ギリシアVSトロイアの戦闘(第三日)その2


◇第三日、その5(第十五歌)

さて、トロイア勢は多数をダナオイ勢により討ち取られ、濠を越えて戦車脇まで退きようやく戦列を立て直したが、
すでに戦意を失っており、みな蒼白となっていた。
そのとき、イデの山上でゼウスが目を覚ました。そして両軍の戦場を見、ポセイドン神がアルゴス勢の中で働き、
またヘクトールがクサントス河畔で戦友に囲まれ昏倒しているのを見るとすべてを悟り、
激怒してヘーラー女神を怒鳴りつけ、今度はどのような罰を下してやろうかと脅した。
ヘーラー女神は恐怖に震えて許しを乞い、どうしたらいいか訊いた。
人間と神々の父ゼウスは、イリス女神とポイボス・アポロンを呼んで来るように命ずる。
イリス女神にはポセイドンに戦いをやめて帰るよう伝令するため、
ポイボス・アポロンには、ヘクトールに新たに力を吹き込ませるために。
ヘーラー女神は急いでオリュンポスへ戻っていった。
オリュンポスへ戻ると、神々が杯を挙げてこれを迎えた。
テミス女神がヘーラーの様子がおかしいのに気づいて声をかけ、ヘーラーは思わず愚痴を述べた。
そして、息子アスカラポスの仇討ちに下界へ降りていこうとするアレスを叱りつけて座に座らせると、
アポロンとイリスを呼び出し、イデに行くよう申し付けた。
二神は身を翻して飛んでいった。

二神がゼウスの前に立つと、ゼウスはまずイリスにポセイドンへの伝言を言付けた。
駿足のイリスはすぐに大地を揺るがす神の傍らに立ち、ゼウスの言葉を伝えた。
しかしポセイドンは、兄弟であるゼウスから命令を受けることを肯じなかった。
イリスは、もう一度考え直すようにとポセイドンに願った。
するとポセイドンは、今回は引き下がろうと言った。
「ただし、今後自分たちにはかることなくイリオンを庇いアルゴスに力を与えようとしないときには、
互いの怨恨は癒しがたいものになるだろう」
ポセイドンはそう言い残し、海中へ姿を消した。
これを見たゼウスはアポロンに神楯アイギスを渡し、アカイアの勇将たちを恐怖させ、ヘクトールに加護を与えるよう命ずる。
アポロンは鷹のようにイデの山並みを駆け下りていった。

ヘクトールはようやく意識を取り戻し、身を起こしていた。
ポイボス・アポロンはその身近に立ち、彼に語りかけた。
「プリアモスが一子ヘクトールよ、そのなりはどうしたことだ」
ヘクトールは突然の神の来訪に驚き、事の経緯を語ると、御名をたずねた。
遠矢を放つ神アポロンは答えた。
「もう案ずることはない。クロノスの御子は、おまえに付き添ってその身を守ってやるよう、
イデの山から頼もしい援軍を使わしたのだ。すなわちこの黄金の太刀佩くポイボス・アポロン、
以前からおまえとおまえの城市を守ってきた者だ。
さあ、戦車を駆るあまたの兵に下知し、船を目掛けて駿馬を走らせよ。
わたしは先頭に立ち、馬の進む道をことごと均し、アカイアの勇士らを潰走させよう」
そして、ヘクトールに大いなる力を吹き込んだ。
ヘクトールは勇躍戦場へと戻り、辺りを駆け巡りつつ軍勢に命令を出していった。
一方、ダナオイ勢は勢いづいてトロイア勢を追撃していたが、ヘクトールの姿を見ると肝をつぶし、戦意がゆらいだ。

ここでアンドライモンの子トアス、これはアイトリア勢を率いては武勇ことに優れ、投槍の名手にして白兵戦にも強く、
集会において弁舌をふるうことにかけてはアカイア勢屈指の男であったが、彼が一同に語りかけて言った。
「なんという奇跡を見ることか、ヘクトールが再び立ち上がるとは。
テラモンの子アイアスがたしかに彼を撃ったではないか。いずれかの神が彼を助けたに違いない。
これは雷轟かすゼウスの神意なくしては考えられぬことだ。だから、これから言う事をよく聞いてもらいたい。
軍勢の大部分は船に引き揚げさせよう。しかしわれら武勇に優れたものは踏みとどまり、
彼に立ち向かって見事彼の進撃を食い止めることができるかどうか試してみよう。
彼もいかに気負っていようと、ダナオイ勢の群がる中へ踏み込む勇気はあるまい」
一同はその言葉に従った。軍勢の大部分を船へと引き揚げさせる一方、
アイアス、イドメネウス、テウクロス、メリオネス、メゲスらとその従者は、
トロイア勢に向かって決戦の態勢を整えていった。

トロイア勢は一団となって進み、その先頭にはヘクトールがいた。
彼の前にはゼウスの恐るべき武具アイギスを持ったポイボス・アポロンがあり、先駆けとなった。
アルゴス勢も一団となってこれを迎え撃ち、激しい戦いが沸き起こる。
しかし、ポイボス・アポロンがアイギスを揺さぶり大声を上げると、ダナオイ勢の戦意は挫け、たちまち敗走した。
トロイア勢はそれを追撃する。
ヘクトールは、青銅を鎧うボイオティア勢を率いるスティキオス、そしてメネステウスの部下アルケシラオスを討ち取った。
アイネイアスは、オイレウスの妾腹の子で小アイアスとは兄弟の仲であるメドンと、
アテナイ勢の隊長であるブコロスの子スペロスの息子イアソスを討ち取る。
プリュダマスはメキステウスを、
ポリテスはエキオスを、
勇猛アゲノールはクロニオスを討ち取った。
そしてパリスは、逃げようとするデイオコスの背後から槍を投げて肩の根元に突き刺した。

