ギリシアVSトロイアの戦闘(第二日)


◇第二日、その1(第八歌)

クロッカス色の衣をまとう暁の光が全地に行き渡ったとき、ゼウス神はオリュンポスの頂に神々の会議を催した。
ゼウスが神々に言うには、
「もし勝手にダナオイ勢やトロイア方に向かうものは、わしの雷撃を受け、見るも無残な姿でオリュンポスに戻ってくることになるだろう。
あるいはそやつを捕まえて、冥府(アイデス)よりさらに深い、暗きタルタロスに放り込んでやろうか。そうすれば、みなもわしが神々の中で桁外れに強い神であることを悟るだろう・・・」
ゼウスの強い口調の言葉に神々は静まり返った。が、ややあって眼光鋭く輝く女神アテネが口を開いた。
「父上の御力が何者にも屈することがないことはよく存じ上げております。しかし、私には宿命に倒れていくダナオイ勢の戦士が哀れでなりません。
私たちは仰せの通りに戦いからは手を引きますが、せめて父上の怒りにより彼らがすべて戦死することのない様に、彼らの役に立つ知恵を授けてやりとう存じます」
雲を集めるゼウスはにやりと笑って言った。
「トリトゲネイアよ、案ずるな。おまえはわしの可愛い娘。本気で言っているのではない。おまえには優しい父でありたいと思っているぞ」
するとゼウスは二頭の馬を戦車につけると、黄金の鎧を身に付け戦車にまたがり、黄金の鞭を執って走らせた。
二頭の馬は勇躍し、大地と天の間を飛翔すると、イデの山並み、ガルガロンの峰に降りた。ここにはゼウスの聖域と祭壇があった。
ゼウスはここに馬を止め放つと濃い霧でこれを覆い、トロイアの町とアカイア勢の船とを見下ろしながら、威風あたりを払いつつ峰の頂に腰を下ろした。

髪長きアカイア勢は、陣屋で食事を摂ると直ちに装備を固めた。トロイア方も町をあげて武装を整え、城門を開くと一斉に打って出た。
両軍は接近し、直ちに戦いに入った。凄まじい喧騒と金属音が轟き、大地はみるみる血の海と化していった。

日が中天に達したころ、ゼウスは黄金の秤を平らに拡げ、アカイア勢、トロイア勢それぞれの死の運命を載せて持ち上げた。
すると、アカイア勢の運命の日が下がった。すなわち、アカイア勢の死の運命が大地に向かって下がり、トロイア勢のものは天空にむけて上がったのだ。
ゼウスはイデの山上から凄まじい雷を放ち、炎のごとき稲妻をアカイア勢の只中へ放った。アカイア勢は大いに恐れた。さしものイドメネウス、アガメムノン、両アイアスも同様で、彼らは一様に引き下がった。
ただ一人残ったのはゲレニアの騎士ネストールであったが、これは馬が矢で傷ついたためで、その元となる矢を放ったのはヘレネの夫、アレクサンドロス(パリス)であった。
老雄ネストールが暴れる馬の引き綱を断とうとしているところへ、ヘクトールが乱戦の間を抜け向かってきた。
それに気づいたディオメデスが退却するオデュッセウスに大音声で呼ばわった。
「オデュッセウスよ、どこへ逃げてゆくのだ!逃げるところへ背中から槍を打ち込まれるような真似はよせ!
踏み留まれ!われらは老人からあの獰猛な男を追い払ってやらねばならん!」
しかしオデュッセウスはそのままアカイア勢の船陣向け駈けていってしまった。
残されたディオメデスは前線の戦士を掻き分けて進むと単身ネストールの戦車の前に立ち、言葉をかけて言った。
「ご老体、若い戦士らを相手に苦戦のご様子ですな。さあ、わが馬に乗って、トロース馬がいかなる逸物か御覧なされ。
これは私がアイネイアスから奪ったもの(第五歌参照)、敵を敗走させずにはおかぬ駿馬。
あなたの馬はわが従卒に任せ、私たちはこの二頭をトロイア勢に向け進めましょう。この槍の荒れ狂うところを、ヘクトールにも見せてやらねばならぬ」
ネストールはそれを受け入れ、自らの馬をディオメデスの僚友ステネロスとエウリュメドンに任せ、ディオメデスの戦車に乗った。

