2.アキレウスと大アイアースの死


◇アキレウスの死(第三巻)

 暁の女神の光が地上に射した時、ピュロスの男たちはアンティロコスの遺体をヘレスポントスの海辺で埋葬した。
アカイア勢の勇者たちは至るところで泣いていたが、ネストールは毅然としていた。
思慮ある男子は胸のうちで雄々しく苦痛に耐え、その苦痛にのしかかられてもそれに負けないものだからである。

  その日の戦いで、アキレウスはいつもにも増して猛々しくトロイア勢に襲いかかった。
彼は親友アンティロコスの死に怒っていた。
彼はトロイア勢を次々に殺して大地を血に染め、その凄まじい戦いぶりにトロイア勢は戦慄した。
 ポイボス・アポローンはこの有様を見てアキレウスに怒りを発し、箙を肩に掛けるとオリュンポスから駆け下りた。
そして割れ鐘のような声で、アキレウスに戦闘をやめるよう命じる。
しかしアキレウスはその声に従わず、町のほうへ向かってなおも殺戮を続けた。

 アポローンは霧に姿を隠し、神の言葉を無視したアキレウスに恐るべき矢を放った。
矢はアキレウスのくるぶしを傷つけ、彼はその激痛に耐えられずに倒れ、苦しんだ。
アキレウスは、自分を射た矢がアポローンの矢であることを悟り、
かつて母神テティスに告げられた、自らの最期の時が来たことを知った。
彼が矢を引き抜くと不治の傷口から血がほとばしり、彼の心臓を死が征服し始めた。
アキレウスが矢を投げると、一陣の風が吹いてそれをアポローンの手に返す。
アポローンはオリュンポスへと帰っていった。
 オリュンポスへと帰ってきたアポローンを見たヘーラーは激怒して彼をなじった。
おまえはトロイア勢の味方をしているがその実彼らのことはどうでもよかった。
結局おまえはアキレウスの武勇を妬んでおり、それゆえトロイア方に味方して彼を殺したのだ、と。
 ヘーラーを尊敬していたアポローンは一言も言わずに黙っていた。

 アキレウスは倒れていたが、その胸のうちに滾る戦意は衰えていなかった。
トロイア勢は彼を遠巻きにしていたが、一人として彼に近づく者はいない。
それは手負いの獅子に近づくようなものだった。
 アキレウスは神の矢に征服されつつあったが、最後の力を振り絞って立ち上がると、トロイア勢に躍りかかった。
そしてオリュターオーンの頭を兜ごと槍で貫くとそのまま心臓まで潰し、
すかさずヒッポノオスの顔に槍を突き刺して息の根を止める。
さらに槍をアルキトオスの顎に突き刺して舌を切り落とし、大地に打ち倒した。
彼はなおも多数の兵士たちを殺戮し、逃走する兵士たちを追撃して討ち取っていった。
 だが、そのうち彼の体は冷え切ってきた。歩くことができなくなると彼はペーリオン山のとねりこの槍に寄りかかり、
トロイア勢に向かって言い放った。
「やあ、卑怯なトロイア人ども、貴様らは死んでゆくわたしの槍からは逃げられんぞ。
貴様らは全員、わたしの復讐女神(エリニュス)たちから罰として無残な死を蒙るだろう」
 アキレウスの大音声にトロイア勢は逃げ出した。彼がまだ元気だと思っていたからである。
しかしその時、アキレウスはうず高く山をなす屍の中に倒れた。死が彼の大胆な心と魁偉な体を打ちひしいだのだ。

 アキレウスは死んだが、トロイア勢はなおも震え怖気づき、彼の遺体に近寄れないでいた。
しかしその時パリスが、アキレウスの遺体を運び帰れば大いなる名誉になるぞ、と彼らを鼓舞する。
すると、グラウコス、アイネイアース、アゲノールらの勇士たちがその周囲に集ってきた。
 アキレウスが倒れたことをいち早く目にとめた神にもまがうアイアース(大アイアース)は、
すぐに彼の遺体のところに来るとその大槍で相手を追い払い始めた。
まずマイオーンの子アゲラーオスの胸を刺し、誉れ高いテストールを殺す。
さらにオーキュトス、アゲストラトン、アガニッポス、ゾーロス、ニッソス、
そして高名なエリュマースを倒した。彼はグラウコスに従ってリュキアからやってきていた。

 エリュマースの死に、ヒッポロコスの名高き息子グラウコスは愕然とした。彼らは親友だったからである。
彼はすぐさまアイアースに襲いかかるとその楯を槍で突いた。槍は大楯を貫いたが、胴鎧がその穂先をはね返す。
 グラウコスはアイアースに言った、
「アイアースよ、おまえはアカイア勢の中で並ぶもののない勇者であり、
奴らはアキレウスと同じようにおまえのことを自慢している。
奴は死んだが、おまえも今日、それと同じ目に遭うだろう」
 アイアースは言い返した。
「小童、おまえはあのヘクトールがおまえよりどれだけ勇敢であったか、まるでわかっていないな。
そのヘクトールもわたしの武勇と槍を避けた。彼は力だけでなく分別も備えていたからだ。
おまえは自分よりも優れた人間に挑戦するのだ。
おまえは先祖代々からのわが家の客人であることを誇れはしないし、
テューデウスの勇猛な子ディオメーデースとの時のように、
贈り物につけこんで戦いをやめることはできない(『イーリアス』第六歌参照)
おまえはあの男の武勇はかわせたが、わたしはおまえを絶対に生かしては返さん。
アキレウスの遺体に群がる、あの下劣な蝿のような輩とともに殺してやる!」
 アイアースはそう言うなりトロイア勢に突撃、たちまちトロイア勢・リュキア勢をまとめて薙ぎ倒した。
彼らも踏みとどまって戦い、アキレウスの遺体の周辺で激しい戦いが巻き起こった。
 その中、アイアースはヒッポロコスの勇武の息子グラウコスを撃った。
グラウコスはアキレウスの傍らに仰向けになって倒れ、絶命した。

