4.ピロクテーテースの復帰とパリスの死


◇ピロクテーテースの復帰(第九巻)

 暁の女神が地の果てから起き出し天空が輝きはじめた時、
アカイアの勇敢な子らは雲ひとつないイーリオンの高みを眺め、昨日の奇跡に感じ入っていた。
一方トロイア勢は、栄光かくれもないアキレウスがまだ生きているものと信じ、恐怖に襲われていた。
 アンテーノールは神々の王者に祈っていた。あのアキレウスを、あるいは彼に似た強大な男を戦場から遠ざけてくれるように、
そうでないなら、これ以上われらを苦しめることなく、一刻も早くトロイアを滅ぼしてくださいと。
ゼウスは後の願いは聞き届けたが、先の願いは受け入れなかった。
ネーレウスの賢い娘テティスに花を持たせようとしていたからである。

 両軍はいったん休戦し、死者を葬ることとなった。
今度はプリアモスがアカイア勢に伝令メノイテースを遣わし、死者の葬儀を行いたいと申し入れていた。
彼らはお互いに死者へ敬意を表し、これに同意した。
彼らは戦死者のために薪の山を築き、葬儀を執り行った。トロイア勢はエウリュピュロスの死をとりわけ悼んだ。

 ネオプトレモスは、父の巨大な墓へ赴いていた。彼は墓標を抱きしめ、泣きながら父に挨拶した。
生きているうちにまたお会いしたかった、一緒に戦い、莫大な戦利とともに一緒にトロイアから帰りたかった、と。
彼に従ってきていた十二人のミュルミドーン人、その中には老ポイニクスもいたが、彼らもそれを見て嘆いた。
 彼らは船陣に戻り、夕餉を済ませ眠りについた。そしてまた夜が明けると、彼らは武装して戦場へと飛び出していった。

 アカイア勢の大音声を聞き、その軍勢を目の当たりにしたトロイア勢は肝を潰した。
しかし、この時デーイポボスが立ち、妻や子、親、財宝、国土その他すべてのものを守るために、
敢然とアカイア勢に立ち向かうべきだと弁じた。
これに力づけられたトロイア勢はすぐさま武装し、都の外へ押し出すと戦列を整えた。
そこへアカイア勢が襲いかかり、たちまち城壁の前で凄まじい戦いが始まる。
 デーイポボスはネストールの御者ヒッパシデースを討った。
御者を失ったネストールは危機に陥ったが、そこへメランティオスがすかさず戦車に飛び乗って手綱を握り、
鞭を持っていなかったため槍で馬を引っぱたいて駆っていった。
デーイポボスはネストールを討ち漏らしたが、すぐさま他の戦場へと向かった。
 デーイポボスはアカイア勢を切り散らし、死体の山を築いた。だが一方、アキレウスの強悍な息子もトロイア勢を叩きのめしていた。
ネオプトレモスは騎馬のアミテースを、次いでアスカニオスとオイノプスを槍で討ち取り、それからもおびただしい人間を殺していった。
彼はスカマンドロス河の辺りで味方が苦境に陥っているのに気づくと、アウトメドーンに命じて馬をそちらへ向かわせる。
力強い神馬たちは二人をその戦場へと運び、奮戦するデーイポボスの前へと導いた。
 ネオプトレモスは名乗りを上げてデーイポボスに襲いかかったが、その時アポローンは彼を黒雲に包んで救い出し、
町の中へと移してやった。ネオプトレモスは舌打ちしたが、すぐに気を取り直してスカイア門へと逃げるトロイア勢を追う。

