ギリシアVSトロイアの戦闘(第三日)その1


◇第三日、その1(第十一歌)

暁の女神が、不死なる神々と死すべき人間に光をもたらすべく、貴公子ティトノスとの添寝の臥所から起き上がった。
(ティトノスはトロイアの先王ラオメドンの子で、プリアモスの兄弟。暁の女神エーオースの愛人。
二人の間の子が、のちにトロイア方に参戦するエチオピア王メムノンである)

ゼウスは、冷酷無残なる争いの女神エリスに戦いの徴を持たせてアカイア勢の船陣へ遣わす。
エリス女神はオデュッセウスの船の傍らに立ち、凄まじい大声で雄叫びを上げ、アカイア勢一人一人の胸に、
休むことなく敵と刃を交える不屈の気力を打ち込んだ。
たちまちアカイア勢に戦意が沸き起こり、アトレウスの子はアルゴス勢に出撃の準備を命じ、武装する。
諸将は戦車を濠の傍らに並べ、喚声を上げた。
トロイア勢も、ヘクトール、プリュダマス、アイネイアス、ポリュボス、アゲノール、アカマスらを中心に戦列を整え、
ヘクトールが軍中を駆け回って兵を督励する。
そして、両軍の戦列が整うと、両者は一斉に平地に押し出して激突した。

両者、敗走など考えずに獣のごとく荒れ狂い、殺し合う。争いの女神エリスはこの光景を見て大いに喜んだ。
ほかの神々はオリュンポスにあって、黒雲を集めるクロノスの子がトロイア方に栄誉を与えようとするのを非難していたが、
ゼウスは彼らから離れ、ひとりこの戦いを眺めながらじっと座っていた。
戦いは昼に差し掛かった。トロイア軍の戦列が乱れ、ダナオイ勢は勇を振るって次々突入していく。
アガメムノンは真っ先に敵陣に突入し、軍勢の牧者ビエノールを倒し、さらにその御者オイレウスも討ち取る。
そしてその死体に見向きもせずさらに前進し、プリアモスの二子イソスとアンティポスを討ち取った。
この二人は、かつてイデの山端で羊飼いをしていたところをアキレウスが捕らえ、身の代と引き換えに釈放した人物であった。
それを知っていたアガメムノンは、直ちに二人の武具を剥ぎ取った。アルゴス勢は彼らの軍勢を蹴散らす。
アガメムノンは次いで勇将アンティマコスの二子・ペイサンドロスに戦場で一歩も引かぬヒッポロコンに立ち向かった。
彼らはアガメムノンの勢いに恐怖し、生け捕りにしてほしいと嘆願したが、
アガメムノンは言った。
「お前たちが真実アンティマコスの倅であるのなら、
以前オデュッセウスとともにトロイアへ使節として赴いたメネラオスを、
その場で殺してアカイアへ帰してはならぬとほざいたあのアンティマコスの倅ならば、
おまえらは今ここで、父の吐いた暴言の償いをせねばならぬ!」
そしてペイサンドロスを槍の一撃で打ち倒すと、戦車から飛び降りたヒッポロコスに襲い掛かり、
両腕を切り落とし、首をはねた。
アガメムノンはそれを打ち棄てたまま、激戦の中へ突っ込んで刃を奮った。
彼の前に立つトロイア勢は、ひとたまりもなく敗走する。

アガメムノンの鬼神のごとき攻勢にトロイア勢は総崩れになって敗走、イーロスの墓の前を過ぎ、イーリオンへと退却する。
アトレウスの子は、両腕を血に染めながらどこまでも追撃する。
トロイア勢がイーリオンの城壁の下に達しようとした時、人と神との父なる神はイデの山の頂に降りて腰を下ろし、
雷火を握って伝令の女神イリスに命じた。
「行け、脚速きイリス、ヘクトールに伝えよ。
大将アガメムノンが前線にあって荒れ狂う間は、自らは退き兵士には敵と激しく渡り合えと、
しかしアガメムノンが槍に刺されるか矢に当たって戦車に飛び乗る時は、その時こそヘクトールが敵の船陣に達し、
日が沈み夜の闇が訪れるまで、わしが彼に敵を撃つ力を与える、とな」
駿足のイリスは直ちにイーリオンに達し、戦車に座っているヘクトールの傍らに立ってゼウスの言葉を伝えた。
それを聞いたヘクトールは戦車を降り、槍を振り回しながら兵を激励する。
トロイア勢は兵をまとめ、アルゴス勢に再び向き合った。その中に、アガメムノンは突撃する。

アンテノールの子イピダマスがアガメムノンの前に立ちはだかった。アガメムノンは槍を投げたが、
それをかわしたイピダマスはアガメムノンに襲い掛かり、槍で帯の辺りを刺す。
イピダマスはそのまま押し込んだが、穂先は銀の金具に当たって折れ曲がった。
アガメムノンはその槍をつかむや引き寄せてもぎ取り、太刀を彼の首に叩きつけた。
そしてその武具を剥ぎ、アカイア勢の中へ姿を消した。
そのときアンテノールの子・勇士コオンは弟の死に大いに悲しんだが、
槍を握ってひそかにアガメムノンに肉薄すると、肱の下を槍で刺した。
総帥アガメムノンは驚いたが、ひるまずに槍を握ってコオンに突きかかる。
コオンはトロイア軍に呼びかけつつ弟イピダマスを引いて行こうとしたが、
アガメムノンはコオンに襲い掛かると一撃で突き殺し、兄弟の首を一度にはねた。

アガメムノンは流れる血にも構わず奮戦していたが、やがて鋭い痛みがその腕に走った。
豪勇アトレウスの子は痛みに耐えかね戦車に乗ると退却する。
それを見たヘクトールはトロイア勢、リュキア勢、ダルダノイ勢に呼ばわり、軍を前に進め攻勢に転じた。
先頭に立ったヘクトールは、旋風のごとく乱戦の中へ突っ込んでいく。
アサイオス、アウトノオス、オピテス、クリュティオスの子ドロプス、オペルティオス、アゲラオス、
アイシュムノス、オロス、ヒッポノオスらの将軍が瞬く間に討ち取られ、それよりも多い兵士達がヘクトールの刃の前に次々と斃れた。
吹き迷う風の怒号の中波しぶきが四方に飛び跳ねるように、アカイア勢の数知れぬ将兵が殺戮されてゆく。
この中、オデュッセウスがディオメデスに言った。
「私の傍らに立ってくれ。輝く兜のヘクトールに船陣を占領されるようなことになれば恥辱この上ないではないか」
豪勇ディオメデスは言った。
「もちろん私は踏みとどまるつもりだ。しかしそれもわずかの間だろう。
雲を集めるゼウスは、明らかにわれらよりもトロイア勢に力を貸すおつもりのようだからな」
そしてテュンブライオスめがけ槍を投げ、戦車から転落させた。
オデュッセウスは姿堂々たるモリオンを撃つ。二人はそれらを捨て置き、トロイア勢の中に割って入り暴れ回った。
そのおかげでアカイア勢は一息つくことができた。
ディオメデスとオデュッセウスは、ペルコテに住むメロプスの二子を討ち取った。
さらにオデュッセウスはヒッポダモス、ヒュペイロコスの二人を討ち取る。

クロノスの子は両軍に互角の戦いを進めさせた。
テューデウスの子はパイオンの一子・勇士アガストポロスを討ち取る。
これを見たヘクトールは、大声を上げつつ二人に向かっていった。トロイア勢もそれに従う。
ディオメデスが身を震わせてオデュッセウスに呼びかける、
「あれを見ろ!疫病神がこちらに向かってくる、強剛ヘクトールだ。
しかし、われらは踏みとどまって、食い止めるぞ!」
そして影長く曳く槍を構え、頭に狙いをつけて投げ放った。
槍はヘクトールの兜の突端に当たったが、青銅の穂先は兜にはね返された。
ポイボス・アポロンから賜った三層造りの兜のおかげだったが、さすがに命中時の衝撃には耐え切れず、
飛び退いて兵たちの間に姿を消し、膝をついた。
ディオメデスがそれを追ったが、ヘクトールはすぐに立ち直ると戦車に飛び乗り、そのまま味方の軍勢の中にまぎれてしまった。
ディオメデスは叫んだ。
「犬め!またしても生き延びたな!またしてもポイボス・アポロンが救ってくださったのだ。
これからも貴様は前線にあってはポイボス・アポロンに祈らねばなるまい。
たとえ後になっても、今度会うときには必ず片付けてやる、私にいずれかの神が味方してくださればな。
だが今は他の者を相手にしよう、誰であっても構わぬ」
そしてアガストポロスの武具を剥ぎにかかった。

