5.木馬作戦


◇アイネイアース奮戦(第十一巻)

 トロイアの女たちはパリスの墓に詣でることはできなかった。その墓ははるかイーデー山中にあり、
城の外では連日アカイア勢とトロイア勢との戦いが行われていたからである。
 ネオプトレモスはリュキア出身のラーオダマースを討ち取り、ニーロスの頸に槍を突き刺して地面に叩きつけた。
さらに誉れ高いエウエーノールの腹に槍を突き入れて息の根を止め、続いてイーピティオーン、マイナロスの子ヒッポメドーンを殺した。
 一方アイネイアースはプレモーンとアンドロマコスを槍と投げ石でしとめた。二人はクレータ島出身であった。
アイネイアースの部下が二人の馬を戦利として捕らえ、曳いていった。
 ピロクテーテースは逃げるペイラソスに必殺の矢を放ち、その膝を後ろから射抜いた。
倒れたペイラソスにアカイアの戦士が襲いかかり、剣でその首をはねる。

 プーリュダマースはクレオーンとエウリュマコスを倒した。
二人はニーレウス王に従ってシューメー島から来ていた。いずれも漁師の技に長けていたが、それも破滅からの守りにはならなかった。
 他方、一騎当千のエウリュピュロス(テッサリアのエウアイモンの子。アカイア方)は名高い戦士ヘルロスを討ち取る。
エウリュピュロスはヘルロスの右腕を切り落とし、大地に打ち倒した。

 オデュッセウスはケーテイオイ勢の戦士アイオスとポリュイードスを槍と剣で倒した。
ステネロスは槍を投げて誉れ高きアバースの命を奪い、
ディオメーデースはラーオドコスを、アガメムノーンはメリオスを討ち取る。
 デーイポボスはドリュアースとアルキモスを殺し、アゲーノールは、ペーネイオス河から来た高名なヒッパソスを討ち取った。

 トアースがラモスと勇ましいリュンコスを殺し、メーリオネースはリュコーンを、メネラーオスはアルケロコスを殺した。
そしてテウクロスはヒッポメドーンの子メノイテース目がけて矢を放ち、見事にその心臓を射抜いた。
エウリュアロスは敵勢のただ中に大石を投げつけ、さらに矢を乱射する。メレースがその矢を頭に受け、絶命した。
 両軍はなおも入り乱れて激しく戦った。

 この時、気高いアポローンはアイネイアースと、アンテノールの子エウリュアロスに近づいた。
そして占い師ポリュメーストールの姿をとり、二人に激励の言葉をかけるとその体に勇気と闘志を注ぎ込む。
二人は兵を率いてアカイア勢に突進し、立ちはだかる者をことごとく打ち倒していった。
彼らの勢いの前にアカイア勢はどんどんと下がっていく。
 一人のアカイア兵が逃げる馬を押しとどめようとしていた。そこへアゲーノールが両刃の戦斧を揮い、彼の腕を切り落とした。
その兵士は馬の上に倒れ、落馬したが、彼の腕はまだ馬とともに戦おうとするかのように手綱をしっかりと握っていた。
 アイネイアースはアイタリデースに背後から槍を打ち込んだ。アイタリデースは槍と腸をつかみ、大声で叫ぶと息絶えた。

 ネオプトレモスは敗走しつつあるアカイア勢を叱咤し、ミュルミドーン勢を率いて反撃した。
彼の勢いに今度はトロイア勢が退却する。しかしアイネイアースも味方を鼓舞して押し返し、再び乱戦となった。
二人は多数の兵士を殺したが、彼らが戦場で出会うことはなく、別々のところで戦っていた。
両軍の戦いの悲惨さにシモエイスとクサントスの流れの娘であるニュンペーたちは呻き、
イーデー山の羊飼いたちは恐怖におののいた。
 その時パラス・アテーネーが戦場に近づき、アカイア勢の心に戦意を吹き込んだ。
それに気づいたアプロディーテーは素早くアイネイアースを戦場から運び去り、彼の周囲に厚い霧を広げた。
アテーネーが運命に逆らってアイネイアースを殺しはしないかと恐れたためである。
 アカイア勢が攻勢に出ると、トロイア勢は踏みとどまれずに後退し、城へと逃げ込んだ。
アカイア勢も兵を引き揚げ、船陣で疲れを癒した。