ネストールは手綱をとり馬に鞭を加え、ヘクトールへ向かっていった。ヘクトールも真っ向から襲い掛かる。
ディオメデスは槍を放った。しかし槍はヘクトールに当たらず、その戦車の御者、豪勇テバイオスの子エニオペウスの胸を貫いた。エニオペウスは落馬し息絶える。
ヘクトールはエニオペウスの死を悼む間もなく新しい御者を求めて馬を走らせた。そしてイピトスの子、豪胆なアルケプトレモスを見つけると、彼に手綱をゆだねた。
その時ゼウス神が凄まじい雷鳴を起こし、ディオメデスの戦車の前に白熱の雷火を落とした。
硫黄の焼ける匂いと凄まじい火柱が立ち、馬は恐れて車の下にもぐりこみ、ネストールは手綱を落とした。そしてディオメデスに言う、
「テュデウスの子よ、馬の向きを変え退却させよ。今はそなたの勝利にゼウス神の加護はない。いまはあの男に勝利を授けるおつもりなのじゃ。
いつかまた気が向けば、われらにも勝利を与えてくださるじゃろう。いかに豪勇といえど、人の身でゼウス神の深慮を阻むことはできぬ・・・」
ディオメデスは渋ったが、ネストールになおも説得されて退却することにした。

ゼウス神は三たび雷を鳴らした。
ヘクトールはトロイア勢、リュキア勢、ダルダノイ勢を励ました。そして火を用意させ、進撃して船陣を焼き払うことを命じる。
これを聞いたヘーラー神はオリュンポスの峰の上で怒りに震え、ポセイドン神に宥められた。
さてアカイア勢は船陣にまで退却すると、防壁と濠との間に兵士を揃えてトロイア勢を待ち構えた。
総帥アガメムノンは全軍に呼ばわった。
「恥を知れアルゴス勢よ!そなたらは姿形は立派でもその実腰抜けばかり。レムノス島で牛肉を食い酒を飲みつつ、
ひとりでトロイア軍の百人でも二百人でも相手にしてやるとほざいた高言はどこに行った!たった一人のヘクトールに対し、われらは戦えぬのだ。
大神ゼウスよ、私は誓って申しますが、私は苦しい船旅の途中、あなたの壮麗な祭壇を見てそのまま通り過ぎたことはありません。
どの祭壇にもかならず脂身と腿とを焼いてお供えしてきました。どうかゼウスよ、これだけはお聞き入れください、
われらの身だけは無事であるように、アカイア勢をトロイア勢の手に渡し続けることがないように」

ゼウス神は彼の嘆願を聞き入れ、そのしるしとして、彼の使いである黒鷲に仔鹿を掴ませてアガメムノンのもとに遣わせた。
黒鷲はアカイア勢の祭壇に仔鹿を落とした。この予兆を見てアカイア勢の戦意は高まり、トロイア勢に敢然と立ち向かっていった。
先ほど不本意な退却を行ったテュデウスの子ディオメデスが真っ先に飛び出し、たちまちトロイア勢の勇士、プラドモンの子アゲラオスを討ち取った。
彼に続いたのはアトレウスの二人の子、アガメムノンとメネラオスの兄弟。さらにその後ろから両アイアス、イドメネウス、メリオネス、エウリュピュロス、テウクロス・・・
テウクロスは自らの兄、テラモンの子アイアスの構える大楯の陰に隠れつつ、そこから飛び出し弓矢を放つ。たちまちオルシコロス、オルメレス、オペレステス、ダイトル、クロミオス、神に見まがうリュコポンテス、ポリュアイモンの子アモパオンにメラニッポスがその餌食となった。これらはすべて一矢で仕留められた。
アガメムノンはそれを見て彼を大いに褒めたが、テウクロスは奢ることなく、さらにヘクトール向け矢を放った。
矢はヘクトールを逸れてプリアモスの子、容姿端麗のゴルギュティオンの胸に当たった。ゴルギュティオンはがくりと頭を垂れた。

