イリオン遠征10年目、アキレウスの怒り


 トロイアの城壁は堅く、アカイア軍は大いに攻めあぐんだ。
ギリシア軍は戦いの合間にイリオン周辺の町を次々に陥とし、略奪をおこなって憂さを晴らしたが、
その中に二人の見目麗しい娘があり、彼女達はそれぞれ総帥アガメムノンと駿足のアキレウスに褒賞として与えられた。

 それから間もなく、アカイアの陣営を一人の神官が訪れた。彼はクリュセのアポロン神殿の神官で名をクリュセスといい、
アガメムノンに与えられた娘クリュセイスの父だった。
 彼は莫大な身の代と、アポロン神の象徴である羊の毛を結んだ黄金の笏を捧げ持ち、
アトレウス家の二兄弟に一心に娘の釈放を嘆願した。
 諸将は遠矢を射る神アポロンの神威を畏れてそれに賛同したが、
ただ一人アガメムノンだけはこれを拒否、手荒く追い返してしまった。
 老人クリュセスは悲嘆にくれつつひと気のない浜辺にたどり着くと、髪うるわしいレートーの産みしアポロンに祈った。
「お聞きください、銀弓持つ者よ、クリュセならびに聖地キラの守護神よ、テネドスを猛き力もて統べたもうスミンテウス(アポロンの別名)よ、
かつてわたくしがあなたのために御心にかなう社を築き、犠牲を捧げましたことをお忘れでなければ、
このわたくしの願いをかなえてくださいませ、あなたの弓矢によってダナオイ勢に、
わたくしの流した涙の償いを払わせてくださいませ…」
 ポイボス・アポロンはその願いを聞き届けると、怒りに燃えて弓矢を携え、オリュンポスの峰を下った。
そして、船陣から離れて銀の弓を構えると、凄まじい響きを立てつつ疫病の矢を放ち続けた。
 神の矢は九日の間陣中を飛び交い、亡骸を焼く火は絶えることなく燃え続けた。

 十日目になり、アキレウスの発議で集会が開かれた。これは白い腕の女神ヘーラーが、
倒れていくダナオイ勢を憐れんでアキレウスに思いつかせたものだった。
 アキレウスはこの悪疫の原因を探るべく予言者カルカスの手を借りることを提言する。
悪疫は、アポロン神の遠矢によってもたらされるものだからである。
 テストルの子カルカスは立ち上がり、ポイボス・アポロンより授かった占いの術ですべてを見通し、言った。
「神が咎めておられるのは、アガメムノンがかの神官に恥辱を与えたゆえ。
娘も返さず身の代も受け取らず、ゆえに遠矢の神は苦難を下したもうた。これからも止めることはなさるまい。
あの美しき娘を代価も身の代も受けずに父親に返し、クリュセの町に立派な犠牲を届けるまで、
神はダナオイ勢から災厄を取り払っては下さらないだろう」
 これを聞いてアガメムノンは激怒した。
「禍の予言者め!おまえはわしに良いことを言ってくれたためしがない!
遠矢の神がダナオイ勢に禍を下したのは、わしがクリュセイスの身の代を受け取ろうとしなかったからだと?
わしはどうしても娘を手元に置きたいのだ。正妻のクリュタイムネストラーよりもあの娘のほうがよい。
あの娘は容姿も性格も手の技も、全く妻には劣っておらぬのだからな。
しかし、そうしたほうがよいというのであれば、娘を返してもよい。
わしも兵士が無事であったほうがよいと思うからな。
しかし、即刻わしの取り分を用意するのだ。アルゴス勢の中で、わしだけが戦利にあずからぬことになるのだからな」

