ギリシアVSトロイアの戦闘(第四日)その1


◇第四日、その1(第十九歌)

 クロッカス色の衣をまとう暁の女神は、神々と人間たちに光をもたらすべくオケアノスの流れから立ち昇った。
テティスがヘパイストスからの授かり物を携えて船陣へ戻ってくると、
折しも息子はパトロクロスの遺体にすがり声を上げて泣いているところ、その周囲では多数の戦友たちも悲しみの涙にくれていた。
 高貴の女神はその中に入るとわが子の傍らに立ち、その手をとって優しく語りかけて言った、
「息子よ、辛いけれどこの男はこのままそっと寝かせておきなさい。彼が討たれたのは、そもそも神々の思し召しだったのだから。
おまえはヘパイストスから賜った立派な武具を受け取りなさい。これまでいかなる男も身につけたこともない、
それは見事な品なのですよ」
 女神が武具をアキレウスの前に置くと、絢爛たる造りの武具は音立てて鳴り響いた。
神の鍛えた武具の響きにその場のミュルミドーン人たちは戦慄し、震えながら後ずさりする。あえてそれらを直視するものは一人もない。
 アキレウスはその武具を見ると憤怒が胸に湧き、その両目が火焔のごとく燃え立った。
彼はしばらく神から授かった輝かしい賜物を嬉しげに手にしていたが、それから母に向き直って言った。
「母上、神が授けてくださったこの武具は、不死なる神々の細工に相応しく、死すべき人間の造れるものではありません。
早速これを身につけて出陣の用意をいたします。
しかし心配でならぬのは、蝿どもがメノイティオスの倅の傷口から中へ入り込み、
蛆虫を産みつけて遺体を傷めはせぬかということです」
 銀の足の女神テティスは答えて言った、
「息子よ、そのようなことを心配せずともよい。蝿どもからはわたしが心して遺体を守ろう。
たとえ一年あのまま寝かしておいても、肌はいつまでもそのまま、いやさらに美しくなるかもしれぬ。
おまえはアカイアの諸将を集め、軍勢の牧者アガメムノンへの怨恨を断ち、直ちに出陣の用意を整えなさい」
 女神はわが子に不屈の勇猛心を吹き込んでやると、パトロクロスの遺体にはアンブロシアと赤いネクタルとを鼻腔から体内に垂らしてやった、
その身が傷まず、変わらぬように。

 勇将アキレウスは凄まじい声で叫びながら海辺を闊歩し、アカイアの勇士たちを叩き起こした。
アキレウスが姿をあらわしたと知り、アカイア勢の全ての者――船の舵取りや食料配給役の者さえも――集会の場に集まった。
戦場では一歩も退かぬテューデウスの子ディオメデスと名将オデュッセウスもまだ重い傷が癒えていなかったが、
集会場の最前列に腰を下ろした。
最後に総帥アガメムノンが現れた。彼も激戦の中アンテノールの子コオンの槍に刺され手傷を負っていた。
 全員が集まると、駿足のアキレウスは立ち上がって言った。
「アトレウスの子よ、われら二人がひとりの若い女ゆえにいやな思いをし、心を蝕み争っていたのは互いにとってよかったのだろうか。
あの女はむしろ、わたしがリュルネソスを陥として自分のものにしたその日に、船の上でアルテミスが射殺してくださればよかったのだ。
そうすればあれほど多くのアカイア人がこの地の土を噛むことにはならなかった、それもみなわたしが腹を立てたのが原因なのだ。
ヘクトールめやトロイア方には都合のよいこととなったわけだが、アカイアの面々はわたし達の争いをいつまでも忘れないだろう。
しかしすでに起こってしまったことは辛いことではあるが済んだこととし、今はやむを得ぬ事情ゆえ忘れることにしよう。
わたしは今ここで怒りを収めることとする。わたしがいつまでも腹を立てていてはならぬのだ。
だからあなたはすぐに髪長きアカイア勢を戦に駆り立てていただきたい。
わたしも以前と同様トロイア勢に立ち向かい、彼らが船陣の側で夜を過ごす勇気があるかどうか試してみたい」