 これを見たアイネイアースはすぐさま同僚に声をかけて奮戦、
グラウコスの遺体を戦場から引きずりだすと城に運ばせ、そして自分は戦い続けた。
しかしアイアースは彼の右腕を刺して傷つけ、負傷したアイネイアースは退却して城に戻り、治療を受ける。
 アイアースがなおも奮戦する近くでは、ラーエルテースの子オデュッセウスが戦っていた。
彼はペイサンドロスの子マイナロスを殺した。
次いでエーマティオーンとニュムペーのペーガシスの子、アテュムニオスを倒す。
さらにプローテウスの子オレスビオスを殺し、さらにアキレウスの遺体に近づく敵を片っ端から屠った。
 この時勇猛なメガクレースの子アルコーンが槍でオデュッセウスの右膝を撃った。
オデュッセウスの膝から血が流れたが、彼はそれをものともせずにアルコーンに撃ちかかって楯ごとその体を突き通し、
そのまま土埃の中に押し倒す。
アルコーンは最後の力を振り絞って槍を引き抜いたが、それと同時に彼の魂も体から離れた。
 オデュッセウスは膝の傷もそのままに戦い続ける。
アカイア勢は総力を挙げてアキレウスの遺体を守るべく戦った。

 このときパリスは、アイアースめがけ弓を引き絞った。しかしアイアースはそれに気づくと石を投げてその頭を撃つ。
石はパリスの兜を砕き、パリスは昏倒して倒れた。戦友たちが急いで彼をヘクトールの馬に乗せ、町へ連れ帰る。
 アイアースの鬼神のごとき戦いぶりにトロイア勢の戦意はついに萎え、彼らは逃走を始めた。
アイアースは町まで彼らを追撃し、門の中に追い込むとようやく踵を返したが、
彼は大地ではなく、辺りを覆いつくす楯や血や死体を踏みながら戻っていった。

 アカイア勢はアキレウスの遺体を戦場から引き出し、船陣へと運んだ。
彼らは、アキレウスの葬儀が済むまでは血にまみれたトロイア人の武具を剥ぐことはしなかった。
アカイア人たちは勇士アキレウスの死に涙を絞り、ヘレスポントスの渚は潮鳴りに轟いた。
ミュルミドーン人たちは彼の遺体を伏し拝んで哀哭した。
そこへアイアースがやって来て弔辞を捧げ、次いで老ポイニクスが、アトレウスの子アガメムノーンがそれに続いた。
 彼らの嘆きの声は船に反響し天空をくまなく走ったが、ここでネーレウスの子ネストールが口を開き、アガメムノーンに言った。
もう不吉な涙を止め、アキレウスの遺体を洗い清め、弔いの寝屋に安置しよう、と。
 アガメムノーンはそれを聞き入れ、アキレウスの遺体を湯で洗い清め、美しい衣装を着せて天幕の中に安置した。
憐れをもよおしたトリートゲネイア・アテーネーは、アキレウスの頭に神饌アンブロシアを垂らしてやった。
そして彼の眉を、かつてパトロクロスのために憤怒していた時のように猛々しく変え、
それから遺体にいっそう重厚な風采を与えた。
 彼の遺体の周囲では乙女たちが泣いていた。彼女たちはテーベーの町を陥としたときにアキレウスが獲た女たちだったが、
その中でもとりわけ寵愛されていたブリセーイスは激しく嘆いていた。
あまりに肌をかきむしり胸を叩いていたので、その胸には血まみれの青痣が浮かんでいた。

 海からはネーレウスの娘たちが嘆きながら上がってきて哀悼の涙を流した。
学芸女神ムーサたちも嘆きを胸にヘリコーンからやってきて、ネーレウスの娘テティスに敬意を払った。
テティスはわが子を抱きしめてその口に接吻し、泣きながらその死を悼み、ゼウスへの恨み言を述べた。
そしてオリュンポスへ上っていこうとしたが、ムーサのカリオペーがそれを思いとどまるよう説得した。
彼女も、かつて息子オルペウスを失った悲しみに耐えていたのだ。
 その夜、アカイア人たちは大きな不運に打ちひしがれ眠っていたが、
テティスは眠らずに子のそばでネーレーイスとともにじっとしていた。
その周りでは、ムーサたちが彼女の心を和らげようとしていた。
 やがて、暁の女神が小躍りしながら空に上ってきた。息子メムノーンの仇が死んだからである。