 暁の女神がオケアノスの流れの上に燦然たる馬たちを導いた時、逞しいアカイア勢はプリアモスの高くそびえる都へ進撃していった。
トロイア勢は城壁に拠って応戦する。
 スカイア門ではカパネウスの子ステネロスが誉れ高いディオメーデースとともに戦っていた。
その上から一騎当千のデーイポボスと力強いポリーテースが矢や石を降らせて撃退しようとする。
 トロイア門ではアキレウスの子とミュルミドーン勢が奮闘し、ヘレノスと豪胆なアゲーノールが矢の雨でそれを撃退しようとしていた。
 船陣につながる平原方面の門ではオデュッセウスとエウリュピュロスが戦い、気高いアイネイアースがこれに応ずる。
またシモエイス河のほとりでは、槍も見事なテウクロスが苦戦を強いられていた。

 オデュッセウスは兵士たちを密集させて楯を頭の上にのせ、屋根のようにして進撃させた。
トロイア勢は石や槍、矢を雨と降らせたが、アカイア勢も援護射撃を行い、また彼らも恐れずに進撃していく。
しかしアイネイアースは大石を持ち上げると接近してきたアカイア勢の上に投げ落とした。
兵士たちは押し潰され、戦列が乱れる。アイネイアースは立て続けに大石を落とし、彼らを殺戮し追い散らした。
アイネイアースはさらに手近にあるものを投げつけてアカイア勢を撃ちつづけた。
他のところでもトロイア勢は一歩も退かずに戦い続けていた。

 アイネイアースから少し離れたところで、小アイアースは矢や槍を次々に放って城壁の上の敵を殺していた。
この時、彼の率いるロクリス勢の中のアルキメドーンという男が梯子に手をかけ、楯を掲げて城壁を登り始めた。
彼は素早く駆け上がったが、アイネイアースもそれに気づくと彼の頭上に大石を投げつけた。
 アルキメドーンはトロイアの高い城壁の上に頭を出し、そこからプリアモスの都を一望したが、
次の瞬間アイネイアースの放った石が彼の頭を打ち砕き、次いで梯子を破壊した。
彼はまっさかさまに転落し、その魂が体から離れた後、大地に叩きつけられた。
ロクリス勢は彼の死に呻き声を上げた。
 この時、ピロクテーテースは城壁上で猛威を振るうアイネイアースを見ると彼目がけ矢を放った。
しかしアイネイアースはこれを大楯で受け、矢は楯と、彼の兜を縫ってミマースに命中した。
ミマースは城壁から転落する。
 アイネイアースは怒って大石を投げつけ、石はピロクテーテースの戦友トクサイクメースを打ち殺した。
ピロクテーテースも怒って叫んだ。
「アイネイアースよ、貴様は城壁の上で戦っていながら、われこそ勇敢なりと思っているのか!
貴様が何ほどかの者ならば、武具をまとってここへ出て来い!そしてポイアースの果敢な倅を、槍や矢をもって知るがいい!」
 しかしアンキーセースの豪胆な息子はそれどころではなかった。
城壁をめぐる戦いは一瞬の気の緩みも許されないものだったからである。

◇トロイの木馬(第十二巻)

 その日アカイア勢は全力をもって攻めかかったが、イーリオンの城壁を破ることはできなかった。
折しもカルカースが会議を呼びかけ、集まった将領たちの前で言った。
「私は昨日、一つのしるしを見ました。鷂(はいたか)が鳩を追っており、追い詰められた鳩は岩穴にもぐりました。
鷂は岩穴のそばでじっとしていましたが、鳩は用心して出てきませんでした。
すると鷂は藪に隠れました。鳩は愚かにも鷂が去ったものと思い飛び出しましたが、
鷂はすかさず飛び出すと、不幸な鳩を無残に殺してしまいました。
それゆえ、われわれはトロイアの町を力ずくで奪うのではなく、策略と熟慮により奪うことを考えるべきです」
 老予言者カルカースの言葉に一同は考え込んだが、
ここでラーエルテースの子、機略縦横のオデュッセウスが立ち上がって言った。