テウクロスはまた矢を番えるとヘクトールを狙ったが、これも逸れて御者アルケプトレモスに当たった。アルケプトレモスは落馬して息絶える。
ヘクトールは近くにいた弟ケブリオネスに手綱を任せた。そして戦車から凄まじい叫び声を上げつつ飛び降り、大石を拾い上げるとテウクロス向け投げつけた。
テウクロスはヘクトールに狙いを定めたが、矢を放つよりも早く大石に撃たれて膝をついた。すぐさま兄のアイアスが走り寄って大楯で庇い、エキオスの子メキステウスとアラストルが彼を陣へと運び込む。
ここでゼウス神が再びトロイア勢の力を盛り上がらせたため、彼らはたちまちアカイア勢を押し込んでいった。アカイア勢は濠を越え、船陣へと退却する。
トロイア勢を率いるヘクトールの形相は、まるで女怪ゴルゴンか軍神アレスのごとく凄まじかった。

この有様を見てオリュンポスではヘーラー女神とアテネ女神がさかんに気を揉んでいた。
ついにパラス・アテネはヘーラーに頼んで馬を用意してもらい、自らは武具をまとった。二神は戦車に乗り込んでオリュンポスを発った。
イデの峰からこれを見たゼウスは烈火のごとく怒り、黄金の翼持つイリス女神に命じて自分の言葉を伝えさせた。曰く、
「おまえたちの車を牽く馬の足を利かぬようにし、おまえたちを車から投げ落とし、車は粉々に砕く。
雷火に当たってついた傷は、十年の歳月が経っても消えまい・・・」
二神はどうしようもなく、オリュンポスへと引き返した。
ゼウス神はオリュンポスへと戻ると二神を宥めた。

さてヘクトールは、アカイア勢を船陣まで押し込んだものの、夕闇が近づいたためひとまず兵を引き上げ、スカマンドロス河畔で集会を催した。
そして、今日の戦闘はこれまでとして食事を摂り休息すること、アカイア勢を見張ること、城の守りを厳重にすることを命じた。
トロイア勢は歓声を上げると、それに従って食事の用意をはじめ、伝令使はイーリオンの城にヘクトールの命を伝えた。
松明は赤々と燃やされ、アカイア勢の陣を照らし出し、見張りの兵たちがその周りに屯した。


◇第二日、その2(第九歌)

意気揚がるトロイア勢とは対照的に、アカイア勢は「潰走(ポボス)」の伴侶「恐慌(ピュザ)」に捉われ、悲嘆のうちにあった。
アトレウスの子アガメムノンは自ら歩き回って全軍の将を呼び集め、涙を流しつつ、
「大神ゼウスの意向はトロイアの陥落にはなくアカイア勢の敗北のようだ。大神の意志に逆らうことはできない。
この上は全軍ギリシアへ引き揚げようではないか」
と提案した。
一同は声もなかったが、ややあって大音声のディオメデスが言った。
「アトレウスの御子よ、なんと思慮の欠けた言葉を発されるのか!アカイア勢がみなそのような腰抜けであるとお思いか。
帰りたければ帰られるが良い。ミュケネからあなたに従ってきた多数の船が海辺に控えているのだから。
しかし他の髪長きアカイア人たちはこの地に踏みとどまってトロイアを打ちのめすまで戦うであろう。
いや、彼らが皆あなたとともに逃げ帰ろうと構わぬ!
私とステネロス、われら二人だけでもトロイアの最期を見とどけるまで戦うつもりだ。われらは神の加護を受けてここへ来たのだから」

ディオメデスの言葉に一同が沸いたとき、騎士ネストールが立ち上がった。
「テューデウスの子よ、そなたは戦場においては抜群の勇士、評議の場においても同輩の中でかなうものはいない。
アカイア勢の中でそなたの話に反論したりするものはおるまい。しかしその話にはまだ締め括りがついておらぬ。
憚りながらそなたより年が上のわしが考えを述べて締め括りをつけることを許してもらいたい。
アガメムノン王もわしの言葉を軽んずることはあるまい。内輪揉めはあってはならぬことだからな。
さて、さしあたっては漆黒の夜の言うことを聞いて食事の支度にかかろうではないか。
見張りに立つものは、防壁の外側の濠に沿って配置せよ。
わしは見張りの手配をするが、アガメムノン王よ、そなたはアカイアの長老らをお招きしての饗宴の支度をお願いする」