 これを聞いた脛当良きアカイア勢は、豪勇アキレウスが怒りを収めたと聞いて喜んだ。
しかし総帥アガメムノンは自分の席に留まったまま一同に向かって言った、
「アレスに仕えるダナオイ勢の勇士たちよ、立って弁ずる人の話の途中で口を差し挟んではならぬ。
わしはこれからペーレウスの子に自分の心を明かすつもりだ、心して聞いてほしい。
この件については今までもさんざんアカイアの面々がわしを責めたものだったが、
その責めはわしではなく、ゼウスならびに運命女神(モイラ)、そして闇行くエリニュス(復讐の女神)にある。
その方々があの日、集会の場でわしの胸中に無残な迷妄(アーテー)を打ち込んだのだ。
だがわしにどうすることができたろうか、神はいかなることもし遂げられてしまうのだから。
アーテーはゼウスの尊い姫君で、いかなる者をも迷わす恐ろしい女神。あのゼウスですら、惑わされたことがあったではないか・・・」

 テーバイの町で、アルクメーネーが豪勇ヘラクレスを産むことになっていた日、ゼウスは神々の前で誇らしげに言った。
「今日、出産の女神エイレイテュイアが、近隣の民をことごとく統べることになる男子を光の中にあらわす。
これはわしの血筋の一族の一人だ」
(アルクメーネーはペルセウスとアンドロメダの子エレクトリュオンの娘で、
その夫アムピトリュオンもペルセウスとアンドロメダの子アルカイオスの子。
ペルセウスはゼウスとダナエーの間に生まれた。ただしヘラクレスはゼウスとアルクメーネーの間の子)
 これを聞いたヘーラーは、企みを込めてゼウスに言った。彼の度重なる浮気に、怒り心頭であったので。
「まあ、またいい加減なことをおっしゃいますこと。でも本当でしたら、オリュンポスの主よ、
わたしに固く誓ってくださいませ。今日この日、女の足の間に落ちる御子、あなたの血筋を引く一族の一人は、
将来必ず近隣の民をことごとく統べるようになるということを」
 ゼウスはヘーラーの企みに少しも気づかずに大いなる誓いを立ててしまい、かくて甚だしい迷妄に陥ってしまった。
 ヘーラーは素早くアルゴス・アカイイコンへ向かった。
そこではペルセウスの子ステネロスの妻が身ごもっており、七ヶ月目に入っていた。
ヘーラーは月足らずのその子を日光の中へ引き出し、アルクメーネーのほうは出産の女神たちを抑えて、
その出産を止めてしまった。
 ヘーラーはゼウスに言った。
「あなたの血筋、ペルセウスの子ステネロスに今日、立派な男子エウリュステウスが生まれました。
アルゴス人の王として恥ずかしからぬ者となりましょう」
 これを聞いてゼウスは鋭い痛みに胸を刺され、やにわに髪艶やかな迷妄女神アーテーの頭を掴むと、
万人を惑わすアーテーは再びオリュンポスと天空には来てはならぬと言い渡し、
ぶんぶんと振り回すとそのまま天空から投げ落とした。女神は人間の耕す畑に落ち、以後、迷妄は人間の属性となった。
 ゼウスは、ヘラクレスがエウリュステウス王の難業を果たすために苦労を重ねるのを見るたびに、アーテーの仕業を嘆いた。
 アーテーの落ちたところはアーテーの丘と呼ばれ、のちにダルダノスの裔イーロスがこの地にイリオンの町を建てた。

 「・・・それと同様、わしも輝く兜の大ヘクトールが船のあたりでアルゴス勢を打ち倒している時には、
先にわしを惑わせていたアーテー女神のことを忘れることができなかった。
しかし今となっては、過ちの償いをし莫大な補償をしたいと思っている。
そなたは戦いに立ち上がり、他の将兵も決起させてくれ。わしは、昨日名将オデュッセウスがそなたを訪ね、
陣屋の中で約束した品々をすべて贈る腹を決めている。そなたは戦いに気が急いておろうが、
しばらく待ってくれれば、その品々をわしの船から持参させよう」

