ギリシアVSトロイアの戦闘(第三日)その3


◇第三日、その7(第十七歌)

 アトレウスの子メネラオスは、パトロクロスが討たれるのを見過ごさなかった。
すぐさま先陣の間を駆けパトロクロスの遺体のもとにたどりつくと、槍を突き出し楯を構えて周囲を牽制し、
向かってくるものは誰であれ討ち果たそうとした。
すると、とねりこの槍持つパントオスの子エウポルボスもパトロクロスの倒れたのに気づき、走ってきて言った、
「アトレウスの子メネラオスよ、ゼウスの寵受けし軍勢の頭よ、屍を置いてさがれ!
トロイア勢に、わたしより先にパトロクロスに槍を当てたものはいない。
ゆえに、わたしがトロイアにおいて誉れを挙げる邪魔をするのはよせ、
あなたを討って、その命まで奪ってはなるまいからな」
 金髪のメネラオスは激怒した。
「ああ父神ゼウスよ、身の程知らずにも高言を吐くとは何たる奴でしょうか!
豹、いや獅子であろうと、これほどの威勢を誇ることはありません。
あの勇ましい馬の馴らし手ヒュペレノールもわたしを罵りわたしを待ち受けたが、
自分の足で歩いて帰り、家族を喜ばせることはなかった。
おまえももしわたしに向かってくるなら、今ここで打ちひしいで見せよう。
忠告しておくが、今すぐ引き下がって群れの中に入るがいい。
災難を受けてからそれと悟るのはおろかなことだぞ」
 エウポルボスは、ヒュペレノールの仇とメネラオスに突きかかる。
槍はメネラオスの楯に打ち当たったが、それは楯の中でぐにゃりと曲がってしまった。
 アトレウスの子メネラオスは、ゼウスへの祈願を込め、引き下がろうとする相手の喉に青銅の槍を突き刺し、
そのまま体重をかけてのしかかった。
 若く美しいエウポルボスは、頸を貫かれ、血に塗れて砂塵の中で息絶えた。
メネラオスはその武具を剥ぎ取った。
 この迫力に周囲のトロイア勢は息を呑み、誰も彼に討ちかかろうとはしなかった。

 そのときアポロン神はキコネス勢を率いるメンテスの姿をとり、
駿馬クサントス・バリオスの後を追うヘクトールに声をかけ、エウポルボスが討たれたことを告げた。
 ヘクトールは振り向き、武具を剥ごうとしているメネラオスと大地に血を流し横たわるエウポルボスの姿を戦列の間に見つけた。
 ヘクトールは悲嘆に暮れると、次の瞬間には叫び声を上げながら猛火のごとき勢いでメネラオスに突進していった。
それに気づいたメネラオスは、踏みとどまって戦うべきかいったん退却するべきかと逡巡したが、
アイアスを見つけて再び一戦交えパトロクロスの遺体を守ろうと決め、恥を忍んで一時退却した。

 金髪のメネラオスはギリシア軍の群れに戻るとすぐにテラモンの子アイアスの姿を探した。
彼が左翼で戦いを指揮しているのを見つけたメネラオスは、すぐにそちらへ走って行き、彼に言った。
「親愛なる友アイアスよ、来てくれ!
死んだパトロクロスのために、せめてその遺体だけでもアキレウスに届けられるよう奮起しようではないか!
彼は身ぐるみ剥がれ、武具は今、輝く兜のヘクトールの手中にある」
 アイアスはこれを聞くとすぐさま先陣へと歩を進めた。メネラオスがそれに続く。

 ヘクトールはパトロクロスの遺体から武具を剥ぎ取ると、
次いで遺体も曳いていこうとした、後で首を切断し残りは野犬にくれてやろうとの心積もりで。
その時、アイアスが櫓のごとき大楯を構えて突き進んできた。
 ヘクトールは引き下がると戦車に飛び乗り、戦利の武具は兵士に手渡し、町に持ち帰れと命じた。
アイアスは大楯でメノイティオスの子の身を覆い、遺体をまたいで踏ん張り、まなじりを決して周囲を睥睨した。
その横にアトレウスの子、アレスの寵あるメネラオスが悲しみを堪えつつじっと立つ。

 ヒッポロコスの子、リュキア勢を率いるグラウコスは、ヘクトールを睨んで言った。
「ヘクトールよ、あなたは見かけは立派だが、戦いとなると実につまらぬ男。
これからは一人でイリオンを守るにはどうしたらいいか考えるがいい、
これからリュキア勢の中でこの城を守って戦おうとするものはいないだろうから。
あなたは冷たい男だ、長い付き合いであった戦友サルペドンを置き去りにし、アルゴス勢の戦利にしてしまった。
彼が生きていたときは、城にもあなたにも実によく尽くしていた。だのに、あなたには彼が野犬の餌食になることを防ぐ勇気もない。
リュキア勢が私の言葉に従えば、われらは国へ引き上げ、トロイアは壊滅することになろう。
だが―――トロイア人に怯まぬ勇気があるならば、パトロクロスの遺体を城へと引き入れることができよう。
そうすれば、アルゴス勢もサルペドンの武具をこちらに引き渡すだろう。
しかし・・・あなたには剛勇アイアスと立ち向かう勇気がなかった、あれはあなたより強いからな」
 これを聞いたヘクトールはグラウコスを睨み返した。
「グラウコスよ、なぜそのようなことを言う。わたしが巨漢アイアスに立ち向かえぬなどとは。
わたしは何ものも恐れはせぬ。親愛なる友よ、わたしの傍らに立ち、わたしの働きぶりを見ておいてくれ。
あなたの言うとおりわたしが腰抜けか、それともダナオイ勢の誰かがパトロクロスの遺体を守って戦うのを阻んでみせるかどうかを」
 そしてひとまず戦場を離れ、アキレウスの武具を携えて城へ戻る兵士を追いかけて呼び止める。
そして自らの武具を外しこれを城へ持ち帰るよう命ずると、かわりにアキレウスの武具を身につけ始めた。

