《ピルグリム・イェーガー》覚え書き4


立証者、その他。


立証者:

七つの大罪者と三十枚の銀貨の戦いを見守り、後世に伝える存在。

フランチェスコ・マリーア・
デッラ・ローヴェレ
(フランチェスコ・マリーア1世)
1490−1538。

ウルビーノ公であったモンテフェルトロ家がグイドバルド1世の死により直系が絶え、
その甥にあたるデッラ・ローヴェレ家の彼がウルビーノ公の位を継いだ。
デッラ・ローヴェレ家は教皇シクストゥス4世やユリウス2世を輩出した名門。
彼の妻はエレノーア・デステ。
しかし、1516年、教皇レオ10世は武力でウルビーノを占領、
フランチェスコを破門し追放。メディチ家のロレンツォ
(ロレンツォ・イル・マニフィコの子。通称小ロレンツォ)をウルビーノ公とした。
1519年、そのロレンツォが亡くなりその直系が絶えると、
再びウルビーノ公の座に返り咲く。

ラファエッロ作の「アテネの学堂」で、
画の左側にいる長い金髪をもつ優美な青年が彼の肖像といわれ、
『ピルグリ』での作画はこれを元にしたと思われる。

ミケランジェロとの教皇ユリウス2世の墓碑制作問題については、
彼が一向に手をつけないためにこの後20年近くも争い、
結局彼は完成を見ないまま亡くなってしまった。
ニッコロ・
マキャヴェッリ
1469−1527。

『君主論』、『戦術論』などの著作で知られる、
ルネサンス期の政治思想家。
政治を宗教・道徳から切り離すという、現実主義的政治論を説いた。

フィレンツェ生まれで、若くからフィレンツェの要職に就いていた。
チェーザレ・ボルジアに深く傾倒しており、
その影響は『君主論』に見られる。
1512年、追放されていたジョヴァンニ・デ・メディチ(後のレオ10世)とジュリアーノ(後のクレメンス7世)
がフィレンツェに復帰してくると解任される。
翌年、反メディチ家の陰謀に加担した疑いで逮捕、投獄され、
その中で『君主論』を著しメディチ家に献呈。
疑いが晴れた後は官職に就くことなく、著作に専念することになる。

その他:

気が向けば。

アルベルティ ナポリ=アェルヌス領都市の市警(コミッサーリオ)。
戦争に出て帰ってこない兄の代わりに市の治安を守っている。
女将さん アデールたちの暮らしている家の女将。
アルベルティ市警の乳母をしたことがあるらしい。
司教 カテドラル(法座教会、司教座教会。一般的には大聖堂と訳される)
にいます、神父様よりえらいお方。その地帯一帯の教会を管理している。
いかにもお金好きそうな人物。
ピッキオ 教会親衛隊の長。
ピッキオ(Picchio)とは、イタリア語でキツツキの意味。

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