一同は老雄ネストールの言葉に従った。
ネストールの一子・軍勢の牧者トラシュメデス、そして軍神アレスの二子・アスカラポスとイアルメノス、
またメリオネス、アパレウス、デイピュロス、クレイオンの子・豪勇リュコメデスらが警備の指揮をとる。
彼らは各々百人の兵を率いて防壁と濠の間に座を構え、夕餉の支度にかかった。
アトレウスの子はアカイア軍の長老たちを招いて饗宴を開いた。その場でネストールがアガメムノンに提案した。
曰く、この機にアキレウスと和解してみてはどうか、と。
アガメムノンはそれに従い、多くの贈り物とレスボス島の女、そしてアキレウスとの不和の一因となったブリセイスも用意させた。
さらにトロイア陥落の暁には多大な褒賞をも約束した。
ネストールはこれに満足し、ポイニクスを先導に、大アイアス、オデュッセウスに説得役を任せ、
伝令としてオディオスとエウリュパテスを任ずることにした。

大アイアスとオデュッセウスは、名にし負うアイアコスの誇り高き末裔(アキレウス)の心を説得できるよう、
地を囲み地を揺るがす神ポセイドンに祈り続けながら波音高い渚を歩いていった。
二人がミュルミドーン軍の陣屋と船に着くと、アキレウスが竪琴を吟じて楽しんでいる姿が見えた。
この竪琴はエエティオンの町を落とした際戦利品として選び取ったものだった。
彼の向かいにはパトロクロスが一人座っていた。
オデュッセウスとアイアスの姿を認めたアキレウスは驚いて立ち上がった。パトロクロスもそれにならう。
駿足アキレウスは二人に親しげに声をかけると歓迎し、奥に招き入れた。

アキレウスはパトロクロスに命じて酒を用意させる。
自分は大きな山羊の背肉を持ち出すとアウトメドンに肉を抑えさせて自分で切り分け、串に刺すとパトロクロスに焼かせる。
パトロクロスはパンを取り分け、アキレウスは肉を取り分け、最後に供物の肉を神々への贄に捧げるべく火に投じた。
一同はしばし料理に舌鼓を打ち、やがて料理がなくなった頃、ポイニクスが頷いてオデュッセウスらに合図を送った。
オデュッセウスは盃に酒を満たし、アキレウスに乾杯して言った。
「アガメムノンのところでもここでも、われらは結構な食事にあずかることができるものだ。
しかし今のわれらの気がかりは料理のことではない。深刻な苦難のことなのだ。
おまえが奮起して武勇のほどを示してくれない限り、船団を守ることができるかも危うい。
ゼウス神はトロイア勢に加担し電光を閃かせ、ヘクトールはそれを恃んで狼藉の限りだ。
私が危惧するのは、奴の威嚇を神々が成就させるのではないか、
またアルゴスから遠く離れたトロイアの地で果てるのが我らの運命となりはせぬかということなのだ・・・」

機略縦横のオデュッセウスはアガメムノンからの贈り物について話し、弁を尽くして説得したが、
アキレウスはにべもなく断った。それを聞いて、本来説得役ではない老ポイニクスが涙を流しながら説得を続けたが、
アキレウスはこれも退けた。最後に大アイアスがやや言葉を荒げながら説得したが、
アキレウスはもちろん、心を動かされることはなかった。
彼の怒りは、いかなる贈り物や理屈でも翻すことができないほどのものだったのだ。
アキレウスは老ポイニクスを自らの幕屋で休ませることとし、オデュッセウス以下を帰らせた。

アガメムノンの陣屋に戻り、オデュッセウスは並みいる将領の前で総帥に復命した。
「彼には怒りを消す気はなく、さらに猛り狂って、あなたの申し出も贈り物も拒んだ。
船団とアカイア勢はあなたが思案すればよかろう、と。
当人は、夜が明けたら船を海に下ろすとまで言っているし、
他の者にも、イリオンを落とすのは到底無理であろうから国許へ帰ることを勧告する、とまで言っている・・・」
その場にいた将たちは静まり返った。やがて大音声のディオメデスが口を開き、言った。
「総帥アガメムノンよ、あなたはペーレウスの子に莫大な贈り物を約束して頼んだりなさらなければよかったのだ。
もともと高慢な男であるのに、それをさらに増長させてしまったのだ。
彼は帰国するなり留まるなり好きにさせたらよい。彼も、いつかその気を起こせば戦いに加わるであろうしな。
さてご一同、これから私の言うとおりにしてもらいたい。
さしあたり心ゆくまで飲み食いし、眠りにつこうではないか。勇気も力もそこから湧いてくるのだから。
しかし、薔薇色の指の麗しい暁の女神がお出ましになったら、アガメムノンよ、
あなたは速やかに軍勢と戦車とを激励して船陣の前に並べ、自ら先陣に立って戦っていただきたい」
その場にいたすべての王侯たちは彼の言葉に賛成した。そして神に神酒を捧げ、各々陣屋に戻って眠りについた。