 雲を集めるゼウスはその光景を見ると心の中で思った、
「ああ、哀れな男よ。他の者が身震いして恐れる、剛勇無双の勇士の神授の武具をおまえは身につけようとしている
(注:アキレウスの武具は、アキレウスの父ペーレウスが神より授かったもの)。
おまえはその勇士の戦友を討ち取り、己の分際もわきまえずに彼の頭と肩から武具を剥ぎ取った。
それでも今は、おまえに力を授けよう。これは、おまえが戦場から無事に帰れず、
アンドロマケーがおまえの手からアキレウスの名高い武具を受け取ることができぬことへの償いとして、だ」
 クロノスの子は黒い眉を動かしてうなずき、武具をヘクトールの身に合わせてやった。

 ヘクトールは輝くばかりの姿を全軍の前に現わした。そして戦列を巡り将兵を激励する。
その面々はメストレス、グラウコス、メドン、テルシロコス、アステロパイオス、デイセノル、ヒッポトオス、ポルキュス、
クロミオス、そして鳥占いのエンノモス。ヘクトールは彼らに言葉をかけて言った、
「聞いてくれ、われらの救援に駆けつけてくれた幾多の部族の方々よ。
各人とも真っ向から敵に対し、生死をかけて働いてもらいたい。それが戦場での睦言なのだから。
もしアイアスを退けてパトロクロスの遺体をトロイア軍の中へ曳いてきた者がいれば、
戦利の半分をその者に与え、わたしは残りの半分を取ろう。その者は名誉においてわたしと並ぶものとなろう」
一同は槍を高く掲げ、ダナオイ勢に向けて突き進んだ。しかし彼らの多くはパトロクロスの遺体の周りでアイアスに命を奪われた。

 アイアスは傍らのメネラオスに言った。
「親愛なる友、ゼウスの寵あるメネラオスよ、われらはもはや無事に戦場から引き揚げられはしまいな。
パトロクロスの遺体も気がかりだが、それよりもわが身、そしておまえの身にも不測のことが起こりはせぬか気になってならぬ。
ヘクトールの仕業によりわれらの前には死の淵が口を開いている。さあ、ダナオイ勢の将領を呼んできてくれ、
声を聞いてくれる者がいるかもしれん」
 大音声にその名轟くメネラオスは、すぐさま味方の列に向け空を引き裂く大声で救援を呼びかけた。
これを聞きつけたのはまずオイレウスの子、駿足のアイアス。真っ先にメネラオスの前に走り出た。
それを追ってイドメネウスとその従士、兵どもの殺し手アレスにも比すべきメリオネス。その後からも続々とアカイア勢の兵士達が駆けつけた。
 トロイア勢はヘクトールを先頭にして押し寄せる。怒涛の喚声を上げて襲いかかるが、
アカイア勢も心をひとつにし、青銅の楯を柵とめぐらしてメノイティオスの子を囲んで立った。
クロノスの子は、アカイア勢の輝く兜の周りに濃い靄を湧かせた。元来ゼウスはメノイティオスの子に敵意を抱いたことはなく、
それゆえ今、彼がトロイア勢の手におちることをよしとしなかった。この靄には、彼の戦友たちへの激励の意味が込められていた。
 最初はトロイア勢がアカイア勢を押し返し、アカイア勢は遺体を残して退いた。しかしトロイア勢が遺体を引きずって行こうとすると、
態勢を立て直したアイアス、アキレウスを除いては他のダナオイ勢に冠絶した男がそれに襲いかかり、あっという間に敵勢を追い散らした。
アイアスは、パトロクロスの足に手をかけていたペラスゴス人レトスの息子ヒッポトオスの兜に槍を突き通し一撃で命を奪う。
ヘクトールはアイアスめがけ輝く槍を放った。アイアスは相手を見据えてこれをかわし、
その槍は豪勇イピトスの息子、ポキス勢の中でも冠絶した勇将スケディオスに当たった。
彼はパノペウスに館を構え多数の家臣をかかえる領主だったが、彼は鎖骨の真っ只中を貫かれて倒れた。武具がからからと音を立てる。
 アイアスはパイノプスの勇猛の息子ポルキュスがヒッポトオスを守ろうとするところ、その腹を刺して倒した。
これを見てヘクトールをはじめトロイア勢が退く。アルゴス勢はポルキュス、ヒッポトオスの遺体を引きずっていき、武具を剥いだ。

