マタイ受難曲

「キリスト教の音楽の中でもっとも偉大な『マタイ受難曲』を再び人々に聴かせようとする人間が、
喜劇俳優と、ユダヤ人の青年でなければならないとは!」

 ーフェリクス・メンデルスゾーン、
友人であるオペラ歌手のエドゥアルト・デヴリエントに



    1823年のクリスマス、14歳のフェリクス・メンデルスゾーンは、祖母のバベッテ・サロモンから贈り物をもらった。分厚いその書は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》の筆写総譜だった。彼女の妹サラ・レヴィはヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルの兄弟(大バッハの息子たち)の弟子で、サラともどもバッハの音楽に傾倒しており、またフェリクス自身も幼くからバッハやヘンデルの作品を演奏するなど、バッハとは縁が深かった。
    16歳から17歳にかけて「弦楽八重奏曲」・序曲「夏の夜の夢」といった優れた作品を作り上げたフェリクスは、やがて《マタイ受難曲》をこの手で演奏したいという思いに駆られる。そして1828年、19歳になった彼は、友人のエドゥアルト・デヴリエントとともに、ベルリン合唱協会の長である彼の師、カール・フリードリヒ・ツェルターにその許しを得に行ったが、かえって断固たる拒否にあってしまった。その際、かなり口汚なくののしられたので、フェリクスはすっかり意気消沈してしまったが、デヴリエント(イエス役を歌うことになる)は粘り強く懇願し、ついにツェルターの了解を得る。ツェルター自身もバッハ崇拝者だったが、すでにその演奏様式が失われ、聴衆にも馴染みの無いバロック音楽を公衆の前で演奏することに危惧を抱いており、特に《マタイ受難曲》という大曲は聴衆の理解を得られず失敗に終わる可能性が高かったので、若いフェリクスの申し出に反対したのだった。が、了解を与えてからは彼に対する援助は惜しまなかった。そして、次の年1829年の3月11日、ベルリン合唱協会大ホールで慈善演奏会として《マタイ受難曲》が初演よりちょうど100年ぶりに復活することになった・・・が、最近の研究では、1727年初演説が出てきているので、100周年とはいかなかったようだ。
    前人気は非常に高く、聴衆は大ホールだけでは収容しきれなかった。周囲のホールを使っても千人以上があぶれたため、二度の再演が決定した。聴衆の中には、プロイセン宮廷の人々や、ヘーゲル、ハイネらの著名人らもいた。(とはいえ、ヘーゲルらとは、フェリクスが小さいころからの馴染みだった。)この群集の前にフェリクスは立った。彼にとっては初めての公衆の前での指揮だったが、この演奏会は大成功を収め、《マタイ受難曲》演奏の気運は瞬く間にドイツ各地に広がった。かくて弱冠20歳の「ユダヤ人の青年」により、「キリスト教音楽の最高峰」とも称される《マタイ受難曲》は蘇った。

「私には、まるで、遠くから大海が怒号しているように聞こえた」

−ゲーテ、ツェルターから《マタイ》蘇演の知らせを受けて

ここでの上演版は、フェリクスが祖母からもらった筆写譜とは異なっている。ツェルターの考えどおり、原典の忠実な演奏は不可能だった。まず楽器の問題があった。チェンバロやオーボエ・ダモーレ、オーボエ・ダ・カッチャなどはその時代にはすでに骨董品で、チェンバロはピアノフォルテ、オーボエ・ダモーレとオーボエ・ダ・カッチャはクラリネットで代用した。そして、何よりマタイは長い。CDにすれば3枚、3時間以上。客はコンサート気分で来る。まともにやったら、ただでさえ馴染みの無い簡素なスタイルの曲、途中で飽きられる可能性大。そこでアリアやコラールを削って曲を切りつめ、35曲に絞った。さらに聴衆の好みに合わせ、アルトのアリアをいくつか(「憐れみたまえ、わが神よ」など)ソプラノに与えた。フェリクスは、原典に忠実な演奏よりも、まず聴衆にマタイ受難曲の偉大性を示すことを第一とし、精一杯の妥協を行ったのだ。彼が原典を尊重する人間だったことは、のちにニーダーライン音楽祭でヘンデルのオラトリオ《ソロモン》を演奏することになった際、それまでにあった編曲版を使うことを否定し、「余計な編曲をしたりしたら、後で地獄の火に焼かれることになるでしょう」という見解を示している事からも解る。


ディスコグラフィー

◇クリストフ・シュペリング指揮    コルス・ムジクス・ケルン    ノイエ・オルケスター
ヴィルフリート・ヨーヘンス(福音史家)、ペーター・リカ(イエスの言葉)
アンゲラ・カジミェルチュク(ソプラノ)、アリソン・ブラウナー(アルト)
マルクス・シェーファー(テノール)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス)
シュザンヌ・メール(ソプラノ:女中T)、パオラ・グロノー(ソプラノ:女中U)
アンドレア・ムタート(アルト:偽証者T)、フロリアン・シムソン(テノール:偽証者U)

[オーパス111 OPS 30−72/73]

これは1829年のベルリン蘇演版ではなく、1841年4月4日枝の主日に行われた、バッハゆかりのライプツィヒ聖トーマス教会での演奏におけるバージョン。1829年演奏のものに更にアリアとコラールをいくつか追加、全部で40曲となり、レチタティーヴォ・セッコの伴奏をピアノフォルテからチェロとコントラバスに変更。以前と同じく、オーボエ・ダモーレとオーボエ・ダ・カッチャはクラリネットで代用しています。演奏はスピーディで、もたれることなく進んでいきますが、フェリクスは概して速いテンポを好み、楽譜への書き込みでも、特にコーラスへはアレグロ系の速度記号を与えているので、彼もこのくらいのテンポで演奏したのでは。とはいえ、“Herr,Wir haben gedacht”のコーラスはもう速すぎ。第1曲合唱の、ソプラノ・リピエーノのコラールがソリストたちのトゥッティで歌われたりする所や、福音史家のレチタティーヴォの音程変更やアリアのパート変更など、戸惑う部分も多々ありますが、ロマン派演奏漬けの聴衆の耳にも満足できるよう、苦心したあとがうかがえます。それにしてもシュペリング、これやピアノ連弾版のドイツ・レクイエムなど、意外なところを攻めてきますね。私としては、「エリヤをいつ出すんだ」という感じですが。

◇ディエゴ・ファゾリス指揮 スイス放送合唱団、管弦楽団
グルッポ・ヴォカーレ・カンテムス
アンドルー・キング(福音史家)、ポール・ロビンソン(キリスト)
リンダ・ラッセル(ソプラノ)、グローリア・バンディテッリ(メッゾ・ソプラノ)
アクセル・エヴェレールト(テノール)、アンドレアス・シャイブナー(バス)

[assai 222312-MU702]

上と同じく1841年のライプツィヒ上演版。ライナーノートには、メンデルスゾーンによる変更や指示の一覧が載っていて、イイ。
ARTSレーベルでバロック音楽の数々の名演を披露してきたファゾリスが、実に自然体な演奏を聞かせている。
メンデルスゾーン版ということで、奇をてらったり気負うことまるでなく、本当に静かにしめやかに全曲をまとめており、大変印象深い。
合唱の美しさは出色。みんな聴いてみ。


戻る

参考文献:バッハ復活(春秋社、小林義武著)、メンデルスゾーン(音楽之友社、ハンス・クリストフ・ヴォルプス著、尾山真弓訳)