そのとき、髪美わしきヘレネの夫アレクサンドロス(パリス)は古のダルダノスの子イーロスの塚に立つ石碑に寄りかかり、
軍勢の牧者ディオメデスに狙いをつけて弓を引き絞った。
ディオメデスがアガストポロスの胸当て、大楯を剥ぎ、さらに兜を剥ごうとした時、その右足甲に矢が突き立った。
矢は足を貫き地面にまで達する。
アレクサンドロスは笑いながら言った。
「どうだ、見事に当たっただろう。貴様の腹に当てて仕留められれば一番よかったのだが。
そうすれば、山羊が獅子を恐れるように貴様を怖がるトロイア勢も一息つけたのだがな」
豪勇ディオメデスはひるまず言い返した。
「弓しか使えず、口汚く、しゃれた髪型で気取っている女たらしの貴様のようなやつには、
打ち物とって一騎打ちの戦いを挑むとなれば、弓矢も役には立たんぞ。
今もこの足を少し引っかいたくらいで自慢しているが、女子か小童に打たれたのと同じで気にもならん。
腰抜けの射掛けた矢などなまくら同然だからな。
だが、私の手から飛ぶ槍はそれと違って鋭い、かすっただけでも相手の息の根を止めてしまう。
男の女房の頬は爪あとだらけになり、子は父無し子となる。
男は大地を血に染めて朽ち、屍の周りには弔い女より野鳥のほうが多かろう」
オデュッセウスが彼を守ってその前に立ちはだかる。ディオメデスは矢を引き抜いたが、
やはりパリスの矢は鋭かった。痛みに耐えかね、戦車に乗って退く。心の中は悔しさで満ちていたのだが。

槍に誉れの高きオデュッセウスは一人取り残された。
アルゴス勢の誰一人として彼の周りにとどまるものはいない。
さしものオデュッセウスも心乱れた。
「何ということか。この私はどうなるのか。恐れをなして逃げるのは恥辱、しかし敵の手に落ちるのはさらに困る。
クロノスの御子は他のダナオイ勢をことごとく敗走させてしまったのだから・・・」
しかし、すぐに思い直した。
「どうしてこんなことをあれこれ考えたのか。
わかりきったことではないか、戦場を逃れるものは腰抜けであり、
戦いに見事な手柄を上げるような者ならば、敵を討とうが敵に討たれようが、
最後まで踏みとどまらねばならぬということは!」
オデュッセウスの周りにトロイア勢が殺到した、しかしオデュッセウスは勇猛果敢に反撃する。
鋭利の槍を振りかざし、勇猛デイオピテスを刺し、次いでトオンとエンノモスを倒し、さらにケルシダマスを突いて転倒させ、
ヒッパソスの子カロプスを突いた。
このときカロプスの兄、神にも見まがうソコスが駆けつけ、オデュッセウスに名乗りを上げて突きかかった。
槍は楯を貫きオデュッセウスの胸当てをも突き通して脇腹の肉をそぎ落としたが、臓腑に達することはパラス・アテネが許さなかった。
オデュッセウスは傷が急所が逸れたことを知ると後ろに下がって言った、
「哀れな奴だ!死がお前の眼前に迫っているぞ!」
そして、恐れをなして逃げようとしたソコスに槍を突き立て、息の根を止めた。
オデュッセウスはソコスの槍を抜いたが、傷口から血がほとばしり出た。
トロイア勢は、それを見るとさらに厳しく彼を包囲し、迫ってきた。
絶体絶命の危機。オデュッセウスは大声で味方を呼んだ。一度、二度、そして三度・・・・・・
その声を、アレスの寵を受けるメネラオスが聞きつけた。

メネラオスは傍にいた大アイアスに声をかけた。
「テラモンが一子、ゼウスの血を享け、軍勢を統べるアイアスよ、堅忍不抜のオデュッセウスの叫び声が聞こえる。
どうやら敵中に一人取り残されてしまったようだ、助けてやらねば!
さああの中に突撃するぞ、彼はしたたかな男ではあるが、もしやのことがあってはならぬ!」
そして返事も聞かずにトロイア勢目掛け突っ込んでいった。アイアスも後に続く。
二人はオデュッセウスの姿を認めた。手傷を負ったオデュッセウスは今にも討ち取られそうだ。
アイアスは猛然と駆けつけ、大楯を構えてオデュッセウスの傍らに立つ。
先日のアイアスとヘクトールとの一騎打ちのさまを見ていたトロイア勢は仰天し、一斉に逃げ散った。
メネラオスはオデュッセウスの手をとって集団の中から救い出す。
そこへ従者が戦車を駆って近づき、オデュッセウスを収容する。
さて、アイアスは逃げるトロイア勢に襲い掛かった。
まずプリアモスの妾腹の子ドリュクロスを討ち取り、パンダコスを刺し、リュサンドロス、ピュラソス、ピュラルテスも刺す。
勇名轟くアイアスは馬・人問わず手当たり次第に薙ぎ倒し、暴れ回った。

一方、ヘクトールは戦線の左手、スカマンドロス河の堤沿いで戦っていた。
ここは最激戦区で、ヘクトールは大ネストールと豪勇イドメネウスとを相手に、阿鼻叫喚の中休むことなく槍を振るっていた。
アカイア勢もそのヘクトールを相手に一歩も引かなかったが、
このとき髪美わしきアレクサンドロスの矢が医神アスクレピオスの一子、軍勢の牧者マカオンの肩を射抜いた。
すぐさまイドメネウスはネストールに声をかけた、
「ネーレウスの子、アカイア勢の大いなる誉れなるネストールよ、
あなたの戦車にマカオンを乗せ、急ぎ船陣に走っていただきたい。
医者というものは、他の者幾人にも値するものですから」
マカオンは、父アスクレピオスゆずりの医術の腕を持っている。
この戦いでも、重傷を負った将兵を幾度も快癒させていた。彼にもしものことがあってはならない。
ゲレニア育ちの騎士ネストールは自分の車に飛び乗るとマカオンを乗せ、馬に鞭を当てて船陣めがけ走った。
ヘクトールの御者ケブリオネス(ヘクトールの兄弟)がヘクトールに言った、
「われわれは戦陣の端のほうでダナオイ勢と戦っているが、他のトロイア勢は人馬の見分けがつかぬほど混乱し追い立てられている。
テラモンの子アイアスの仕業だ。あの幅広の楯でわかる。さあ、われらはそちらへ戦車を向けよう」
そして馬に鞭を当てた。
ヘクトールはダナオイ勢が猛威を振るう戦陣へ突入し、当たるを幸い薙ぎ倒す。
しかし、テラモンの子アイアスには戦いを挑まなかった。先日の一騎打ちがまだ脳裏から離れなかったのだ。
このとき、高きに坐す父神ゼウスは、アイアスの胸に恐怖の念を起こさせた。
ためにアイアスは先ほどまでの勇気を忘れ、ゆっくりと退き始めた。
トロイア勢が追ってくるのを見て、何とか勇気を振り絞って踏みとどまり奮戦するが、気力が続かない。
それでも、トロイア勢は彼のいるところから先に進むことはできなかった。
さて、アイアスが敵の攻撃にさらされているのを見たエウアイモンの子エウリュピュロスは、
彼の傍らに駆けつけると輝く槍を投げ、パウシオスの子アピサオンを倒した。
エウリュピュロスはアピサオンの武具を剥ごうとする、そこへアレクサンドロスが矢を放った。
矢はエウリュピュロスの右腿に当たり、彼は戦友の群れの中に退いた。
エウリュピュロスはダナオイ勢に、アイアスへの加勢を呼びかけた。
ダナオイ勢は楯を構えてアイアスの元に駆けつける。アイアスはその中に駆け込むと、振り返ってトロイア勢に向き合った。

