ギリシアVSトロイアの戦闘(第四日、二十一〜二十二歌)


◇第四日、その3(第二十一歌)

 アカイア・トロイア両軍は、不死なる神ゼウスの産んだ渦巻くクサントス河の渡しに達した。
アキレウスは敵勢を真っ二つに割り、その片方は平原へと追われて行く。
ここは前日にヘクトールが敗走するアカイア勢を追ったところ、そこを今度はトロイア勢が敗走していたが、
ヘーラー女神は彼らの逃走を妨害するためその前面に濃い霧を広げた。
残りの半分は追い詰められて激流へと落ち、クサントス河は入り混じる人馬に埋まった。
ゼウスの血を享ける勇士アキレウスは槍をギョリュウの茂みに立てかけ、太刀を抜いて鬼神のごとく河中に躍り込むと、
トロイア勢を当たるを幸い薙ぎ倒し始めた。たちまち数多くの悲鳴が沸き起こり、河水が血に染まって紅くなる。
アキレウスは手が疲れると、戦死したメノイティオスの子パトロクロスの血の償いとして、
河中から生き残った十二人の若者を引き上げて捕縛し、船陣へと連れて行かせた。
そして自らは再び敵へと襲いかかる。

 アキレウスは、プリアモスの子の一人に出会った。
名はリュカオンといい、プリアモスとラオトエの間に生まれた息子で、
かつて自らが夜襲をかけて捕らえ、レムノス島へ売り払った男であった。
彼はアルゴー号の冒険で名高いイアソンの息子、レムノス王のエウネオスに買われ、
さらにインブロス島のエエティオンに請け出されアリスベの町に送られたが、
そこから逃げ出してトロイアへと戻ってきていた。
彼が故地へと戻ってきたのはこの日から十二日前のことであったが、
神は再び彼をアキレウスの手中に陥れたのだった。
 アキレウスは再び彼の姿を見て一瞬当惑したが、ならば今度は自らの槍を試してみようと彼に迫った。
リュカオンは武器防具を全て捨てた全くの無防備だったので、必死で彼に取りすがると命乞いをした。
しかしアキレウスがそれに耳を貸すはずもない。リュカオンが観念したところへ剣の一撃を加え、遺体を河へと投げ込んだ。
 河神はその情景を見て憤り、いかにしてアキレウスに戦いをやめさせトロイア勢を救援するかを思案し始めた。

 アキレウスは、影長く引く槍を振るってペレゴンの子アステロパイオスに襲いかかった。
彼の父ペレゴンはアクシオスの河神とアケッサメノスの長女ペリボイアの間に生まれた子。
アステロパイオスは河の中から二本の槍を振るって立ち向かう。
クサントスの河神は彼の胸に勇気を湧き立たせてやったが、これは河神がアキレウスの所業に憤ったからである。
 駿足の勇将アキレウスはアステロパイオスに声をかけて言った。
「あえてわたしに立ち向かってくるおまえはいったい何者か、いったいどのような出自なのか」
 ペレゴンの優れた息子は答えて言った。
「心猛きペーレウスの子よ、わたしは遥かなる豊沃のパイオニエから、長槍を振るうパイオネス勢を率いてきた者だ。
わたしの家系は広やかに流れるアクシオス河に発する。この河が槍に名高きペレゴンを生み、
そのペレゴンがわたしの父だ。さあ勇名高きアキレウスよ、戦おうではないか」
 アキレウスはペリオンのとねりこの槍を構え、両手利きのアステロパイオスは二本の槍を同時に放った。
それらの一本は楯に当たり、もう一本は右の腕にかすって血をほとばしらせ、地に突き刺さる。
次いでアキレウスが気合を込めてとねりこの槍を投げつけたが、アステロパイオスはこれをかわし、槍は高く切り立った岸に突き刺さった。
ペーレウスの子は腿の脇に吊るした鋭利の剣を抜くとアステロパイオスに躍りかかる。
アステロパイオスは何度もアキレウスの槍を引き抜こうとしたが、岸に半分まで埋まった槍を抜くことができない。
アキレウスはその隙を逃さず、彼の腹を刺して命を奪った。
 アキレウスはアステロパイオスの武具を剥ぎ取り、言った。
「そうやって寝ているがいい。河神の子といえど、神威いと高きクロノスの血を引く者と戦うのは容易なことではないのだ。
何かがあったときおまえには河神がついてくれるであろうが、クロノスの子ゼウスと争うことはできん。
ゼウスには河の王アケロイオス(アケロオス、アイトリア地方を流れてイオニア海に注ぐギリシア一の大河)も太刀打ちできぬ、
いや、深く流れる強大なオケアノスですらだ。全ての水の源オケアノスも、ゼウスの電光と雷鳴に恐れおののくのだから」
 そして河の切岸から槍を引き抜くと、彼の遺体はそのままにその場を立ち去った。
ほどなくアステロパイオスの遺体を水が覆い、魚たちがその身に群がった。