 トロイア勢が退くのを見たアポロン神は、エピュトスの子、伝令使ペリパスの姿をとってアイネイアスに反撃するよう勧めた。
アイネイアスはそれが遠矢を放つアポロン神であることを悟ると、ヘクトールに反撃するよう進言した。
そして自ら前線に飛び出して身構えると、トロイア勢も彼に従って反転、アカイア勢に向かい合った。
 アイネイアスは、アリスパスの子リュコメデスの優れた従士レイオクリトスを槍で刺す。
アレスの寵あるリュコメデスはその遺体のそばに立つと輝く槍を投げ、ヒッパソスの子アピサオンの腹を貫いて倒した。
彼は肥沃なパイオニエから来援した者で、アステロバイオスに次いで武勇抜群であった。
 勇猛アステロバイオスはその仇を取らんとダナオイ勢向け突き進んだが、それはかなわなかった。
アカイア勢がパトロクロスを囲んで楯で柵をめぐらし、槍を前に構えていたからである。
これはアイアスが、誰も遺体から退かず、また前に出て戦ってもならぬ、遺体の傍らから動かず、敵とは近い間合いで戦え、
と命じていたからで、あえてこれに攻めかかったトロイア勢は次々に討ち取られていった。

 別の場所でも、アカイア勢とトロイア勢が晴天の下戦っていた。
彼らはパトロクロスの戦死を知らず、武勇の誉れ高きトラシュメデスとアンティロコスも、
パトロクロスがまだ前線でトロイア勢と戦っていると思っていた。
 船陣のアキレウスも、最前線がイリオン城の近くまで押し返していたため、パトロクロスが死んだとは全く思っていなかった。
彼の力量ではイリオンを落とすことはできず、ゆえにイリオンの城壁に達したあとは約束どおり帰ってくると信じていた。

 戦場から離れていたアキレウスの馬たちは、パトロクロスの死を知ってからはさめざめと泣き続けた。
ディオレスの勇猛の倅アウトメドンがいくら鞭を打ってもなだめても、二頭の馬は身じろぎもせず泣き続ける。
その瞼からは熱い涙が地上に流れ落ち、その豊かなたてがみは砂にまみれた。
 クロノスの子はそれを見ると憐れを催し、心の中で言った、
「哀れな馬たちよ、不老不死のおまえたちを、なぜわれらは死すべき人の子ペーレウスに与えたのだろう。
地上を歩み呼吸するあらゆる生き物の中でも、人間ほど惨めなものはないというのにな。
だが、ヘクトールがおまえたちの曳く壮麗な車に乗ることはない。わしがそれを許さぬ。
おまえたちの膝に、胸に力を吹き込んでやろう。おまえたちがアウトメドンを無事に戦場から船まで救い出せるように。
わしは、今日の夜の闇が訪れるまでに、彼に手柄を立てさせてやるつもりでいるからだ」
 神は馬たちに強い力を吹き込んだ。二頭の馬はたてがみのほこりを払い落とすと、戦場へと馳せ戻ってゆく。
アウトメドンは駿馬を駆ってあちらこちらと駆け巡りつつ戦ったが、なにぶん戦車にひとりでは思うように戦えない。
それを見たハイモンの子ラエルケスの倅アルキメドンが声をかけた。
「アウトメドンよ、いかなる神がおまえからいつものよい分別を取り上げてしまったのか?
たった一人で先頭に立ちトロイア勢と戦うとは。確かにおまえの戦友が討たれ、ヘクトールがアキレウスの武具をつけ得意になっているが」
 ディオレスの子アウトメドンは言った、
「アルキメドンよ、アカイア軍中でこの不死の馬をパトロクロス以上に乗りこなせる男がいるだろうか。
しかし今は死と宿命が彼に訪れてしまった。頼む、鞭と手綱をおまえが引き受けてくれ。わたしは戦うために車から降りる」

 アルキメドンが車に乗ると、アウトメドンは車から降りた。
それを見つけたヘクトールは、アイネイアスに言った。
「アキレウスの二頭の馬が、拙い御者を乗せて現れたぞ。あの馬を奪ってしまおう。
われら二人が襲いかかれば、奴に面と向かって戦う根性はあるまい」
 アンキセスの勇猛の子に異論はなく、二人は身を寄せて突進した。クロミオス、その姿神にも見まがうアレトスもそれに続く。
アウトメドンはアルキメドンに馬車を自分の後ろにつけるよう命じ、次いで両アイアスとメネラオスに救援を呼びかけると、
影長く曳く槍を構えて投げ放った。槍はアレトスの楯を貫いて下腹部に突き刺さり、アレトスは仰向けに倒れる。
ヘクトールはアウトメドンに輝く槍を投げたが、アウトメドンは相手を見据えてこれをかわす。
その時両アイアスが駆けつけたため、ヘクトールら三人はアレトスを残して引き下がった。
 アウトメドンは敵の武具を剥ぐと、意気揚々と言った、
「これでパトロクロスが死んだ悲しみも少しは晴れた。これは彼にはとても及ばぬ男ではあったが」
そして血塗れの武具を車に乗せ、自らも血だらけになって車に上がる。