両軍がなおも激戦を繰り広げる中、
ネーレウス譲りの駿馬は汗をかきつつネストールとマカオンを戦場から運んでいたが、
船から両軍の戦いを眺めていた駿足の勇士アキレウスがそれを認め、僚友パトロクロスを呼んだ。
それを聞きつけたメノイティオスの勇猛の息子パトロクロスは陣屋から出てきたが、
これが彼の悲運の始まりとなろうとは!
パトロクロスはアキレウスに語りかけた。
「アキレウスよ、私を呼んだのはなぜか?」
アキレウスは言った。
「メノイティオスの優れた子よ、そなたは私には大切な友。
今こそアカイア勢は私の足元にひざまづいて懇願してくるだろう、もはや彼らの手には負えぬ事態となっている。
ゼウスの寵に与るパトロクロスよ、今から一走りしてネストールに聞いてきてもらいたい、
彼が運んできた負傷者は誰なのかを。見たところアスクレピオスの倅マカオンのようだったが、
馬が先を急いで駆け抜けていったゆえ顔までは見ていないのだ」
パトロクロスは親友の言葉に従い、陣屋と船の並ぶ道を走り去った。

さてネストールが自らの陣屋に到着すると、従者のエウリュメドンが戦車から馬を解く。
ネストールはマカオンと共に車から降りると渚で汗を乾かし、陣屋に入って長椅子に腰を下ろした。
二人がしばし飲食しながらくつろいでいると、入り口にパトロクロスが姿を現した。
老ネストールはそれに気づくと彼のほうへ歩いていき、その手を取って中へ招き入れ座を勧めたが、
パトロクロスはアキレウスへの報告があるからと辞退した。
それを聞いてネストールは言った。
「アキレウスはなぜそれほどまでに飛び道具を受けて傷ついた者だけの気遣いをしているのか。
全アカイア勢がどれほど苦しんでいるか、彼は知らぬのか。
ディオメデス、オデュッセウス、アガメムノンら名だたる勇士が傷を受けている。
この男も、矢に当たったところをわしがたった今戦場から連れ帰ったところだ。
アキレウスは豪勇の士でありながら、われらアルゴス勢の船が焼かれ、われわれが討たれるまで動かぬつもりか。
ああ、わしにかつての若さと力があったならば!・・・・」
そしてネストールは、自分が若かった頃の武勇談を語り始めた。
エリス人イテュモネウスを討ち取ったこと、
モリオネを母とする、当時まだ若かった兄弟クテアトスとエウリュロスがいたエペイオイ人との戦いにて、
ムリオスを倒しモリオネの子らを追い詰めたこと、
若き日のアキレウスとパトロクロスそして各々の父ペーレウスとメノイティオスの四名と同席した際の話・・・
「・・・・あの時メノイティオスはそなたに、
『アキレウスはそなたよりも家柄が上であるが、年はそなたが上だ。
アキレウスは力ではそなたをはるかに凌ぐが、そならは理にかなった忠告を行い、間違いのないように導いてやれ。
それはアキレウスのためにもなることなのだ』
と諭されたが、それを忘れてしまったのか。しかし今からでも遅くはない、アキレウスにこのことを話してやれ。
友人の忠告というものは効き目のあるものだ。
もし彼が神からのお告げを受けてそれを避けようとしているのであれば、
せめてそなたを遣わしてミュルミドーン軍を率いさせればよい。
またその武具をそなたに貸し、それをそなたに着せて戦場に立たせてやったらよい・・・」

ネストールの言葉に心を動かされたパトロクロスは、アキレウスの許へ走っていったが、
その途中、エウアイモンの子、ゼウスの血を享けるエウリュピュロスが腿に矢を受けて引き揚げてくるのに出くわした。
その額からは汗が滝のように落ち、その傷からは血がどくどくと流れている。
パトロクロスは言った。
「ああ、ゼウスに育まれた勇将エウリュピュロスよ、答えてくれ。
アカイア勢はこれからも巨漢ヘクトールを抑えることができようか、
それとも彼の槍に撃たれて果てるほかないのであろうか」
エウリュピュロスは答えた。
「ゼウスの血を享けるパトロクロスよ、もはやアカイア勢に自らを守る力はない。みな船の中に逃げ込むことになろう。
諸将はことごとくトロイア方の手にかかり、船内に臥せっている。敵の気勢は上がるばかりだ・・・
だが、パトロクロスよ、今はわたしの治療を行ってくれないか、
かのケイローンに教えを受けたアキレウスがおまえに伝授したという名薬で。
マカオンは自らが手傷を負ったそうだし、ポダレイリオスはいまだ戦場にあってトロイア勢に立ち向かっているからな」
パトロクロスはアキレウスへの伝言の件もあり逡巡したが、結局彼を見捨てられずに彼を陣屋へと連れて行き、
自らの持つ薬でエウリュピュロスの傷を癒してやった。


◇第三日、その2(第十二歌)

パトロクロスがエウリュピュロスの傷を治療している間、
アルゴス勢とトロイア勢は大混戦の中にあった。
トロイア勢はアカイア勢を防壁まで押し返し、さらに濠を超えてアカイア陣内へ雪崩れ込まんと攻め立てる。
豪勇ヘクトールは旋風のごとく戦い、群がる軍勢の中を駆け回り、濠を超えよと兵を急き立てる。
しかし馬は濠に怯えて足を止め、戦車は前へ進むことができない。
歩兵も濠の中に並べられた鋭い杭に地団駄を踏んでいた。
この時プリュダマスがヘクトールに言った、
「馬を駆ってこの濠を渡ることは無謀だ、容易ではない。無理に濠に下りて戦えば大損害を蒙るし、
よしや船陣に侵入できても、もしアカイア勢の反撃にあえば、今度は濠に阻まれて退却できず殲滅されよう。
そこで、われらは皆馬を下り、徒歩となって全員一団となり、ヘクトールに従うことにしよう」
その献策を聞いたヘクトールは即座に戦車から降りた。それに応じて皆が車から飛び降り、戦車を濠のそばに止める。
そしてトロイア勢の全兵力は再編成され、五つの部隊に分かれた。
第一隊はヘクトールとプリュダマス、ケブリオネスが率い、数も多く戦意も最も高かった。
第二隊はパリス、アルカトオス、アゲノールが指揮し、
第三隊はプリアモスの二子ヘレノスとデーイポボスにヒュルタコスの子アシオスが率いる。
第四隊はアンキセスの子アイネイアス、アンテノールの二子アルケロコスとアカマスに率いられ、
第五隊はリュキア人サルペドンがグラウコスとアステロパイオスを副将としてトロイア同盟国軍を率いる。
トロイア軍は牛皮の楯を連ねてめぐらし、ダナオイ勢向けてまっしぐらに突き進んでいった。

こうしてトロイア軍は団結し名将プリュダマスの策に従ったが、ただ一人ヒュルタコスの子アシオスはそれに従わなかった。
彼は戦車を残していくことをよしとせず、部下の一隊を率い、戦車を駆って堀に近づいた。
その中には、イアメノス、オレステス、アシオスの子アダマス、オイノマオスら諸将の姿もあった。
見ると、防壁の扉が開かれたままとなっている。これは退却してくる味方を迎えるためのものだったが、
アシオスはこれ幸いとわき目も振らずその扉に殺到した。
しかし、それは愚かな行為だった。いざ一番乗り!と思った瞬間、門の脇から二人の勇士が飛び出してその行く手をふさいだ。
この二人は誰か?それはラピタイ族の勇猛なる子で、
一人はペイリトオスの子、豪勇ポリュポイテス、
一人は人間の厄たるアレスにも劣らぬレオンテウス。
二人はこれまで船陣から出ず主にその防御を担当していたが、
事ここに至るや門を守るべく飛び出し、勇躍戦闘に参加した。
ラピタイ族はかのケンタウロスとも戦いを演じた勇猛なる一族、ただ二人でアシオスと後続の勇士を迎え撃った。
ポリュポイテス、レオンテウスともに野猪のごとく、斜交いに飛び交いながらその身に迫る刃を交わし、激しく突きかかる。
ほどなく配下のラピタイ人も防壁上に駆けつけ、門をめぐっての大乱戦となった。
アシオスは予想外の出来事にゼウスに向け恨み言を述べたが、もちろんゼウスは聞き入れなかった。
ペイリトオスの子、豪勇ポリュポイテスはまずダマソスに槍を投げてその頭を貫き、さらにピュロンとオルメノスを討ち取る。
アレスの裔ともいうべきレオンテウスはアンティマコスの子ヒッポマコスを槍で貫き、
次いでメノン、イアメノス、オレステスらを斬り倒した。