 アキレウスは言った。
「誉も高きアトレウスの子よ、あなたは欲深いお方だ。どうして代わりの戦利品を与えられよう。
分配は完了し、予備の戦利品がほとんど残っていないことはあなたもご存知のはずだ。
これをまた集めて再分配するようなことはしてはならない。
今は神に娘を返すべきでしょう。そしてゼウスがトロイアの堅き城を陥落させることをお許しになった時は、
アカイア勢は三倍にも四倍にもしてその償いをしましょう」
 アガメムノン王は答えた。
「神にも見まごうアキレウスよ、そのような言葉でわしをたぶらかすか。
自分は分け前を握ったままで、わしだけ手ぶらでじっと座らせようというわけか。
しかし、わしは自ら出向いて分け前を取って帰るぞ、そなたのか、アイアスのか、オデュッセウスのかはわからぬがな。
まあそれは後で考えよう。とりあえずは船をおろし、犠牲の獣を積み、頬美わしいクリュセイスを乗船させよう。
そして、このうちの誰かが指揮を執れ。アイアスかイドメネウスか、オデュッセウスか、
それとも、アキレウス、おまえでもよいぞ」
 これを聞いたアキレウスは激怒した。
「何たる厚顔、何たる強欲!アカイア人がわたしにくれた分け前を自ら奪いに来るだと!
わたしの戦場での働きにもかかわらずあなたはいつも他人より多量の分け前を取るくせに。
わたしはもうプティアへ帰る。船団を率いて国へ帰ったほうがはるかにましだ。
恥辱を受けながらこの地に留まり、あなたのために富を蓄えてやるつもりはない」
 大将アガメムノンは応じた、
「おお、そうしたければ逃げ帰るがよい!わしはおまえなど眼中にない、おまえがわしを恨もうがわしは意にも介さぬ。
しかし、わしは必ずこうしてやるぞ…クリュセイスはポイボス・アポロンがお取り上げになるのだから、
わしの家来をつけ、わしの船で送ってやる。そのかわり、そなたの手柄の記しであるブリセイスは、
わしが自らそなたの陣屋に赴いて連れて行くぞ。そうすればそなたもわしとの身分の違いを悟るであろうし、
ほかの者もわしと対等に振舞うことを遠慮することになろうからな」

 アキレウスは怒り心頭に発し、今ここでアトレウスの子を討ち果たさんと思い、
あわや太刀の鞘を払おうとした、その時、パラス・アテネが天空から舞い降りてきてペーレウスの子の金髪をつかんだ。
これは二人の勇士を気遣うヘーラーが遣わしたのだったが、アテネはアキレウスにだけ姿をあらわし、彼を押しとどめた。
 振り向いたアキレウスは、凄まじく輝く女神の両目を見てすぐに女神の正体を悟り、翼ある言葉をかけた。
「アイギス(神楯)持つゼウスの姫君よ、どうしてこのようなところにお出ましになられたのですか」
眼光輝く女神アテネは答えて言った。
「わたしは、そなたの立腹をおさめるために来た。白い腕の女神ヘーラーがわたしを遣わされたのだ。
さあ、剣を抜くのは止めよ。言葉で罵るのは構わぬから、これからわたしが言うことを言ってやるがよい。
わたしが言うことはきっとそのとおりになる、いずれこの無法な仕打ちの罰として、三倍の品々がそなたに贈られるだろう。
今は堪えよ、われらの言うことを聞いてくれ」
 駿足のアキレウスは了承し、アテネの言葉を聞くと剣をおさめた。女神はオリュンポスへと去っていく。
 ペーレウスの子はアトレウスの子に向かって言った、
「この酔いどれめ、面の皮の太さは犬にも劣らぬが、肝の太さは鹿なみのお人よ、
あなたは自ら戦場に立つ勇気を示したことなどなかった。
アカイアの陣営で安閑とし、口答えするものから金品を巻き上げるほうがどれだけ得だろうか。
さて、わたしはここで断固たる誓いをする、この笏杖にかけて。
必ずやいつの日か、アカイアの子らのすべての胸に、このアキレウスの不在を嘆く想いが湧き起こるということだ。
名にし負う一騎当千のヘクトールの手にかかり、数知れぬ味方の将士が討ち死にする時、
あなたがいかに心を痛めようとも、何の役にも立たぬ。
アカイア勢きっての勇士を辱めたこと、われとわが身を責めて臍をかむに違いない!」
そして、黄金の鋲を打った杖を地上に投げつけ、腰を下ろした。