◇第二日、その3(第十歌)

アカイアの軍勢はみな心地よい眠りに沈んでいたが、ひとりアトレウスの子アガメムノンだけは悶々として眠れなかった。
トロイアの平原に目をやって、そこに燃える篝火や軍兵の騒音に胸を突かれ、
アカイアの軍勢を見やっては上天のゼウスを仰ぎ見、頭髪を何本もむしり取って呻く。
やがて、ネーレウスの子ネストールならば全ダナオイ勢の危機を救う方策を講じてくれるかもしれないと思い、
身支度をして武装し、自らの幕屋を出た。
すると、弟のメネラオスがこれも武装してこちらにやってくるのが見えた。彼も不安に取り付かれ、兄を訪ねようとしていたのだ。」
二人は話し合い、メネラオスがアイアスとイドメネウスを呼びに行き、アガメムノンがネストールを訪ねることにする。

アガメムノンは軍勢の牧者ネストールの幕屋を訪れた。
そこには、過酷な老いに負けず今なお第一線で戦う老雄の錚々たる武具が並べ置かれていた。
ネストールは人の気配を感じて目を覚まし、言った。
「皆眠りに入っておる暗い夜に一人でうろついているのは何者じゃ。
声を出せ、黙ってわしのところへ来るでない。いったい何用があって来たのじゃ」
総帥アガメムノンは答えた。
「ネーレウスが一子、アカイア勢の大いなる誉れネストールよ、私はアトレウスの子アガメムノン。
私がこうして徘徊しているのは、安らかな眠りがこの胸に降りてこず、戦いとアカイア勢の苦難のことが胸から離れぬためです。
ダナオイ勢のことが心配でならず、あれこれと思い惑い、心臓が胸から飛び出し、逞しい体の下で足元が震えるような有様。
ところで、あなたも眠れないご様子。一緒に夜警の部隊へ出かけて行き、
疲れと眠気に負けて眠ってしまい、夜警の務めを忘れている者がいないか検分しようではありませんか。
敵はすぐ近くにおり、夜襲をかけてこぬとも限らないのですから」
これを聞き、ゲレニア育ちの騎士ネストールは言った。
「誉れも高きアトレウスの子、総大将アガメムノンよ、明知のゼウスが、すべてヘクトールの思い通りになさるはずがない。
アキレウスが激しい怒りから気持ちを転ずれば、彼は今までよりも多くの悩みを抱えて苦しむことになると思うぞ。
喜んであなたのお伴をしよう。では他の者も起こすとしようか。
槍に名高きテューデウスの子(ディオメデス)にオデュッセウス、
また駿足のアイアス(小アイアス)とピュレウスの勇武の倅(メゲス)もな。
それに、誰かが神にも劣らぬアイアスとイドメネウス王の二人も呼んできてくれればよいのだが。
どの船も船が一番遠く、近くにはないからな。
ところで、わしはメネラオスとは親しく、また尊敬もしているのだが、
怪しからぬ男といわねばならぬな。兄のあなたが気を悪くなさるかもしれぬが言わせてもらう、
あなた一人に面倒な仕事を任せて、自分はのうのうと眠っているとは何事か!
この場合、彼こそが大将らを一人一人訪ね、頭を下げて頼まねばならぬのではないか!
事は一刻の猶予も許されぬ瀬戸際に来ているのだから・・・」
アガメムノンは答えた。
「ご老体、いつか日を改めて、私からもお願いして彼を叱っていただこう。
確かに彼はだらだらとして働こうとしないことがよくあるが、それは気後れしたとか気がつかぬということではなく、
私を当てにし、私の出方を待っているからなのです。
しかしこの度は、私よりずっと早く目を覚まして私の元へやってきました。
そこで私は、今あなたが会いたがっている人々を呼びにやらせたのです。
さあ出かけましょう」
ネストールは怒りをおさめた。
「そういうことなら、彼が督励したり命令したりする時に言うことを聞かぬようなものは、アルゴス勢の中には一人もおるまい」
そして武装し、二人で幕屋を出た。

