6.トロイアの陥落、アカイア勢の帰国


◇トロイアの陥落(第十三巻)

 トロイアの人々は戦勝の祝宴を張っていた。横笛や葦笛が鳴り響き、踊りに合わせて歌が流れ、多くの人々が騒いでいた。
彼らは次々に酒を飲み干し、泥酔した。
 彼らが酔いつぶれて眠りにつき、町が静寂に包まれたとき、シノーンは燃える松明を振りかざしてテネドス島へ合図を送った。
そして木馬に近づくと、小声で合図を送る。
 エペイオスが扉を開けて梯子を下ろし、勇士たちはオデュッセウスに導かれてイーリオンへ降り立った。
彼らは散開すると、眠りこけるトロイア人たちを殺戮し始めた。
 テネドス島のアカイア勢はすぐにヘレスポントスの浜辺に着くと下船し、イーリオンに急行した。
彼らはすでに殺戮を始めていた木馬の一隊とともに、凄まじい大殺戮を開始した。

 町の通りに黒い血が川となって流れ、死体は山と折り重なった。
槍や剣がひらめくごとに、トロイア人やその同盟者たちが刺され、斬られ、絶叫した。
男や子供たちは次々と虐殺され、女たちは泣き喚いた。
トロイア人たちも事態に気づくと反撃に転じ、都は戦場と変じた。

 テューデウスの子ディオメーデースはプリュギア王ミュグドーンの子コロイボスの喉を刺して殺した。
彼はカッサンドラーの婚約者として前日に到着していたのだが、その結婚を楽しむ暇はなかった。
ディオメーデースはさらにアンテーノールの娘婿エウリュダマースを倒し、さらに進んで主席長老イーリオネースに出遭った。
イーリオネースは剣を抜いたものの、すでに戦闘など不可能な老境であった。彼は相手の膝に取りすがり命乞いをした。
ディオメーデースは老人の彼に敬意を表してその言葉に耳を傾けはしたが、
敵を許すことはできない、と言うと彼の喉に剣を突き立てた。
 ディオメーデースたちはさらに町を駆け巡り、殺戮を続けた。彼はアバース、ペリムネーストスの子エウリュコオーンを殺し、
小アイアースはアンピメドーンを、アガメムノーンはダマストールの息子を、イードメネウスはミマースを、
メゲースはデーイオピテースを殺した。

 ネオプトレモスはパムモーンを槍で殺し、ポリーテースを倒すとさらにアンティポノスをしとめた。
彼らはすべてプリアモスの子であった。彼はさらに勇ましいアゲーノールも討ち取り、立ち向かう者をすべて倒していった。
 ネオプトレモスは家の守護神(ヘルケイオス)ゼウスの祭壇の傍らで、敵の王者にばったり出くわした。
プリアモスはアキレウスの跡取りを見てすぐにそれと悟ったが、恐れは抱かなかった。
彼はすでに、息子たちの後を追って死にたがっていた。
 プリアモスは、死を望んでネオプトレモスに語りかけた。
「そなたは戦士アキレウスの勇敢な後継者なのだな。さあ殺すがいい。この不幸な人間を憐れむ必要はない。
わしはいくつもの大きな災いを蒙ってきた、今さら太陽の光を仰ぎたいとは思わぬ。
そなたの父はヘクトールを倒したが、死んだヘクトールをあがなうために身の代をわしが運んでいったあの時、
そなたの父がわしを殺していればよかったのだ。炎上するイーリオンを見る前に。
だがこの運命も死神どもが紡いでおったことなのだろう。さあ、わしを殺して心を満足させるがいい。
わしは、もう苦悩とはおさらばしたいのだ」
 アキレウスの勇猛な息子は言った。
「ご老体、貴公は、襲いかかろうとする者にそうせよと命じておられる。
私は、生きている者のうちで敵である貴公を放置してはおけない。人にとって命より大切なものはないのだから」
 そして、老王の白髪首を一刀のもとに斬り落とした。その首は大きく呻きつつ、ころころと転がっていった。
胴体は、黒い血の中に横たわった。プリアモスを死が捕らえ、彼は災厄不幸をすべて忘れ去った。

 アカイア勢はヘクトールの遺児アステュアナクスを捕らえると、そそり立つ城壁から投げた。
アステュアナクスはまだいとけない幼児だったが、ヘクトールを恨むアカイア勢はそれにも容赦しなかった。
寡婦アンドロマケーは泣き叫びながら死を願ったが、アカイア勢は力ずくで彼女を隷従の日へと連れて行った。