アカイア勢は逃げまどい、再び防壁の中へ籠って身をひそめた。
ヘクトールは大声で命令する、
「血塗れの武具は打ち捨て、船へ向かえ!
船から離れてあらぬ方にいる者は、目に入り次第その場で斬る!
そのような者は死後だれからも葬儀を営んでもらえることはない、野犬に引きずられていくことになろう!」
そして馬に鞭して防壁に突撃した。トロイア勢も喚声を上げてそれに続く。
ポイボス・アポロンはヘクトールの前に立つと、深い濠の堤をやすやすと蹴り崩して濠を埋め、
次いで海辺で戯れる幼児が砂山を崩すかのように防壁を崩し去った。
げにもエイオス・ポイボスはアルゴス勢の労苦の結晶を一瞬にして無に帰し、彼らを敗走に陥れた。

敗走のアルゴス勢は船のところまで来ると踏みとどまり、声を掛け合って神々に祈願した。
アカイア勢の重鎮、ゲレニア育ちのネストールは両手を天に掲げ祈って言った。
「父神ゼウスよ、かつてわれわれのうち誰かが小麦豊かなアルゴスにおいて犠牲を捧げ、
無事の帰国を祈願しあなたがそれをお聞き届けくださったのであれば、
オリュンポスの大神よ、それを思いおこし、われらをお守りください。
このようにアカイア勢がトロイア勢に打ち破られるのをどうかお見逃しにならぬように」
ネーレウスの子老ネストールがこう祈ると、たちまち凄まじい雷が鳴り響いた。
大神ゼウスは彼の祈りを聞き届けたのだ。
その間にもトロイア軍は戦車を駆って平らになった濠と防壁を越え、船陣へと殺到した。
トロイア勢は槍を振るって挑み、アカイア勢は黒船によじ登って海戦用の長い突棒で上から応戦する。

パトロクロスは、パリスに射られて負傷した雄々しきエウリュピュロスの治療のためにそのままその陣屋に留まっていた。
しかし外の状況を察すると嘆声を漏らし、エウリュピュロスにいとまを告げると急ぎアキレウスの元へと走った。
さてアカイア勢とトロイア勢は双方一歩も引かぬ戦いを繰り広げていた。
ヘクトールはアイアスを見つけると、真っ向から向かっていく。
この時、クリュティオス(プリアモスの兄弟)の子彼カレトールが火を持って船に近づいた。
それに気づいた豪勇アイアスが槍を投げ、その胸に命中させた。カレトールは倒れる。
ヘクトールは従弟の遺体を守るようにと叫び、アイアス目掛け輝く槍を投げた。
しかしそれはアイアスの従者、マストールの倅リュプコロンに当たった。
アイアスは身震いし、テウクロスを呼んだ。
テウクロスはアイアスに駆け寄り、弓に矢をつがえ放つ。
矢はプリュダマスの従者、ペイセノルの子クレイトスの後頭部に当たり、彼は戦車から転げ落ちた。
プリュダマスは、プロティアオンの子アステュノオスにクレイトスの戦車の馬を託し、再び戦いに加わる。
テウクロスは次いでヘクトールを射るべく新たなる矢を抜いた。
この矢が放たれていたならば、ヘクトールの奮闘にも終止符が打たれていただろう。
しかし、ヘクトールの身を守るゼウスがこれに気づかぬはずもなく、
テウクロスが弓弦を引き絞ったそのとき、その弓弦を断ち切ってしまった。弓は地に落ち、矢はあさっての方向へ飛んでいく。
テウクロスは恐怖した。
「なんということ、神はわれらの戦略をすっかり挫いてしまわれた。
わたしの弓を叩き落し、今朝張ったばかりの新しい弦も断ち切ってしまわれた」
テラモンの子アイアスは言った、
「兄弟よ、弓矢はダナオイ勢に悪意を抱く神が壊してしまわれたのだから放っておくがよい。
その代わりに長槍を取り、楯を担いでトロイア勢と戦い、味方に声をかけて督励してくれ。
敵がわれらに勝ったとしてもやすやすとは船を捕獲できぬよう、われわれは戦いに専念しよう」
テウクロスは弓を陣屋に置き、両肩に四枚張りの楯を担ぎ、頭には馬毛の飾りのついた兜を被る。
そして長い青銅の穂先をつけた槍を手にすると陣屋を出、アイアスの元へと駆け戻った。
ヘクトールはテウクロスの弓弦が切れたのを見ると、これぞゼウスの神意であると味方を鼓舞し、さらに戦意を煽った。
負けじとアイアスも、アルゴス勢に呼びかけて士気を煽る。

