1521年以降の史実について。
1521 | *マルティン・ルター、破門される。 ルターはヴォルムス帝国議会に召喚され、皇帝カール5世の前で自説を曲げないことを宣言。 皇帝はルターを帝国法律の保護外に置いて(つまり彼を殺しても罪に問われないということ)追放とし、その思想を禁じた。 ルターはザクセン選帝侯にかくまわれ、ヴァルトブルク城にて新約聖書のドイツ語訳を始める。 当時、ラテン語以外の聖書は存在しなかった(ウィクリフが14世紀に英訳聖書を作ったが、異端とされた)。 *教皇レオ10世が死去、ハドリアヌス6世が教皇位に就く。 *スペイン人エルナン・コルテス、アステカ王国を滅ぼす。 |
1523 | *ハドリアヌス6世が死去、ジューリオ・デ・メディチが教皇位に就く(クレメンス7世)。 *教皇軍と皇帝軍がボルゴフォルテで戦う。 メディチ家の勇士ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(黒備えのジョヴァンニ)、奮戦し負傷。 |
1524 | *ドイツ農民戦争の開始。 ドイツでは、前世紀中ごろから農民の既得権が領主によって脅かされるようになっていた。 農民たちはこれに反対、さらに人文主義の広まりと共に彼らが自由民としての意識を持ち始めたことにより両者は対立。 そして各地で一揆が起こるようになり、教会権力の腐敗を攻撃するマルティン・ルターの宗教改革思想がそれに拍車をかけた。 6月23日、ハンス・ミュラーがシュテューリンゲンで決起、領主に信仰の自由と封建的支配からの解放を要求。 帝国軍がイタリア遠征中だったため、領主はこれに応ずる。農民たちは解散したが、ミュラーの活動は続いた。 |
1525 | *パヴィアの戦い。 スペイン・ドイツ傭兵部隊がフランス軍を撃破、フランソワ1世を捕らえる。 黒備えのジョヴァンニはフランス軍に従って戦い、負傷する。 *ドイツ農民戦争。 ハンス・ミュラーの活動により、南ドイツ全域にわたって「農民団」が結成され、各地で蜂起が始まった。 帝国の主力は不在であったが各地の領主もこれに対抗し、各地で激戦が展開される。 ミュールハウゼンではトマス・ミュンツァーが蜂起。 かつてはマルティン・ルターと共に歩んだ男だったが、その思想は社会構造変革をも志す開明的な、つまり過激なものだった。 ルターもその思想についていけず、彼を「悪魔の手先」と非難し、撲滅を呼びかける。 彼は信仰の改革は望んでいたが、社会の変革までは望んでいなかったのだ。 ミュンツァーは諸侯軍に敗れ、処刑された。 諸侯軍は農民団を各個撃破、各地で虐殺の嵐が吹き荒れた。 26年に戦争は終結。農民側の完全な敗北に終わった。約十万人の農民が殺されたという。 この結果、ドイツでは諸侯の力が強くなり、領主たちは彼らに併呑されていく。また国内の分裂が進むもととなった。 |
1526 | *マドリードの和約。 フランソワ1世の釈放の代償に、フランスはミラノ、ジェノヴァ、ブルゴーニュ、ナポリを失った。 しかし、釈放されたフランソワ1世はすぐさま条約を破棄、ローマ教皇クレメンス7世と結び、「コニャック神聖同盟」結成。 参加勢力はフランス、ローマ教皇庁、ミラノ、フィレンツェ、ジェノヴァ。 フランスと結んだ教皇クレメンスは、皇帝側についていたフェッラーラ公アルフォンソ・デステを破門、ローマに幽閉。 教皇がフランスと結んだことを怒った神聖ローマ帝国皇帝カール5世はローマへ向け進撃。 教皇軍は支えきれず敗走。 黒備えのジョヴァンニ、奮戦するも砲撃を受けて重傷を負い、死亡。 *第一シュパイアー帝国議会。 カール5世、ルター派を公認。国内のルター派諸侯を味方につけるため。 |