 パトロクロスの遺体をめぐる戦いはなお凄まじく続いていた。ゼウスはダナオイ勢を鼓舞すべくアテネを遣わして闘争を煽る。
アテネはアカイア軍中に降り立ち、一人一人を激励した。
まず、たまたま近くにいたメネラオスに向け老ポイニクスの姿をとり、断固踏みとどまり全軍を鼓舞せよと励ました。
 大音声の誉れも高きメネラオスは答えて言った。
「ポイニクスよ、昔生まれの、わが父とも恃むご老体よ、アテネがわたしに力を与えてくださればよいのですが。
そうすればパトロクロスを守ってやれるものを。彼の最期はわたしの心を奥底まで痛めつけたのです」
 眼光鋭く輝くアテネは、彼が神々の中でまず自分に祈ってくれたことを嬉しく思い、彼の全身に力を吹き込んでやった。
メネラオスはパトロクロスの遺体を守って立ち、輝く槍を投げた。槍はエエティオンの子ポデスに当たり、ポデスは地響きを上げて倒れる。
彼は富裕で武勇に優れ、ヘクトールとは食事もともにする親友だった。
アトレウスの子メネラオスはその遺体をアカイア勢の中へ曳いていった。
 一方、アポロンはアシオスの子パイノプスの姿をとってヘクトールに語りかけた。
パイノプスはアビュドスの住人で、ヘクトールには他国人の中で最も親しい男である。
「ヘクトールよ、メネラオスの前に怖気をふるっていては、アカイア勢の誰がおまえを恐れるだろうか。
今、彼がおまえの戦友ポデスを討ち取り、その遺体を運んで立ち去ったぞ」
 ヘクトールは無念の思いに駆られ、前線に飛び出した。
このときクロノスの子は神楯アイギスを手に取ると、イデの峰を雲で覆い、稲妻と雷鳴を起こしてアイギスを打ち振るい、
トロイア方に勝利を授けんがためにアカイア勢を潰走させた。

 まず逃走にかかったのはボイオティアのペネレオス。前進するところへプリュダマスの槍を肩口に受けたからで、
擦り傷ではあったが至近距離から受けたため、穂先は骨にまで達していた。
ヘクトールは豪勇アレクトリュオンの子レイトスの手首を刺し、戦闘不能に陥れた。レイトスも退却する。
それに追いすがるヘクトール目がけ、イドメネウスが槍を投げた。槍は胸当てに命中したが、槍はけら首から折れてしまう。
ヘクトールが反撃の槍をデウカリオンの子イドメネウスに向け放つと、槍はわずかに外れてメリオネスの従者、
その戦車の手綱を取るコイラノスに当たった。イドメネウスとメリオネスはここまで徒歩で戦っており、
戦車を曳いてきた彼が馬を素早く寄せてイドメネウスを守らねば、トロイア勢に大きな手柄を与えるところであった。
コイラノスは手綱を取り落とし、車から崩れ落ちる。メリオネスは手綱を拾い上げるとイドメネウスに言った、
「さあ、船陣に着くまで馬に鞭を当て続けてください、もはやアカイア勢に勝ち目のないことはおわかりのはず」
 さしものイドメネウスも馬に鞭打って船陣へと向かった。

 ゼウスがトロイア方に勝利を与えようとしていることは豪勇アイアスとメネラオスにもわからぬはずはない。
大アイアスが言った、
「父神ゼウスが御自らトロイアに与しておられることはもはや明白。それでもわれらは最善の手を講じねばならない。
いかにしてこの遺体を曳いてゆくか、また無事に退却するにはどうすればよいかを。
仲間のうちで誰か至急ペーレウスの子に知らせに行ってくれる者があればいいのだが。
彼はまだ親友の死という凶報を聞いておらぬと思うのだ。しかしそういった者を見つけることができぬ、この靄の中では。
これではどうしようもない。父神ゼウスよ、どうかアカイアの子らを靄の中から救い出してください。
空を明るくし、目の見えるようにしてください。光の中でなら殺してくださっても構いません、どうやらそのおつもりのようですから」
 父神は涙を流す彼を憐れみ、すぐに靄を散らして闇を払った。すると太陽が辺りを照らし、戦場がくっきりと現れた。
 アイアスは大音声にその名轟くメネラオスに言った、
「ゼウスに育まれたるメネラオスよ、見渡してくれ、度量広きネストールの子アンティロコスがまだ生きている姿が見えるかどうか。
見つけたら豪勇アキレウスの下に急ぎ走って、彼の最愛の戦友が討ち死にしたと伝えるよう勧めてくれ」
 大音声にその名轟くメネラオスはすぐさまアンティロコスを探しに行った。