ヘクトールはポキス勢を率いるペリメデスの子スケディオスを、
アイアスは歩兵隊を率いるアンテノールの子ラオダマスを討ち取った。
プリュダマスは、メゲスの従者でありエペイオイ勢を率いるキュレネ人オトスを倒した。
これを見たピュレウスの子メゲスはプリュダマスに襲いかかったが、プリュダマスはその一撃を危うくかわした。
アポロン神が、パントオスの子が討たれるのをよしとしなかったからである。(パントオスはアポロン神殿の祭司)
しかし、メゲスの槍はクロイスモスの胸を刺し貫いた。
クロイスモスの武具を剥ごうとしたメゲスに、ラオメドンの子ランポスの子、槍の名手ドロプスが突きかかる。
ドロプスの槍はメゲスの楯を貫いたが、胸当てが彼の命を救った。
これは、メゲスの父ピュレウスがかつてエピュラの王エウペテスから贈られたものだった。
メゲスは反撃を繰り出し、槍はドロプスの兜に当たってその飾り毛を切り飛ばした。
二人が戦っているところへ豪勇メネラオスが駆けつけ、ドロプス目掛けて槍を投げた。
槍は背後からドロプスを貫き、ドロプスは前のめりに倒れる。
二人がその武具を剥ごうとしたとき、ヘクトールは一族の者に声をかけた。
まずヒケタオンの子、強剛メラニッポスに言った、
「メラニッポスよ、自分の従兄弟が討たれてなんとも思わぬのか!
あれが見えぬか、彼奴らがドロプスの武具にたかって何をしているか。さあ、わたしについて来い!」
二人の勇士はドロプスの遺体に向かって走った。

テラモンの子、大アイアスはなおも声を張り上げていた。
「親愛なる戦友たちよ、今こそ男になれ!恥を知る心を心に叩き込み、
烈しき戦いにおいて親友同士互いに恥じることなきよう心掛けよ!
恥を知る者は討たれることより助かることのほうが多い。
敵に後ろを見せれば、名を上げることも、わが身を守ることもかなわぬぞ!」
アルゴス勢はその声に力づけられ、槍衾を作って船団を守る。
大音声にその名も高きメネラオスはアンティロコスに声をかけ、誰かトロイア勢の一人を撃ってほしいと頼んだ。
アンティロコスは前線から飛び出し、辺りを見回して輝く槍を投げた。
槍は見事にヒケタオンの子メラニッポスに当たった。
まさに戦闘に加わらんとしていたたメラニッポスは胸元を貫かれて倒れ、絶命する。
アンティロコスはメラニッポスの武具を剥ごうと走り寄ったが、そこへ勇将ヘクトールが襲いかかった。
ネストールの子、若きアンティロコスはあえて戦わず、急いで味方の列に引き下がる。
ヘクトールは山を焼く火が燃え盛るような、あるいは烈風に巻かれて湧き上がった大波が船を飲み込むがごとき勢いで戦った。
アカイア勢はよく守ったが、ついにその威勢の前に決壊し、潰走した。
ヘクトールは追撃の中、ミュケネ人ペリペテスを討ち取る。
彼はコプレウスの子で、エウリュステウス王の伝令として、たびたびヘラクレスに使いした男だった。

アカイア勢は船陣の中に退いた。トロイア勢はそこへ雪崩れ込む。
ゲレニア育ちのネストールは必死に味方の戦意を煽った。
剛毅のアイアスも、海戦用の突棒を振り回し、多数の船の甲板から甲板へと飛び移りながら、
船と陣屋を守れと凄まじい大音声で下知した。
両軍は再び激突する。
ヘクトールは一隻の船の艫に手をかけた。これはプロテシラオスをトロイアへ乗せてきたもので、
再び彼を故国に送ることのなかった見事な快速船だった。
この船をめぐって両軍は烈しい戦いを演じた。
ヘクトールは叫んだ、
「火を持って来い!それに合わせて一斉に鬨の声を上げよ!」
トロイア勢はいっそう激しくアルゴス勢に攻めかかる。
アイアスは相手の飛び道具に射すくめられてわずかに退いたが、火を放とうとするものがあれば槍を振るって追い払い、
ダナオイ勢に向かって、戦うよう呼びかけ続けた。
ヘクトールの命に従い火を持って船に近づく者をアイアスは長柄の槍で次々に刺し、十二人に傷を負わせた。

◇第三日、その6(第十六歌)

両軍はプロテシラオスの船をめぐって争っていたが、
そのときパトロクロスは軍勢の牧者アキレウスの傍らへ歩み寄った。
その目からは熱い涙がこぼれ落ちている。
駿足の勇将アキレウスは憐れんで言葉をかけた、
「パトロクロスよ、どうしたのだ、涙を流して。ミュルミドーンかこのわたしに伝えることがあるのか、
それとも、プティアからの便りでもあったのか。それとも、船陣のあたりで討たれるアルゴス勢を悲しんでいるのか。
わたしにわかるように教えてくれ」
騎士パトロクロスは言った、
「ペーレウスが一子、アカイア軍中に並び無き勇士アキレウスよ、気を悪くしないでほしい。
アカイア勢を襲った苦難は、それほどまでに激しいのだ。
これまでに幾多の戦功を挙げた勇士らは皆、負傷して船陣内に臥せっている。
豪勇ディオメデスは矢を受け、槍の名手オデュッセウスもアガメムノンも槍に刺され、
エウリュピュロスは腿に矢を受けた。彼らは医師たちにより介抱されているが…
それよりもアキレウス、あなたはなんとつまらぬ人だ。
わたしは今あなたが抱いている怒りにはとりつかれたくないものだ。
あなたが今アルゴス勢の悲運を救わねば、のちの世に生まれる者も、あなたから何の恩恵を受けぬことになるだろう。
あなたは非情な人だ、きっとあなたの父君は騎士ペーレウスではなく、母君もテティスではなかったに違いない。
しかしもし、あなたがなにか神のお告げがあったことを避けたいと思い、
母君がゼウスからの伝言をあなたに取り次がれたというような理由があるのならば、
せめてわたしを戦場に送り、ミュルミドーン勢をわたしにつけていただきたい。
そうすれば、わたしがダナオイ勢の救いの光となるかもしれない。
また、あなたの武具を身につけることを許してほしい、
トロイア勢がわたしをあなたと見誤り戦いをやめるかもしれないし、アカイアの勇猛の子らも一息つけるかもしれない。
たとえ一時の間であっても、疲れが抜ければ、わが軍が敵を陣屋から敵城へ押し返すことも可能だろう」