「天の神々にこよなく慈しまれているご老体よ、
アカイア勢が計略をもってプリアモスの都を破壊するのが運命の望むところであるのなら、
われわれは木馬を造り、指揮官たるわれわれが待ち伏せのために進んでその中に入ろう。
残りの将兵は天幕を焼き払い、船でテネドス島に去るのだ。そうすれば、トロイアの奴らは平原に出てくるだろう」
 オデュッセウスはさらに言った。
「さらに誰か一人の男が木馬の外に留まり、自分はアカイア勢の帰国の途の血祭りに上げられるのから逃れ、
ここで身を潜めていたのだと言わねばならない。
そして、この木馬は、トロイア勢を案じて立腹したパラス・アテーネーをなだめるためにアカイア勢が造ったものだと明らかにし、
トロイア人と一緒に都に連行されなければならない。
この者は、トロイア人が眠りについた時われわれに突入の合図を与え、またテネドス島へ松明で知らせを与えるのだ」
 カルカースをはじめ大多数の将軍はこれに賛成したが、ただネオプトレモスとピロクテーテースは策略を好まず、
あくまでも戦ってイーリオンを破るべきだと主張した。
 だが、その時アルゴス勢の足元が大きく揺れ、さらにその二人の前に巨大な雷が落ちた。
ゼウスの神意を目の当たりにしてさしもの二英雄も震え上がり、カルカースの言葉に従った。

 その夜、皆が眠りについているとき、アテーネーは神々の住居を離れ、乙女の姿になり船陣へとやってきた。
そしてアレースに愛されたエペイオスの枕元に立って彼に木馬を製造するよう命じ、
自分も彼とともに仕事を推し進めようと告げた。
 彼は目を覚ますと彼女が不滅の女神であることを悟り、来るべき仕事に胸躍らせた。

 暁の女神が厳かな闇を冥界に追い払うと、エペイオスはアカイア勢に自分の見た夢を話して聞かせた。
彼らはこの上なく喜んだ。
 アトレウスの二人の子は兵士たちをイーデーの峡谷へ派遣し、大量の木材を切り出させた。
そのあまりの量に高山の尾根から緑が失われ、谷全体が丸裸になった。
 彼らはヘレスポントスに木材を運びおろすと、エペイオスの指揮で木馬を建造し始めた。
最初に脚を造り、それから腹、背、腰、首を取り付けると、さらにたてがみ、頭、尾、耳、目、
そのほか実物の馬が持っているあらゆるものを取り付けていった。
この神聖な作品はさながら生けるもののごとくだったが、それはパラス・アテーネーがエペイオスに素晴らしい技術を授けたからである。
木馬は、三日間で造り上げられた。アカイア勢は木馬をみて歓喜し、驚嘆した。
 エペイオスは不屈の女神アテーネーに木馬の無事を祈り、賢明な女神アテーネーは彼の祈りを聞き届けた。

 アカイア人たちの企みを見た神々の間に争いが起こった。
彼らはクサントスのほとりに立つと二つに別れ、片方は木馬と船陣を破壊しようとし、片方はイーリオンを破壊しようとした。
その時ゼウスはオケアノスの流れとテーテュスの洞窟へ出かけていたが、
神々が相争っているのに気づくとすぐにオリュンポスに戻り、怒りを発して下方の天全体を揺るがし、無数の雷を放って大気を燃やした。
戦慄する神々のもとにテミス女神が飛んできて語りかけ、戦いをやめるよう説得する。
神々はそれぞれの持ち場へ去っていった。

 オデュッセウスは改めて作戦の詳細を語った。
木馬の外に残ってトロイア人を騙す大役を引き受けたのはシノーンという男で、彼はオデュッセウスの従兄弟だった。
 ネストールは木馬に乗り込まんと意気込んだが、ネオプトレモスが彼を説得してテネドスへ行ってもらうようにし、
自分が一番に木馬に乗り込むことを宣言した。ネストールは彼を祝福して力づけ、
ネオプトレモスは早速アキレウスの武具をまとった。
 この時木馬に乗り込んだのは、

アキレウスの子ネオプトレモス、力強いメネラーオス、オデュッセウス、ステネロス、神にもまがうディオメーデース、
ピロクテーテース、アンティクロス、メネステウス。
肝太いトアース、金髪のポリュポイテース、小アイアース、エウリュピュロス、神に等しいトラシュメデース、
ともに高名なるメーリオネースとイードメネウス、槍も見事なポダレイリオス、エウリュマコス、神にもまがうテウクロス、
大胆不敵なイアルメノス、タルピオス、アンティマコス、デーモポオーン、力強いアンピマコス、アガペーノール。
アカマース、ピューレウスの子メゲース、そして木馬が収納できるだけの、選抜された戦士たち。

そして最後にエペイオスが乗り込み、梯子を引き揚げると木馬の扉を閉め、差し錠の傍らに座った。
彼らは来るべき時まで沈黙を守った。

 他の将兵たちは夜のうちに天幕を焼き払い、船団を出発させた。ネストールとアガメムノーンが彼らを指揮する。
アガメムノーンも木馬に入ろうとしたが、全員に止められていた。
 一行はテネドスの渚に到着すると、合図の松明をじっと待ち続けた。