 メネラオスは鷲のごとく四方に目を配りつつネストールの子を求めてこなたかなたを見回していたが、
ほどなく左手の戦線で部下を激励している彼を見つけ、金髪のメネラオスはその傍らへ寄り、語りかけた。
「ゼウスに育まれたるアンティロコスよ、ちょっとこちらへ来てくれ。よからぬことを聞いてもらわねばならぬ。
おまえも自分の目で見てわかっていると思うが、神はダナオイ勢に禍を起こし、勝利はトロイア方にある。
アカイア勢の中でも名だたる勇士パトロクロスは討たれた。ダナオイ勢にとっては痛恨の極みだ。
おまえは急ぎ船陣に戻って、アキレウスにこのことを伝えてもらいたい。あるいは彼がすぐ遺体を無事に運んでくれるかもしれぬ。
身ぐるみ剥がれてはいるが。武具は輝く兜のヘクトールの手中にあるのだ」
 これを聞いたアンティロコスは言葉を失った。両の眼に涙を浮かべ、いつもの快活さもひそんでしまった。
しかしメネラオスの命令は等閑にせず、武具を従士ラオドコスに預けると船陣向け走り出した。
メネラオスはアンティロコスが抜けたあとのピュロス勢を自分が助ける気にはなれず、勇将トラシュメデスを差し向けると、
自らはパトロクロスのもとへと馳せ戻った。

 メネラオスは両アイアスに声をかけ、アンティロコスを船陣に差し向けたことを告げた。
「・・・だが、アキレウスは出馬せぬと思う。いくらヘクトールを憎もうとも、武具無しでは戦いようがないだろう。
だからわれらで最善の策を講じねばならない。どうすればパトロクロスの遺体を曳いていくか、
そしてわれら自身がいかにしてトロイア勢の中で死の運命を免れるかを」
 テラモンの子、大アイアスは言った。
「勇名高きメネラオスよ、おまえの言葉はいちいちもっともだ。
ではおまえとメリオネスは素早く亡骸を担ぎ上げ、戦いの場より運び出してくれ。
その後ろでわれら二人は勇猛ヘクトールをはじめトロイア勢と戦うことにしよう。
名も同じこの二人が力を合わせてな。これまでもわれらは互いに身を寄せ合い激戦を戦ってきた仲だ」
 その場の者達がパトロクロスの遺体を抱え上げ、メネラオスとメリオネスがそれを受け取って船陣向け走り出した。
それを見たトロイア勢は猟犬のごとき勢いで突き進んできたが、アカイア勢は退きつつもこれを押しとどめる。
両アイアスは時々反転してトロイア勢を威嚇した。トロイア勢の中であえてこの二人に立ち向かおうとする者はなく、
そのたびに彼らはいったん引き下がった。
このようにしてアカイア勢はパトロクロスの遺体を運び、また少しずつ退却していった。


◇第三日、その8(第十八歌)

 両軍が火のように戦っている間、駿足のアンティロコスは知らせを携えてアキレウスを訪ねた。
折りしも彼は船の前であれこれと思い案じていた。
「ああ、何ということ、髪長きアカイア勢がまたもや敗走しているとはいったいどうしたことか。
願わくば、神々が、かつて母上がわたしに言ってくださったことを成就させずにいておいてくださればよいのだが・・・
母上の言うことには、わたしがなおこの世にある間にミュルミドーン勢中第一の勇士がトロイア勢の手にかかって世を去るということだった。
―――いや、きっともうメノイティオスの勇気ある倅は死んでいるのだろう。人のいうことを聞かぬ強情者めが!
もの皆焼き尽くす火を防ぎとめた後は船へ戻り、決してヘクトールと戦ってはならぬと言いつけておいたのに・・・!」
 そこへネストール王の息子が熱い涙を流しながら駆けつけ、悲しい知らせを告げた。
「辛いことだが、豪勇ペーレウスの子よ、実に悲しい知らせを耳に入れねばならない。
パトロクロスは討ち死にし、武具を剥がれた遺体をめぐって両軍が戦っている。武具は、輝く兜のヘクトールの手中にある」
 アキレウスを悲しみの黒雲が襲った。彼は両手で黒い灰をつかむと頭に降りかけて美しい顔と肌着を汚し、
さらに土の上に横たわると、己が手で髪を滅茶苦茶に掻きむしった。
女中達は不安にかられて大声をあげ、震える足でアキレウスの周りに集まって自分の胸を打った。
アンティロコスはアキレウスの手を握っておろおろし、涙を流していた。
高貴な心の戦友の呻く姿を見て、今にも小刀で喉を切り裂きはせぬかと案じていた。

 激しく嘆くアキレウスの声を、母神テティスは深い海の底、年老いた海神ネレウス(テティスの父)の傍らで聞いた。
彼女が悲しみの声を上げると、彼女の姉妹たち(ネレウスの娘達、ネレイデス)がその周りに集まってきた。
集まってきたのはグラウケ、タレイア、キュモドケ、ネサイエ、スペイオ、トエ、牛眼のハリエ、
またキュモトエ、アクタイエ、リムノレイア、さらにメリテ、イアイラ、アンピトエ、アガウエ、ドト、プロト、ペルサ、デュナメネ、
さらにデクサメネ、アンピノメ、カリアネイラ、ドリス、パノペ、
また世に知られたガラテイア、ネメルテス、アプセウデス、カリアナッサたち
(ガラテイアは、美少年アーキスとの悲恋で有名。後世のローマの詩人オウィディウスの『変身物語』にも登場する)
さらにまたクリュメネ、イアネイラ、イアナッサ、マイラ、オレイテュイア、髪麗しきアマテイア、
それにまた海底に住むネレウスの他の姫たち。
白銀の洞窟はニンフたちで溢れんばかりになり、皆胸を打って嘆く。
 テティスは言った、
「ああ、哀れなわたし、立派な子を産んだのがかえって仇になってしまうとは。
私は帰国したあの子を、ペーレウスの館に再び出迎えることはないでしょう。
あの子はまだ生きてはいますが深い悲しみを胸に抱いており、わたしが行っても何の役にも立ちません。
でも行きましょう、何があの子に起こったのか聞くために」
 そして洞窟を離れる。他のネレイデスも泣きながらそれに続き、波は彼女たちのために道を開けた。