 アキレウスは戦車を備えたパイオネス勢のあとを追う。アステロパイオスが討たれたのを見た彼らは算を乱して逃げていったが、
アキレウスはそれに追いすがるとテルシロコス、ミュドン、アステュピュロス、ムネソス、
トラシオス、アイオニス、オペレステスらを討ち取っていった。
 ここで、たまりかねた河神が人間の姿をとって深い渦の中から声をかけ、これ以上の殺戮をやめるようアキレウスに命じたが、
アキレウスはそれを聞き入れずに再び河に入ってトロイア勢に襲いかかる。
 これを見て怒った河神は激流を起こして屍を押し流し、陸地へと放り出した。
また生きている者は大渦に隠し、アキレウスの周囲には大波を沸き立たせて押し流そうとした。
アキレウスは河から出ようとしたが、河神はそれを許さない。
 駿足のアキレウスは黒鷲の翔けるごとき勢いで大波を飛び越え、波をかわしつつ必死で走るが、
河は轟音を上げて追いかけてくる。いかにアキレウスが駿足とはいえ、神の力には及ばない。
アキレウスは天を仰ぎ、ゼウスの助力を祈った。
 するとすぐさまポセイドンとアテネが人間の姿をとって彼に近づき、その手をとって彼を安心させるべく声をかける。
ポセイドンが言った、
「ペーレウスの子よ、怯えるな。ここにわしとパラス・アテネがおるぞ。この河はすぐに鎮まる。
さて、ひとつ忠告しておこう。トロイア勢をイーリオンの城壁の中へ閉じ込めるまでは、戦から手をひいてはならん。
おまえはヘクトールの命を奪ってから船陣へ引き揚げよ。そのとおりわれらが取り計らってやるからな」
 二人の神はそう言って立ち去った。アキレウスはパラス・アテネに力を吹き込まれ、勇躍足を速めて平野へ向かう。
平野も川より溢れ出た水で覆われ、遺体や武具が浮いて漂っていた。
アキレウスは荒れ狂う水を一気に突っ切り、スカマンドロス神もそれを追う。
 河神はさらに怒ってシモエイス河神に声をかけ、シモエイス河神もさらに大波を立ててアキレウスを襲った。

 この情景を見てヘーラーはアキレウスの身を案じ、息子のヘパイストスに声をかけた。
「足萎えの神よ、奮起しなさい。わたしたちは、おまえには渦巻くクサントスがよい相手だと思っていたのだよ。
さあ、アキレウスを助けるために凄まじい炎を立てるのです。
わたしはこれから出て行って、西風と白く輝く南風を海から烈しく吹き荒れさせます。
風は炎を四方に運び、トロイア勢の遺体や武具を焼き尽くすでしょう。
おまえはクサントス河岸の木々を焼き、河も火で包んでやりなさい。何があろうと絶対に引き返すのではありませんよ。
わたしが合図するときまでね」
 ヘパイストスは即刻炎々たる火を起こし、平原の遺体を焼く。平原はたちまち乾き、水の流れも止まった。
神はさらに炎を河へと向ける。河岸の楡や柳やギョリュウ、ウマゴヤシ、イグサ、かやつり草はたちまち燃え上がり、
水中の鰻や魚も苦しんで飛び跳ねる。豪力無双の河も焼かれ、ヘパイストスに炎を止めてくれるよう頼んだ。
さらにヘーラーにも哀願し、自分はもうトロイア方には味方しないと誓った。
 それを聞いたヘーラーはヘパイストスに炎を止めさせた。