ポリュポイテスとレオンテウスが討ち取った敵の武具を戦利として剥ぎ取っている間、
ヘクトールとプリュダマスに率いられた最強の第一隊は濠を渡ろうと気負い立っていたが、
その時、鷲が一羽トロイア方を左に見つつその前を横切った。
鷲は、その爪の間にもがき苦しむ真紅の蛇を掴んでいた。
捉えられた蛇は苦しみつつも反撃に転じ、鎌首を勢いよく振り上げると鷲の胸元へ咬みつく。
痛みに耐えかねた鷲は蛇を放し、一声啼いて飛び去った。
蛇はトロイア軍のただ中に落ちると、激しくのた打ち回る。
それを見たトロイア軍は、これぞアイギス持つゼウスの下した予兆に違いないと慄然とした。
プリュダマスはヘクトールに言った。
「ヘクトールよ、私の最善と思うことを申し述べたい。
ダナオイ勢と雌雄を決するべく進むのはやめてはどうだろうか。
先ほどの光景が我等に対する予兆であるならば、事態はそのとおりになるであろう。
たとえわれらが防壁を打ち破り、アカイア勢が退くとしても、
われらが目的を達して彼らの陣から悠々と引き揚げることはまず無理であろう。
必ずや大きな痛手を受け、撃たれた多数の味方を残してゆくことになるだろうからだ。
予言者ならば必ずそう解くであろうと思う」

これを聞いた輝く兜のヘクトールはプリュダマスを睨んだ。
「プリュダマスよ、その意見は気に入らぬな。そなたならばもっとましな事を言えるはずだが。
本気でそう言うのなら、それは神々がそなたの頭を狂わせてしまったのだ。
雷を轟かすゼウスがみずから私にこの試みの成功を請け負ってくださったのだ、
鳥ごときがどう飛ぼうと、知ったことではない。
われらはただ大神ゼウスの御心に従えばよい。
祖国のために戦う、それこそが唯一最善の予兆なのだ!」
そして軍の先頭に立つと、兵達は大喚声を上げて後に従った。
雷を楽しむゼウスは、イデの山並みから疾風を発して船陣に砂塵を運んだ。
かくてトロイア勢とダナオイ勢は防壁をめぐって激戦を始めた。
防壁を守る両アイアスは味方を激励しつつあちこちを走り回る。

第五隊を率いるゼウスの子サルペドンはヒッポロコスの子グラウコスに声をかけた。
「グラウコスよ、われらがリュキアにおいて特に重んぜられ、上座に座り尊敬を受けているのはなぜか。
われらが広大な領地を持ち、見事な果樹園や田畑を持っているのはなぜか。
これを思えば、われらはリュキア勢の第一線に踏みとどまり、燃え盛る火のごとき激戦に立ち向かわねばならぬ。
さあ、進もうではないか!」
二人はリュキア軍を率いて防壁に進撃する。これを見たぺテオスの子メネステウスは身震いした。
みずからの持ち場へ恐るべき勢いでリュキア勢が迫ってきたからである。
誰か加勢はいないかと辺りを見回すと、両アイアス、またテウクロスの姿が見えた。
しかし、凄まじい喧騒のためにここから呼ばわっても到底彼らには聞こえまい。
メネステウスは伝令使トオテスに、両アイアスに加勢に来てもらうように、
無理ならばテラモンの子アイアス(大アイアス)だけでもテウクロスと共に来てもらうように、と遣わした。
トオテスが両アイアスにメネステウスの言葉を伝えると、テラモンの子アイアスはすぐさま請け負い、
オイレウスの子(小アイアス)に言った。
「アイアスよ、おまえと豪勇リュコメデスはここに残り、ダナオイ勢を励ましてくれ。
わたしはちょっと戦ってくる。役目を果たせばすぐに戻ってくるぞ」
そして兄弟のテウクロス、そしてテウクロスの弓を持つパンディオンとともにメネステウスの元に急いだ。

大アイアスは防壁にたどり着くとすぐさま戦いに加わり、防壁傍に置いてあった大石を持ち上げるやぶんと投げつけ、
サルペドンの僚友エピクレスを打ち倒した。
テウクロスは目ざとくグラウコスを見つけると、剥き出しになっている片腕目掛け矢を放つ。
矢はあやまたずグラウコスの腕に当たり、グラウコスは防壁から飛び降りると後方へ下がった。
それに気づいたサルペドンはしかしひるまず、テストルの子アルクマンを槍で突き殺し、
手を防壁にかけてグイと引く。すると、その部分がズルズルと崩落し、防壁の上部に突破口が生まれた。
それを見たアイアスとテウクロスが、サルペドンに襲い掛かった。
テウクロスがサルペドンの胸目がけ矢を放つ。アイアスが楯目がけ槍を撃ち込む。
しかしゼウス神の冥助か、ともにサルペドンに打撃を与えるには至らなかった。
サルペドンはいったん防壁から飛び退いたものの、それ以上退くことはせずにリュキア勢を鼓舞する。
その声にリュキア勢は恐れをなし、どっと防壁に襲いかかった。
ダナオイ勢も一歩も引かず、全く互角の戦いが続く。
しかし、それもゼウスがヘクトールに戦の栄光を授けるまでの間だった。

「奮起せよ、馬を馴らすトロイア人よ!アルゴス人の壁を打ち破り、奴らの船に劫火を放て!」
ヘクトールが怒鳴り、防壁に突き進む。
トロイア勢最大の兵力を有する第一隊も激戦を繰り広げていた。手に手に鋭利の槍を握り、防壁に登ろうとする。
ヘクトールは門前に転がっていた大石を持ち上げると、門扉向けまっしぐらに突き進んだ。
(これは奸智に長けたクロノスの子が彼のために軽くしてやったためだが)
そして両足をぐっと踏ん張るやそのど真ん中に投げつけると、
門は凄まじい音を立てて四方に破れ散り、石は門の内側まで飛び込む。
ヘクトールはすかさず門内に躍り込み、背後を振り返るや防壁を越えよと全軍に下知した。
トロイア軍はどっと突破口に殺到し、次々に防壁を上り門をくぐり、ダナオイ勢の陣内に雪崩れ込む。
たちまち辺りは凄まじい剣戟と絶叫とが轟く修羅場となった。


第三日、その3(第十三歌)

ゼウス神はトロイア方にひとしきり味方したあと、スキタイのトラキア人・ミュシア人・ヒッペモルゴイ人、アビオイ人らの地を見渡していた。
まさか自分の目を盗んでアカイア勢に味方するものはいるとは思わなかったためだが、
ただ一柱、大地を揺るがす神(ポセイドン)はその隙を見逃さなかった。
神はサモトラケ島の頂に腰を下ろして戦況を見守っていたが、
アカイア勢の苦境を見て哀れみの心を起こし、次いでゼウス神に対して怒りを発した。
神はサモトラケ島の山の頂から足早に下る。それにより島が激しく揺れ動いた。
神は三歩歩き、四歩目でアイガイに到着すると、そこの館に用意されていた車に駿馬二頭を繋ぎ、
黄金の武具を身につけて車に乗り、黄金の鞭を振るって館を飛び出した。
海の獣たちが主の姿を認めて楽しく跳ね回り、海が分かれて道を開く中を、車は飛ぶように走っていく。
神はテネドスとインブロスの中間の入江の底の洞窟に車を停めて馬を解き放ち、
神馬の飼葉を与えて馬に足枷をつけると、歩いてアカイア勢の陣へ向かった。