1527 | *サッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪、ローマ劫掠)。 激戦の末、5月6日にローマへ侵入したドイツ人傭兵部隊(ランツクネヒト)がローマで略奪の嵐を吹かせる。 司令官がローマ攻撃時に銃撃により死亡していたため、略奪に対する歯止めは全くきかなかった。 永遠の都ローマは7日の間焼かれ、砕かれ、奪われた。 ミケランジェロの「天地創造」が描かれていたヴァティカンのシスティーナ礼拝堂は厩舎となり、壁は落書きで満たされた。 男は殺され、女は修道女まで暴行を受けた。 さらにペストが流行、ランツクネヒトを含めた数千人が犠牲となる。 ここに、偉大なるローマ帝国の世より代々受け継いだ輝かしき遺産は、ほぼ完全に失われた。 アルフォンソ・デステ、救出される。 教皇クレメンス7世は捕縛され、幽閉された。ルター派の傭兵は教皇を嘲笑、 ローマ略奪にヨハネ黙示録の「大いなる都バビロンの崩壊」を重ね合わせた。 この一件で、フィレンツェはまたもメディチ家を追放し、共和制をとる。 フィレンツェに復帰していたミケランジェロもこれに手を貸した。 ここに、イタリア・ルネサンスは終焉のときを迎えた。 *ニッコロ・マキャヴェッリ没。 |
1528 | *皇帝と教皇、和解。 といっても皇帝カール5世のほうが優位に立ったのはいうまでもない。 ちなみにこの時代皇帝といえばただひとり、神聖ローマ帝国皇帝だけだった。 |
1529 | *第1次ウィーン包囲 ドイツの増長に歯止めをかけるため、フランスは異教徒オスマン・トルコのスレイマン大帝に働きかけ、ウィーンを包囲させる。 また、ドイツ国内のルター派勢力を援助、宗教紛争を拡大させた。 *カンブレーの和約 オスマン・トルコの襲来のため、皇帝カール5世はフランスと和平を結んだ。 *第二シュパイアー帝国議会。 オスマン・トルコの脅威が去ると、皇帝は再びルター派を禁止した。 ルター派諸侯は抗議書を提出。これにより彼らはプロテスタント(抗議する者)と呼ばれるようになった。 |
1530 | *教皇クレメンス7世、ボローニャにて神聖ローマ帝国皇帝カール5世の戴冠式を行う。 皇帝はフィレンツェに傭兵軍(ランツクネヒト)を派遣しこれを降伏させ、メディチ家をフィレンツェに復帰させた。 *シュマルカルデン同盟成立。 ルター派諸侯・都市が同盟を結んで皇帝に対抗する。 |
1531 | *アレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェ大公に。 |
1532 | *ニッコロ・マキャヴェッリの主要著作が、教皇の賛意を得て刊行される。 |
1533 | *教皇クレメンス7世、 姪のカテリーナ・デ・メディチ(カトリーヌ・ド・メディシス)と後のフランス王アンリ2世との結婚を司式。 *スペイン人ピサロ、インカ帝国を滅ぼす。 |
1534 | *教皇クレメンス7世が死去、教皇パウルス3世即位。 ローマを中心に反宗教改革の波が広がり始める。 *教皇パウルス3世、イングランド王ヘンリー8世を破門する。 *首長令の発布 イングランド王ヘンリー8世は、王妃キャサリンとの離婚が認められなかったことで教皇に対して怒り、 国内の教会をカトリックから引き離し、英国国教会(アングリカン・チャーチ)に所属させた。 |
1536 | *フランス、オスマン・トルコと同盟を結びイタリア侵入。 *ミケランジェロ、システィーナ礼拝堂天井への「最後の審判」制作開始。 |
1537 | *イグナティウス・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルらが教皇パウルス3世に謁見。 ローマにてイエズス会の活動が始まった。 *フィレンツェ大公アレッサンドロ・デ・メディチが暗殺され、コジモ・ディ・メディチがフィレンツェ大公となる。 教皇クレメンス7世(アレッサンドロの父との説あり)が亡くなってからは専制色を強めたアレッサンドロは人心を失い、 ロレンツィーノ・デ・メディチに暗殺される。彼には嫡子がなく、そのため新しいフィレンツェ大公として、 ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの息子コジモ・ディ・メディチ(コジモ1世)がカール5世により承認される。 コジモは父の形見の黒い甲冑をまとって凱旋、市民の喝采を浴び、たちまちのうちに支持を得た。 |