 アカイア勢は数日間アキレウスのために泣いていたが、
やがてアトレウスの二人の子はイーデーの山に兵を送り込んで無数の木材を切り出させると、それらを積み上げて火葬壇を築かせた。
周囲には戦死した男たちの甲冑を積み上げ、またトロイア兵の死体、いななく馬、雄牛、羊や猪も投げ込む。
端女たちは衣装箱から布を投げかけ、黄金や琥珀をその上に積み上げた。
ミュルミドーン勢は髪を切って王の死体を包み、ブリセーイスも同じく髪を切って主人に捧げた。
香油が撒かれ、蜜や葡萄酒の入った壺が薪の山の周囲に置かれた。
そして武装した歩兵と騎兵が火葬壇の周囲を行進する。
 この時ゼウスはアキレウスの遺体にアンブロシアを振りかけ、ヘルメースを風神の王アイオロスのもとへと派遣した。
アイオロスはヘルメースより用件を聞くと、すぐさま厄介者の北風(ボレアース)と吹きつのる西風(ゼピュロス)を呼び、
烈風となって荒れ狂う二つの風をトロイアへと送った。
 火葬壇に火がつけられると、風神たちはそれに殺到した。火はたちまち猛烈に燃え上がり、薪の山をヘーパイストスの息で包む。
それを見ながら、ミュルミドーン人たちは間断なくむせび泣いた。
 風神たちは昼夜分かたず吹きつけ、無数の薪をすっかり灰にしてしまうと、雲を従えてそれぞれの洞穴へと帰っていった。

 ミュルミドーン人たちは火がすべてのものを焼き尽くしたのを確認すると、葡萄酒をかけて火を消した。
そしてアキレウスの遺骨を黄金の象眼の施された銀製の棺に拾い集める。
 ネーレウスの娘たちはその遺骨一本一本にアンブロシアと香油を塗り、甘い蜜と一緒に牛の脂肪の中に埋めた。
テティスは両取っ手つきの壺を取り出し、遺骨をそれに納めた。
この壺はディオニューソスより贈られたもので、ヘーパイストス作の名高い作品であった。
 アカイア人たちはヘレスポントスの淵に近い岬の先端に墓と巨大な記念碑を建立し、
ミュルミドーン人の豪胆な王のためにまた涙した。

 アキレウスの駆っていた二頭の神馬、クサントスとバリオスも涙にくれていた。
鳴り響く西風の神ゼピュロスとハルピュイア・ポダルケーの息子たちである彼らは、
もはや惨めな人間たちやアカイア勢の馬と交わることを望まず、
生まれ故郷であるオケアノスとテーテュスの洞穴の彼方へ立ち去りたいと思っていた。
 しかし、神々の計画が彼らを押しとどめた。
二頭が生まれたとき、神聖なカオスの娘である運命女神モイラたちは彼らに次のような定めを与えていた。
不死身の二頭はまずポセイドーンに仕え、続いて大胆なペーレウスと無敵のアキレウスに、
そして第四に、豪胆なネオプトレモス(アキレウスの子)に仕える、と。
そしてさらに後日、ゼウスの指示により、ネオプトレモスをエーリュシオンの野にある至福者たちの地(マカローン・ネーソイ)へと
運ぶ予定になっていた。

 やがて、大地を揺るがす神(エンノシガイオス)ポセイドーンが波打ち際へ立ち、
なおも涙にくれているテティスを慰めて言った。
「子供のことでいつまでも悲しむのはおよしなさい、彼は死者たちとではなく、神々とともに生きるのですから。
気高いディオニューソスや豪胆なヘーラクレースのように。
運命や冥府も彼を闇に閉じ込めることはありません。彼はすぐにゼウスの光の中へ行くのです。
わたしも、彼に贈り物として黒海の中の神の島を与えましょう。そこであなたの息子は永遠に神となり、
周辺の住民はすばらしい犠牲を彼に捧げ、彼を敬うはずです。
だから、嘆くのはもうおよしなさい」
 そしてポセイドーンは去ったが、その言葉を聞いたテティスの胸は安らいだ。
アカイア勢は泣きながら各々の船へと帰っていった。
ムーサたちはヘリコーンへと向かい、ネーレウスの娘たちはアキレウスを悼みつつ海へ潜っていった。

(アキレウスの死については、アポローンの助力を得たパリスの矢に踝を貫かれ動けなくなったところを討たれたという話が一般的だが、
クイントゥスはパリスごときにアキレウスが討たれるのは承服できなかったのか、
ただアポローン神の力により打ち倒された、という話を採用している)

◇アキレウスの葬礼競技(第四巻)

 アカイア勢がアキレウスの死を悼んでいるとき、
トロイア勢もまた、勇敢なヒッポロコスの剛毅な息子グラウコスの遺体をダルダニア門の前で火葬に付していた。
この時、アポローンは彼の遺体を燃える炎から拾い上げ、素早い風の神々に託してリュキアの近くの地へと運ばせた。
風神たちは彼をテーランドロスの峡谷の下にある美しい場所へと運び、その亡骸の上に不壊の岩を投げた。
そしてニュンペー(ニンフ)たちがその周囲に尽きることのない神聖な水の流れる河を流す。
この河は、人々により「流れも美しいグラウコス」と呼ばれた。

 アキレウスの死によりアカイア勢は悲哀に沈んでいた。
一方トロイア勢はこれを見て喜び、今こそヘクトールがいてくれたら、とか、アカイア勢にはなおも勇将多く、
彼らもポイボス・アポローンが打ち倒してくれたらいいのに、などと口々に話し合っていた。
そういったトロイア勢の様子を見たヘーラーは怒ってゼウスをなじったが、
ゼウスは何も答えず、これからアカイア勢とトロイア勢にどのような禍難を与えようかと思案していた。