ポセイドン神は深い海から上ってくると、予言者カルカスの姿を借りて両アイアスに声をかけた。
「両アイアスよ、おまえたちがみずからの武勇を忘れず敗退を考えぬ限り、アカイア軍を救うことができる!
トロイア勢はすでに大壁を乗り越えた。ヘクトールが猛火のごとき勢いで軍を指揮している。
いずれかの神がおまえたちの気持ちを動かし、おまえたちをここに踏みとどまらせ、
ほかの者たちにもそれに倣わせるようはからって下さればよいのだが!
そうであればヘクトールがいかにいきがろうとも、オリュンポスの主が奴らを激励しようとも、
おまえ達二人で奴を撃退できるだろう」
そして二人を杖で打って全身に力を漲らせ、四肢を軽くした。そして風のように立ち去る。
オイレウスの子、駿足のアイアスがそれと気づいてテラモンの子アイアスに言った。
「アイアス、あれは鳥占いのカルカスではない。あの立ち去られる時の動きでわかった。
オリュンポスに住まわれる神々のどなたかが、われらに戦えとお命じになったのだ。
見ろ、わが胸には戦意が昂まり、脚も、腕もいきり立ってきたぞ!」
テラモンの子アイアスは答えた。
「私もだ。今は私一人でも、あの荒れ狂うヘクトールと刃を交えたい気分で一杯だ!」
その間にも、大地を囲む神は船陣で休息していたアカイア勢の中に分け入り、
テウクロス、レイトス、ペネレオス、トアス、デイピュロス、メリオネス、アンティロコスら諸将を激励し、
全軍に戦意を吹き込んだ。
アカイア勢は立ち上がり、両アイアスを中心に陣形を整え、トロイア軍に立ち向かった。

ヘクトールはトロイア軍を指揮し、怒濤の勢いで船陣向け進んでいたが、アカイア勢の密集陣形にぶつかって立ち止まった。
進もうとするものの、長槍の槍衾に突き返されて前へ進めない。
ヘクトールはトロイア勢を鼓舞したが、そのときプリアモスの一子デイポボスが進み出た。
大楯を構え、それに身を隠しつつ前に進む。それを見たメリオネスは長槍を投げつけた。
デイポボスは恐れて楯を身から離して構える。槍は楯に当たったものの貫くことはできず、けら首から折れて落ちた。
槍を失ったメリオネスは、仕損じたことと槍を折ったことに腹を立てながら、新しい槍を取りにいったん退く。
これを契機に激戦が始まった。

まず、テラモンの子テウクロスがメントルの子インブリオスを長槍で仕留めた。
武具を剥ごうと近づいたテウクロスに、ヘクトールが槍を投げつける。テウクロスはこれをぎりぎりでかわす。
ヘクトールはその間にも、戦列に加わろうとしたアクトルの子クテアトスの子アンピマコスに槍を打ち込んでこれを倒し、
兜を剥ごうと走り寄った。これを見たアイアスが槍をもって突きかかったが、ヘクトールは楯ではね返し、押し返す。
アカイア勢はこの隙に二人の屍を引きずっていった。
オイレウスの子(小アイアス)は、アンピマコスが討たれたことに怒り、インブリオスの首をはねて敵中に放り込んだ。
ポセイドン神は、自らの孫アンピマコスが討たれたのを見るや激怒した。
(アンピマコスの父クテアトスは系譜上はアクトルとモリオネの間の子であるが、実際はポセイドンとモリオネの間の子である)
そして、ダナオイ勢をさらに激励すべく船陣を歩く。すると、クレタの王、槍に誉れ高きイドメネウスに出会った。
神はアンドライモンの子トアスの姿を借り、語りかけた。
「イドメネウスよ、トロイア勢に向かって吐いていた大言はどうしたのだ」
イドメネウスは答えた。
「トアスよ、いまアカイア勢に咎めるべき者はいない。
不甲斐ない恐怖に取りつかれたり、臆して戦いから逃げるような者はひとりもいない。
そなたはこれまでも戦いに一歩も引かない勇者であったし、怯む者には常に励ましてくれる男であるから頼むのだが、
どうか今もそのようにして、一人一人に励ましの言葉をかけてやってほしい」
大地を揺るがす神ポセイドンは言った、
「イドメネウスよ、今日この日に己の意思で戦おうとせぬ男が、トロイアの地から無事に帰国するようなことがあってはならぬ、
そのような者はここで野犬の慰み物になればいい。さあ、武具を取って戻ってきてくれ、一緒に力を尽くそうではないか。
いかに弱い男とはいえ、何人か力を合わせれば何がしかの働きはする。
況や、われわれは豪勇の士を相手にする力があるのだからな」
そして、戦場へと戻っていった。
イドメネウスは陣屋に向かい、武具を身につけると、二振りの槍を取るや戦場向け駆け出す。
すると、そこへ彼の優れた従者メリオネスが走ってくるのに出会った。

イドメネウスはメリオネスに声をかけた。
「モロスの子、脚速くわが配下のうち最も親愛なるメリオネスよ、戦いを抜けて帰ってきたのはどうしたわけか。
負傷したのか、それとも私への伝令か。私は言うまでもないが、戦いをこそ望んでいるのだ」
メリオネスは答えた。
「青銅をまとうクレタ勢の采配を執るイドメネウスよ、私は、ひょっとしたらあなたの陣屋に槍が残っておればいただこうと、
そう思って参ったのです。わが槍は傲岸不遜のデイポボスの楯に投げた際、折ってしまったものですから」
これを聞いてイドメネウスは言った、
「槍が要るのならば、二十本でも壁に立てかけてあるぞ、みな私が討ち取ったトロイア勢から取り上げたものだ。
どうも私は敵から離れて戦う気にはなれぬ、だから槍や楯や兜それに胸当てを用意しているのだ」
メリオネス、
「私にもトロイアから奪った武具がありますが、そこまで行って来る暇がないのです。
私とて戦いとなれば必ず先陣に身を置きます。アカイア勢の中で、ほかの者ならば私の戦う姿に気づかないかも知れませんが、
あなたならそれがわかって下さると思っています」
イドメネウスは言った。
「そなたの武勇は私が知っている。そのようなことを口にする必要はないぞ。
そなたならば、たとえ戦ううちに飛び道具に当たったり、槍に刺されるにしても、
決して首の後ろや背ではなく、最前線で戦ううちに胸か腹かを撃たれるだろう。
さあ、これ以上のお喋りはやめよう、早く槍を取ってくるがいい」
メリオネスは青銅の槍を取ってくると、勇躍イドメネウスの後に従った。
メリオネスがイドメネウス王に声をかける、
「デウカリオンの御子よ、群がる軍勢のどの辺りへ切り込まれますか?
右翼、中央、それとも左翼か・・・見たところ、アカイア勢は左翼が手薄と思われますが」
イドメネウスは答えた。
「中央には両アイアスにテウクロスがいる。
テウクロスはアカイア勢随一の弓の名手だが、接近戦にも強い男。
テラモンの子、大アイアスはいかなる者にも引けをとることがない、相手が死すべき人間である限り。
彼ならば戦列を切り崩すアキレウスと対しても引けをとらないだろう、ただし足はかなわぬだろうが。
彼ら三人がいれば、ヘクトールがいかに気負おうとも、船に近づくことはできぬ。
われらは左翼に向かっていこう。果たして勝利の栄誉はわれらが敵に与えるのか、あるいは彼らがわれらにか、
それを見たいからな」

メリオネスとイドメネウスは左翼に到着した。
イドメネウスの輝かしい武装を見たトロイア勢は、武功を立てんものと一斉に襲いかかった。
イドメネウスは、髪はすでに半白の年頃だったが、ダナオイ勢に呼びかけるとトロイア勢の中に突き入る。
まずカベソス出身のオトリュトネウスを槍で刺して打ち倒すと捕虜として曳いてゆく。
オトリュトネウスを助けんものとアシオスが戦車を降りて襲いかかるが、イドメネウスは槍を投げてこれを討ち取った。
次いでネストールの子アンティロコスがアシオスの車の御者を討ち取り、
アンティロコスは戦車の馬を戦利品としてアカイア陣へと走らせた。
プリアモスの子デイポボスはアシオスの死を見ると痛く悲しみ、イドメネウスに迫ると槍を投げつけたが、
イドメネウスは楯に隠れてこれをかわした。しかし槍はヒッパソスの子ヒュプセノルの肝臓の辺りに命中し、ヒュプセノルは倒れた。
デイポボスは得意気に叫んだ、
「これでアシオスの仇を討つことができた。彼もハデスの館への道案内ができて喜んでくれるだろう!」
これを聞いてアンティロコスは激怒したが、まずは僚友に駆け寄り楯で覆ってやる。
そしてエキオスの子メキステウスと勇士アラストルがまだ息のあるヒュプセノルを担ぎ上げ、船陣へと運んでいった。
イドメネウスはさらに戦いを求めたが、ここでゼウスの加護に恵まれたアイシュエテスの子、勇士アルカトオスに出会った。
彼はアンキセスの娘婿で、その長女ヒッポダメイアを妻としており、彼の人となりもそれにふさわしいものだったが、
この時大地を震わす神ポセイドンがひそかにイドメネウスに助力した。
イドメネウスはアルカトオスの胸の真ん中を槍で突き刺し、大地に打ち倒すと、デイポボスに向け叫んだ。
「デイポボスよ!一人に対して三人討たれ、それで勘定が合っていると思うのか!
愚かな男め、私に向かってかかって来い。そうすれば、ゼウスの血を享ける私の手並みを知ることができるぞ!」
デイポボスは逡巡した、いったん退いて誰かに助勢を求めるか、相手と一戦交えるか・・・
そして、アルカトオスの義理の兄弟であるアイネイアスに頼るのがよいと思い、その場を立ち去って彼を捜しに行った。