 アカイア勢はイーリオンの城門へと迫った。
これを見たポイボス・アポローンはオリュンポスから飛び出し、クサントスの流れのほとりに立つ。
そして、トロイア勢に勇気を、アカイア勢に恐怖を吹き込んだ。
一方、大地を揺るがす強大なポセイドーンもこれを察知し、アカイア勢に力を吹き込む。
両軍はよりいっそう激しく戦い始めた。
 アポローンは、アキレウスを倒した同じ場所でその息子も倒そうと思っていた。
黒髪のポセイドーンはそれを察知すると靄に身を隠してアポローンのもとに行き、言った。
「恨みを捨てよ、アキレウスの偉大な息子を殺すのはよせ。それはゼウスも喜ばぬことだ。
かえって、わしや海の神々全てに大きな苦痛をもたらすであろう。
わしが怒らぬうちに、すぐに上天へ退け。さもなくば大地を割って深い穴を開け、イーリオンを丸ごと底なしの冥府の底に落としてやる。
そうなれば、おまえ自身が苦しむことになろう」
 自分の父の兄弟を畏敬しているアポローンは、彼の言葉を聞くと上天に退いた。ポセイドーンも海へと戻る。
 その日、アカイア勢は戦をやめて船陣へと退却した。カルカースの忠告に従ったからである。
カルカースは鳥占や内臓占いなどで、戦闘に熟達した強悍なピロクテーテースがアカイア勢に参加するまでは
イーリオンの都が倒される運命にないことを知り、戦闘の一時中断を進言した。
アトレウスの子二人はそれを聞き入れて軍勢を引き揚げ、美しいレームノス島へディオメーデースとオデュッセウスを派遣した。

 オデュッセウスとディオメーデースはアイガイオス海を越え、葡萄に覆われたレームノス島へ到着した。
そして気高いポイアースの子ピロクテーテースが寝ている石の洞穴へとやってきたが、
二人は彼のあまりに惨めな姿を見て驚愕した。
 ピロクテーテースは固い地面に伏し、苦痛に呻いていた。寝台には鳥の羽が撒かれ、彼は余った羽をつなぎ合わせて身にまとっていた。
その髪は野獣のように伸び、肉体は力を失ってやせ細り、その身は汚れきって垢に包まれていた。
彼の目は虚ろで、腐った足傷の絶え間ない苦痛にすすり泣いていた。
その傷は邪悪な水蛇にかまれたもので、その毒は今なお彼を蝕んでいた。
傷からは腐った血が絶えず地面にしたたり洞穴の床を赤く染めていたが、それは後世の人々にとっても大きな驚きとなった。
 彼の寝床の傍らには、矢の詰まった箙があった。その鏃には、災いをもたらすヒュドラーの毒が塗ってあった。
そしてその前には見事な反りの巨大な弓があり、これはヘーラクレース譲りの逸品だった。

 二人が近づいてくるのを見て、ピロクテーテースはとっさに矢を射かけようとした。
彼らは以前、苦しむ自分を波打ち際に置き去りにしてトロイアへ向かったからである。
もし彼らが友好的な態度をとっておらず、またアテーネーが彼の怒りを霧散させなかったら、
彼は思ったことをそのまま実行していたであろう。
 二人は苦渋の表情でピロクテーテースに近づくと彼の両脇に座り、傷の状況や苦痛について尋ね、また激励した。
そしてアカイア勢の苦難を語り、ぜひとも合流して自分たちを救ってもらいたい、
傷については、合流のあかつきにはすぐに癒されるだろうと説得した。
 ピロクテーテースは、二人の説得に心の中から怒りを排除した。そして、トロイア行きを了承する。
二人は大喜びで弓矢ともどもピロクテーテースを船へと運ぶと、彼の体と傷をきれいに拭き、水を浴びせて汚れを洗い流した。
そして立派な夕食を作り、ピロクテーテースに腹いっぱい食べさせた。
彼らも食事をとり、三人はその日、レームノスの浜辺で一夜を過ごした。
 次の日、船は出港した。アテーネーはすぐさま順風を送り、船はすみやかにヘレスポントスの岸辺に到着した。
アカイア勢はピロクテーテースの姿を見て喜び、その痛ましい姿に同情した。
オデュッセウスとディオメーデースは、ピロクテーテースをアルゴス勢の中へ連れてきた。
すぐに医神アスクレーピオスの子、神々にも似たポダレイリオスが彼を治療し、
彼の傷口に薬を塗り、また父アスクレーピオスの名を呼び上げた。
アカイア勢は歓声を上げ、アスクレーピオスの息子をほめ讃えた。
彼らはピロクテーテースの体を洗い、それから香油を塗ってやった。