駿足アキレウスは慨嘆した。
「ああパトロクロスよ、なんということを言うのか。
わたしは神のお告げにこだわっているということはないし、
尊気の母がゼウスからの伝言をわたしに取り次いできたわけではない。
ただ、何者であれ権勢に勝るのをよいことに自分と対等である者からのものを奪い、
その手柄の褒賞まで取り上げるようなことがあると、どうにも腹の虫が収まらない。
わたしは現にそういう目にあったものだから、憤慨に堪えぬのだ。
わたしが堅城を落とした際、アカイア人により手柄として定められた娘、
これをアトレウスの子アガメムノン王は、わたしの手から取り上げてしまった。
これでは、わたしは何の権利ももたぬ流れ者扱いだ。
だが、済んだことは済んだこととしてもよい。いつまでも腹を立てているわけにもゆかぬ、
ただ、わたしとしては、戦いがわたしの船に及ぶまでは怒りを収めまいというつもりではあったのだ」

アキレウスはパトロクロスに言った、
「さあ、そなたはわたしの世に聞こえた武具を着け、戦好きのミュルミドーン軍を率いて戦場に向かってくれ。
黒雲のごときトロイア軍は船陣を囲み、アルゴス勢は波打ち際に追い詰められているというのだから。
トロイア方は大胆不敵にも全市をあげて出撃しているが、それも輝くわたしの兜の額を間近に見ておらぬからだ。
パトロクロスよ、そなたは船団を破滅から守るべく、激しく敵に襲いかかってほしい。
敵に船を焼かれ、帰国の機会を奪われてはならぬ。
これからわたしが言うことをよく肝に銘じ、そのとおりにしてほしい。
わたしはそなたに、全ダナオイ勢が見て実に天晴れと讃えるような手柄を挙げてほしいのだ。
そうすれば、彼らもあの娘をわたしに返し、さらに見事な品々をもくれるだろうからな。
いったん敵を船から追い払ったならば、引き揚げて来い。
たとえ、激しく雷を鳴らすヘーラーの背の君がなおも手柄を立てさせようとなされても、わたしから離れてトロイア勢と戦ってはならぬ。
それはわたしの名誉を傷つけることにもなろう。
また戦いの中で調子に乗り、敵を討ち取りながらイリオンまで追撃してもならぬ。
永遠の神々のどなたかが、オリュンポスから介入されるかもしれないからだ。
ことに遠矢を放つアポロンは大のトロイアびいきなのだから。
だから、船陣を救った上は引き揚げよ、あとは他の者たちに勝手に戦わせればよい。
願わくば、父神ゼウスにアテネまたアポロンよ、
ここにあるトロイア勢、いやアルゴス勢が一人として死を免れることなく、
われら二人だけが死を免れ、われらだけの手でイリオンが頭に頂く冠を叩き潰してやりたいものだ」

そのころ、アイアスは飛び道具に射すくめられてもはや踏みとどまれないほどになっていた。
矢が兜を叩き、不吉な音を立てる。アイアスは大楯の陰に隠れて槍や矢を防ぐのに手一杯だった。
そこへヘクトールが襲いかかり、大太刀を振るってアイアスのとねりこの槍に斬りつけた。
槍の穂先が地に落ちて転がる。
アイアスは、みずからのあらゆる戦略が神々に打ち破られたということを悟り、退却した。
船を守っていたアイアスが退いたため、トロイア方はプロテシラオスの船に次々に火を放つ。たちまち炎が巻き起こって船尾を覆った。
アキレウスはパトロクロスに言った、
「立て、ゼウスの裔にして馬を駆るパトロクロスよ、船のあたりで燃え盛る火が見える。
急ぎ武具を着けよ、兵はわたしが集める」
パトロクロスは青銅の武具に身を固めた。
脛には銀の留め金を施した脛当てを、胸には星形の飾りをあしらったアイアコスの裔なる騎士アキレウスの胸当てを装着し、
肩には銀鋲打った青銅の太刀、そして頑丈この上ない大楯を担ぐ。、
逞しい頭には馬毛の飾りをつけた見事な飾りの兜を戴き、そして両手に頑丈な槍二振りを取った。
この槍だけはアキレウスのものではなかった。彼の大槍を操れるのはただアキレウスのみだったからである。
かくてパトロクロスは武装を完了すると、アウトメドンに素早く馬をつなげと命じた。
アウトメドンはすぐさま二頭の駿馬、クサントスとバリオスをくびきにつないだ。
この二頭はハルピュイアのポダルケが、オケアノス河畔で草を食んでいる折に西風の神ゼピュロスに生んだ不死の名馬。
アウトメドンは控えとして名馬ペダソスを添えた。これはアキレウスがエエティオンを陥とした際に奪って連れ帰ったもので、
死すべき身ではあったが、不死の神馬に従った。
アキレウスは陣屋を廻り、ミュルミドーン勢の全員に出撃を命じた。
ミュルミドーン人は生肉を食らう凶暴な狼の群れのごとく、隊伍を組んで進んでいく。
アキレウスは彼らの間に立ち、馬と楯もつ兵士らを激励した。