 アトレウスの子はなおも怒りを燃やしていたが、ここで二人の間に立ち上がったのは、
弁舌爽やかなネストール。彼はピュロスの名だたる雄弁家であった。
聖地ピュロスで彼とともに生まれ育ったものたちの二代はすでにこの世になく、
今は第三の世代を治めていた。
 彼は二人に言った、
「ああ情けない、アカイアにとってなんと悲しむべきことが起こったことか。
このことを知ったならば、プリアモスやその倅ども、トロイア勢は大喜びするであろう。
どうかわしのいうことを聞いてほしい。そなたらはわしより若いのだからな。
かつてわしはそなたらよりも優れた人々と付き合いがあったが、彼らもわしを軽んずるようなことはなかったのだからな。
それはペイリトオスに軍勢の牧者ドリュアス、カイネウスにエクサディオス、また神にも見まがうポリュペモス、
さらにはアイゲウスの一子、神にも似たテーセウスらの面々じゃ。
(ペイリトオスはラピタイ族の王。テーセウスの親友。ケンタウロスとの戦闘で有名。
ドリュアス以下はラピタイ族。いずれもケンタウロスとの戦闘に参加。
カイネウスとポリュペモスは兄弟で、アルゴナウテースのメンバー。
カイネウスは元はカイニスという女で、ポセイドンと交った際の望みで「不死身の男になりたい」と願ったために男となった。
ケンタウロスとの戦いでは多くの敵を殺したが、ケンタウロスたちは彼が不死身であるため、
もみの木で地中に打ち込んで埋め殺した。
テーセウスはミノタウロス退治などであまねく有名なアテナイ王)

これら抜群の勇士たちは、これも豪勇無双の山の獣人どもと戦ってこれを殲滅した。
わしは彼らから乞われるままにピュロスの国から馳せ参じその陣営に加わって戦ったが、
これほどの勇士たちもわしの意見には耳を傾けてくれたのだ」
 そして両者に和解を勧めたが、アガメムノンは彼の言葉を尊重しつつもアキレウスへの怒りをおさめず、
アキレウスもアガメムノンのその言葉にまた怒って激しい言葉を叩きつける。
 結局集会はそのまま閉じられてしまった。

 軍が海路でトロイアに戻ると、アガメムノンは伝令使タルテュビオスとエウリュバテスに、
アキレウスの陣屋からブリセイスを連れて来いと命じた。
 二人は気が進まぬながらもミュルミドーン勢の船の陣屋に着いた。
アキレウスが不機嫌そうな顔で二人を見ると、二人は何も言えずに立ちすくんだ。
 アキレウスはそれでも事態を悟り、二人の体面も慮って言った、
「伝令使の両人、よく来た。こちらに来い。おまえ達には何の罪もない、
罪に問われるべきは、おまえ達をよこしたアガメムノンなのだ。
パトロクロスよ、娘をここに連れてきて、この者たちに渡してやってくれ。
いつの日かアカイア勢がわたしを必要とすることがあったなら、
この二人に神、人、そして冷酷なる王の面前で証人となってもらおう。
奴は心狂って猛り立つばかりで、アカイア勢の行く末も考えられぬ男だ」
 パトロクロスは頬麗しいブリセイスを連れ出して引渡し、二人の使者は帰っていった。