 ピロクテーテースは病から回復した。
顔色は良くなり、衰弱は力強さに取って代わり、たちまち元気旺盛になった。
アトレウス家の二兄弟は彼の姿を見て驚愕し、これを神々の業であると考えた。
実際、トリートゲネイア・アテーネーが彼に大きさと美を注いだのだった。
 将領たちはポイアースの子をアガメムノーンの天幕へと招き、宴会を開いた。
その席でアガメムノーンはピロクテーテースに今までの苦難を与えてしまったことを詫び、
数多くの贈り物を約束した。
 決然たるポイアースの子は、アガメムノーンを、そしてほかの誰も責める気はないことを明らかにし、
一刻も早く寝て、明日の戦いに備えようと言う。
彼が自分の天幕へ戻ると、同胞たちは喜びつつ彼のためのベッドをしつらえ、
彼はそこでぐっすりと朝まで眠った。

 朝が来た。朝食を終えたアカイア勢の前でピロクテーテースは全軍を激励、彼らは一団となって出撃した。

◇パリスの死(第十巻)

 トロイア勢はプリアモスの都の外に出、戦列を整えて警戒しながら戦死者の遺体を焼いていたが、
向かってくるアカイア勢を見ると急いでそれらに土を投げかけて積み上げた。
思慮深く賢明なプーリュダマースは、豊富な物資を頼みに籠城戦に持ち込むことを献策するが、
アンキーセースの勇敢な息子アイネイアースは、断固戦って苦境を切り開くべきだと言った。
兵士たちは皆アイネイアースに賛成し、城外でアカイア勢を迎え撃った。

 戦闘が始まった。まずアイネイアースがアカイア勢のアリゼーロスの一子ハルパリオーンを討ち取る。
彼はボイオーティア勢の一人で、誉れ高いプロトエーノールとともにトロイアに来ていた。
(プロトエーノールはすでにプーリュダマースにより討ち取られている。『イーリアス』第十四歌)
さらにアイネイアースはテルサンドロスとアレトゥーサの息子ヒュロスを槍で殺した。
彼はクレータ勢であり、イードメネウスは彼の死に苦しんだ。
 一方、ネオプトレモスはトロイア勢十二人を立て続けに倒していた。
最初にケブロス、そしてハルモーン、パーシテオス、イスメーノス、イムブラシオス、スケディオス、
プレゲース、ムネーサイオス、エンノモス、アンピノモス、パシス、そしてガレーノスと。
ガレ−ノスは小高い町ガルガロスの住人で、多数の兵を率いてトロイアに来援してきていた。

 アイネイアースの僚友エウリュメネースは力の限り戦ってアカイア勢を蹴散らしていたが、
メゲースがその喉に槍を突き刺してその勢いに終わりを与えた。
エペイオスの二人の家来、デーイレオーンとアンピオーンがその武具を剥ごうとしたが、
勇敢で力強いアイネイアースはその前に彼らを打ち倒した。
 ディオメーデースはメノーンとアンピノオスを、そしてパリスはヒッパソスの子デーモレオーンを討ち取った。
デーモレオーンはメネラーオスに従ってトロイアに来ていたが、パリスの矢によって大地に倒れた。
 テウクロスはメドーンの高名な息子ゼキスを倒した。
彼はプリュギア出身で、セレーネーとエンデュミオーンが逢瀬を重ねた洞穴のふもとに住んでいた。
 ピューレウスの子メゲースはアルカイオスの胸に槍を突き入れて殺す。
アルカイオスはマルガソスとピュリスの子で、ハルパソス河のほとりの住人だった。

 グラウコスの優れた戦友、槍も見事なスキュラケウスはオイーレウスの子アイアースに襲いかかったが、
アイアースは楯で相手を撃つとすかさず槍を繰り出し、彼の肩を刺し貫いた。
牛革の楯に血が飛び散ったが、しかし彼は何とかその場を逃れた。彼の運命の日はリュキア帰郷の日であったから。
 のちにトロイアが陥落したとき、彼はただ一人逃れてリュキアに帰り着いた。
町の外で待っていた女たちが彼に夫や子らの運命を口々に尋ね、彼は、彼らが全滅したことを話して聞かせた。
すると女たちは悲しみの八つ当たりからこの男を石打ちにして殺し、かくて彼の墓は凄惨な投石の山となった。
だが、彼はレートーの高貴なる息子アポローンの計らいで、後世に神として崇められるようになった。