アキレウスはミュルミドーン勢を五隊に分け、それぞれに隊長を任命した。
第一隊を指揮するのは華やかな胸当てつけるメネスティオス。
降る雨に養われる河の神スペルケイオスがペーレウスの美貌の娘ポリュドレと契って生まれた子で、
名目上はポリュドレの夫、ペリエレスの子ボロスの息子となっていた。
第二隊を率いるのは脚速く戦いに長ける豪勇エウドロス。
ピュラスの娘、舞い踊る姿も美しいポリュメレを、アルゴス殺しの神ヘルメスが見そめて交わり生まれた子で、
彼が出産の女神エイレイテュイアによって陽のもとに現れたのち、豪勇エケクレスがポリュメレを娶り、
エウドロスは老ピュラスに引き取られて手厚く養い育てられた。
第三隊は豪勇ペイサンドロスが率いる。
マイマロスの子で、槍で戦うことにかけてはミュルミドーン軍中、パトロクロスに次ぐ卓抜の男。
そして第四隊は馬を駆る老ポイニクスが、
第五隊はラエルケスの申し分なき息子アルキメドンが指揮をとった。
アキレウスは軍を編成し終えると、厳しく言い渡した。
「ミュルミドーン勢の面々よ、おまえたちはこれまでよくわたしを責めていたな、
わたしが強情で酷薄な人間で、嫌がる戦友を無理やり船に引き止めていると。
そして、それほどの怒りにとらわれたのならば、自分たちを国許に帰らせてもらいたいと。
今や、おまえたちが待ちに待っていた戦いの大事が目の前に現れた。
それゆえ、猛る心を各々の胸に抱き、トロイアと戦ってもらいたい」

ミュルミドーン軍の先頭にパトロクロスとアウトメドンが立ち、戦闘態勢をとった。
それを見届けたアキレウスは陣屋に入り、美しい櫃を開けると盃を取り出した。
彼はそれを硫黄で清めると清流で洗い、自らの手も濯ぐと、きらめく酒を掬う。
そして陣屋の前の中庭の中央に立って祈り、上天を仰いで神酒を注ぎ、大神ゼウスに祈った。
ひとつは、戦友パトロクロスに栄誉を授けていただけるように、
もうひとつは、船陣から戦が一掃されたあかつきには、彼が無事に帰ってくるようにと。
明知のゼウスはそれを聞き、そのひとつは聞き入れ、もうひとつは拒むことにした。すなわち前者を受け入れ、後者を拒んだのだ。
さて勇武のパトロクロスとミュルミドーン勢は、闘魂凄まじくトロイア勢に襲かかった。
その勢いはスズメバチのよう。パトロクロスは大声で味方に呼ばわり、彼らの士気を鼓舞した。
軍勢は一団となってトロイア勢に突入し、アカイア勢の雄叫びは周囲の船に反響して凄まじい音を立てた。

トロイア勢は、メノイティオスの豪勇の子が従者とともに出現したのを見ると、
駿足のペーレウスの子が怒りを捨てて和解を選んだものと思い込み、たちまち動転して隊列を乱した。
パトロクロスは、プロテシラオスの船の艫のあたり、トロイア勢が密集している部分に輝く槍を投げつけた。
すると、槍はあやまたずピュライクメネスに命中した。
彼はアミュドンからパイオネス族の騎馬隊を率いてきていたが、彼が右肩を撃たれ砂塵の中へ倒れると、
パイオネス兵たちは算を乱して逃げ出した。
パトロクロスはトロイア勢を船陣から追い払い、船の火を消した。
トロイア勢は凄まじい音を立てて逃走し、ダナオイ勢は一息つくと反撃に転ずる。

メノイティオスの勇猛の子は背を向けたアレイリュコスに槍を突き刺し、地に打ち倒した。
勇猛メネラオスは、トアス(ギリシア軍のトアスとはもちろん別人)を突いて命を奪う。
ピュレウスの子メゲスはアンピクロスを迎え撃つと、先手を取ってその下肢の付け根を撃ち、その眼から光を奪った。
ネストールの息子のひとりアンティロコスは、アテュムニオスを鋭利の槍で刺し貫いて倒す。
彼の傍らにあったマリスは兄弟を討たれて怒り、遺体の前に立ちはだかってアンティロコスに襲いかかる。
しかしそれよりも早く、これもネストールの子で神にも見まがうトラシュメデスが彼の肩口に槍を撃ち込んだ。
かくてサルペドンに仕える二人の勇士は、相手も同じく兄弟同士の二人に討たれてエレボスへと旅立ったが、
彼らはアミソダロスを父とする槍の使い手で、
このアミソダロスは、多数の人々に災厄をもたらしたかの怪獣キマイラを育てた男だった。
オイレウスの子アイアスは、乱戦の中で身動きができないクレオブロスに躍りかかって生け捕りにするや、
太刀を振るってその場で命を絶った。
ペネレオスとリュコンは互いに駆け寄り槍を放ったがともに標的をはずれ、太刀を振るって打ち合った。
リュコンはペネレオスの兜に斬りつけたが太刀は折れ、一方ペネレオスの一撃はリュコンの首筋に突き刺さり、
リュコンは力を失った。
メリオネスは駿足を飛ばしてアカマスに追いつき、戦車に乗ろうとした彼の右肩を刺して車から落とした。
イドメネウスはエリュマスの口の辺りを非情の槍で突き、息の根を止める。