アンキセスの子アイネイアスは軍勢の端にぼんやりと立っていた。
これはプリアモスが自分を重んじてくれないのを憤っていたからであるが、デイポボスは彼に声をかけて言った、
「トロイア勢の参謀役たるアイネイアスよ、身内の不幸を悲しむ気持ちがあるならば、今こそそのときだ。
おまえが幼い頃、義理の兄弟として自分の屋敷で育ててくれたアルカトオスの亡骸を護ってやろうではないか。
槍の誉れも高きイドメネウスが、彼を討ち取ってしまったのだ」
これを聞いたアイネイアスは、闘志を掻き立ててイドメネウスに向かっていった。
イドメネウスは彼を迎えてひるむことなく、周囲の戦友たちに大声を上げて戦意を掻き立てた。
「戦友諸君、私は一人だ、加勢を頼む。アイネイアスは恐ろしい相手だ、
もし私が同じ年頃であれば手柄をどちらが争うか、というところなのだが」
周囲にいたアスカラポス、アパレウス、デイピュロス、メリオネス、アンティロコスはすぐに身を寄せ合って立ち並んだ。
一方アイネイアスはデイポボス、パリス、豪勇アゲノールら諸将を率いて、アルカトオスの屍を護るために突撃した。

アイネイアスはイドメネウス目掛け槍を投げる。イドメネウスはこれを真っ向から見据えてかわし、槍を投げた。
これはオイノマオスの腹に突き刺さり、彼はばったりと倒れて動かなくなった。
イドメネウスは槍を引き抜いたが、投槍や矢の雨に戦利品を剥がすことができない。
徐々に退いてゆくところへ、デイポボスが先ほどの恨みを晴らさんものと槍を投げつけたが、
狙いは外れてアレスの子アスカラポスを貫いた。アスカラポスは砂塵の中に倒れる。
デイポボスがアスカラポスの屍に飛びついて輝く兜をもぎ取ると、メリオネスがそうはさせじと躍りかかってその腕を槍で刺す。
デイポボスが兜を取り落とすとメリオネスはその腕から槍を引き抜き、すばやく退いた。
負傷したデイポボスは兄弟ポリテスに抱え上げられ、後方で戦車へ乗せられるとイリオンへ運ばれた。

アイネイアスはカレトルの子アパレウスと対すると槍でその喉を突き刺して倒した。
アンティロコスはトオンに追いすがって背後から槍を突き刺して息の根を止め、
物の具を剥いで素早く退き、再び戦いに向かった。
アシオスの子アダマスが彼を見つけ、槍で彼を突いたが、楯はその槍をしっかりと防いだ。
槍を失ったアダマスは引き返そうとしたが、メリオネスが追いすがってその下腹部に槍を突き刺し、これを討ち取った。
プリアモスの子ヘレノスはトレケ風の大太刀を揮ってデイピュロスのこめかみに斬りつけた。
デイピュロスの頭から兜が落ち、これはアカイアの兵が拾い上げたが、デイピュロスは息絶えて倒れた。
これを見たアトレウスの子、大音声にその名轟くメネラオスは激怒し、鋭利の槍を振るって形相凄まじくヘレノスに迫る。
ヘレノスは弓に矢を番えて放ち、メネラオスは手にした槍を投げつけた。
プリアモスの子の矢はメネラオスの胸当てに当たったもののはね返され、
アトレウスの子の槍はヘレノスの弓持つ手にずぶりと突き刺さった。
ヘレノスは槍が腕に突き刺さったままの状態で退く。アゲノールがその槍を抜いてやり、その従卒が羊毛製の投石用の帯を包帯として巻いてやった。
ペイサンドロスがメネラオスに向かってゆく。メネラオスもこれに応じ、両者は槍を放った。
メネラオスの槍は逸れ、ペイサンドロスの槍はメネラオスの楯を突いたが、突き通すことはできずに折れた。
ペイサンドロスは勝利を確信したが、アトレウスの子は銀鋲打った太刀を抜いて斬りかかった。
ペイサンドロスも楯の下からオリーヴ材の柄の青銅の斧を抜き、打ちかかる。
ペイサンドロスの斧はメネラオスの兜の角を撃ったが、メネラオスの太刀はペイサンドロスの鼻の付け根の上を撃った。
勇士メネラオスは倒れた相手の胸を踏みつけると武具を剥がし、勝ち誇ったのちに戦利品を従卒に任せ、再び前線に進んだ。
この時ピュライメネスの子ハルパリオンがメネラオスに躍りかかり、その楯の真ん中を槍で突いた。
しかし槍は楯に防がれ、急いで引き返そうとしたところ、メリオネスが素早く矢を放った。
矢はハルパリオンに命中し、ハルパリオンは絶命した。パプラゴネス人たちがその亡骸をその亡骸を収容し、イリオンへと送り返す。
パリスは親友だったハルパリオンの死に怒り、必中の矢を放った。
この矢は占い師ポリュイドスの子エウケノルに中り、エウケノルの命はその体を去った。

その頃ヘクトールは、船陣左側で起きている戦いのことを知らずにいた。
彼はトロイア勢が防壁を破って雪崩れ込んだ場所を動かずにいたが、それはここが両軍の最激戦地だったからである。
ボイオティア、イオニア、ロクリス、プティエ、エペイオイの軍勢はヘクトールを必死に防ごうとしたが、
ヘクトールの火焔のごとき勢いは容易に止められなかった。
ここにはアテナイ軍もおり、それを率いる者はペテウスの子メネステウス。それにペイダス、スティキオス、豪勇ビアスが従う。
エペイオイ勢はピュレウスの子メゲス、アンピオン、ドラキオスが、
プティエ勢はメドンとポダルケスが率いて勇戦していた。
オイレウスの駿足の子アイアスは、テラモンの子アイアスから離れず寄り添って戦っていた。
テラモンの子には周囲に多数の将兵が付き従っていたが、オイレウスの子の周りには一人のロクロイ勢も見当たらなかった。
これはロクロイ勢が遠距離攻撃を得意としていたからで、彼らは後方から石や矢を雨のように降らせ、トロイア勢の士気を削いでいった。
この戦況をまずいと感じたプリュダマスは、大胆不敵のヘクトールに近づいて声をかけた。
「ヘクトールよ、あなたはなかなか人の忠告に従わない難しい男だ。
神が人並み外れた武勇を授けられたゆえ、すべてにおいて他を凌いでいると思いたがる。
だが、ひとりですべてを仕切るのは無理だ。私が思うところを言おう。
周り一面に戦火が広がっている。トロイア勢は防壁を越えたとはいえ、
一部の者は手を束ねて立ったままかと思えば、またある者は寡勢で多勢と戦っている有様だ。
あなたはいったん退いて、主だった将領を招集し、作戦を講じてこれからどうするか決めてはどうか。
私はアカイア勢が昨日の借りを返すことになりはしないか気がかりだ。
船の脇には、あの、戦いに飽くことを知らぬ男が控えているのだからな」
ヘクトールはこの進言が気に入って、戦車から降りて言った。
「プリュダマス、そなたはここへ主だった将領を引き止めておいてくれ。私は向こうに行って戦ってくる。
だが、将領らにしかるべき指示を与えたら、すぐに戻ってくるぞ」
そして激戦の中に突っ込んだ。将領たちはヘクトールの指示に従いプリュダマスのもとへ走った。
ヘクトールはデイポボスやヘレノス、アダマス、アシオスらの姿を探し回ったが、一向に見当たらない。
と、船陣の左手で髪麗しきヘレネの夫、勇将アレクサンドロスが兵士たちを鼓舞しているのを見つけた。
ヘクトールは罵りの言葉を吐きながら彼に詰め寄り、デイポボスらの消息について詰問する。
アレクサンドロスは謂れのない罵りについて苦言を呈した後、負傷退却したデイポボスとヘレノス以外の将領は討たれた、と告げた。
そして、兄弟揃って激戦地に向かう。