 ヘパイストスとクサントスが対決したのを皮切りに、他方で次々と神々同士の戦いが始まった。
まず楯を裂くアレスがアテネに躍りかかる。彼女がディオメデスの手を借りて自分を傷つけさせたのを根に持っていたからである。
アレスはアテネを罵って槍を突き出したが、アテネはこれを総の垂れたアイギスで受けると、
原に落ちていた黒い大石を拾い上げ、アレスに投げつけた。
石はアレスの頸に命中し、アレスは大地にのびてしまう。その姿を見てパラス・アテネは勝ち誇った。
 アプロディーテーはアレスを曳いていこうとしたが、アレスはまだ正気に戻らない。
それに気づいたヘーラーが、後を追えとアテネに命ずる。
アテネはすぐにアプロディーテーに追いつくと、逞しい手でアプロディーテーの胸をひと打ちした。
アプロディーテーはアレスとともに大地に倒れる。アテネは言った。
「トロイア勢に加勢する者どもがアルゴス勢と戦うとき、皆こうであったらよいのだが。
今アプロディーテーがアレスを助けんとわたしに立ち向かったような剛毅の者ばかりであったなら、
われらはとっくにイーリオンの城を攻め落としていただろうに」
 そう冗談を言うと、腕の白き女神ヘーラーはにっこりと笑った。

 一方、大地を揺るがす神ポセイドンはアポロンに向かって言った。
「ポイボスよ、われら二人が手をこまねいていてよいものか。
他の者はみな戦いをはじめているのに、わしらだけこうしていてはさまにならぬ。
このままオリュンポスに帰ることになれば、何という恥辱になることか。
さあ、おまえからかかってこい。おまえは若いからな。年上のわしが先手を取るわけにもゆかぬ。
しかし、おまえはなんという愚か者であることか。
われら二人が、イーリオンでどれほどいやな目にあったか覚えてはおらぬのか。
われらはゼウスの命でラオメドンに雇われ、一年間働いた。
わしはイーリオンの町の周りに城壁を築き、おまえはイデの山で牛の世話をしていた。
しかし一年後、非道のラオメドンは賃金の約束を一切反故にし、われらを脅して帰そうとした。
わしらは遺恨の心を胸に引き揚げたが、おまえはそのラオメドンの民に親切を尽くし、
わしらと組んでトロイアを滅ぼす気にはならんのだな」
 遠矢を放つ神アポロンは答えた。
「大地を揺るがす神よ、人間どものためにわたしがあなたと戦うようなことがあれば、
わたしは正気の者とは思われないでしょう。いっときの栄華の後はかなく滅びてゆく人間のために・・・
われらはもう戦うのはやめ、あとは人間どもの戦うにまかせましょう」
 そしてその場を立ち去ったが、
そのアポロンの前に姉神(通常は妹とされる)である野獣の女王、狩りを好むアルテミスが立ち、
ポセイドンと干戈を交えなかったことをはげしくなじった。
 アポロンは何も言わなかったが、それを聞きつけたヘーラーは、矢を雨と降らす女神を激しく叱りつけ、
相手の両の手首を左手でつかんで右手で弓矢を奪い取り、それで相手の耳の辺りを笑いながら打ち続けた。
アルテミスは弓矢を残したまま、泣きながら逃げ出す。
 このとき、神々の使者、アルゴス殺しの神ヘルメスはレートー女神に言った。
「レートーよ、わたしはあなたと戦う気はありません。
どうか神々の前で、わたしを力でねじ伏せてやったと自慢してください」
 レートーは、あちこちに散乱している娘アルテミスの弓と矢を拾い集め、引き揚げていった。
 アルテミスはオリュンポスでゼウスに泣きついたが、ポイボス・アポロンはイーリオンの町に戻った。
他の神々は全員オリュンポスに引き揚げる。