ダナオイ勢は狼が子羊に襲いかかるごとくトロイア勢に襲いかかり、トロイア勢は戦意を失って逃げ続ける。
大アイアスはしきりに青銅の武具を鎧うヘクトールに槍を放とうと気負ったが、
戦巧者のヘクトールは隙を見せない。彼は敗勢の中あくまで踏みとどまり、味方の将兵を救おうとしていた。
トロイア勢は整然と濠を渡って退却することができず、戦車と馬を打ち捨てていく。
パトロクロスはダナオイ勢を鼓舞し、トロイア勢に痛撃を与えんものと、その後を追撃した。
トロイア勢はいまや寸断され、すべての道は敗走する彼らの叫び声に満ちている。
パトロクロスは軍勢の最も混み合っている中へと馬を向けた。二頭の不死の駿馬はまっしぐらに濠を越え、ひたすら先を急ぐ。
そしてトロイアの先頭の陣列を切り崩すと、一転引き返して、濠を越えて町へ逃げ帰ろうとする敵を屠っていった。
パトロクロスはまずプロノオス、次いでエノプスの子テストール、エリュラオス、エリュマス、アンポテロス、
エパルテス、ダマストスの子トレポレモス、エキオン、ピュリス、イペウス、エウイッポス、アルゲアスの子ポリュメロスと、
彼らを次々に大地に打ち倒していった。

味方の軍勢がメノイティオスの子パトロクロスに討たれてゆくのを見たサルペドンは、リュキア勢に向けて叫んだ。
「恥を知れリュキア勢よ!どこへ逃げていく!今こそ気を確かに持つ時ではないか!
あの男にはわたしが立ち向かう。あそこで勝ち誇り、トロイア勢に大損害を与えたのは何者かを知りたい、
多数の勇士の膝を崩したほどの男だからな」
サルペドンは戦車から飛び降りた。それを見たパトロクロスも戦車から飛び出し、互いに掛け声を上げ接近する。
それを見て、奸智のクロノスの御子は憐れみを催し、妹にして妻なるヘーラーに言った。
「悲しいことだ、人間どもの中ではわしには一番可愛いサルペドンが、
メノイティオスの子パトロクロスに討たれる定めにあるとは。
わしの心は千々に迷う、彼を息あるうちに救い出しリュキアへと運んでやるか、
それともメノイティオスの倅の手で死なせてやるかと」
牛眼の女神ヘーラーは言った。
「死すべき人間で、すでに命運の定まった者を死から救おうとなされるのですか。
それならばそうなさいませ、しかしそうした場合、ほかの神々の中からもそのようなことを考える者が出てくるかもしれません。
ですから、ここは眼をつぶって運命を見過ごしくださいませ。
彼が事切れたときには、死(タナトス)と安らかな眠り(ヒュプノス)とに命じて、
その遺体を広大なリュキアの地へ運ばせておやりになればよろしいでしょう…」
人間と神々の父なる神はこれに異を唱えず、血の雨の滴を地に降らせた。
これは、わが子を惜しむ大神ゼウスのせめてもの心づくしだった。

両者が接近すると、まずパトロクロスが槍を投げ、サルペドンの従者、勇名高きトラシュメロスを打ち倒す。
次いでサルペドンが輝く槍を投げたが、これはパトロクロスに当たらず、馬のペダソスの右肩に当たった。
ペダソスは一声嘶き、砂塵の中に倒れた。補助馬が倒れたために残る二馬が暴れたが、
これは槍に名だたるアウトメドンがすぐに対処し、補助馬を切り離して手綱を取り、これをおさめた。
サルペドンは再び輝く槍を投げたが、これはパトロクロスの左肩をかすめた。
パトロクロスはそれに後れて青銅の槍を構えて投げたが、これが見事にサルペドンの左胸を捉えた。
サルペドンはどうと倒れる。
サルペドンは血塗れの砂を握りしめ、断末魔の苦しみの中で親しい戦友の名を呼んだ。
「親愛なるグラウコスよ、おまえはもとより高名な戦士だが、今こそ、槍の使い手、豪勇の面目を示してほしい。
リュキア勢の隊長たちを奮起させ、サルペドンの身を守って戦うように仕向けてくれ。
そして、おまえ自らわたしのために戦ってほしい。
ここで倒れたわたしの武具がアカイア勢に奪われでもしたら、
それでは後々までこのわたしが、おまえの蒙る恥辱、世の指弾の種になってしまうからだ。
だから、断固として踏みとどまり、全軍を鼓舞してやってくれ・・・」
そう言い終えると、彼の両目と鼻腔を死の影が覆った。

グラウコスはこれを聞くと、彼の胸から槍を引き抜いた。
戦友の言葉に胸も張り裂けそうな悲しみに覆われたグラウコスは、
防壁での攻防の中テウクロスに射られた腕の傷を押さえながら、遠矢を放つアポロンに祈った。
「リュキア、あるいはこのトロイアにおわす御神よ、お聞きください。
あなたはどこにあろうとも、わたしのように悲嘆にくれているものの声をお聞きくださいます方。
わたしは今このように重い傷を負い、血も止まらず、肩を動かすこともできません。
ですから槍を握ることも、敵と戦うこともできません。
世にも優れた勇士サルペドンは倒れました・・・ゼウスの御子でありますのに、父神はわが子を守っておやりにならなかった。
しかし神よ、あなたはどうかこの深手を癒し、痛みを眠らせ、わたしがリュキア勢に呼びかけて戦わせることができるよう、
そしてわたしが倒れた友の亡骸を護って戦うことができるよう、力をお授けください」
ポイボス・アポロンはその願いを聞き届け、すぐに彼の痛みを止め、傷口をふさぎ、その胸に気力を吹き込んだ。
グラウコスは偉大なる神が自らの願いを聞き届けてくれたことに喜ぶと、リュキア勢の隊長たちの元へ走っていって、
サルペドンの遺体を護って戦えと激励した。そしてトロイア勢の中へ足を運び、ヘクトールに言った。
「ヘクトールよ!あなたはもう援軍のことを忘れ去ってしまわれたのか!
あなたのために身内と離れ、故郷を離れ、ここで倒れているというのを、あなたは護ろうともせぬ。
今、楯持つリュキア勢の長、サルペドンが死んだ。
これまでリュキアを掟と権勢もて護ってきた者は、パトロクロスに討ち取られた。
だから皆、友として脇に寄り立ち、心に激しい怒りを発し、
ミュルミドーンどもが武具を剥ぎ遺体を辱めぬよう護ってくれ!」
これを聞いたヘクトール、周囲に集うプリュダマス、アゲノール、アイネイアスは激しく嘆いた。
サルペドンは異郷の人であったが、常に彼らの心強き支えであったからである。
そして彼らは激しい怒りを燃やし、ヘクトールを先頭にダナオイ勢に襲いかかった。