 イーリオンの家々からは悲鳴が上がり、数知れぬ人間が命を失った。しかし、アンテーノールの館だけは違っていた。
以前メネラーオスとオデュッセウスが交渉のためイーリオンを訪れた時、アンテーノールは彼らを歓待していた。
また、彼らに危機が迫った時には彼らが脱出できるように手配までしてくれたのだ。
アカイア勢はそれを覚えており、彼の館と財宝には一切手をつけなかった。
全てをみそなわすテミスと友好的なこの男に敬意を表したのである。

 アンキーセースの気高い息子アイネイアースはプリアモスの都の周囲で奮戦し、数知れぬアカイア勢を血祭りに上げていた。
しかし、炎上する町、殺戮される民、奪われる財宝や子供や妻女を見ると、もはやこれまでと覚悟を決め、
息子と父を運んで町を脱出した。アカイア勢がそれを討ち取ろうとするが、その槍や矢はことごとく的を外れた。
 その時、カルカースが兵士たちを押しとどめた。
「やめよ、果敢なアイネイアースに武器を投げるのを。なぜならば神々の計画により次のように予言されておる、
あの者はクサントス河から流れも広いテュンブリス河(現在のティベレ川)へとやってきて、
未来の人々を瞠目せしめる神聖な都(ローマ)を建設する。彼は無数の民人を統べ治め、
彼の血を引く民族は、のちに東方から日の沈む西方までの全地を掌中におさめるであろう。
さらに彼には神々の座が約されておる、彼は女神アプロディーテーの御子なのだから。
さあ、この英雄からそなたたちの手を遠ざけよ。彼は、黄金や財宝よりも、自分の父親と息子を選んだのだ。
この夜が、彼が老父にとってこの上なく優しい息子であり、息子にとっては非の打ち所のない父親であることを、
われわれに示してくれたのだ」
 兵士たちはカルカースの言葉を聞き入れ、彼を追うのをやめた。彼らはさらにトロイアの都を破壊し続けた。
(クイントゥスは紀元後三世紀のスミュルナ(現在のトルコ、イズミール)の詩人。
よって、カルカースの予言は当然ウェルギリウスの『アエネーイス』の内容をふまえている)

 メネラーオスは残酷な剣を振るってデーイポボスを殺した。彼はパリスの死後ヘレネーを妻としており、
この時彼女の寝台のそばにいた。ヘレネーはその時逃げ出して奥に隠れていた。
 メネラーオスはデーイポボスの遺体にパリスへの恨みもこめて悪態をつき、さらに敵を殺していった。
そして、ついに館の奥で妻を発見した。ヘレネーは怯えていた。
 メネラーオスはこの不実な女を殺そうとしたが、その時アプロディーテーが彼の手から剣を払い落とし、
彼の嫉妬を残らず拭い去ると、その胸に愛の心を湧き立たせてやった。
彼はヘレネーの不実を水に流したが、アカイア勢の手前、わざと剣を拾って妻に打ちかかろうとした。
ここで彼女をあっさり許しては、ここまで死を賭して戦った彼らに申し訳が立たないからである。
アガメムノーンはあわてて弟を押しとどめ、早まったことをするなと諭した。ヘレネーに罪はない、悪いのはすべてパリスであると。
すでにその気だったメネラーオスは、兄の言葉に従った。
 神々は輝かしいトロイアを黒雲で包んで哀惜していた。ただ、三つ編み麗しいトリートーニス・アテーネーとヘーラーは例外で、
この劫掠のさまを見て大いに満足していた。

 しかし、賢明なアテーネーも涙と無縁ではなかった。
彼女の神殿の中で、オイーレウスの勇敢な息子アイアースがカッサンドラーを陵辱したからである。
アテーネーが怒って自らの神殿に視線を向けると、女神の像が大きく鳴り響き、神殿の基が激しく揺れた。
しかし彼は禍々しい陵辱をやめなかった。
 アテーネーは後日、彼のために恐るべき破滅をもたらし、その非道を罰した。