 老王プリアモスは城壁の櫓からアキレウスの巨躯を目にし、次いで敗走してくるトロイア勢を見た。
プリアモスは櫓を降り城門へ急ぐと、城門を開き味方を引き入れるように命ずる。
兵士たちはすぐさま閂を外し、城門を開いた。
同時にアポロンも、トロイア勢の破滅を防ぐべくアキレウスのもとへと向かう。
 トロイア勢はほうほうの体で町を目指し走っていたが、アキレウスは槍を振るって激しく追撃した。
アポロン・ポイボスはアンテノールの子、剛勇たぐいなき勇士アゲノールの胸に勇気を打ち込み、
さらに彼を死から守るために濃い霧に姿を隠し、その側に付き添う。
 アゲノールはアキレウスの姿を見ると、その胸のうちが千々に乱れた。
イーリオンへ逃げるべきか、それともここは身を隠して、日暮れの後町へ戻るか。
しかし、いずれにせよ駿足のアキレウスより逃れることはできないだろう。
ならば、と開き直ってアキレウスを堂々と迎え撃つことにした。
 アゲノールは槍を構え、アキレウスに向け言い放った。
「勇名轟くアキレウスよ、おまえは今日、誇り高きトロイア人の町を落とせるものと思っているだろうが、
笑止千万。町を取るにはまだまだ多くの苦難が待ち構えているぞ。町にはまだ多数の勇士がいて、
親や妻子の前に立ち、イーリオンの城を守っているのだ。
おまえがいかに恐るべき戦士であろうと、ここで最期を遂げることになる!」
 そして鋭利の槍をその逞しい腕から放つ。槍はあやまたず膝の下の向こう脛に命中したが、
ヘパイストス神の鍛えた脛当てはそれを完全にはね返した。
次いでペーレウスの子が神に見まがうアゲノールに襲いかかるが、ここでアポロンがアゲノールを攫って深い霧に隠し、
戦場の外へと置く。そして遠矢の神はアゲノールの姿となり、自らおとりとなってアキレウスを戦場から引き離した。
その間にトロイア勢は我先に城門の中へと雪崩れ込んでゆく。


◇第四日、その4(第二十二歌)

 トロイア勢は町へ逃げ帰ると、胸壁にもたれながら飲み物をとり、喉の渇きと疲れを癒した。
アカイア勢はトロイア勢を追って城壁へと迫る。
 アゲノールの姿をとってアキレウスを引きつけていたポイボス・アポロンは、この時ペーレウスの子に声をかけ、
自らの正体を明かした。アキレウスは恨み言を述べ、町へと向かう。
 老王プリアモスはアキレウスの姿を認めた。その姿は、収穫時に現れる「オリオンの犬」と呼ばれる星のごとく光り輝いていた。
この星はあらゆる星の中で最も明るく、また凶兆でもあった(この星の名はセイリオス、おおいぬ座のα星シリウスのこと)。
 プリアモスは、城門の前でアキレウスと戦おうと気負っているわが子ヘクトールに呼びかけ、戦わぬようにと懇願する。
この日の戦いでもリュカオンとポリュドロスが町へ帰ってこず(二人ともアキレウスに討たれた)、弱気になっていたのだ。
その妻ヘカベーも、戦いに出てはならぬと息子を説得したが、ヘクトールは耳を貸さずにアキレウスを待ち受ける。
 しかし、そのヘクトールも心中は思い悩んでいた。
(自分がこのまま城壁の中に入れば、プリュダマスが真っ先に自分を責めるであろう。
アキレウスが立った時、夜のうちにトロイアへ引き揚げるべきだと進言したのは彼なのだから。
しかしわたしはそれに耳を貸さなかった、そうしたほうがどれほどよかったかわからぬのに。
わたしの思い上がりで兵士たちを失った今、わたしはトロイアの人々に合わせる顔がない。
ならば一騎打ちでアキレウスを討ち取って帰るか、でなくば彼の手にかかって城の前で雄々しく散ったほうがましだ。
それとも武器を置いてアキレウスに会いに行き、ヘレネーと、アレクサンドロス(パリス)が持ち帰った財宝の一切を返還し、
また、この町の資産をアカイア勢と分け合うという誓約を取りつけ――いや、何を考えているのだ、わたしは。
そのようなことをすれば、彼は憐れみもせず、すぐさま丸腰のわたしを惨殺するであろう。
さあ、一刻も早く刃を交えに行こう、オリュンポスの主はわれらのどちらに手柄を立てさせるか、それを見てみよう)