パトロクロスは気負い立つ両アイアスに向かって声をかけた。
「両アイアスよ、ここに勇士サルペドンが倒れている、
手ずから武具を剥いで恥辱を与え、これを護ろうとする敵を討ち取ろうではないか!」
トロイア勢、リュキア勢、そしてミュルミドーン勢、アカイア勢は、サルペドンの遺体を取り囲んで激しく戦う。
まずトロイア方が押し込んだ、それはミュルミドーンの勇士、アガクレスの子エペイゲウスが討たれたため。
彼がサルペドンの遺体に手をかけたとき、誉れ輝くヘクトールが大石を投げてその頭を打ち割ったのだ。
エペイゲウスはサルペドンの遺体の上に折り重なって息絶えた。
これを見たパトロクロスは胸を痛め、怒りを発して隼のように前線へ飛び出すと、
これも大石を投げてイタイメネスの子ステネラオスの首に撃ち当て、頸の腱をことごとく引きちぎった。
さしものヘクトールもこれにひるみ、わずかに後退する。
それに従いトロイア勢も少しく退き、アカイア勢はどっと押し出してきた。
しかし今やリュキア勢の長となったグラウコスはいち早く踏みとどまり、
ミュルミドーン族カルコーンの子バテュクレスを槍で刺して倒した。トロイア勢は再び勢いを取り戻す。
メリオネスはオネトールの勇ましき息子ラオゴノスを槍で仕留めた。
アイネイアスは、大楯に隠れて進んでくるメリオネス目がけ青銅の槍を投げつける。
楯ごと貫こうとの心積りだったが、素早く察知したメリオネスはばっと前へ身をかがめ、槍は空しく後方の地面に突き刺さった。
アイネイアスは腹を立てて言った。
「メリオネスよ、おまえがいかな踊り子であっても、わが槍が当たればもはや動くことかなわなかったであろうに」
槍に名高きメリオネスは言い返した。
「アイネイアスよ、おまえがいかに強くとも、向かってくる勇士の勇気をすべて抑えるのは容易ではあるまい。
わたしとて、鋭い青銅でおまえの身体の中央に撃ち当てれば、おまえがいかに腕を誇っていようと、
わたしに誉れが与えられることになろう」
これを聞いたメノイティオスの子は言った、
「メリオネスよ、何故そのような文句を並べるのか。トロイア勢はいかになじられようと引き下がりはせぬ。
戦の要は腕にあるぞ、この上はよけいな口は利かずに戦うがよい!」

激闘は続き、槍先や血糊と砂塵のため、誰もすぐにはサルペドンの遺体の見分けがつかぬほどとなった。
大神ゼウスはこの光景を見ながら、パトロクロスをいかに殺そうかとあれこれ思いめぐらせていた。
今ここでサルペドンの上へヘクトールにより切り殺させようか、
まだ多くの者に苦難を増してやろうかと。そのうちゼウスは心を決め、
まずパトロクロスにトロイア勢をイリオンへと追撃させようとした。
そしてまずヘクトールに臆病風を吹かせる。
ヘクトールはたちまち戦車に飛び乗ると馬首をめぐらし、トロイア勢にも退却を命じたが、これはゼウスの御心に従ったことだった。
さしものリュキア勢もこうなってはこらえ切れず、後退する。
パトロクロスはサルペドンの遺体から鎧を剥ぎ取ると、船に持っていくようにと仲間に渡した。
ここで叢雲集めるゼウスはポイボス・アポロンを呼び、以下のことを命じた。
サルペドンの遺体を戦場から運び出し、血を拭き清めること、
はるか遠くへと運んで、河の流れに浸けて洗うこと、
その身にアンブロシアを塗り込め、朽ちぬ衣をまとわせ、
矢のごとく速き送り手である「死」と「眠り」との双子の神を一緒につけ、広大にして肥沃なリュキアの地に運んでいかせること。
「…そこでは、同胞や身内の者たちが集まり、彼を香薬に浸け、また墳墓を築き墓標を立てて弔うであろう、
それが死人の受くべき誉れなるゆえに」
父神の命を拝したアポロン神はイデの山を下り、サルペドンの遺体を運び出すと、万事そのとおりに取り計らった。