 炎に包まれるイーリオンは次々に瓦解していった。轟音が辺りを満たし、埃が高く舞い上がった。
アイネイアースの館、アンティマコスの家は焼け、都の丘も火に包まれ、ペルガモスの砦、アポローンやアテーネーの神殿、
囲いの神ゼウスの祭壇も崩れ落ちた。プリアモスの孫たちの邸宅も灰になり、今や都全体は灰燼に帰しつつあった。
 トロイアの人々はアカイア勢に殺されたり、炎に包まれたり、家に押し潰されたりして死んでいった。
また、アカイア勢の手にかかるよりはと自殺するものも多かった。捕らえられた者は、奴隷として連れ去られていった。
 その恐怖の情景は、イーデー山のみならずサモトラーケー島や波洗うテネドスの山頂からも見えた。
船からそれを見ていたある男は、かつて大いに栄えたトロイアの陥落に世の中の有為転変を感じていた。

 偉大なるテーセウスの母で、ヘレネーとともにトロイアへ来ていたアイトラーは、
テーセウスの二人の子、デーモポオーンとアカマースに出会った。
彼らは、年老いた彼女がプリアモスの后であると思って突進し、彼女を捕らえた。
そこで彼女は呻きながら自らの出自を明かし、懇願した。
「わたしはトロイア人ではありません。アカイアの輝かしい血が、わたしの中には流れているのですよ。
ピッテウスがトロイゼーンでわたしをもうけ、栄えあるアイゲウスがわたしを娶り、世に聞こえたテーセウスがわたしから生まれたのだから。
偉大なるゼウスとあなたがたの立派なご両親にかけてお願いします。
この戦に、完全無欠のテーセウスの子供たちが参加しているなら、その子たちにわたしを示してください。
彼らはたぶんあなたがたと同じ年頃です。あの子たちが雄々しく生きているのを見ることができれば、
わたしの心も一息つけるのですが」
 それを聞いた二人は驚き、喜んだ。テーセウスはかつて幼少のヘレネーを誘拐したことがあり、
彼女を取り戻すためにディオスクーロイの二人がアピドナイに攻め込んできた。
その時デーモポオーンたちは乳母たちによって隠されたのだが、祖母アイトラーは虜囚となってスパルタへと連れて行かれ、
以後ヘレネーの乳母となっていた。ヘレネーがトロイアに去ったとき、彼女も一緒にトロイアに来ていたのだ。
 デーモポオーンは自分たちの出自を明かした。偉大なるテーセウスの母は二人を抱きしめて接吻し、三人は随喜の涙を流した。

 プリアモスの娘ラーオディケーは、奴隷になるくらいならば大地が自分を飲み込んでくれるように、と祈った。
ある神がこれを聞きつけて広い大地を裂き、大地はその神の意思に従い、この誉れ高い乙女を迎え入れた。
プレーイアデスの一人エーレクトラーは彼女の体を闇と雲で包んでやった。
そしてこれ以後、エーレクトラーはプレーイアデスから一人離れた。彼女の優れた息子ダルダノスの神聖な都が崩壊したからである。
(プレーイアデスの七つ星が六つしか見えないのはこのためである、といわれている)

◇アカイア勢の帰国(第十四巻)

 黄金の玉座に座る暁の女神が大海から空へ飛び出し、カオスが夜を迎え入れた。
アルゴス勢は堅固なトロイアを破壊し、あまたの財宝や女たちを戦利品として運び出した。
メネラーオスも、複雑な思いを抱えながら自らの妻を連れ出した。
 アガメムノーンはカッサンドラーを、アキレウスの子はアンドロマケーを連れてきた。
またオデュッセウスはヘカベーを連れてきていた。彼女は髪の毛をむしり取り、灰にまみれていた。
 ヘレネーは羞恥心に満ちながら夫に従っていた。彼女は、アカイア勢が怒りに燃えて自分を虐待するのではないかと恐れていたが、
彼女を見た者はすべて彼女の美しさに見とれていた。

 スカマンドロス河の神クサントスはニュンペーらとともにトロイアの滅亡を嘆いていた。
イーデー山もシモエイス河も辺りを憚らず泣き、イーデーから流れ出る急流もことごとく慟哭した。
 アカイア勢は船陣に戻ると、勝利の女神の歌をうたい、さらに神々やエペイオスを讃える歌をうたった。
彼らに与した神々はこの情景を見て喜び、逆にトロイアに味方した神々は不満を漏らした。
しかし彼らも、宿命女神アイサに逆らって手を下すことはできなかった。
クロノスの子ゼウスでさえ、この神をたやすく排除することは不可能であるので。