 その間にもアキレウスは、ケイローンより送られたペリオン山のとねりこの槍を振り回しつつ迫ってくる。
その姿は軍神エニュアリオスのごとく、青銅の武具は燃える火、日輪の輝きのごとく照りわたり、
それを見たヘクトールはたちまち戦慄し、背後の門を離れて逃げ出した。ペーレウスの子は駿足を飛ばして追いかける。
 二人は追いつ追われつ走り続け、やがて渦巻く河スカマンドロスの水源である二つの泉に着いた。
これらの泉、ひとつは温かく湯気を発する水が、もうひとつは凍るほど冷たい水を湧き出し、周囲には洗い場があった。
二人はそこも駆け抜け、やがてプリアモスの町の周囲を三たび廻った。
 それを見ていた神々のうち、人と神との父なる神が口を開いた。
「わしの可愛がっている男が城壁の周りを追い回されている。わしには彼が憐れでならぬ、
彼はイデの山頂で、また城の頂でわしのために多数の牛の腿を焼いて捧げてくれた者だからな。
神々よ、よく思案してほしい。彼を死から救ってやるか、それとも、惜しいことだが、ペーレウスの子アキレウスに討たせるかを」
 これを聞いた眼光鋭く輝くアテネはゼウスに向かって言った。
「白熱の雷を揮い黒雲を集める父神よ、なんということを仰られます。
死すべき人間で、すでにその運命の定まった者を救おうというお考えですか。
どうぞお好きになさいませ、しかしわれらはそれには賛成いたしかねます」
 雲を集めるゼウスは言った。
「気にするなトリトゲネイア、可愛い娘よ、本気で言ったわけではないのだ。
そなたには優しくありたいと思っているぞ。好きなようにするがよい、遠慮はいらぬ」
 女神はそれを聞くと、矢のごとくオリュンポスの峰を降りていった。

 駿足のアキレウスはヘクトールを休みなく追い続けた。ヘクトールはどうしてもアキレウスから逃げ切ることができない。
ダルダノス門へ向け突進しようとしても、アキレウスが素早く先手を取って平野の方へ追い返す。
アポロンはヘクトールに力を吹き込んで膝の動きを速くしてやったが、これが彼への最後の神護であった。
 勇猛のアキレウスは自分以外の何者かが功名を得ることを厭い、味方に飛び道具を放つことを禁じた。
二人が四たび二つの泉のところにやってきた時、父神は黄金の秤を拡げてアキレウス、ヘクトールの死の運命を載せ、
真ん中を持ち上げた。すると、ヘクトールの運命の日が下へ垂れて冥王の館へと向き、
ポイボス・アポロンもヘクトールを離れて去った。
 眼光輝くアテネはペーレウスの子に近づき、翼ある言葉をかけて言った。
「ゼウスの寵を受け、勇名轟くアキレウスよ、今こそわれらはあのヘクトールを討ち取り、大功名を船陣へ持ち帰ろうぞ。
今となっては、たとえ遠矢を放つアポロンがアイギス持つ父神ゼウスの前に這いつくばって嘆願したとて、
彼はわれらの手から逃れることはできぬ。
なれば、おまえは走るのをやめて一息ついているがいい、わたしが彼のところに行って、
一騎打ちの勝負をする気にさせてこよう」
 アキレウスはアテネの言葉を聞いて喜び、それにしたがって立ち止まり、とねりこの槍にもたれて立った。
女神はヘクトールを追い、プリアモスの子デイポボスの姿をとると彼に翼ある言葉をかけて言った。
「兄者よ、駿足アキレウスは三たび城の周りを追い回し、兄者をひどい目に遭わせましたな。
さあ、われらはここに踏みとどまって彼を待ちうけましょう」
 ヘクトールはそれに答えて言った。
「わが兄弟デイポボスよ、わたしのためにあえて城壁の外に出てきてくれたのか。他の者は誰一人として出てこぬというのに」
 眼光輝く女神アテネは言った。
「確かに父上(プリアモス)も母上(ヘカベー)もわたしの膝にすがって出て行かぬようにとお頼みになった、そして戦友たちも。
それほど皆恐れおののいているのです。
しかし、わたしの心は、兄者の身を思うと辛い思いに耐えられませんでした。
さあ、敵に向かって戦いましょう。槍の数など惜しみません。
アキレウスがわれら二人を討ち取るか、それともあなたの槍に倒れるか、見てみようではありませんか」
 アテネはこう言ってヘクトールを欺くと、彼に先立って進んでいった。