さて、パトロクロスは馬とアウトメドンとを励ましつつトロイア勢とリュキア勢を追っていく。
彼は何という迷いに落ち込んだことだろう、ペーレウスの子の言葉を忘れ去るとは。
しかし、ゼウスの神慮は常に人の思慮に立ち勝るのだ。
パトロクロスは討ち取った、まずアドレストス、アウトノオス、エケクロス、メガスの子ペリモス、
エピストール、メラニッポス、さらにエラソス、ムリオス、ピュラルテス。
トロイア勢は皆、彼から逃れようとする。
もしポイボス・アポロンがこの時櫓の上に立ちはだかって助勢しなければ、
アカイア勢はパトロクロスによりトロイアを陥落させていただろう。
城壁を登ろうとするパトロクロスを、アポロン神は三度不死の御手で彼の楯を叩き、突き落とした。
パトロクロスが四度目に城壁を登ろうとした時、神は恐るべき声を上げて叱咤し、翼ある言葉をかけた。
「退がれ、ゼウスの裔なるパトロクロスよ!
トロイア人の城市は、おまえの槍に攻め取られる定めにはない。
いや、おまえよりもはるかに優れた勇士アキレウスにもだ!」
遠矢を射る神アポロンの憤りを前にしてパトロクロスは怖れ、はるか後ろへ引き下がった。

ヘクトールはスカイア門の内側におり、再び打って出るべきか全軍を城中へ退かせるべきか迷っていたが、
その傍らにポイボス・アポロンがヘクトールの従兄弟であるデュマスの子アシオスの姿をとって立ち話しかけた。
「ヘクトールよ、なぜこのようなところにいるのか、あなたらしくない。
わたしがあなたに劣っている分だけあなたより優れていればよかったのに、と思わずにはいられない。
さあ、パトロクロス向けて強い蹄の馬を向けてください、アポロンが誉れを賜れば、彼を討ち取れるやもしれません」
そして、神は戦場へと姿を消した。
ヘクトールは意気軒昂なる御者のケブリオネスに命じ、合戦の場へと舞い戻った。
ほかのダナオイ人には目もくれず、ただパトロクロス目がけ突き進む。
これに気づいたパトロクロスは、右手で大石をつかむと身構え、投げつけた。
石はケブリオネスの額に命中し、眉間を撃ち砕いた。ケブリオネスは一回転して戦車から転げ落ちる。
それを見たパトロクロスは言った、
「ほう、身軽な男だ。かように楽々ととんぼを切るとは。
ここが海原であったなら、船から飛び込んで牡蠣を取ってきて、大勢の腹を満たしただろうに。
全く、トロイア方にも身軽な軽業師がいたものだ」
そして戦利を得べくケブリオネスの遺体に跳びかかったが、ヘクトールも戦車を降り、
二人はケブリオネスを囲んで戦い始めた。
メノイティオスの子パトロクロスと、誉れ輝くヘクトールは、
かたや頭をつかめばかたや足に取り付く、激しい戦いを演ずる。
トロイア勢とダナオイ勢もこれに負けじと荒々しく競り合う。

太陽が中天を過ぎるころはまだ勝負の帰趨は明らかではなかったが、
太陽が西の空に傾きかけるころになると、アカイア勢が優勢を占めた。
彼らはケブリオネスの遺体を矢の飛ばぬところまで引き出すと、その両肩から鎧を剥いだ。
パトロクロスはなお勢い衰えずにトロイア勢に攻めかかり、三度の突撃で九人の戦士を討ち取ったが、
四度目に突き進んだ時、それが彼の命運の極みとなった。
彼の傍らにポイボス・アポロンが霧に姿を隠して立ち、その平手でパトロクロスの背を打ち据える。
アキレウスの大兜は地に落ちて砂塵にまみれ、手にする大槍は砕け、
肩から楯は落ち、胸当てさえも解け落ちた。
そしてその背中を、ダルダノスの勇士、パントオスの子エウポルボスが槍で突き刺した。
彼は槍、馬術、脚力ともに人に優れ、この日は初陣ながら二十人を討ち取っていた者だったが、
しかしパトロクロスを一撃で討ち果たすことはできず、反撃を恐れた彼は素早く味方の列に退いた。
パトロクロスは神と槍の一撃を受けつつも味方の元へ下がろうとする、
しかしヘクトールがそれを認めて素早く駆け寄ると、槍でその下腹を貫き通した。
そしてヘクトールはパトロクロスに言う、
「気の毒な奴だ、武勇を誇るアキレウスもおまえの役には立たなかったな。
居残った彼奴はおまえに、勇士を殺すヘクトールを討たぬ限りは帰ってくるな、とでも言いくるめたのか」
致命傷を受けたパトロクロスは、最後の力を振り絞って答えた。
「ヘクトールよ、今は勝ち誇るがいい。
おまえに勝利を授けたはクロノスの御子とアポロンなれば、容易くわたしを倒せたのだ。
さもなくば、この辺りの者二十人がかかってこようとも、たちどころに討ち果たしたであろう。
わたしを死に導いたのは、おぞましい運命と、レートーの御子神と、人間としてはエウポルボス、
おまえは三人目の殺し手なのだ。
もうひとつだけ言っておく、決して忘れるな。
おまえの命も長くはあるまい、おまえの最期、運命の日が目前に迫っているぞ、
人柄優れたアイアコスの子、アキレウスの手に討たれる日が」
パトロクロスがこう言い終えると、死の影が彼を覆い、その魂魄は四肢から抜け去り、冥王アイデスの府へと赴いた。
誉れ輝くヘクトールは彼が絶命したのを見てとり、言った。
「パトロクロスよ、なぜわたしに破滅を予言するのか。
あの髪美わしいテティスの子アキレウスが、先にわたしの槍に突かれて命を落とすかもしれないではないか」
そして青銅の槍を傷口から引き抜くと、すぐさまアキレウスの神にも見まがう従者アウトメドン目がけ走り出した。
しかし、撃ち当てようと気負った標的は、神々からペーレウスへ贈られた不死の駿馬がいち早く運び去った。

(第十七歌へ続く)


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