 彼女達はトロイアの地に上陸すると、アキレウスの傍らに立った。
 テティスはわが息子の頭を抱きかかえ、涙を浮かべながら翼ある言葉をかけた。
「わが子よ、どうして泣いているのです。隠さずにわたしに話しておくれ。
おまえが以前願ったことをゼウスは果たしてくださっているではないか、
アカイアの子等がおまえの不在を悔やみながら無残な目にあうということが」
 アキレウスは嘆息して答えた、
「はい、それはオリュンポスの大神が果たしてくださいました。しかし、親友を失っては、どうしてそれを喜べましょうか。
私は、自分の命と同じくらい大切に思っていた戦友パトロクロスを失いました。
彼を殺したヘクトールは、母上が父上に嫁ぐ時に神々が父上に賜った、見事な武具を剥ぎ取りました。
ああ、母上がそのまま海にお暮らしになり、父上が人間の女を迎えておれば、どんなによかったことか!
(注:テティスは「彼女の子はその父を凌ぐ存在になる」という予言を与えられていたので、神々は彼女を人間のペーレウスと結婚させた)
それも今となっては、母上も息子を失う計り知れぬ悲しみを抱かれるようになるほかはありません。
わたしもヘクトールを撃ち殺しメノイティオスの子を討った報いを与えるほか、人の世に生き永らえる気にはならないのです」
 テティスは涙を流しながら言った。
「わが子よ、おまえがそのように言うのであれば、長くは生きられまい。ヘクトールに続き、おまえにも死の運命が待っているのです」
 アキレウスはやおら立ち上がって母に言った、
「すぐにも死んでしまいたい!友が討たれるのを救ってもやれぬのがわが運命だったのですから。
パトロクロスにも、ヘクトールの手に倒れたほかの戦友たちにも救いの光となれず――
ああ、争いなど神界からも人の世からもなくなってしまえばよいのに、それにまた怒りも!
怒りは分別ある人をも煽って狂わせ、蜜よりも遥かに甘く胸の内に湧き立ってくる。
今回も総帥アガメムノンはそのようにわたしを怒らせたのでしたが――
しかしそのことはもう、済んだこととしましょう。
わたしはこれから、ヘクトールを求めて出陣いたします。
死の運命については神々の命に従うつもりです。あのヘラクレスですら死の運命は免れなかったのですから。
今のわたしは華々しい手柄を挙げることを願うばかり、トロイアの女を嗚咽に咽ばせてやりたい。
だから母上、わたしの身を案じてくださるのはわかりますが、どうか止めてくださるな」
 銀の足のテティスは言った、
「わが子よ、おまえの言うように、苦境に立つ味方を救うのは悪いことではない。
しかし、おまえの武具はトロイアの手中にある。
おまえは、わたしがまたここに戻ってくるまで決して戦場に出てはなりませんよ。
明日の朝、日が昇るとき、わたしはヘパイストス(鍛冶の神)のもとから見事な武具を携え帰ってきますからね」
 テティスは踝を返すとネレイデスたちにこの一部始終を父に伝えるよう伝言し、自らはオリュンポスへと向かった。

 アカイア勢はヘクトールに追われ、船の並ぶヘレスポントスへと退却してきた。
ヘクトールは三度パトロクロスの遺体の足をつかんだが、両アイアスがすかさずそれを突き放す。
しかしヘクトールとトロイア勢の勢いは凄まじく、このままではパトロクロスの遺体はヘクトールの手中に渡るかと思われたその時、
脚速きこと風のごときイリスがオリュンポスから駆けつけ、アキレウスの前に立った。
これを遣わしたのはゼウスではなく、ヘーラーであった。
 イリスはアキレウスに翼ある言葉をかけて言った、
「さあお立ちなさい、この世の男の中で最も恐るべきペーレウスの子よ、パトロクロスの遺体を守るために。
一刻の猶予もなりません。あなたはパトロクロスがトロイアの野犬たちのなぶりものにされることを恐れなければなりません。
万が一遺体が無残に損なわれて帰ってくるようなことになれば、それはあなたの恥辱ではありませんか」
 駿足の勇士アキレウスは言った、
「女神イリスよ、あなたをわたしの元へ遣わした神はどなたですか」
 イリスは答えた。
「ゼウスの尊い妃ヘーラーである。しかしこのことは高きにいますクロノスの御子もほかの神々もご存じない」
 アキレウスは言った、
「わたしはどうして戦場に入ったらよろしいでしょう。武具はトロイアの手中にありますし、
母は、自分が帰ってくるまでは戦場に出てはならぬと申しました。
わたしが身につけられそうなものはテラモンの子アイアスの大楯くらいですが、
彼もパトロクロスの遺体を守るべく戦っておりましょう」
 イリスは答えて言った、
「それはわれらもよく承知している。しかしそのままの姿でよい、濠の縁まで行ってトロイア勢にその姿を見せてやるがよい。
そうすればトロイア勢も恐れをなして戦いをやめ、アカイア勢も一息入れることができるかもしれぬ。
戦いの場の休みはつかの間にすぎぬが」