 駿足のアキレウスは答えて言った。
「誉れ最も高きアトレウスの子、総帥アガメムノンよ、その品々については、わたしに下さるも手元にとどめ置かれるもあなた次第。
それよりも今は戦いのことを考えるべきです」
 これに答えて知謀豊かなオデュッセウスが言った、
「神にも見まがうアキレウスよ、あなたは豪勇の士ではあるが、アカイアの子らを空腹のままトロイア勢と戦わせ、
イリオンへとそのように急きたてるのはやめてほしい。ひとたび戦端が開かれれば、戦いはすぐには終わるまいからな。
むしろ船の傍らで食事と酒をとるように命じてほしい、そうすれば彼らにも力と勇気が湧いてこよう。
また、王には、アルゴス勢の間に立って、決してあの女の臥所に入って肌に触れたことはないと誓ってもらいたい。
それであなたも心を和らげてほしい。その後で、アガメムノンにはあなたへの罪滅ぼしのため、陣屋でもてなしてもらわねばならぬ。
さて、アトレウスの子よ、あなたは今後、他の者に対しもっと公平に対してほしい。
先に乱暴な仕打ちをしたほうが相手に償いをするのは当然で、それを周りからとやかく言われることはないのだから」
 総帥アガメムノンは言った、
「ラエルテスの子よ、よくぞ言ってくれた。わしはそなたの言うとおりに誓いたいと思う。神かけて偽りの誓いはせぬぞ。
アキレウスよ、気は急くだろうがしばらく待ってもらいたい。他の者たちもしばしここに留まり、われらの誓いを見届けてほしい。
オデュッセウスよ、若者たちとともに昨日わしがアキレウスに贈ると約束した品々を運び、女たちを連れてくるよう手配してくれ。
そしてタルテュビオスよ、ゼウスと陽の神に捧げるための猪一頭を至急用意させてくれ」
 しかし駿足のアキレウスはなおもすぐに出陣するように一同を急きたてた。オデュッセウスはようやくそれを説得すると、
勇名轟くネストールの息子たち、またピューレウスの子メゲス、ならびにトアス、メリオネス、
さらにクレオンの子リュコメデス、メラニッポスに随行を命じ、アガメムノンの陣屋に向かった。
 オデュッセウスたちは間もなく、集会場にアキレウスへの品々を運んできた。
三脚釜七個、輝く釜二十、馬十二頭、十タラントンの黄金、そして八人の女。この中には頬麗しきブリセイスもいた。

 アガメムノンは立ち上がり、その声は神にも劣らぬタルテュビオスが猪を抱えてその傍らに立つ。
アトレウスの子は短剣を抜き放つと、供儀の手始めに猪の頭の毛を刈り、ゼウスに向かって手を差し伸べ祈願した。
アルゴス勢は一言も発せずその祈願に聞き入る。
 アガメムノンは広大な天に目を向けながら祈願して言う、
「まずは最高最強の神ゼウスよ照覧あれ、また大地女神(ゲー)、陽の神(ヘリオス)、
さらには地下にありて、偽誓したる人間を罰せられるエリニュスの神々もまた。
わたしは愛欲、またその他のいかなる理由によろうと、娘ブリセイスに指一本触れたことはありません。
娘は清い体のままわたしの陣屋にありました。もしこの誓いに偽りあらば、神々よりいかなる苦難を加えられても厭いませぬ。
神々に偽誓の罪犯した者が蒙るあらゆる処罰でも」
 こう誓うと猪の咽喉を切り裂き、タルテュビオスはそれを振り回すと、灰色の海の深みへと放り投げた。
 アキレウスは立ち上がり、アルゴス勢の間で言った。
「父神ゼウスよ、あなたはなんという凄まじい迷いを人間どもに下されたことか。
そうすればアトレウスの子もわたしの胸に怒りを掻き立てることもなく、強引に娘を連れて行くこともなかったでしょう。
ですがゼウスは望まれたのでしょう、多くのアカイア人が死ぬということを。
さあ皆の者、食事にかかってくれ!これから戦いを始めるために」