さてプリュダマスのところへはパルケス、オルタイオス、神にも見まがうポリュペテス、パルミュスにアスカニオス、
ヒッポティオンの子モリュスらが集まって戦っていた。トロイア勢は密集陣を組み、次々に進んでゆく。
ここにヘクトールが戻ってきた。彼は軍勢の前に立ってアカイア勢を挑発していたが、そこへ大アイアスが進み出てきた。
「どうした、もっと前へ出て来い!そのようなへっぴり腰でアルゴス勢が怖がると思っているのか!
おまえはわれらが船団を破壊するつもりでいるだろうが、われらにもそれを防ぐ腕がある。
いや、それよりも早くおまえたちの町はわれらにより破壊されるだろう。
おまえも負けて逃げながら、自分の馬が鷹よりも足が速くなってほしいとゼウス神や他の神々に祈る日もそう遠くあるまい」
ヘクトールは応えて言った。
「口の利き方を知らぬアイアスよ、何をほざく!
おまえがこの長柄の槍の前に踏みとどまる根性があればの話だが、
おまえもアルゴス全軍に禍がもたらされる今日という日に、アルゴス勢にまじって討たれることになるだろう。
船の脇に倒れ、その脂身と肉でトロイアの野犬野鳥の腹をふくらませるのだ!」
そして鬨の声をあげ全軍を前に進めた。アルゴス勢も鬨の声をあげ、これを迎え撃った。


第三日、その4(第十四歌)

この時ネストールは酒を飲んでいたが、鬨の声を耳にするとアスクレピオスの子マカオンに言った、
「マカオンよ、この状態に対してどうしたらよいじゃろうか。船陣のあたりで味方が上げる声が一段と大きくなってきた。
だがそなたは今のところそのままで酒を飲んでおれ、髪麗しいヘカメデが湯を沸かし、血の塊を洗い流してくれるじゃろう。
わしは見晴らしの良い場所に出て様子を見てくるとしよう」
そして楯と槍を取って陣屋の外に出たが、たちまち味方が追い散らされている光景が目に入ってきた。
防壁はすでに崩れ落ちている。
老雄ネストールはダナオイ勢のもとに加勢に向かうか、アトレウスの子アガメムノンを訪ねるべきか考えたが、
アトレウスの子を訪ねるのがよかろうと決めた。

ネストールは、船からこちらへとやってくるテューデウスの子ディオメデス、オデュッセウス、アトレウスの子アガメムノンに出会った。
彼らはいずれも手傷を負い、苦悩に満ちて歩を進めていたが、老将の姿を見ると、さらに気を沈ませた。
王アガメムノンが声を上げてネストールに呼ばわる、
「ネーレウスが一子、アカイア勢の大いなる誇りネストールよ、戦場を離れここへ来たのはなにゆえか。
わしは、剛勇ヘクトールがかつて言った、わが船団を焼き払い兵士を討ち取るまではイリオンへと引き返すことはせぬ、という
言葉を現実のものとすることを怖れる。脛当て良きアカイア勢も、アキレウスのようにわしに遺恨を抱いているに違いない、
戦おうとせぬのだ」
ゲレニア育ちの騎士ネストールは答えて言った、
「いかにも、それはまことになった。ゼウス神もこれを食い止めることはできぬであろう。
防壁も潰え去った、船のあたりでは激しい戦いが続いている、
今では乱戦となって、アカイア勢がどうなっているか見当がつかぬほどじゃ。
われらはこの事態にどう対処すべきかを考えねばならん、手傷を負っていて戦えぬ身なのじゃから」
総帥アガメムノンは言った。
「ネストールよ、今や戦いは船の艫の当たりで行われている、かの堅固な防壁も役に立たなかった。
これは、ゼウス神の御心がアカイア勢の壊滅を望まれていると考えるしかないようだ。
ならば、よく聞いてくれ、まず海に近い最前列の船を海におろして錨を下ろしておく。
夜になればトロイア勢も戦いをやめるだろうから、その間に残りの船を海におろし、夜陰にまぎれて退却しよう。
逃れてでも禍を免れるほうが、災難にあうよりはましだろう」
これを聞いた機略縦横のオデュッセウスはアガメムノンを睨みつけた。
「アトレウスの子よ、何ということを申されるのか!
ゼウス神はわれらに、若き日から老齢にいたるまで一人一人が息絶えるまで苦しい戦いを果たし終えよと定められたのだ。
その心に正しく物言う術を心得ているのならば、そのようなことを口にされてはならない!
あなたはアルゴスのあまたの民を統べる王、それほどの身ならば、
何びとも絶対に口にすることができぬような言葉を発してはならないのです。
私はあなたがまことに見下げ果てた根性の持ち主であると思う、戦の途中に逃げる算段をするとは。
そのようなことをすれば、それを見たアカイア勢は動揺し、もはや戦いどころではなくなるだろう。
あなたの計画はわが軍を損なうだけだ」

総帥アガメムノンは言った、
「ああ、オデュッセウスよ、そなたの叱責は胸にこたえた。
だがわしは、無理にでも船を海におろせといいたいのではない。
わしよりもよい知恵を出してくれる者がいてほしい、若者でも老人でもかまわぬ、そうであれば嬉しいのだが」
そのとき、大音声の誉れ高きディオメデスが口を開いた。
「それならばここにおります。わたしはこの中では一番の若輩者ゆえ、聞き入れていただければの話ですが。
それでも、わたしはポルテウスの子オイネウスの子テューデウスの倅、
生まれや武勇から軽んぜられることはなかろうと思います。
されば申し上げる、われらは傷を負ってはいるが、前線に出るべし。
戦闘の役には立たずとも、気が怯み戦意を失った兵士たちに活を入れ、戦わせるよう仕向けましょう」
これを聞いた一同は皆賛成し、総帥アガメムノンを頭に戦場へと歩き出した。

大地を揺るがす神ポセイドンはこれを見て、老人の姿をとってその後を追い、
アガメムノンの右手をとって翼ある言葉をかけた。
「アトレウスの子よ、アキレウスの胸に宿る非情な心は、アカイア勢の劣勢に喜んでいるであろう。
だが、神々はあなたに心から腹を立てているわけではない。
今にトロイア勢が広大な平原に砂埃を立てつつ町へ逃げ帰るのを見ることになるかもしれぬ」
そして平原を疾走しつつ雄叫びを上げた。
それは一万の軍勢の上げる雄叫びにも劣らぬほど、大地を揺るがす神はその大声で、
アカイア勢の胸に凄まじい気力を打ち込んだ。