 さて、ポイアースの子ピロクテーテースは敵陣に突入し、
デーイオネウス、そしてアンテーノールの子アカマースを殺すと、さらに多数の将兵をまとめて倒していた。
彼の武具はヘーラクレース譲りのもので、その甲冑には様々な獣が刻まれ、
またその箙にはアルゴスを殺すヘルメースやエーリダノスの流れに叩き落されるパエトーン、恐るべきメドゥーサを倒す神にもまがうペルセウス、
そしてカウカソスの頂に縛られたプロメーテウスが刻まれていた。
これらはヘーパイストスがヘーラクレースのために作ったもので、彼からポイアースの息子に与えられていた。
二人は分かちがたい親友だったからである。
 敵を倒し続けるピロクテーテースに、パリスが反り打つ弓を握って非情の矢を放った。
ピロクテーテースは身をかわしたが、矢はレルノスの子クレオドーロスの胸に突き刺さり、彼の命を奪った。
彼はプーリュダマースによって楯の負い革を切られ、楯を失っていた。そのため、この矢を防げなかったのである。
 これを見たピロクテーテースはパリス目がけ突進しながら弓を取り、叫んだ。
「犬め!貴様が今したように、このわたしが貴様に逃れることのできぬ死をお見舞いしてやるぞ、
貴様はこのわたしと命のやり取りをしたがっているのだから。
そうすれば貴様の死により、両軍の戦士たちも一息つけるだろう。何しろ貴様は、トロイアにとっても災厄だったのだからな!」
 ピロクテーテースはヘーラクレースの剛弓に矢をつがえると力いっぱい引き絞り、弓弦を激しく鳴らして射放った。
その矢は的を外さなかったものの致命傷には至らず、パリスの腕をかすめるにとどまった。
 パリスは二の矢をつがえたが、それよりも早くポイアースの子が第二射を放った。
矢はパリスの腿の付け根のわずか上に命中し、パリスはもはや踏みとどまれず、退却する。
その場は何とか逃れたものの、彼の心臓には無残な苦痛が襲いかかっていた。
ピロクテーテースの放ったヘーラクレースの矢は、あの恐るべきヒュドラーの猛毒の血に浸されたものだったからである。
 その日の戦いは優劣がつかず、夜が来たため両軍は船陣へ、また城内へと退却した。

 他の皆は安らかな眠りについたが、ただ一人、パリスは恐ろしい苦痛にのた打ち回っていた。
矢傷もさることながら、かの剛勇ヘーラクレースですら耐えられなかったヒュドラーの激しい毒が全身を駆け巡っていたのだ。
あらゆる薬が試されたが、何の効果ももたらさなかった。
ただ、オイノーネーが望めば、パリスは彼女の手により癒される、という神託があり、それが唯一の望みだった。
 オイノーネーはイーデーの山に住むニュンペー(ニンフ)で、パリスの最初の妻であった。
しかしパリスは黄金の林檎の審判によりアプロディーテーからヘレネーを授かると、彼女を棄てていた。
 パリスは、気が進まないながらも出発した。禍々しい鳥たちが近づいてきて頭上で啼き、左手を飛んだ。
 パリスがオイノーネーのもとに到着すると、彼女は彼の姿に驚愕した。
パリスは彼女の足元にくずおれると、息も絶え絶えに助命を嘆願した。しかし、オイノーネーは言った。
「あら、以前テュンダレーオスの娘ヘレネーのために、嘆く私を棄てて逃げ去ったあなたが、
いったいどうしてこのようなところにいらっしゃったのですか?あの方はわたしより遥かに素晴らしい方なのでしょう、
彼女の膝にすがってお願いなさいな。わたしにこんな苦しげなことを言うのはおよしになってください。
ああ、わたしに、野獣の心をもってあなたの肉を食らい、血を飲み下す力があればよかったのに!
あなたもかわいそうなお方。王冠いただくあなたのアプロディーテー様はいずこにおわしますか。
娘婿のことを忘れて無敵のゼウス様はいずこにおわしますか。
(ヘレネーは、スパルタ王テュンダレーオスの妃レーダーが白鳥に変じたゼウスと交わって生まれた。
同じ血を享けた兄弟はカストールとポリュデウケース、姉妹はクリュタイムネストラーで、皆白鳥の卵から生まれた)