 未だアカイア勢が打ち沈んでいたある日、ディオメーデースは人々の前で言った。
「いざ、諸君、われらが本当に武人であるなら、不倶戴天の敵と刃を交えねばならない。
アキレウスがいないからといって、奴らをつけ上がらせてはならぬ。
さあ、武装し戦車を駆ってあの町へ寄せようではないか」
すると逞しいアイアースが答えた。
「ディオメーデースよ、よくぞ言った。それこそ将兵が望んでいることなのだ。
だが、われらは海から女神テティスがやって来られるのを船で待たなければならない。
というのも、女神はご子息の墓の周りで葬礼競技を行うことを計画しておられ、
今日ここへ上ってくると昨日わたしに告げられたのだ。
トロイア人はアキレウスが死んだとはいえそうつけ上がる事はあるまい、
まだわたしがいるし、おまえも、そして非の打ち所のないアトレウスの子もいるのだから」
 こうテラモーンの子アイアースは語ったが、しかし彼は知らなかった、競技の後で神霊(ダイモーン)が彼に定めていた運命を。
 ディオメーデースはそれを聞くとアイアースの言葉に従ったが、その時海からペーレウスの妻テティスが現れた。
黒いヴェールを被った彼女はアカイア勢のほうに近づくと、集まってくる彼らの前に運んできた賞品を並べ、競技を始めるよう促した。

 その時一同の中からネーレウスの子ネストールが立ち上がった。
彼は老いに蝕まれ、殴り合いにも格闘技にも出場することはできなかったが、
その胸の奥には勇気も根性も今なお矍鑠としており、集会で論争があった時に彼と張り合える者はいなかった。
ラーエルテースの子、機略縦横のオデュッセウスでさえ言葉においては彼に一目も二目も置いていたし、
アカイア勢の総帥、槍に名高きアガメムノーンにしても同じであった。
 ネストールは、まず一同の真ん中でネーレウスの慎ましい娘テティスを讃歌で讃えた。
それから、ペーリオン山で行われたあの素晴らしい婚礼のことを語った、
神々が披露の宴席で不滅の食物をとった時の様子を。
四季女神(ホーライ)が神々の食物を持ち来たった時、テミスは銀の食卓を整え、ヘーパイストスは火をともし、
ニュンペーたちは黄金の盃にアンブロシアを注いだ。
また典雅女神(カリス)たちは愛らしい舞を披露し、学芸女神(ムーサ)たちは熱心に歌い、
それによって山川草木から獣にいたるまでが歓喜し、神々も大いに楽しんだ・・・
テティスはこれを楽しんで聞き、アカイア勢は熱中して聞き入った。

 ネストールは続いてアキレウスの大いなる勲功を歌い上げた。
アキレウスが航海中に十二の町を、陸地に上陸して十一の町を略奪し、
テーレポスを傷つけ、テーベーの地でエーエティオーンを打ち倒したこと、
そしてポセイドーンの子キュクノスを、神にもまがうポリュドーロスを、天晴れなトローイロスを、
そして完全無欠のアステロパイオスを槍でしとめたこと。
クサントスの流れを血で赤く染め、轟く流れを死体でせき止めたこと、河のほとりでリュカーオーンを討ったこと、
そしてヘクトールを倒し、ペンテシレイアおよび玉座もうるわしき暁の女神の子メムノーンを討ち取ったこと・・・
アカイア勢はそれを聞いて歓呼の声を上げた。
 ネストールはさらにアキレウスの力と美貌を歌い上げ、最後にアキレウスの息子が波洗うスキューロス島から来る時は、
父親同様の人物にまみえたいものだ、と神々に祈った。
 アルゴス勢はネストールに拍手を送った。銀の足のテティスも拍手を送り、ネストールに駿足の馬を進呈する。
これは、傷に苦しむテーレポスをアキレウスが自分の槍で手当てした時、アキレウスに贈り物として与えられたものだった。
ネストールは配下に馬を渡し、彼らは神にもまがう彼らの王を讃えながらそれを船へと曳いていった。
 テティスは群集の真ん中に徒競走の賞品として十頭の牛を置いた。それら各々にはまだ乳を吸う子牛が一頭ずつついていたが、
これらはかつてアキレウスがイーデーの山から槍を頼みに引っ張ってきたものだった。

 二人の男が立ち上がった。一人はテラモーンの子テウクロス、もう一人は小アイアース。
彼らはテティスと彼女についてきていたネーレーイスたちをはばかって下半身を布で隠し、位置についた。
競技が始まり、二人はアガメムノーンの待つゴール目指して全力で疾走した。
 二人は全く譲らずにゴールしようとしたが、ここで神々はテウクロスの意気込みと体を妨害し、
テウクロスはギョリュウの枝につまずいてその茂みの中に転倒した。
どっと喚声が上がり、アイアースが先にゴールを駆け抜ける。
ロクリス勢が喜びつつその主人を迎え、それから賞品の牛を船へと曳いていった。
 傷を負い足を引きずるテウクロスは、仲間たちがすぐに治療した。