 アカイア人たちは牛の腿肉を多数重ねて薪で焼き、祭壇を造ると燃える犠牲を供えて酒を注ぎ、神々に感謝した。
そして宴席を開き、勇士たちの働きをほめそやした。特に彼らはシノーンに敬意を表し、彼に歌と無数の贈り物を捧げた。
彼はトロイア人の虐待により無残な姿となっていたが、アカイア勢の勝利を喜び、自らに与えられた名誉に満足していた。
 アカイア人たちはゼウスに無事の帰国を願ったが、ゼウスは全員には無事な帰国を約束しなかった。
 宴席では歌と琴の心得がある者が立ち上がり、軍勢がアウリスに集結してからのことを歌って聞かせた。

 宴が終わると一同は眠りについた。
メネラーオスとヘレネーは語り合い、その場でメネラーオスはヘレネーを許した。
二人は和解し、ともに嬉し涙を流して床を共にした。

 二人が眠りについたころ、神にも等しい豪勇アキレウスの霊が息子の枕元に立ち、語りかけた。
彼は言った。自分は神々と共に食事を共にしているゆえ自分のことで心痛めることは全くない。
おまえは常にアカイア勢の第一人者であれ。優れた人間を敬い、徳を積むように。名誉を追い求め、人には優しくあるように。
そして、プリアモスからの戦利品のうち、ポリュクセイネー(プリアモスの娘)を自分の墓に犠牲として捧げるようにアガメムノーンに命じよと言った。
もしそれを聞き入れないならば、自分は海原を揺すぶって嵐を起こし、アカイア勢を帰国させないであろうと。
 アキレウスは言い終えるとその場を去り、エーリュシオンの野へと赴いた。
ネオプトレモスは目を覚ますと父のことを思い出し、喜びに震えた。

 朝が来て、アカイア勢が帰国の途に着こうとしたとき、アキレウスの子は一同を押しとどめ、
会議を招集し父の命令を伝えた。折しも海は嵐により波が高くなっていた。
 彼らは、アキレウスは今や神となったのだと彼に祈りを捧げ、ポリュクセイネーを連れてアキレウスの墓所へと向かった。
ポリュクセイネーは泣き叫んだ。彼女の母ヘカベーは前日見た夢を思い出した。
それは、彼女がアキレウスの墓所の前で乳房から血を流しながら泣き叫んでいる夢だった。
 アキレウスの墓の前に来ると、ネオプトレモスは剣でポリュクセイネーを殺して彼の魂に捧げ、
その遺体はアンテーノールの館に運ばせた。彼女は、アンテーノールの子エウリュマコスの妻となるべき女性だったからである。
アンテーノールは、彼女をガニュメーデースの神聖な墓の傍ら、アテーネー神殿の向かいに葬った。
すると、海はそれまでの嵐が嘘のように静まりかえった。

 アカイア勢は神々とアキレウスを讃えながら船陣へと戻り、犠牲と供物を捧げると祝宴を開いた。
この席でネストールは一同に帰国の準備をすることを促し、彼らは航海の支度を始めた。
この最中、実に不思議な出来事が起こった。苦悩の涙を流していたプリアモスの后ヘカベーが、人から犬に変身したのである。
カルカースの忠告により、彼らはこの犬を船に乗せ、ヘレスポントスの向こうに渡すことにした。

 アカイア勢は戦利品を船に積み込み、乗船した。
しかし、カルカースはカペーリデス岩礁の辺りで恐るべき死がアカイア勢を襲うのではないかと心配し、
彼らをとどめようとした。だが彼らはこれを聞かず、どんどん出発していった。
ただ、完全無欠のアンピアラーオスの俊敏な息子アンピロコスのみが彼に従った
(彼は予言の能力を持っており、カルカースの補佐を担当していた)。
二人は、祖国を遠く離れてキリキア人とパンピュリア人の国(小アジア南部)に行く定めになっていた。
 さてアカイア勢はどんどんと海へ出て行った。トロイアの女たちはイーリオンを見て嘆き、
カッサンドラーを見て彼女の予言を思い出していた。カッサンドラーは祖国の災厄に苦しんでいたが、
泣き喚く彼女たちを軽蔑していた。
 生き延びたトロイアの人々は、アンテーノールの指示で薪の山を築き、数知れぬ死者を葬っていた。