 両者が接近すると、輝く兜の大ヘクトールが先に口を切って言った。
「ペーレウスの子よ、もはやわたしは逃げたりはせぬぞ。今はおまえに真っ向から立ち向かう勇気が湧いてきたのだ。
そこでわれら双方とも、神々に立会いをお願いしようではないか。
幸いにもゼウスがわたしに武運を下さりおまえの命を奪うことになっても、おまえの遺体に無残な恥辱を与えることはせぬ。
おまえの高名な武具を剥ぎ取ったあとは、その亡骸はアカイア勢に返そう。おまえのほうもどうかそのようにしてくれ」
 駿足のアキレウスはヘクトールを睨みつけて言った。
「憎んでも余りあるヘクトールよ、わたしに向かって取り決めなどとほざくな!
獅子と人間の間に堅い誓いなどなく、狼と子羊が心を通わせることなどない。常に互いに悪意を抱いているのだ。
それと同じくわたしとおまえが親密になることはありえぬし、どちらかが死ぬまではわれらの間に誓いなど立てられるものか。
さあ、身につけたあらゆる武芸を思い出せ。今こそおまえは勇士としての面目を示さねばならぬ。
もはや逃げ隠れはならんぞ、間もなくパラス・アテネがわたしの槍でおまえを倒されるであろう。
おまえが槍でしとめた幾多のわが戦友たちの悲しみを、今、まとめて償うこととなるのだ」
 そう言うなり影長く曳く槍を放ったが、ヘクトールはそれを見極めてかわす。
青銅の槍は地面に刺さったが、パラス・アテネがそれを引き抜いてアキレウスに返してやった。
それはヘクトールの目には止まらなかった。
 ヘクトールはペーレウスの子に向かって言った。
「仕損じたな、神々にも似たアキレウスよ。おまえは、わたしの寿命のことをまだゼウスから聞き知ってはいなかったようだ。
口からでまかせを言ってわたしを恐れさせようとするとは、とんだいかさま師だ。
さあ、わたしの槍をかわしてみよ。この槍をおまえの身で受けてくれれば、トロイア勢も戦いが楽になろうな」
 そして影長く曳く槍を放つ。それはペーレウスの子の楯の中央に当たったが、槍は大きくはね返った。
仕損じたヘクトールは代わりの槍を求めて振り返ったが、何としたことかデイポボスの姿はそこにはなかった。
 全てを悟ったヘクトールは言った、
「何ということか、神々はわたしを死へと呼び寄せられたのだ。アテネがわたしを騙されたのだ。
今や恐るべき死が目の当たりに迫った。ゼウスも、その御子なる遠矢の神も、今まではわたしを守っていてくださったのに、
実は最初からこうされるおつもりだったのだろう。いよいよわたしの最期の時だ。
ならばせめて、見苦しい死に様ではなく、後の世にも語り継がれる働きをして死のう」
 ヘクトールは腰の脇に吊るした太刀を抜き放つと、鷲のごとき勢いでアキレウスに襲いかかった。
アキレウスも胸の前に楯をかざし、槍を構えて突き進む。
アキレウスは相手の隙を探した。ヘクトールの身は、豪勇パトロクロスを討って得た、もとはアキレウスの青銅の武具に覆われていたが、
ただ喉笛だけが露になっていた。アキレウスは、襲いかかってくるヘクトールのその部分へと槍を撃ち込んだ。
ヘクトールは、喉を切り裂かれて砂塵の中に倒れる。
しかしアキレウスの槍先は、彼がまだ話せるよう計らったのかのように、気管だけは切り裂いていなかった。