 アキレウスは僚友たちから離れると自らの受けた恥辱に落涙し、その場にいない母神テティスに向け語りかけた。
息子の悲しみの声を聞いたテティスは深い海の底から浮かび上がると彼の前に立ち、何があったのかたずねた。
アキレウスは一部始終を話し、母神に、アカイア勢に禍難を与えるようゼウスに願ってほしいと言う。
テティスは涙ながらに息子の境遇を嘆き、必ずそのようにすると約束し、
ゼウスは今オリュンポスを離れていて不在のため、彼が戻ってくるまでは戦には一切手を出さないように言い置いてその場を立ち去った。
 一方、オデュッセウスは神に捧げる生贄を携え、海路にてクリュセに到着した。
そしてクリュセイスをその父クリュセスのもとに返し、ポイボス・アポロンに対して大贄の儀を執り行い、
怒りをおさめてくれるよう祈る。オデュッセウスの祈りをポイボス・アポロンは聞き入れた。
次の日オデュッセウスはトロイアに戻り、遠矢の神アポロンは順風を送って見送った。
 十二日が経ち、ゼウスは神々とともにオケアノスからオリュンポスへ戻ってきた。
それを知ったテティスは海の底から浮かび上がるとオリュンポスを登っていった。
ゼウスはオリュンポスのとある峰の頂上にひとり座っていた。テティスはその前に座り、
左手で彼の膝に、右手で彼の顎に触れ、
アキレウスの面目が立つよう、アカイア勢が彼に名誉回復の償いをするまでトロイア勢に力を与えてほしいと願った。
 しかしゼウスは何も答えずそのままじっと座っているので、テティスはもう一度願った。
「決して違えぬと約束し頷いてくださるか、否とおっしゃって下さるだけでけっこうです。
お断りになって下さっても構いません。ならばわたくしが神々の中でいかに見下されているか、自分でも納得できましょう」
 ゼウスは困ってテティスに言った。
「なんとも厄介なこと、あなたのお陰でまたヘーラーとの仲が悪くなりそうじゃ。
あれはいつも公の場で、わしがトロイア方の手助けをしていると責めるのだ。
しかし今日のところはあれに気づかれぬようここを引き取ってくれ、願いの筋は叶えてやれるようにしよう。
さあ、あなたが納得するように頷いてみせよう」
 クロノスの御子が漆黒の眉を伏せて頷くと神々しい髪がなびき垂れ、それとともにオリュンポスの峰々が揺れ動いた。
テティスはその場から海中に身を躍らせ、ゼウスは館へ戻った。
 ヘーラーは早くもテティスとゼウスの企みに気づいてこれをなじったが、
ゼウスは、自分の行いを詮索するな、さもなくばこの無敵の腕に訴えるぞとヘーラーを脅した。
 ヘーラーは憤然と黙り込み、他の神々も憮然としたが、ここで技芸の誉れも高いヘパイストスが母神ヘーラーをなだめた。
彼は母神に酒を注ぐと他の神々にも注いで回り、そのひょこひょことした歩き方を神々は愉快に思い笑った(ヘパイストス神は足が不自由)。
その晩、ゼウスとヘーラーは臥所をともにした。

 その夜、ゼウスはテティスとの約束を守るべくひそかに惑わしの「夢(オネイロス)」をアガメムノンのもとに放ち、
アガメムノンに偽りの夢を見させた。
夢はネストールの姿をとり、今こそトロイアの町を陥落させよ、これは神々の意思である、とアガメムノンに吹き込んだ。
 目が覚めたアガメムノンは、これぞゼウスが遣わされた夢の神の仕業である、と戦闘の用意を命じた。
ゼウスの真意はまったく逆であったのだが。彼は兵士たちを集めると、彼らを試すために、これから帰国する、と発表した。
すると厭戦気分に陥っていた兵士たちはわれ先に船に殺到したので、ヘーラーがアテネに命じてそれを止めさせる。
アテネはオデュッセウスに命じて兵士たちを集会の場に連れ戻させた。
 集会の場でテルシテスがアガメムノンを罵ったので、オデュッセウスが怒って彼を打ち懲らし、全軍の喝采を得る。
アカイア勢はゼウスに生贄を捧げ、トロイア勢を討つべく出撃していった。


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