1538 | *プレヴェーザの戦い トルコ艦隊司令官バルバロッサ・ハイレディンが教皇・スペイン・ヴェネツィア連合艦隊を撃破、 トルコが地中海の制海権を握った。 *ニースの和約 *ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ没。 ミケランジェロはまだユリウス2世の墓碑を完成していない。 |
1540 | *イエズス会、公認される。 イエズス会は反宗教改革の旗手となる。 |
1541 | *ミケランジェロ、「最後の審判」完成。 人物の生々しさと、秘部を隠さない裸体描写で大いに物議をかもす。 儀典長にこの点を非難されたミケランジェロは、怒って彼を地獄の審判者ミノスとして描いた。 困った儀典長が教皇パウルスに言いつけたところ、教皇はこう答えたという。 「煉獄のことならばとりなしもできるが、地獄のことはわたしの手には負えない」 *フランシスコ・ザビエル、インドのゴアへ向かって出発。 彼はインドや東南アジアで布教、その真摯で献身的な姿勢から「聖なるパードレ」と呼ばれる。 |
1542 | *フランスとドイツ、またも戦端を開く。 *ミケランジェロ、ウルビーノ公との間で、 教皇ユリウス2世の墓碑についての最終案で合意に達する。 まだやってなかったみたいです。 |
1543 | *コペルニクス、地動説を発表。 |
1544 | *クレピーの和約 フランスはナポリを放棄、ドイツ(神聖ローマ)はブルゴーニュを返還。 ここに「イタリア戦争」はひとまず終焉する。 |
1545 | *トリエント公会議の召集。 カトリックの内部刷新と反宗教改革が緒につく。〜63。 |
1546 | *シュマルカルデン戦争。 トリエント公会議に出席しなかったドイツ・プロテスタント諸侯・都市(シュマルカルデン同盟)を皇帝カール5世が武力弾圧。〜47。 勝利した皇帝はさらに自らの権力を拡大しようと図ったが、ドイツ諸侯の反撃にあい頓挫(52年)。 |
1548 | *ロレンツィーノ・デ・メディチ、ヴェネツィアで暗殺される。 フィレンツェ大公コジモ1世の雇ったジョヴァンニ・フランチェスコ・ロッティーニが、 先代フィレンツェ大公アレッサンドロを暗殺し逃亡したロレンツィーノを潜伏先のヴェネツィアにて暗殺。 |
1549 | *フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸。 薩摩の大名・島津貴久に会い、布教を始める。 2年間の布教の後、ゴアへ戻って現地の教会での調停活動を行う。 |
1552 | *フランシスコ・ザビエル、上川島にて没。 中国への布教を志し出発するも途中で熱病を発し、そのまま帰らぬ人となった。 |
1555 | *アウクスブルクの宗教和議。 ルター派プロテスタントの信仰が神聖ローマ帝国内において公認、カトリックと同権とされる。 ただし、その内容にはかなりの制限があり(領主の信仰が領民に強制される、など)、またカルヴァン派は認められなかった。 これはのちの「三十年戦争(1618〜48)」の火種のひとつとなる。 |
1556 | *神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世(スペインではカルロス1世)、 スペイン王位を息子のフェリペ2世に譲る。 *西仏戦争。 南イタリアの覇権をかけ、スペイン王フェリペ2世(ハプスブルク家)とフランス王アンリ2世が戦う。 |