 続いてはレスリング。これには馬を馴らすテューデウスの子ディオメーデースと強豪アイアースが立った。
二人はぶつかり合ったが、力は全くの互角だった。
アイアースがディオメーデースを倒そうと一瞬はやったとき、ディオメーデースがその隙を突きアイアースを下からかち上げて浮かせ、
相手の腿を足で蹴りつけて仰向けに押し倒した。
 一同はどっと沸いたが、頭にきたアイアースはすぐさま立ち上がり、ディオメーデースに戦いを挑んだ。
二人は再び激突する。
 二人は先ほどにも勝る激戦を繰り広げた。ディオメーデースは何度もアイアースの腿を手で叩いたが、
彼はびくともしない。ついにアイアースは相手に肩をぶつけてよろめかせ、腹に拳を叩き込むと間髪入れず投げ飛ばした。
 再び大喝采。ディオメーデースはすぐさま起き上がると、決着をつけるべくアイアースに躍りかかった。
しかしここでネストールが二人の間に割って入り、声をかけて言った。
「輝かしい子らよ、これ以上の闘いはよせ。偉大なるアキレウスが死んだ今、
おぬしらがアカイア勢の中でどれだけ抜きん出ているか、わしらはよう知っておるのじゃからな」
 そこで二人は流れる汗をぬぐって闘いをやめ、接吻をかわして友情を認めあった。
女神テティスは二人のために、四人の女を与えた。彼女たちはアキレウスがレスボスから連れてきており、
その知恵や手芸は、ブリセーイスを除くほかのどの女にもまさっていた。
二人は大いに驚きかつ喜び、彼女たちを分け合うと船のほうへ送った。

 続く競技はボクシング。
 真っ先にクレータの王イードメネウスが立ったが、彼に立ち向かう者は一人もいなかった。
彼は年長者であり、全員が彼を尊敬していたためである。
そこでテティスは彼に戦車と駿馬を進呈した。それは偉大なパトロクロスが栄えあるサルペードーンを討って獲たものだった。
 老ポイニクスは、今度は若い勇士たち二人が出てきて闘うよう語りかけたが、誰も出てこない。
そこでネーレウスの子ネストールが立ち、昔話を語って一同を非難した。
 彼は昔従兄弟のアカストスとともにペリエース(イオールコス王。魔女メーデアに殺された)の葬送競技に出場し、
あのポリュデウケース(ディオスクーロイの一人、カストールの弟)と互角に闘って賞を分け合い、
抜きん出て強いあのアンカイオスもあえて挑んでこなかった。以前プブラシオンのアマリュンケウス王の葬送競技で打ち勝っていたからである。
ネストールは自らの例を引き、若者は若者らしくその手で賞を勝ち取るよう勧めた。
 すると、心広く、神にもまがうパノペウスの子エペイオスが立ち上がった。
彼はのちに木馬を建造した男で、戦場での斬り合いは全く苦手としていたが、拳闘には絶対の自信を持っていた。
 これに対して、気高いテーセウスの子、戦に猛きアカマースが立った。
彼の従士、エウエーノールの子アゲラーオスが主君の拳に革紐を巻きつけ、励ます。
同様にエペイオスの仲間も彼を励ましていた。彼も、自ら格闘して殺した牛から作った革紐を拳に巻きつける。
 二人は向かい合うと、激しく殴り合い始めた。二人の顎は革紐で撃たれて鳴り響き、おびただしい血が流れ、
汗と交じり合って彼らの頬を真っ赤に染めた。
 エペイオスは怪力を頼みにアカマースに打ちかかっていたが、
アカマースはこれをかわしつつ、隙を見て飛び上がりざま相手の眉間に強烈な一撃を叩き込んだ。
エペイオスの目から血が流れ落ちたが、彼はかまわずアカマースに襲いかかり、こめかみを撃って地面に倒す。
 アカマースはすぐに立ち上がり、エペイオスに飛びかかってその頭を殴る。
エペイオスもアカマースの額に左を入れると、すかさず鼻面に右の一撃を叩き込んだ。
だがアカマースもひるまずに拳を繰り出していく。
 ここでアカイア人たちが飛び込んできて二人を分け、両人の家来が拳から血まみれの革紐を外した。
二人はようやく一息ついて血をぬぐい、戦友たちに促されて再び向き合うと、接吻をかわして友情を認め合い、和解する。
黒いヴェールを被ったテティスは、二人に銀製の二つの深鉢を与えた。
これは、イアーソーンの勇敢な息子エウネーオスが、力強いリュカーオーンの身の代として、
レームノス島で神にもまがうアキレウスに渡した品であった。
 これらの鉢はもともとヘーパイストスがディオニューソスとアリアドネーの婚礼の贈り物として作ったもので、
それからディオニューソスの息子トアース、ヒュプシピュレイア(イアーソーンの妻)、そしてエウネーオスと伝えられていた。
 二人は鉢をひとつずつ分け合い、船へと運ばせた。
それから彼らはアスクレピオスの子ポダレイリオスに治療を受け、間もなく彼らの傷は癒えた。

 続いて弓術。
 ここでは徒競走に続いてテウクロスとオイーレウスの子アイアースが名乗りを上げた。
 槍に名高きアガメムノーンは彼らから遠く離れたところに馬のたてがみで飾られた兜を置き、
この飾り毛を射切った者こそ最良の勇士であると宣言する。
 まずアイアースが矢を放ち、矢は青銅の兜を叩いて鋭く鳴り響いた。
次いでテウクロスが矢を放つと、鋭い矢は見事に飾り毛を射切り、人々は大歓声を上げた。
テウクロスはまだ先ほどの足傷が癒えていなかったが、手で素早い矢を放つことには問題はなかった。
 ペーレウスの奥方テティスは、神にもまがうトローイロスの美しい甲冑を彼に賞品として与えた。
トローイロスはプリアモスとヘカベーの子の中では最もその美貌をうたわれた者だったが、
容赦ないアキレウスは槍と力を振るって彼の生命を奪っていた。