 船団が風すさぶエウボイアの近くに来たとき、ロクリス人の王小アイアースに対して激しく怒っていたアテーネーは、
ゼウスに向かってアイアースの破廉恥な行動を訴え、自分がこれから行うことを止めないでほしいと願った。
ゼウスは彼女の願いを聞き入れ、彼女の足元に素早い稲妻と破壊的な雷と不気味な雷鳴とを置いた。
女神は喜び、アイギスと父の武器を手にした。オリュンポスと天空が揺れ動いた。
 彼女はさらに風の王アイオロスの元へイーリスをつかわし、風がカペーレウス岩礁で荒れ狂うように命じた。
アイオロスは風たちにその旨を伝え、風たちはすぐに飛んでいった。

 アカイア勢は突如起こった嵐に動転した。操舵手ももはや船を制御できなかった。
ポセイドーンも兄弟ゼウスの誉れ高い娘を讃えて海を高々とうねらせ、その娘も上空から稲妻を携えて襲いかかった。
ゼウスも愛娘を讃えながら天空から雷鳴を轟かせ、周囲の島を、陸地を、海水で覆っていた。
船は次々に壊れていき、船乗りたちはどんどん海に投げ出されていった。
 アテーネーは小アイアースの船に神罰の雷を投げ落とし、その船を粉々に打ち砕いた。
彼らを巨大な波が飲み込んだ。アテーネーは上空で稲妻をひらめかせ続けた。
 しかし小アイアースは、この破滅的な状況の中でも死力を振り絞って泳いでいた。
稲妻がひらめいても、波に叩きつけられても、彼はひたすら陸地に向かって泳ぎ続ける。
その様を見て神々も感心していたが、彼の運命はすでに決まっていた。
 地を揺さぶる高貴なポセイドーンは、ギューライの岩礁群の岩にしがみつくアイアースを見て激怒した。
そして海と陸とを激しく揺さぶって彼を海中へと叩き落すと、その頭上に山の頂を割って投げつけた。
アイアースは陸と不毛の海にひとたまりもなく打ち殺され、死んだ。

 アカイア勢は各人各様の悪運に見舞われた。波に飲まれて死んだ者、
そして、ナウプリオスに欺かれて死んだ者もいた。
 ナウプリモスはパラメーデースの父で、オデュッセウスが息子を姦計にかけて殺したことでアカイア勢に対して怒っていた。
彼は自分の父ポセイドーンにアカイア勢の破滅を祈り、ポセイドーンは彼の願いを聞き届けた。
神は船団を暗い波間に引きずり込んだ。そこへナウプリモスがやってきて、赤々と燃える松明を振りかざした。
人の住む港へとやってきたと安堵したアカイア勢は、次の瞬間岩礁にぶつかり、さらに岩山にぶち当たった。
海の藻屑と消えていくアカイア勢を見ながら、ナウプリモスは快哉を叫んでいた。
 アテーネーは首尾を果たし喜んでいたが、同時にポセイドーンの怒りによるオデュッセウスの苦難の運命を思い、
心痛めていた。

 ポセイドーンは、アカイア勢の築いた防壁に以前から激しい敵意を抱いていたが、
アカイア勢帰国の際には完全に破壊してよいとのゼウスの言質を取っていた(『イーリアス』第七歌)
 神は黒海からヘレスポントスにいたるすべての海水を氾濫させ、トロイアの海岸にたたきつけた。
ゼウスは天空から雨を降らせ、遠矢を射る神アポローンもイーデー山から流れる激流を一つにまとめ、
アカイア人の防壁を水浸しにした。
 水と海水のただ中で防壁はなおもその姿を保っていたが、ポセイドーンはこの時自ら地面を割り、
水と泥と砂を無限に噴出させた。そして強大な力でシーゲイオン岬を激しく揺さぶると、
海岸と防壁は轟音を立てつつ水に没して見えなくなり、口をあけた大地の中へ飲み込まれていった。
 水が退いた時、アカイア勢が匠を凝らして造り上げた防壁は影も形もなくなっており、長大な浜辺は元通り砂で覆われていた。

 嵐によってばらばらになったアカイア人たちは、船の航海を続けた。
禍々しい嵐から逃れた者たちは、それぞれ神の導きによって定められた土地へと到着した。

(終わり)


戻る