 集会は散会し、一同はめいめいの船に散っていった。勇猛ミュルミドーン勢は贈られた品々をアキレウスの陣屋へと運んでいく。
品々は陣屋へおさめ、女たちは座らせ、馬は従兵たちが他の馬の群れの中へと追い立てていった。
 この時ブリセイスはパトロクロスの遺体に取りすがり、彼が生前に自分を優しく扱ってくれたことについて語りつつ涙にくれた。
ほかの女たちもそれに和したが、こちらはパトロクロスへの嘆きにかこつけて自らの境遇を嘆いていた。
 アカイアの長老たちはアキレウスに食事をとるよう勧めたが、彼は日没までは一食もとらぬとそれをはねつけた。
アトレウスの二兄弟、名将オデュッセウス、ネストールにイドメネウス、馬を駆る老ポイニクスは彼を慰めようとそこに残ったが、
彼の心は戦場に躍り込むまでは晴れるものではなかった。彼は在りし日を思い、深く溜息をついて言った。
「ああ、不運な男よ、最愛の戦友よ。かつてはそなたまで立ってわたしにうまい飯を食わせてくれたというのに、
今、おまえは切り裂かれたその身を横たえ、わたしは亡きおまえを慕う心に満たされ、目の前の酒にも飯にも手がつかぬ。
わたしはこれより辛い思いをすることはあるまい、たとえ父上が亡くなられたと聞いたとしても、
スキュロス島で育つわが子ネオプトレモスの悲報に接したとしても。
わたしはひそかに願っていた、ここトロイアの地で果てるのはわたしだけでよい、おまえには無事プティアへ帰還してほしいと。
そうすればわたしの子を快速の黒い船に乗せてスキュロス島から連れ帰り、わたしの資産、召使たち、広い屋敷などを
ひとつひとつ見せてやってくれるだろう、と。父ペーレウスはすでに亡くなってしまっているかも知れぬし、
そうでなくとも老齢に打ちひしがれ、わたしについての凶報に怯えながら悲しみに暮れておられると思うからだ・・・」
泣きながらこう言うと、長老たちも国許に残してきたそれぞれのことを思ってもらい泣きした。

 一同が悲しむのを見てクロノスの御子は憐れみを催し、アテネに翼ある言葉をかけて言った、
「娘よ、そなたはあの男をすっかり見限ってしまったのか。アキレウスのことをもはや気にかけておらぬのか。
あの男は船の前に座り込み、戦友の死を悲しんでいるではないか。他の者は食事に向かったが、彼だけは食事をとろうとせぬ。
さあ、彼のところに行って、彼の胸中にネクタルと甘美のアンブロシアを流し込んでやれ、ひもじい思いをさせぬように」
 そう言ってすでにその気になっているアテネを促すと、女神は翼を広げ声高に啼く鷹の姿になり、上天からアキレウス目指し飛び降りていった。
女神は飢えがアキレウスの足腰に及ばぬようにとその胸にネクタルとアンブロシアを垂らしてやり、父神の館へと帰っていった。

 アカイア勢は急ぎ出陣の支度を整え、快速の船から続々と繰り出してゆく。
照りかえる武具の光は上天に達し、また大地もそれによって輝きわたり、軍勢の足元からは凄まじい轟音が沸き起こった。
その中、勇将アキレウスは神授の武具を身につける。
 まず脛には銀の金具施した見事な脛当をつけ、胸の周りには胸当てをあてる。肩には銀鋲打った青銅の太刀をかけ、
次にずしりと思い大楯を手に取った。その楯からは月光にも似た光が輝き出で、それは上天に達した。
さらに重い兜を取り上げて頭にかぶれば、馬毛の飾りをつけた兜は星のごとく輝き、黄金の総がゆらゆらと動く。
武具をつけ終わったアキレウスは、槍立てから父譲りの槍を引き抜いた。
この槍はそもそもケイローン(智勇に優れたケンタウロス)がペリオン山上からペーレウスにもたらしたもので、
重く長く頑丈でほかのアカイア勢には扱えず、彼ただひとりが振るうことができた。
 一方アウトメドンとアルキモス(アルキメドン)は馬を曳いてきてくびきにつなぎ、胸帯を馬の胴に回し顎に轡をはめ、
手綱を御者台へと導く。御者アウトメドンは鞭を持って戦車に飛び乗ると、その後ろから完全武装したアキレウスが乗車した。
陽光を受け光り輝くその姿はさながらヒュペリオン(天空を行く陽の神)のよう。
 アキレウスは凄まじい声で父譲りの馬に向かって言った、
「クサントスにバリオスよ、ポダルケを母としその名全地に轟く馬たちよ、
今日はしっかり心得て、心ゆくまで戦ったあと乗り手を無事にダナオイ勢のもとへ連れ帰るのだぞ。
昨日のように、パトロクロスの遺体を置き去りにしたような真似はするなよ」
 すると、神速の名馬クサントスは急に頭を垂れ、たてがみを土にこぼしながら人語を語った。
「豪勇アキレウスよ、このたびはおっしゃるとおりにいたしましょう。
しかし、あなたの最期の日は間近に迫っています。それはわたしたちではなく、偉大なる神と運命女神(モイラ)のなさること。
それに、トロイア勢がパトロクロスから武具を剥いだのもわれらの鈍さや怠りのゆえではなく、
神々の中でもひときわ優れた、髪麗しきレートーの御子(アポロン)がヘクトールに勲功を立てさせられたゆえ。
われらはその脚最も速いといわれる西風(ゼピュロス。クサントスとバリオスの父)とも競うことができます。
ですが、さる神とさる勇士(アポロンとパリス)の手にかかって最期を遂げることは、あなたに定められた運命なのです」
 ここまで言った時、エリニュスらがその声を抑えた(彼女達は秩序・誓約を破るものを咎める女神なので、
馬が喋って未来を語るという異常の事態をとどめた)。駿足のアキレウスは憤然として言った、
「クサントスよ、なにゆえわが死を予言するのか。いらぬお世話だ、その運命ならわたしはすでに承知している。
だがわたしはおさまらぬぞ、トロイア勢に戦いの苦汁をいやというほど味わわせてやるまではな!」
 そして雄叫びを発しつつ、戦車を駆って前線へと飛び出していった。


