひどいところでは「焼く」と書かれていないところがあるw)、
この本を読めばいろいろ料理が作れる、と思ったら大間違いだ。
とはいえ当事者がよければ万事 OK だというスタンスは実に気持ちがいい。
そう、定量に縛られる事なく、味見して加減していけばいいのだ。
簡単すぎるような調理内容も、アレンジのベースと考えればよさそうである。
一つの料理にそれぞれほんのちょっとしたコラム的な文章も添えられており、
読者が想像を膨らませる事を手伝ってくれる。
非常に楽しめる一冊である。

ただ、メニューは確かに調理の簡単な物ばかりなのだが
必ずしも万人向けというわけではない。
複数名なら躊躇なく使える食材・調味料でも
ソロとなると、無駄にしたくなくて二の足を踏む、
だから作れない料理…というのも多数掲載されている。
車か、もしくは分担して担いでくれる仲間が必要…というような事例もある。
もっとも、難しければ自宅で作ればよいのであって、
その事がこの本の価値を下げているとも思えない。

この本の雰囲気、何かに似ているなと思ったら
昔流行った「セイシュンの食卓」に似ているのだった。
なるほど、と思った人は読んで損はないかも。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.20
「あやしい探検隊不思議島へ行く」椎名 誠 (著)

「わしらは」「北へ」と読み、
一つ飛ばして「焚火酔虎伝」と読んだ後に後戻りしてきて読んだ一冊。

探検隊シリーズは、僕の目指す旅行とスタイルのかぶる所もあり
なかなか面白く読んでいる。
「ヘボい」「ユルい」「むさ苦しい」のが妙に魅力的なのだが、
この「不思議島」は読後感がちょっとゲンナリしてしまう一冊だった。

元々は「週間宝石」の連載だった物をまとめた書籍らしい。
いろんな島に行く、という週刊誌のテーマは
「あやしい…」シリーズを通してのテーマにも一応沿うはずなのだが、
どうしたわけかこの本の中の由利島、猿島、浮島、竹生島という
半分以上のエピソードが、もう圧倒的にトホホなんである。
氏はそこをグッとこらえて
トホホをエンタテインメントに昇華しようと奮闘したみたいだけれど、
なんか虚しいのがバレちゃっている気がするのである。
焚き火の周りを踊る写真もなにやら寂しくて侘しい。
「島」というテーマは結構なんだけど、
「島に行けば何とかなる」という物でもない、という事だろうか。

でもってスリランカ・モルジブ編なんだがこれは意に反してナカナカ面白かった。
けれどやっぱり海外紀行文になっちゃってて、
「あやしい…」を読みたい向きには肩透かしかもしれない。

総合すると、アウトドアに憧れている一見のお客さんには
結構読みやすくて面白いかもしれない一冊であるが、
アウトドアに出かけられないウサを読書で晴らそう、という向きには
お薦めできない、という感じだろうか。
週刊誌の連載ゆえにそういう方向性にされているのかもしれないけれども。

まぁしかし僕の購入したのは BOOK・OFF の \105 コーナーなので、
文句を言える筋合いでもないのだった。   BOOKレビュー目次に戻る


2009.01.18
「見よ 月が後を追う」丸山 健二 (著)

ネット上の書評を読んで気になり、図書館から借りてきて読んでみた一冊。
僕は丸山健二の著書を読んだ事はなく、
したがってこの本の文体、それに調子が氏の特有の物なのかどうかはわからない。
だからこのレビューはこの本一冊に対する物であり、
氏の著書を通した流れの上でのレビューとはなりえない事をおわかりいただきたい。

普段聞きなれない言葉を駆使して綴られる文章は、
一見とてもとっつきにくい印象を受ける。
詩人の紡ぐ物語のようなリズムを持つ文章は、
しかし流麗な美しい事だけを見せ付けるのではなく、
むしろ世の汚らしい物を認識しろと迫ってくるようだ。
難しい言葉を使っていても非常にわかりやすく、
そしてその文章を理解したいと僕に思わせるのは
その文章が高度に精製された清らかさを持っているからかもしれない。
そして一行ごとの短い文章がなぜ僕を引き付けるかといえば
それが同胞である氏から読者に向けた「お前はそれを見たか」という問いかけであり
それに「あぁ、私もそれを見た」と答える事が愉しいからなのではないだろうか。

ネタバレを含んでしまうが内容に関して書かないわけにもいかない。

主人公の種族が、そういう物語を誘ってしまうのか
この物語でも「事件」が起きてしまう。
そして「破滅」する。
その「破滅」は幸福な破滅と言ったほうがいいのかもしれないが、
いわゆる「昇華」型であり、
漫画・アニメ世代にはある種、陳腐な内容である。
それが悪いというわけではないし、
その事件と結末がなければ主人公の様々な言葉は存在し得ないのだから
一冊の本として成立するためには致し方ないのかもしれない。
だが、しかしそれでも「事件」などはそう起こりえる物ではないのだ。
万に一つの「事件」を待つのもまた惨めであり、
「事件」がなければ「動き得ない」のか、という事もまた命題なのではないだろうか。
僕の感じ方としては、違う。
漫画「ケンタウロスの伝説」中に登場する、
「スピードの中で 精神は肉体を超越する」という言葉、
意訳に過ぎるかもしれないが逆説的に捉えれば、
翼を持つ事で、肉体が燻った日常の中にいてさえ、
精神は翔ぶ事ができる、と僕は思うのだ
(※引用はしたが僕はケンタウロスの支持者ではない)。

とはいえ、この本のこの蒸留酒のような文章は
走る時に五感を鋭く働かせる者達にはとても愛されるのではないだろうか
人生の中で、どこへ走るのか
人生の中で、なぜ走るのか
人生の中でどう走るのか。
考えながら走っている同胞たちにはお薦めの一冊である。   BOOKレビュー目次に戻る