 そして円盤投げとなった。だがその円盤はとてつもなく重く、誰も投げることができない。
しかし、戦では一歩も引かぬアイアースだけがその力強い腕で投擲し、それを見たアカイア勢はみな目を瞠った。
 この円盤は、かつて巨人アンタイオスがヘーラクレースに倒されるより前に力試しで投げていたものだった。
(アンタイオスはポセイドーンとガイアの子。母である大地に体の一部がついている限り無敵であったので、
ヘーラクレースは彼を大地から抱え上げたまま絞め殺した)

ヘーラクレースがアンタイオスを倒すとこの円盤は戦利品として彼のものとなったが、
その後勇敢なアイアコスの子テラモーンに与えられた。
それはテラモーンがヘーラクレースとともに栄光の都イーリオンを劫掠したときのことだった。
 テラモーンはこれを息子アイアースに与え、アイアースはこれを今回トロイアへと運んできていた。
父を思い出しつつトロイアと戦うため、また力試しの時には厳しい試練となることを願ってのことだったが、
それをアイアースは今、見事に投げてみせたのだった。
 ネーレウスの娘テティスは、神にもまがうメムノーンの甲冑を与えた。
その巨大な甲冑にアカイア勢はまた驚いたが、アイアースはこれを喜びながら受け取った。
それを身につけられるのは、アカイア勢中第一の巨漢である彼だけだった。また、彼はこの大円盤も受け取った。

 続く幅跳びでは槍に名高きアガペーノールが勝利し、
偉大なキュクノスの甲冑を獲た。キュクノスはアカイア勢上陸の際プローテシラーオスを倒すなどして暴れまわったが、
アキレウスに討ち取られていた。
 槍投げではエウリュアロスが勝ち、銀製の大きなグラスを獲た。
これはアキレウスが豊かな町リュルネーソスを占領した時、
槍でミュネース(ブリセーイスの夫だった男)を討って戦利としたものだった。

 さて、豪勇アイアースは手と足の両方で競うこと(パンクラティオン?)を望んで立ち上がり、挑戦者を募った。
だがその場の誰もが彼の力量を恐れ、立ち上がる者は一人としていない。
 彼らは一騎当千のエウリュアロスに合図を送ってこの勝負を受けさせようとしたが、彼は困って言った。
「みな聞いてくれ、他のどんなアカイア人が向かってきてもわたしは持ちこたえて見せるが、この巨漢アイアースだけは別だ。
もし彼が襲いかかるときに怒りが取りついたら、わたしの命は叩き潰されてしまう。無事に船に戻れなくなってしまうよ」
 この冗談にアカイア勢は大笑いし、アイアースも戦意を和らげた。
テティスは、不戦勝の褒美としてアイアースに二タラントンの銀貨を与えた。
アイアースを目の当たりにしたテティスは、愛しいわが子を思い出して悲しみに胸ふさがれた。

 そして、いよいよ戦車競走の段となった。
出場者はまずメネラーオス、そして大胆不敵なエウリュピュロス、エウメーロスにトアース、
そして神にもまがうポリュポイテースの五人。
 競走が始まった。馬たちはハルピュイアのごとく飛び出し、戦車を飛ぶように曳いて疾駆していった。
まず先頭に立ったのはテッサリア王アドメートスの子エウメーロス。彼の馬はアポローンに飼育された駿馬だった。
アイトリア勢を率いるアンドライモンの子トアースがそれに続き、彼らは広大な平原を驀進していった。

(クイントゥスの原文にはここで四十八行?の欠文がある。
ゴールを一番に駆け抜けたのは、最後にエウメーロスをかわしたメネラーオス。
エウメーロスがそれに続いた。ポリュポイテースが三位?エウリュピュロスとトアースは落馬したらしい)

 メネラーオスが人々に讃えられる中、彼の家来たちは馬をくびきから解き放った。
トアースとエウリュピュロスの傷は、ポダレイリオスが手早く治療した。
 三つ編みもうるわしいテティスは美しい黄金の壺をメネラーオスに与えたが、
これはアキレウスがテーベーを陥としたとき、エーエティオーンから奪ったものだった。

 他方では、競馬が行われていた。
カパネウスの子ステネロスの乗るアルゴス産の馬は、西風とハルピュイアとの間に生まれた駿馬アリーオーンの血統で、
テューデウスの子ディオメーデースからステネロスに与えられていた。
この馬は駿馬ではあったが競走に慣れていない暴れ馬で、たびたびコースを外れた。
それでもステネロスのすぐれた手綱さばきと馬自身の圧倒的な力により首位を走っていたものの、
最後にアトレウスの子アガメムノーンが巧みにこれをかわし、優勝の栄誉を得た。
 人々はアガメムノーン、そしてステネロスとその馬も賞賛した。
テティスはアガメムノーンにポリュドーロスの銀の胴鎧を与え、
またステネロスにはアステロパイオスの青銅の兜、二本の槍と革ベルトを与えた。
 テティスは他の騎手たちや競技者にももれなく贈り物を授けた。
しかしこの時、ひとり心を痛めていた男がいた。それはラーエルテースの子オデュッセウスで、
彼はアキレウスの遺体を護って奮戦していたときにアルコーンによって負傷し、それがもとでこの競技に参加できなかった。