◇第四日、その2(第二十歌)

 アカイア勢は船の傍らに軍を整え、一方トロイア勢も平原の高みに陣を構え戦いに備える。
そのころ、ゼウスは山襞多きオリュンポスの上から女神テミス(法、正義、掟の女神。集会を司る)に、諸々の神を参集せよと命じた。
集会を司る女神テミスは各所を回ってその意を伝え、それに応じてオケアノスを除く全ての河神、
森や泉、牧原のニンフにいたるまでがゼウスの屋敷に集い、磨かれた柱廊に腰を下ろした。
大地を揺るがす神(ポセイドン)もまたこの中におり、一同の中央に座ってゼウスに尋ねた。
「白熱の電光を揮う神よ、なにゆえ神々を集められた。トロイア、アカイアについて何か思案が浮かばれたか。
今や双方の戦の火が燃え上がったところでもあるからな」
 雲を集める神ゼウスは言った、
「大地を揺るがす神よ、わしの意向に関してはそなたもすでに察しがついておろう。
わしはあの者たちの死んでゆくのが気にかかる。しかしわしはここを動かず、ここで見物して楽しむことにする。
しかしそなたらはあそこへ出かけてゆき、各々気の向く側を助けるがよい。
というのも、トロイア勢はアキレウスをとても支えきれないだろうからだ。
友の死に怒り狂うあの男は、そのままイリオンの城壁を打ち破り、定められた運命を変えてしまうかもしれぬ。それが案じられるのだ」
 そして地上での戦を開始させた。それとともに神々も次々に戦場へと向かう。
ヘーラーはアカイアの船陣へ向かい、パラス・アテネ、大地を囲むポセイドン、狡知に長けた恵みの神ヘルメスがそれに続く。
さらにヘパイストスもこれに同行した。トロイア方の陣営には兜をきらめかすアレス、髪は伸びるに任せたポイボス、
雨のごとく矢を降らすアルテミス、そしてレートー、クサントス(スカマンドロス河神の別名)、笑み愛づるアプロディーテーが向かった。