 トロイア人は、ヘレスポントスの方で煙が上がっているのに気づき、さらに船団の姿が消えていることに気づいた。
彼らは大喜びで平原に飛び出し、海岸へと走っていった。ただ、まだ恐れがあったので武装はしていたのだが。
そして彼らはよく磨かれた巨大な木馬を見つけ、驚いた。その下には、惨めなシノーンの姿があった。
 彼らはシノーンを捕らえると口々に尋問し、さらに激しい暴行を加えた。シノーンは揺るぎもせず、それを甘んじて受けた。
彼の耳と鼻は引きちぎられ、その顔は血まみれになった。それでも彼は耐え抜き、オデュッセウスの謀のとおりに返答した。
アカイア勢は長い戦闘に倦み、帰途に着いた。
彼らは予言者カルカースの信託により、トロイア勢を守護するトリートゲネイア・アテーネーの怒りを鎮めるためにこの木馬を作った。
彼らは帰国の前に神々に生贄を捧げんとして私を殺そうとし、自分は何とか逃れてここにきた、と。
 これを聞いたトロイア人は、彼を信じる者と信じない者に分かれた。
後者の代表はアポローンの神官ラーオコオーンであり、
これはアカイア勢の罠であり、速やかにこの木馬を焼き中を調べるべきだと発言した。
これを聞いたパラス・アテーネーは怒り、大地を揺らすと彼の両目を潰した。
彼はなおも自説を曲げなかったが、トロイア人たちはアテーネーの怒りを恐れ、シノーンの言葉を信じた。
 彼らはシノーンを引っ立て、木馬を都へと曳いていった。
エペイオスは木馬の下に車輪を据え付けており、運搬しやすいようにしていた。
トロイア人たちは木馬に色とりどりの花輪をかけて飾り、自分たちも花輪を被った。
 その光景を見て戦闘女神エニュオーはあざ笑い、上空ではヘーラーが楽しみ、アテーネーは喜んだ。
トロイア人は城壁を打ち壊して木馬を中へ入れた。トロイアの女たちは歓呼し、誰もがその周りに集まって驚嘆した。

 ラーオコオーンはなおも木馬を焼くことを同胞に勧告していた。
しかし誰もがアテーネーの怒りを恐れ、彼の言葉に耳を貸さなかった。
アテーネーは、カリュドネー島の洞穴から蛇どもを呼び出した。それらはテューポーンの血を引いていた。
蛇たちは女神に呼び起こされると島を鳴動させつつ洞穴を飛び出し、波を掻き分けながらトロイアへと向かった。
海の怪物は恐れて身をすくめ、クサントスとシモエイスのニュンペーたちが呻き、アプロディーテーは胸を痛めた。
 蛇たちはトロイアに上陸すると平原を突っ切ってイーリオンに飛び込み、トロイアの民は恐怖で大混乱に陥った。
蛇たちはラーオコオーンの目の前でその息子たちをくわえて空中に持ち上げると無残に殺害し、地中に消えた。

 トロイアに様々な異変が起こった。
神々への犠牲は燃えず、祭壇は倒れた。神々の像から涙がこぼれ、神殿が血まみれになった。
どこからともなく呻き声が聞こえ、巨大な城壁が震え、塔は鳴動した。
すべての門の閂がひとりでに開き、夜の鳥たちが鋭く泣き叫んだ。夜空は晴れているのに、一つの星もみえなかった。
ポイボスの神殿の月桂樹は枯れ、狼やジャッカルが唸り声を上げた。
しかし、トロイア人たちは恐怖を感じることはなかった。死神たちが彼らから思考力を排除したからである。
 その中でただ一人、プリアモスの娘、女予言者カッサンドラーは迫り来る破滅を予見したが、
彼女の言葉は誰にも受け入れられなかった。彼女はアポローンに愛され予言の力を与えられたが、
彼の愛を受け入れなかったため、説得の力を剥奪されていた。
そのため、彼女の予言は当たるにもかかわらず誰にも信用されなかった。
 彼女は大声で注意を呼びかけたが、彼女の言葉は例によって嘲笑の的となった。
彼女は戦斧と松明を手に取ると木馬に駆け寄り、火を放とうとした。
だが周囲の人々は彼女を押さえつけ、それらを取り上げると祝宴の支度を続けた。
それを木馬の中で聞いていたアカイア勢は喜ぶとともに、カッサンドラーの予見の力にも驚いていた。

 カッサンドラーは、トロイアの陥落に心痛めつつ木馬から遠ざかっていった。
言語を絶する大破局が近づいていた。


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