この方々に保護してもらい、わたしの住処からは去ってください。
あなたは罪深い方、あなたのせいで神々も苦しんでおられます。ある方は孫を殺され、ある方は子を殺されて。
さあ、ここから出て行ってください。ヘレネーのもとに行きなさい。
彼女のベッドで苦しんで泣きながら、彼女にその苦痛を癒してもらいなさい」
 オイノーネーはパリスを自らの住処から追い出した。しかし、彼女も自分の運命がわかっていなかった。
死神たちは、パリスの次は彼女を追跡しようと決めていた。それはゼウスの紡いだ彼女の定めであった。

 パリスはイーデーの頂を越え、惨めな気持ちで山を下っていった。
オリュンポスにあるゼウスの庭園でヘーラーは、それを見ながら不滅の心を楽しませていた。
彼女の傍らには四人の侍女がいた。彼女たちは太陽神ヘーリオスに愛された輝かしい月女神セレーネーが広大な空で生んだ娘たち、
春夏秋冬を管轄する四季女神(ホーライ)だった。
 ヘーラーと四季女神たちは、破壊的な宿命女神アイサが胸の内で考えていたことについて話していた。
ヘレネーとデーイポボスのおぞましい結婚、それによってもたらされるヘレノスの無残な遺恨と怒り、
そのヘレノスをアカイア勢がどのようにして捕らえて船へと連れて行くか、
そして、いかにしてヘレノスの言葉に従いディオメーデースがオデュッセウスとともにトロイアに潜入し、
トリートゲネイア・アテーネーの神像(パラディオン)を運び去ろうとしているのかを。
この神像がある限り、プリアモスの都を破壊するのは不可能であった。この神像は人の手になるものではなく、
ゼウス自らがオリュンポスからプリアモスの都に投げ落としたものだった。
(ヘーラーが四季女神と語った話の内容については、これ以後語られることはない。
この後、アイネイアースの奮戦ぶりを描いた後、すぐに木馬作戦に移る。
クイントゥスは話の盛り上がりを重視してこれらのエピソードをカット、ここで簡単に触れるにとどめている)

 ゼウスの后がこのようなことを侍女たちとお喋りしているうちに、パリスの生命は尽き果てていた。
彼はヘレネーに再びまみえることなく、イーデーの山中で息絶えた。
彼の遺体の周りにはニュンペーたちが集まり、かつてのことを思い出して袖をぬらしていた。
彼と幼少期をともにしていた羊飼いたちも悲痛に胸を裂かれ、涙にくれた。彼らの嘆き声が峡谷にこだました。
 一人の羊飼いがイーリオンに走り、不運なプリアモスの妻ヘカベーに、アレクサンドロス・パリスの無残な死を告げた。
ヘカベーは相次ぐ息子の死に激しく嘆いた。
ヘレネーも号泣したが、心の内では夫のことではなく、自らの過ちについて泣いていた。

 オイノーネーはパリスの死を知ると、心打ち砕かれて号泣した。
あの時は怒りに任せて冷たくはねのけてしまったが、彼女の本心はまだ彼を愛していたのだ。
彼女は絶望し、衰弱し、その夜、館で父と侍女たちが眠りにつくと突風のように飛び出し、駆け去った。
そしてイーデーの鬱蒼とした森や岩場を踏み越え走っていく。
空からそれを見ていた尊いセレーネーは彼女を憐れに思い、その行く手を月光で照らしてやった。
 オイノーネーは山中を走り、他のニュンペーたちがアレクサンドロスの遺体に手を合わせているところにやってきた。
パリスの遺体はまだ激しい炎に包まれていた。山の牧人たちが薪を持ち寄って火葬壇を作り、
かつての仲間であり王であった彼を讃え、哀悼し、号泣していた。
 オイノーネーはパリスの遺体を目にすると、自分の美しい顔を布でくるむが早いか薪の山に飛び込んだ。
ニュンペーたちは愕然とし、いっそう激しく泣いた。彼女たちのうちの一人は心の内でパリスを呪った。
 パリスとオイノーネーは薪の山の真ん中で焼かれた。やがて火が全てを焼き尽くすと、牧人たちは葡萄酒で火を消し、
二人の骨を黄金の深鉢に納めた。そしてその場に墓を作りその上に墓標をのせた。
しかし二つの墓標は離れ離れとなり、今なお酷い嫉妬を向け合っている。


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