 駿足アキレウスが出陣したことでアカイア勢の士気はいやがおうにも盛り上がり、
一方トロイア方は彼の姿を見て一様に恐怖にとりつかれる。そこへオリュンポスの神々が加わった。
軍勢を煽り立てる争いの女神エリスが立ち上がり、アカイア陣ではアテネが雄叫びを上げ、
トロイア陣ではアレスが雄叫びを上げる。
上天では人と神との父なる神が激しく雷を鳴らし、その下ではポセイドンが果てしなき大地と山々を揺り動かす。
泉多きイデの山、トロイアの町もアカイアの船陣も激しく揺れた。
そのため地下では冥府の王アイドネウス(ハーデース)も恐怖に襲われ大声で叫んだ。
大地が裂け、神々さえ忌み嫌う暗湿の恐るべき館が人間と神々の目に晒されはせぬかと恐れたからである。
 神々は互いにあい争った。まずポセイドンに対してはポイボス・アポロンが、エニュアリオス(アレス)に対しては眼光輝くアテネが、
ヘーラーには遠矢の神の妹、黄金の矢を持ち声高に獲物を追い矢の雨降らすアルテミスが、
レートーには恵み授ける逞しいヘルメスが、さらにヘパイストスにはクサントス、人間はスカマンドロスと呼ぶ渦巻く大河が立ち向かう。
 さてアキレウスはプリアモスの子ヘクトールの姿を探し求めていたが、
この時アポロンがプリアモスの子リュカオンの姿をとってアイネイアスに語りかけ、アキレウスに向かうように命じた。
アイネイアスは以前アキレウスがリュルネソスとペダソスの町を陥とした際にさんざんに打ち破られたことがあり気が進まなかったが、
アポロンは、ならば神に祈れ、おまえの母はアキレウスの母よりもはるかに格上ではないかとたきつけ、その胸に力を吹き込んだ。
かくてアイネイアスはアキレウス目がけ突き進んでゆく。
 それを見た白き腕のヘーラーは味方の神々を集めてどうすべきか協議したが、
大地を揺るがす神ポセイドンは、自分達のほうが遥かに強いのだから自分達はここを離れて戦いの推移を見守ろうと言う。
あちらの神々が直接戦闘に介入すれば、その時自分達が出てゆけばよい、と。
そして漆黒の髪持つ海神は「勇将ヘラクレスの防壁」の上に腰を下ろした。ほかの神々もそれにならう。
このヘラクレスの防壁は、先代のトロイア王ラオメドーンがポセイドンとアポロンへの違約の罰として海獣を差し向けられた際、
海獣を退治するヘラクレスを助けるためにトロイア人とパラス・アテネが築いたものだった。
それを見てトロイア方の神々、エイオス・アポロンやアレスもカリコロネの丘に座って戦況を見守る。
神同士、お互いに戦端を開くのはためらわれるものだった。

 アイネイアスとアキレウスは対峙し、間合いを詰めた。まず駿足の勇将アキレウスが言った、
「アイネイアスよ、なぜこのような前線まで出てきたのだ。わたしを討った戦功で王位を得ようという野心からか、
それとも褒美のためか?しかし、無駄なことだ。以前わたしがおまえを逃げ走らせたのを覚えておらぬのか。
わたしがおまえをイデの山から追い落としたとき、おまえは牛の群れを捨てて一目散にリュルネソスへ逃げて行ったな。
しかしわたしはアテネと父神ゼウスの加護によりその町を陥とし、女どもを捕らえ連れ帰った。
その時おまえの身はゼウスと神々がお助けになったが、今回はそうはなさるまい。
痛い目にあいたくなかったら、引き下がれ。事が済んでから気づくのは愚か者のすることだ」
 しかしアイネイアスはひるまずに自らの血統を誇り、戦いは口でするものではない、と言うや青銅の穂先の槍でアキレウスに突きかかった。
ペーレウスの子は大楯でそれを受ける。槍は、神よりの賜り物である五層の楯の第三層で止まった。
次いでアキレウスがペリオン山のとねりこの槍を放った。槍はアイネイアスの楯の縁に当たりってそれを切り裂くと、
そのままアイネイアスの肩をかすめて土に刺さった。アキレウスは鋭利の太刀を抜いて凄まじい叫び声とともに襲いかかる。
アイネイアスは側の大石を持ち上げ、アキレウス目がけ投げつけようとしたが、
大地を揺るがすポセイドンはそれを悟ると、アイネイアスに憐れみの心をもよおした。
このまま石を投げつけてもアキレウスはそれを防ぎ、太刀をふるってアイネイアスの命を奪ってしまうだろう。
 ポセイドンは神々に、アイネイアスを救ってやろうと持ちかける。彼はもとよりここで死ぬ運命ではなく、
ゆくゆくはプリアモス一族にかわってトロイア人の王となる定めであったので。
 牛眼のヘーラーは言った。
「それはそなたに任せよう。わたしとパラス・アテネは、トロイア人のために惨禍の日を防いでやることは決してせぬと、
今まで何度も神々の前で誓ってきたのだから」
 これを聞いたポセイドンはすぐさまアキレウスとアイネイアスの間に立ち、アキレウスの目に靄を振りかけた。
そして豪勇アイネイアスの楯から青銅の穂をつけたとねりこの槍を引き抜いてアキレウスの足元に置くと、
アイネイアスの体を持ち上げて宙に放る。アイネイアスは戦場の端、戦闘準備をしているカウコネス勢のあたりに落ちた。
ポセイドンはアイネイアスに、アキレウスに遭ったら引き返せ、彼が最期を遂げた時こそ第一線に出て戦え、と言い含めて立ち去り、
アキレウスの目から靄を取り払った。
 アキレウスは突如アイネイアスの姿が消えてしまったことに驚いたが、神々の誰かが助けたのだろうと納得するとすぐに戦列に復帰、
味方を鼓舞した。