 脚速きイリスが立ち去ると、ゼウスの寵あるアキレウスは身を起こした。
その時アテネが、彼の肩に総の垂れたアイギスを掛けた。畏くも尊い女神はさらに彼の頭の周りに黄金の雲の輪をめぐらせ、
その身からは火焔を燃え立たせる。彼の頭から発する光芒は上天にまで達した。
アキレウスは濠の縁に立つと大音声を発したが、それと同時にパラス・アテネも声を上げた。
 アイアコスの裔なる勇士の声は高らかに響き、その破れ鐘のごとき声を聞いたトロイア勢は一瞬にして動転した。
馬たちは一斉に車を引いて後ずさり、その御者達もアキレウスの身から燃え立つ火焔を見て肝を潰した。
アキレウスが三たび大声を発するとトロイア勢は三たび動揺し、ついに潰走した。
この混乱のただ中、十二人の勇士が自らの戦車、自らの槍に当たって倒れた。
一方アカイア勢は嬉々としてパトロクロスを戦場から運び出して担架に載せ、船陣へと導く。
親しい友人達が泣きながらその周りに立ち、アキレウスも熱い涙を流しながらそれに随った。
 牛眼の女神ヘーラーは、疲れを知らぬ陽の神が嫌がるのもかまわず彼をオケアノスの流れに向かわせ(注:日の入りを早めた)、
かくして陽は沈みその日の戦闘は終わった。

 トロイア勢は戦場から離れると、夕食を始める前に集会を催した。
会議はみな立ったままで行われた。アキレウスの姿に恐怖を覚えていたからである。
 まず聡明なるプリュダマスが口を開いた。彼はパントオスの息子で、先見の明を持っていたのはトロイア勢の中で彼一人だった。
ヘクトールとは同じ夜に生まれて親しい仲であり、弁舌ではプリュダマスが、武芸ではヘクトールが勝っていた。
 プリュダマスは、アキレウスが復帰した以上この平原に留まるのは得策ではなく、イリオンへと戻って篭城すべきと献策する。
しかしヘクトールはそれを退け、ここにとどまり明朝再び船陣へ総攻撃をかけることを宣言し、全軍もこれに賛成した。
正論を述べたプリュダマスに与する者は一人もいなかったが、これはパラス・アテネが彼らの思慮を奪ったからである。
 トロイア勢はその地に陣を張り、夕食をとった。

 アカイア勢は夜もすがらパトロクロスの死を悼んで泣き続けた。
ペーレウスの子はその先導となって激しく哀哭した。
「パトロクロスよ、われらは二人ともこのトロイアで同じ土くれを血に染める定め。
わたしはおまえに遅れて地下へ下るが、おまえのような勇士を殺したヘクトールめの首と武具をここへ持ってくるまでは、
おまえの葬儀は行わぬ。亡骸を焼く火の前で、トロイアの若者十二人の喉を切り裂いてやる。
それまではこのまま、船の傍らで寝ていてくれ。女たちが昼も夜も涙を流しつつ、おまえの死を悼んでくれるだろうからな」
そしてアキレウスはパトロクロスの遺体を湯で洗うと全身にオリーヴ油を塗り、傷口には軟膏を詰め、床に寝かせた。
そして頭から足先まで薄い麻布に包み、その上から白布をかける。そしてミュルミドーンの将兵はアキレウスを囲み嘆き続けた。
 ゼウスは妹にして妻なるヘーラーに声をかけた。
「牛眼の女神ヘーラーよ、そなたは駿足アキレウスを立ち上がらせ、思い通りにし遂げたな。アカイア人たちはそなたの子に相違ない」
ヘーラーは答えた。
「世にも恐るべきクロノスの御子よ、何を仰せられます。人間ですら相手に向かって思い通りにし遂げることくらいはできましょう。
なのに、このわたしが憎いトロイア人たちに禍難を企んだのがどうしていけませぬのか」