◇大アイアースの自殺(第五巻)

 すべての競技が終了した時、女神テティスは剛毅のアキレウスの武具を人々の真ん中に置いた。
それはヘーパイストスの手になる楯、兜、胸当てに脛当て、
そして鋭利の剣とペーリオン山のとねりこを切り出して作った青銅の長槍。
この槍はケイローンからペーレウスに送られたものだった。
 テティスは、アカイア軍中第一の者にこれを与えると宣言し、われと思うものは出てきなさいと言った。
すると、二人の男が立ち上がった。ラーエルテースの子オデュッセウスと、神にもまがうテラモーンの子アイアースである。
 アイアースは、イードメネウス、ネストール、アガメムノーンに裁定を求めた。
オデュッセウスも心の中でそれに同意していた。彼らはアカイア勢中でもっとも思慮深い人物だったので。
 この時ネストールはほかの二人と話し合って言った。
「わしらが裁定を行えば、必ずどちらか片方からの恨みを買い、今後の戦闘に支障をきたす。
二人とも、かたや武勇、かたや機略では余人の追随を許さぬ男、どちらを失っても大きな損失じゃ。
それゆえ、トロイアの捕虜に裁定を委ねようではないか。
彼らはどちらかを贔屓することはせぬ、どちらもともに憎んでおるのだからな」
 アガメムノーンはそれに賛成して言った。
「それならば、敗れたほうはトロイア人を憎み、われわれに怒りを向けることはないでしょう」
そこで、トロイアの捕虜のうちから貴顕の士が選び出され、裁定役として一同の真ん中に座を占めた。

 まずアイアースがオデュッセウスを非難した。
「オデュッセウスよ、なにゆえこのわたしに立ち向かうのか。
アキレウスの遺体を護る戦いで、おまえがいったい何をしたのか。
だいたいおまえはこの戦争へ来る前は、参加を渋ってこそこそと隠れていたではないか。
それからもおまえはポイアースの子ピロクテーテースをレムノス島に置き去りにし、
神にもまがうパラメーデースを死に追いやった。
(出征をしぶるオデュッセウスをパラメーデースは策を用いて無理やり出征させたので、
オデュッセウスはこれを恨み、彼を謀殺した)

それも、彼らの機略がおまえよりも勝っていたからだ。
そしておまえは今わたしに対抗している。
わたしはかつて敵中で孤立し逃げ腰になっていたおまえを助けてやったが、その恩を忘れたのか。(『イーリアス』第十一歌)
おまえはヘクトールからいつも逃げていたが、わたしはいつでも堂々と立ち向かった。
おまえにこのアキレウスの武具を身につける技量はないが、わたしにはぴったりと合う。
しかしここは議論の場ではない。言葉はこの場の人々にこそ必要なのだ」
 これを聞いたオデュッセウスは反論した。
「アイアースよ、なぜそのようなことを口にするのか。
あなたはわたしを卑怯者呼ばわりするが、わたしこそ、あなたより考えや言葉において遥かに勝っていると言いたい。
この二つこそ、男の力を倍増させるもの。人間は知恵によって岩山を切り崩し、大海原を越え、野獣を倒すのだ。
何事においても熟練した男は、無分別な男に勝る。
オイネウスの勇敢な孫ディオメーデースが、敵の守りを突破すべく全軍の中から選んだのはわたしだった。
そして、わたしたちはそれを見事にやり遂げた。(『イーリアス』第十歌)
それにわたしは、ペーレウスのあの高名な子を、アトレウスの子の援軍として連れてきた。
あなたや、ほかの誰であっても彼をこの戦場へと連れてくることはできなかっただろう。
英知こそが男にとって必要であり、蛮勇は無益だ。いかなる腕力も、知恵に裏打ちされない限り、なんの意味もない。
あなたはわたしを助けてやったと言ったが、わたしはあの時逃げ腰などではなく、多数の敵を殺していた最中だった。
ヘクトールの槍など、怖いと思ったことなど一度もない。
それに、アキレウスの遺体のそばで戦い、あなたより多数の敵を殺したのはわたしだ。
彼を死守し、この傷を負ってもなお、わたしは最後まで戦い抜いたのだ」

 二人はなおも論争を続けたが、最後にトロイアの男たちは二人の勇士に恐るべき裁定を下した。
彼らは全員、勝利と神の武具は戦上手のオデュッセウスのものである、と認めた。
オデュッセウスは大いに喜んだが、軍勢は呻き声を上げた。
 アイアースは正気を失い、逆上した。彼は地面を見つめたまま動かなくなった。
戦友たちが彼をなだめる言葉をかけながら、船へと連れて行った。彼はいやいやながらもそれに従ったが、
運命女神たちがその後を歩いていった。アイアースがこの道を通るのも、これが最後となった。
 夕食が済み、眠りの時間になると、テティスはネーレーイスたちと海に戻った。