 一方、勇名高きヘクトールもトロイア勢を鼓舞し、自らアキレウスに立ち向かうと公言してアカイア勢と激突した。
しかし、間もなくポイボス・アポロンが彼の側に立って、アキレウスと戦ってはならぬと厳しく言い渡す。
そのため、ヘクトールは再び軍勢の中へと姿を消した。
 アキレウスは雄叫びを上げつつトロイア勢の中へと身を躍らせる。
真っ先にオトリュンテウスと水のニンフの息子、あまたの軍勢を率いるイピティオンに槍を投げつけ、その頭を打ち割る。
その骸をアカイア勢の戦車が轢き潰していった。
次いでアンテノールの子デモレオンのこめかみを貫き通し、さらに戦車から降りて逃げようとするヒッポダマスの背を刺して命を奪う。
そしてプリアモスの子、神にも見まがうポリュドロスの後を追った。彼はプリアモスの子の中で最も若く、駿足で知られていたが、
駿足の勇将アキレウスから逃れることは不可能だった。彼は槍に貫き通され、臓腑を掴みつつその場に倒れた。
 ヘクトールは弟ポリュドロスが討たれたのを見るとこらえられず、アキレウス向け突進した。
アキレウスはヘクトールの姿を見るといきり立った。
「やって来たな!わが最愛の戦友を殺し、胸を刺される思いをわたしにさせた男が」
 そして勇将ヘクトールを睨みつけて言った、
「もっと寄って来い、少しでも早く死の果てに行きつけるようにな」
 輝く兜のヘクトールは言った。
「ペーレウスの子よ、わたしを口で脅せると思うな。わたしは、おまえが剛勇の士であることも、
その力がわたしより遥かに勝っていることも知っている。しかし、勝負の帰趨は神々の膝の上にあるのだ。
力で劣るわたしが槍を放っておまえを討ち取ることもできよう、わが槍も先は鋭いのだから」
 そして槍を構えて放ったが、その時アテネがふっと息を吹きかけてその槍をヘクトールの足元へとはじき返した。
アキレウスはヘクトールを屠らんと雷のごとき叫び声を上げて襲いかかったが、こちらもアポロンがヘクトールをさらって濃い靄で隠した。
アキレウスは三度槍を突き出したが、それらは空しく靄を切った。アキレウスは叫ぶ。
「またしても命拾いしたな、犬め!ポイボス・アポロンがお救いになられたのだ。
これからも戦場に立つ時はその神に祈るがよい、だが今度遭った時は必ずしとめてやる、
わたしにもいずれかの神が加勢してくださればな。今は誰でもよい、出会った者に立ち向かうとしよう」
 言うなりドリュオプスの頸を突き通して足下に倒し、その屍はそのままにピレトルの子、丈高く力も強いデムコスの膝に槍を当てて動けなくし、
太刀でとどめを刺す。次いでビアスの二人の息子ラオゴノスとダルダノスに襲いかかり、一人は槍で、一人は太刀で討ち取った。
さらにアラストルの子トロスに向かった。トロスは命乞いをしようとアキレウスの膝に手をかけたが、
怒りに燃える今のアキレウスに憐れみという感情は欠片もなかった。トロスは胴を斬られ、肝をこぼして息絶えた。
 アキレウスはムリオスに接近し、槍で耳の辺りを突いて逆の耳まで貫き通した。
次に太刀をふるってアゲノールの子エケクロスの頭を叩き割り、デウカリオンを槍で刺すと太刀で兜ごとその首をはね飛ばす。
そしてペイレスの優れた息子リグモス、彼は肥沃なトレケから来た男であったが、彼の胴に槍を投げて戦車から突き落とす。
従士のアレイトオスが馬の向きを変えようとしたが、アキレウスはその背を槍で刺してこれも戦車から落とした。
馬は暴れて駆けていった。
 アキレウスは山を焼き尽くす猛火のように荒れ狂い、大地を血に染めていく。
彼の走らせる戦車の馬たちはあまたの死体や楯を踏みつけてゆく。
戦車はその血飛沫で真っ赤に染まり、アキレウスの無敵の豪腕も血にまみれていたが、
彼はなおひたすら功名を立てんと逸り立っていた。

(第二十一歌へつづく)


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