 銀の足のテティスはヘパイストスの屋敷に着いた。自らが建てたその館は、神々の住居の中でもひときわ豪壮だった。
神はふいごの前で汗みどろになって立ち働いているところで、今は広間の壁際に据えるための二十個の三脚釜を作っているところ。
この釜には黄金の車輪がついており、ひとりでに神々の集会の場に入っていき、またもとの屋敷に帰ってくるという仕掛けだった。
これらにはまだ取っ手がついておらず、今はその取り付けのための鋲を鍛えている最中だった。
 テティスがそれに近づいてゆくと、艶やかなリボンを額に巻いた典雅の女神、麗しのカリスがそれを見つけた。
カリスは足萎えの名だたる名工ヘパイストスの妻であった。
(注:ヘパイストスの妻は普通アプロディーテーとされる。ホメロスも『オデュッセイア』ではそちらを採用している)
 カリスはテティスの手をとって言った。
「まあ、裳裾引くテティス、いったい何の御用でしょうか。さあ、こちらへお通りください、おもてなしさせていただきます」
麗しい女神はテティスを中へ招き入れると、銀鋲打った華麗な椅子に座らせた。そしてヘパイストスに声をかけて言った、
「ヘパイストス、ここへ出てきてくださいな。テティスが何かあなたに御用があるそうですよ」
 ヘパイストスは生来足が不自由であったために母によって天から投げ落とされたが、
テティスとエウリュノメによって救われ、九年間かくまわれていた。恩人であるテティスの来訪に彼はすぐに商売道具を片付け、
彼女の元にやってきた。
「裳裾引くテティスよ、どういう御用向きでわが家をお訪ねになったのか。あなたはわれらにとっては大切な、嬉しいお客。
わたしの力にかなうことなら、ぜひともお役に立ちたいものです」
 テティスは涙をこぼしながら一部始終を語った。
「―――お願いいたします。わたしの命短い息子のために楯と四つ星の兜、それに踵金具のついた見事な脛当て、
そして何よりも胸当てを作ってやっては下さらぬかと・・・」
 名だたる足萎えの神は言った、
「安心なさってください、何も気に掛けられることはありません。
武具については、誰もが惚れ惚れする見事なものを必ず御用立ててみせます。
それは間違いありませんが、ご子息に死の運命が訪れた時、死の手の届かぬところに隠してあげることまでわたしに間違いなくできたら、
どんなによいでしょうか」
 そしてすぐにふいごのほうに向かっていき、それを火に向けて仕事にかかった。
二十個のふいごを坩堝に吹きつけて臨機応変の風を送りつつ硬い青銅、錫、金や銀を火中に投じ、
次いで大きな鉄床を台に載せ、片手に槌、片手に火挟みを握った。

 まず大きく頑丈な楯を、全面に精巧な細工を施して作った。周囲に輝く三重の縁をめぐらし、銀の下げ緒を垂らす。
楯本体は五重の造りで、精巧な装飾が施された。
 そこには大地、天空、海があり、疲れを知らぬ陽、満ち行く月、天空を彩る星座がすべて描かれていた。
 そして人間の住むふたつの美しい町を造った。片方の町では婚礼と祝宴の情景、係争とその裁定の場面が描かれ、
もう片方の町では攻城戦が行われている。町のほうは降伏の気はなく、男達は伏兵で外敵を破るべく密かに町を出る。
アレスとパラス・アテネがその先頭に立ち、妻子たちは城壁を守る。そして町の軍勢は攻囲の軍勢と激しい戦闘に入る。
「争い(エリス)」、「乱闘(キュドイモス)」、「死霊(ケール)」がそれに加わり、死者や生者の足を掴んで引きずってゆく。
 続いて三度鋤いて柔らかく肥沃になった休耕田が鋳出された。農夫達が牛を曳き、田の端に行きつくたびに酒盃を受け取っている。
 次には王領の荘園。雇いの人足たちが鎌で麦を刈り取り、束ね役の者がそれを縄でくくっている。
子供たちが落穂を拾って束ね役に手渡し、王笏を手にした王が満足げな表情でそれを見守る。
離れた樫の木陰では、触れ役たちが宴の用意をし、生贄に屠った大きな牛を調理している。
女たちは、人足たちに食べさせるために多量の大麦粉をかき混ぜている。
 また、葡萄がたわわに実った果樹園も描かれた。黄金作りで、連なる房は黒く、蔓は銀の支柱で仕立ててある。
両側の溝は群青の琺瑯で造り、錫の垣がめぐらされる。一本の小道があって、葡萄を摘み取った若い男女が歩いており、
少年は竪琴を弾きつつ「リノスの歌」を歌う。他の者はこれを聞いて踊り叫ぶ。
 次いでまっすぐに角の立つ牛の群れを描いた。牛は黄金と錫で造られ、啼きながら小屋を出て川沿いの葦の茂みに沿い牧場へと向かう。
黄金造りの四人の牧夫がそれに付き添い、足の速い犬九頭がそれに従う。
二頭の獅子が先頭の牛一頭に食らいついて引きずってゆき、犬や若者達がそのあとを追う。
 名だたる足萎えの神は、さらに美しい谷間の平地に雪白の羊の草食む広い牧場を造った。そして家畜小屋、牧人の宿舎、柵囲いも。
 さらに、その昔ダイダロスが髪麗しきアリアドネのために広大なクノッソスの町に設けたものにも比すべき踊り場を仕上げた。
そこでは若者や娘たちが手を取り合って踊っている。その周りには大きな人垣ができ、二人の軽業師が踊り手たちの間を跳ね回る。
 そして神は、頑丈に仕上げられた楯の一番端の縁には、滔々と流れる大河オケアノスを描いた。

 ヘパイストスは大きく堅き楯を仕上げると、今度は燃える火の光よりもさらに輝く胸当てを作り、
次いでこめかみにぴたりと合う頑丈な兜を匠を凝らして作り、それに黄金の前立てをつける。
また、しなやかな錫で脛当ても作った。
 名にし負う足萎えの神はこれらの武具をことごとく打ち終えると、アキレウスの母の前に置く。
女神は燦然と輝く武具をヘパイストスから受け取ると、雪を戴くオリュンポスの峰を鷹のごとく飛び降りていった。


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