黄金の椅子に坐すヘーラー女神は、オリュンポスの峰からその光景を見てほくそ笑んだ。
そしてイデの峰の頂上に座っているゼウス神の姿を見て憎々しく思い、一計を案じて居間へと戻った。
女神は香油を肌に塗り、髪に櫛を当てて巻き毛に編み、アテネ女神が編んだかぐわしい衣装を身にまとう。
帯を締め耳飾りをつけ、頭に被布を被り、サンダルを履き、身づくろいを終えると居間を出、アプロディーテー女神を密かに呼んだ。
「よい子よ、わたしの頼みを聞いてもらえないだろうか、それともトロイアに味方するおまえには、
ダナオイ勢の味方をするわたしに恨みを抱き、嫌だと思っているだろうか」
アプロディーテー女神は答えた。
「大クロノスの姫君、位高き女神ヘーラーよ、お話しください。わたしの力の及ぶことならば、ぜひお役に立ちましょう」
ヘーラー女神は詭計を胸に言った、
「では、神も人もすべて打ち負かす二つの武器、『愛欲(ピロテス)』『慕情(ヒメロス)』を貸してほしい。
わたしはこれから神々の祖オケアノスと母なるテテュスに会いに行こうと思っている。
このお二方は、遥かに見晴かすゼウスがクロノスを大地と海の下深く突き落とされた時、
わたしをレアから預かり、自らの屋敷で養い育ててくださった方々。
わたしはお二人にお会いして、長い間喧嘩別れしていらっしゃる二人の仲をおさめてあげようと思っているのですよ」
アプロディーテー女神は言った、
「あなたのお申し出をお断りすることなどできませぬし、そういうことがあってはなりません」
そして、胸元から美しく刺繍された紐を解いて外した。この紐には恋のあらゆる魅惑が納めてあった。
牛眼の女神ヘーラーは笑いながらそれを懐にしまう。
ゼウスの姫君が帰ると、ヘーラー女神はすぐにオリュンポスの峰を離れた。

女神はピエリアとエマティエを越え、トラキアの峰の上を走り、アトス岬から海に降り、
トアス王の治めるレムノス島へとやってきた。そしてタナトス(死)の兄弟ヒュプノス(眠り)に会い、その手をとって語りかけた。
「以前と同じように、またわたしの頼みを聞いてもらいたいのだ。
わたしがゼウスに抱かれて臥したらすぐに、ゼウスの眼をつむらせてもらいたい。
そうすれば、ヘパイストスの作る黄金の椅子をやろう」
しかし、まどやかな眠りの神は答えて言った。
「それはできません。以前、あなたのお言いつけで、ひどい目にあったのですから。
ゼウスの威勢のよい御子ヘラクレスがトロイアを征服して帰るとき、わたしはゼウスを眠らせました。
あなたはその間に海上に嵐を起こして、彼をコスの町まで流してしまわれた。
目覚めたゼウスは激怒し、屋敷の中で神々を右に左に投げ飛ばし、わたしを見つけ出そうとされた。
そのとき、神も人間をも従わせるニュクス(夜)が救ってくださらなかったら、
ゼウスはわたしをこの世から消し去ってしまわれたでしょう。それをお忘れですか」
牛眼の女神ヘーラーは言った、
「ゼウスがトロイアに味方するのを、わが子ヘラクレスのことで立腹したことと同じことと考えておるのか?
よいか、わたしは、そなたに若きカリテス(典雅女神)の一人を娶わせ、妻としてやるつもりなのだぞ」
ヒュプノスは喜んで答えた。
「それならば、すぐに犯すべからざるステュクス河の水にかけて誓っていただきたい。
そして、大地と海に触れて、クロノスをはじめとする地下の神々にも証をたてていただきたい。
若さ溢れるカリテスのひとり、今まで思い焦がれてきたパシテアを、必ずわたしに下さると」
女神は大地と海に触れ、奈落の下の、ティタネス(ティターン)と呼ばれる神々すべての名を呼び上げた。
そして誓言を上げて誓い終えると、二人の神はレムノス島を発った。

二人はイデの山に達すると、まずヒュプノスが鳥に姿を変じて身を隠した。
この鳥は、神々はカルキスと呼び、人間はキュミンディスと呼ぶものだった。
女神はイデの山、ガルガロンの峰に坐するゼウスのもとへ向かった。
ゼウスは彼女の姿を見ると、すぐさま恋慕の情にとらわれ、ヘーラーの前に立ち、なぜ来たのかを問うた。
ヘーラーは、これからオケアノスとテテュスのもとに行くつもりで、その報告のために来たのだ、と答えた。
ゼウスは、それは後日でも行けるであろうからと、ここで愛の喜びを味わおうと持ちかける。
「相手が女神であれ人間の女であれ、これほど愛しく思う心にとらわれたことはなかった。
イクシオンの妻ディア、ダナエ、エウロペ、セメレー、アルクメネ、デーメーテール、レートーよりも、
いやかつてのそなたへの想いも、今のこの気持ちには較ぶべくもないぞ」
ヘーラーは寝室に戻ろうと誘ったが、ゼウスは「いや、ここで」とヘーラーを抱いた。
すると、聖なる大地から青草とうまごやし、クロコスとヒアシンスが生え出でて寝台となり、
ゼウスは黄金の雲を発して辺りを包んだ。そして二人の神は眠りと愛に身を任せた。

ヒュプノス神はアカイア勢の船陣に駆けつけ、ポセイドン神に事の次第を告げ、立ち去った。
ポセイドン神はアルゴス勢の最前線に立ち大声で彼らを鼓舞、
この言葉に全軍は勇気づけられ、戦列を再編成し装備を再点検すると、再びトロイア勢に立ち向かった。
勇名轟くヘクトールは乱戦の中、正面に姿を現した大アイアスに向かって槍を投げつける。
槍は胸の辺りに当たったものの、楯と太刀の緒に守られてその穂先はアイアスの肌には達しなかった。
ヘクトールは下がろうとしたが、テラモンの子アイアスは船の支えの大石を持ち上げると、彼目掛けて投げつける。
大石はヘクトールの胸の上に命中、ヘクトールは独楽のようにくるくると回ると、そのまま砂塵の中に倒れた。
アカイア勢がそれに殺到、槍の雨を降らせたが、トロイア勢もプリュダマスにアイネイアス、
アゲノールにサルペドン、グラウコスらがヘクトールの身をかばってその前に楯を並べる。
ヘクトールは抱き上げられて馬にのせられ、僚友たちに護られて町へと護送されていった。
クサントス河の流れのほとりで彼らはいったんヘクトールを馬から下ろし、水を振りかけると、ヘクトールは目を覚ました。
彼は起き上がり膝をついて座ったものの、黒い血を吐いてまた仰向けに倒れ、意識を失う。
アイアスの痛撃からまだ回復してはいなかったのだ。

アルゴス勢はヘクトールがいなくなったことを知り、さらに戦意を高めてトロイア勢に襲いかかる。
オイレウスの子、駿足のアイアス(小アイアス)はエノプスの子サトニオスに躍りかかって槍を突き刺した。
サトニオスは倒れ、その身をめぐって両軍が激しく争う。
パントオスの子、槍の使い手プリュダマスがサトニオスを救わんと槍を投げ、
アレイリュコスの子プロトエノルの右肩に命中させ、打ち倒した。
プリュダマスは快哉を叫んだが、プロトエノルのすぐ近くにいたテラモンの子アイアスは大いに怒り、
立ち去ろうとするプリュダマスに槍を投げつける。
プリュダマスは身をかわしたが、槍はアンテノールの子アルケロコスの首に命中し、その命を絶った。
ボイオティア人プロマコスがその死体を引きずっていこうとしたが、アルケロコスの兄弟アカマスがそれを槍で刺す。
アカマスは勝ち誇り、大声でアルゴス勢を挑発した。
これを聞いたヒッパルキモスの子、豪勇ペネレオス(ボイオティア勢を率いる。元アルゴナウテース)は憤激して彼に襲いかかり、
アカマスは支えきれず敗走した。
ペネレオスはポルパスの子イリオネウスの顔面を槍で貫いて息の根を止め、
太刀を振るってその首を兜ごと打ち落とすと、槍の刺さったままの首を拾い上げて高く掲げた。
「トロイア勢の面々よ、名高きイリオネウスの父母に、家で息子の死を悼んで泣けと伝えよ!
アレゲノールの子、プロマコスの妻もまた、アカイアの子等が帰国する時、愛しい夫を嬉しく迎えることはできぬのだから!」
トロイア勢は震撼した。

テラモンの子アイアスはミュシア勢を率いるギュルティオスの子ヒュプティオスを倒す。
アンティロコスはパルケスとメルメロスを、
メリオネスはモリュスとヒッポティオンを、
テウクロスはプロトオンとペリペテスを討ち取った。
アトレウスの子メネラオスは、ヒュペレノルの脇腹を刺してその命を奪った。
その中でも最も多くの敵を屠ったのはオイレウスの駿足の子、アイアスだった。
逃げまどう敵を追う足の速さで、彼に勝るものは一人もいなかったからである。

(第十五歌につづく)


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