1557 | *イグナティウス・デ・ロヨラ、没。 |
1559 | *カトー・カンブレジの和約 スペインがフランスに対し勝利を収め、イタリアにおけるハプスブルク家の覇権が確立した。 ハプスブルク家はドイツ、オーストリア、スペイン、イタリアを支配。 |
1562 | *ユグノー戦争開始。 フランスにてカトリックとユグノー(カルヴァン派)の対立が顕著になり、これが王位継承争いとからんで大規模な内乱に発展してゆく。 |
1564 | *ミケランジェロ・ブオナローティ、ローマにて没。89歳。 |
1565 | *オスマン・トルコ、マルタ島を攻撃。 マルタ島を守る聖ヨハネ騎士団は決死の防戦、4ヶ月の戦いの末ついにオスマン・トルコ軍を撤退させ、 かつてロードス島を失ったリベンジを果たした。 聖ヨハネ騎士団は翌年より要塞都市ヴァレッタの建設に取り掛かる。 |
1568 | *オランダ独立戦争の開始。 当時スペイン領だったネーデルラント(オランダ)においてフェリペ2世の圧制が強まり、 オラニエ公ウィレムをリーダーとした独立戦争が起こる。 実は、最初は独立を目指していたわけではなかったが、行きがかり上独立を目指すほかなくなっていく。 |
1570 | *コジモ1世がトスカーナ大公となる。 |
1571 | *オスマン・トルコ、キプロス島をヴェネツィアより奪取。 *レパントの海戦。 スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇庁、トスカーナ大公国らからなるキリスト教国連合艦隊が、 オスマン・トルコ艦隊を撃破した。 |
1572 | *サン・バルテルミーの虐殺。 フランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシスが旧教派のギース公アンリと組み、パリにてユグノー派の貴族を大量虐殺する。 |
1579 | *ユトレヒト同盟成立。 旧教派の多いネーデルラント南部10州が離反したため、北部7州が同盟を結成してスペインに対抗。 |
1580 | *スペイン、ポルトガルを併合。 フェリペ2世はスペイン・ポルトガル両国王を兼任。 |
1581 | *ネーデルラント連邦共和国成立。 この後1609年、スペインとの間で休戦が成立、独立が暗黙のうちに承認される。 正式に独立が認められたのは、1648年のウェストファリア条約にて。 |
1582 | *教皇グレゴリウス13世、新暦を発布。 これがすなわち、現在使われている「グレゴリオ暦」。 |
1583 | *スペイン艦隊、アゾレス諸島でフランス艦隊を撃破。 スペイン艦隊は「無敵艦隊」と恐れられる。 |
1585 | *日本の天正遣欧少年使節が教皇グレゴリウス13世に謁見。 1582年に長崎を発った遣欧使節はインドを経て喜望峰を越え、絶海の孤島セント・ヘレナ島を経由してリスボンに到着。 フェリペ2世に謁見した後、各地で盛大な歓待を受けつつ海路・陸路にてローマに到着した一行は、 3月22日教皇に謁見、教皇の抱擁を受けた。 かつてフランシスコ・ザビエルがはるか異国の地日本で蒔いた種が、時を経て今ここにひとつの実を結んだ。 |
1588 | *アルマダ海戦。 「無敵艦隊」と呼ばれたスペイン艦隊(アルマダ)が、オランダを支援するイングランドを討つべく出撃するも、 イングランド女王エリザベス1世はハワード・エフィンガムを総司令官とする艦隊を派遣。 寄せ集め艦隊ながらも、海賊上がりのサー・フランシス・ドレイクを中心に優位に戦いを進め、これに勝利を収めた。 スペイン艦隊はほぼ半数を失い、事実上壊滅した。 |
1598 | *ナントの勅令。 「三アンリの戦い」に勝利したブルボン家のアンリが即位(アンリ4世)、 制限つきながら、新教の「個人的な」信仰と礼拝の自由を認める勅令を発した。 これにより、「ユグノー戦争」は終結を見る。 |