 アイアースの怒りはおさまらなかった。食もとらず眠ることもせず、武装して剣を手にとり、あれこれ思いめぐらしていた。
ギリシア勢を皆殺しにし船に火をかけるか、それともオデュッセウスひとりを襲って切り刻んでやろうかと。
彼がそう思案していた時、アテーネーはオデュッセウスに危害が及ばぬようにと、彼の心をアカイア勢から逸らした。
すると、アイアースは船陣を飛び出し、至るところを駆け回りながら咆哮し、暴れまわった。
彼は嵐か業火のように荒れ狂い、その姿を見る者はみな震え上がった。
 次の朝が来たが、アイアースの狂気はおさまらなかった。
彼は羊の群れを見つけたが、それをアカイア勢と見誤って飛びかかった。羊飼いたちは逃げ出した。
 その光景を見ながら、メネラーオスは昨日の判定を後悔した。
そしてオデュッセウスがアイアースと張り合わねばよかったのに、と漏らす。
隣にいたアガメムノーンは、オデュッセウスに腹を立ててはならぬ、彼も勇者なのだから、と忠告した。
 アイアースは羊たちを殺戮した。彼はオデュッセウスとその戦友たちを皆殺しにしたつもりで、
オデュッセウスを呪う言葉を吐いた。しかし、その時トリートーニス・アテーネーが彼から狂気(マニエー)を取り払った。
狂気は、すぐにステュクスの激流のほうへと去っていった。

 アイアースは我に返った。そして羊の群れが周囲に転がっているのを見て茫然となった。
彼は、自分が神々の罠にはまったと考えた。そして、その心は苦痛に沈み、全身の力は抜け落ちた。
 彼は嘆いた。
「わたしは、これほどまでに神々に嫌われていたのか。神々はわたしの心を苦しめ、狂気を送りつけて、
わたしの怒りとは何のかかわりもない羊を殺させた。
ああ、あの時、オデュッセウスをわが手で罰してやればよかった。復讐女神よ、奴の心に水火の苦しみを!
そしてほかのアカイア人やアガメムノーンにも、生命の危険を与える戦闘や涙なしに済まぬ苦痛を与えてほしい。
わたしは、もう嫌な連中たちとともに生きていたくはない。アカイア勢は呪われてあれ。
そして耐え難い生命にも呪いあれ。もはや勇者よりも奸智に長けた人間のほうが評価され、好まれるのだ。
オデュッセウスはアルゴス人に敬われているのに、奴らは、わたしのことも、わたしの勲功も忘れ果てたのだ」
そして豪勇アイアースは、ヘクトールの剣で自らの首を貫いた。
辺りに血が噴出し、彼は砂塵の中に横たわった。彼が倒れたとき、辺りの黒い地面が大きく呻いた。
(アイアースはヘクトールと一騎打ちをした際、日没で勝負なしとなったためお互いに贈り物をし、
彼から剣を贈られていた。『イーリアス』第七歌)

 アイアースが倒れたのを見たアカイア勢は仰天し、その周りに駆け寄った。
そして、彼がこときれているのを確認すると、一斉に号泣した。
 アイアースの弟テウクロスは兄の後を追って自害しようとしたが、周囲の者に止められ、剣を取り上げられた。
彼は遺体の周りを這いずり回り、嘆きながら哀悼の言葉を述べた。
 そしてアイアースの妻、気高いテクメッサも呻いた。彼女は戦争捕虜であったが、アイアースは彼女を正妻につけ、
エウリュサケースという息子をもうけていた。彼女は愛する夫の遺体にすがりつき、埃にまみれた。
そして苦悩にさいなまれて悲鳴をあげ、切々と嘆きの言葉を述べた。
 それを聞いたアガメムノーンは彼女に声をかけ、彼女とその息子の面倒を見ることを約束し、
自らもアイアースの死を悼んだ。
 ラーエルテースの子オデュッセウスも心の呵責に苛まれた。
そして彼は、この悲惨な結末は宿命女神アイサの仕業であり、自らの責任ではないと弁明した。
 一同がなおも泣きむせぶ中、ネーレウスの子ネストールが彼らに語りかけ、
これ以上悲しむのはやめ、死者のためにふさわしいこと、つまり薪の山や塚をこしらえ、彼らの遺体を埋葬するように説得した。

 ネストールの言葉に従い、神にもまがう王たちはアイアースの巨体を運び上げると船陣へと運んだ。
そしてその体を洗い清め、経帷子で包む。
 またイーデーの山から木材を切り出してくると、遺体の周囲に隙間なく積み上げ、周囲に様々なものが置かれた。
丸太や羊、美しく織られた布、牛や馬、黄金、アイアースが獲得した無数の武具。また透明な琥珀も添えられた。
 それから彼らはアイアースの遺体をうやうやしく薪の山の上に投げ上げ、
その周囲に高価な象牙や銀器、香油の壺など素晴らしい品々を並べると、最後に火を放った。
この時海から風が吹いてきたが、これは巨漢アイアースの遺体を焼くために女神テティスが送ったものだった。
 遺体は夜から朝にかけ、そよ風の中で焼かれた。アカイア勢は渚のそばで意気消沈していた。
 やがて火がアイアースの高貴な体を焼き尽くすと、人々は葡萄酒で火を消し、その遺骸を黄金の棺に入れ、
ロイティオン岬の近くに塚を造って納めた。アカイア勢は悲痛に胸詰まらせつつ船へと戻っていった。
彼らはアイアースをアキレウス同様に崇めていたからである。
 その日、アカイア勢は、テラモーンの子アイアースが死んだことでトロイア勢が夜襲をかけてきはしないか、と恐れながら眠りについた。


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