 勇将アキレウスは勝ち誇って言った。
「ヘクトールよ、おまえはパトロクロスを討って安心したかもしれぬが、
船の脇には、おまえよりも遥かに強い彼の助太刀が後に残っていたのだ、
おまえの膝を折ったこのわたしがな。
おまえの身は、野犬・野鳥がたかって無残に食いちぎるだろうが、
パトロクロスはアカイア勢が手厚く葬るであろう」
 輝く兜のヘクトールは弱々しく答えて言った、
「おまえの命と膝と、ご両親にかけて頼む。どうかわたしを野犬たちに食いちぎらせることはやめてくれ。
その代わり、わたしの父と母がおまえに払うに違いない多額の青銅と黄金を受け取り、
わたしの遺体はトロイア人が火葬に付してくれるよう、わたしの家へと還してやってもらいたい」
 駿足のアキレウスはこれを睨んで言った。
「恥知らずの犬め、わたしや両親にかけて哀願するのはよせ。
わたしは、この胸にたぎる憤激の気持ちがこの身を駆り、おまえを切り裂き生のままで食わせてくれたらどんなによかろうと思う、
あれほどの罪を犯したのだからな。この気持ちは、おまえの首を野犬から守る者など一人もいないことが確かなように、
何の嘘偽りもない。たとえおまえの両親が莫大な身の代を支払おうとも、
プリアモスがおまえの身と同じ重さの黄金でおまえの遺体を引き取りたいと願おうと、
おまえの母が自分の腹を痛めて生んだおまえを床に寝かせ、泣いてくれるような事には決してなるまい。
おまえの身は野犬野鳥が残らず食い尽くすのだ」
 ヘクトールは息も絶え絶えに言った。
「おまえがどういう男か、その顔を見ればよくわかる。そもそもおまえに頼みを聞いてもらおうというのが無理なことだった。
おまえの心は鉄のようなのだから。しかし、考えておくがいい、
いずれこのわたしが、おまえが神々から怒りを買う原因になるかもしれぬということを。
パリスとポイボス・アポロンが、スカイア門の辺りで、おまえを・・・いかに豪勇の士とはいえ・・・
討ち取る日のことだが――」
 そこまで言った彼を死の終わりが包み、その魂は四肢を抜けて飛び去り、冥王の館へと向かった。
勇将アキレウスは息絶えたヘクトールに向かって言った。
「死ぬがいい。その時が来れば、わたしはその運命を甘んじて受けよう」
そして遺体から青銅の槍を引き抜いて傍らに置くと、血塗れの武具を剥ぎ取る。
 ほかのアカイア勢も周りに駆け寄り、ヘクトールの偉容に皆感嘆したが、
今までの恨みも籠めて槍の一刺しを加えることも忘れなかった。
「ヘクトールも、船に火を放ったころに比べれば随分扱いやすくなったものだ」
 彼らはこう言いながら、その屍を次々に刺していった。

 駿足の勇将アキレウスはヘクトールを討ち取ったことをアカイア勢に宣言し、
ヘクトールの遺体を運んで船陣へ引き揚げることにした。
 アキレウスはヘクトールに無残な仕打ちを加えようとし、両脚の後ろの腱、踵から踝にかけて穴をうがち、
これに牛皮の紐を通して戦車にくくりつけ、頭が引きずられていくようにした。
自らは戦車に乗って武具を積み込み、鞭を加えて走らせれば、二頭の馬は勇躍飛ぶように走ってゆく。
ヘクトールが曳かれてゆくにつれて土煙が上がり、その頭の黒髪はばらばらに乱れ、その秀麗な頭は砂塵にまみれた。
 城からその情景を見た母ヘカベーと父プリアモスは半狂乱になって激しく嘆いた。
トロイア全市もヘクトールを悼んで叫び、悲しんで泣いた。その様は、あたかもイーリオンの町全体が焼け落ちるごとくだった。
プリアモスはダルダノス門を飛び出そうとして町の者たちに必死で押しとどめられ、
ヘカベーはなおもトロイアの女たちとともに哀哭していた。
 ヘクトールの妻アンドロマケーは館の奥におり、未だ夫の死を知らなかったが、
城壁のほうから聞こえてくる悲痛な泣き声を聞いて恐怖にとらわれると、狂ったように屋敷を飛び出した。
そして城壁の櫓に登って辺りを見回し、夫が町の前を引きずってゆかれる無残な有様を目の当たりにした瞬間、
気を失って仰向けに倒れた。
 やがて彼女は正気に帰ると、わが子アステュアナクスの行く末とともに夫の死を激しく嘆いた。


戻る