ネストールはまずオデュッセウスを訪ね、彼を起こして用件を話した。
オデュッセウスはすぐに武装し、彼らに従った。
三人は次いでディオメデスの元を訪ねた。
ディオメデスは眠っているところをたたき起こされたのでネストールに文句を言ったが、
ネストールの説得に応じて起き上がり、武装すると自ら小アイアスとメゲスを呼びに行った。
メネラオス、アイアスとイドメネウスも合流し、一行は夜警部隊の集合した場所へ赴いた。

警備隊長たちは一人も眠らず、全員武装のまま目を開き、トロイア軍の野営地を警戒しつつ控えていた。
その姿を見て老ネストールは嬉しく思い、激励の言葉をかけた。
「可愛い子らよ、そうやって見張っていてくれ。誰も眠るなよ、敵を喜ばすようなことがあってはならぬからな」
夜警を担当していたメリオネス(クレタ王イドメネウスの友人)とアンティロコス(ネストールの子)も呼び寄せ、
その場で協議が始まった。
まずはネストールが口を開いた。
「方々よ、己の胆力を恃んで、トロイア軍の中へ侵入するような男はおらぬじゃろうか。
本体からはぐれた敵兵を捕らえるとか、トロイア勢の間の噂話を聞きだしたりして、
彼らが内々で謀っていること、たとえばこのままわが船陣の近くにとどまるのか、いったん城へ引き揚げるのか、
そうしたことを知るためじゃ。それを探り出してこちらへ無事に帰ってきてもらいたいのじゃが、
これを果たした者は、その勇名は天下にあまねく広がろうし、立派な褒賞を受け取ることにもなろう。
諸将も立派な黒い羊を贈るじゃろう。これほどのもらい物はない。それに、誰かの宴会には必ず招いてもらえるであろうな」
一同はしばらく静まり返っていたが、やがて大音声にその名轟くディオメデスが口を開いた。
「ネストールよ、私はあの近くに陣取るトロイア軍の陣中に忍び込みたくてうずうずする。
しかし、誰か一人一緒に来てくれればいっそう心強い。
二人ならば、何かあったときにも互いに考えて有効な策を採ることができよう」
これを聞いて、両アイアス、メリオネス、アンティロコス、メネラオス、オデュッセウスらが一斉に同行したいと申し出た。
アガメムノンはディオメデスに、同行に最善の者を選ぶように命ずる。
これに応じてディオメデスが指名したのは、機略縦横のオデュッセウスだった。
オデュッセウスは言った。
「さあ、出かけよう。すでに夜は終わりかけ、明け方が近い」
ディオメデスはトラシュメデスの助けを借りて、
オデュッセウスはメリオネスの助けを借りて完全武装し、出発した。
そのとき、パラス・アテネ女神が二人の右手、道のすぐ傍らに一羽の青鷺を飛ばした。
暗闇の中、青鷺の啼き声を聞いたオデュッセウスとディオメデスはパラス・アテネの加護を祈る。
女神は二人の祈りを聞き入れた。
二人は、散乱する武具と黒い血を踏みながら進んでいった。

同じ頃、ヘクトールは勇武のトロイア軍に眠ることを許さず、諸将を召集して言った。
「誰であれ、勇を振るって敵の戦陣に近づき、従前どおり船団の見張りが行われているか、
それとも我々に痛めつけられて退却を協議し、疲れ果てて夜警をする気力もなくなっているか、
それを探ってくる者には、戦車一両と逞しい頸の馬二頭を与えよう」
全員は静まり返ったが、このとき伝令エウメデスの子ドロンが口を開いた。
彼は黄金・青銅を多量に蓄え、容姿はみすぼらしいが脚は速かった。
「ヘクトールよ、私が敵の船陣に近づき、敵情を探ってこよう。
ついては今、その杖を掲げて、比類なき勇士ペーレウスの子の馬と戦車を私に下さると誓っていただきたい。
決してご期待に背きません。
これから、敵の大将たちが逃げるか戦うかを協議するアガメムノンの船までまっしぐらに走るつもりです」
そこで、ヘクトールはドロンにその旨を誓った。
ドロンは大いに喜び、さっそく身支度し、軽装にてアカイア勢の船陣向け走っていった。

オデュッセウスは、トロイア軍の陣からこちらに走ってくる人間に気づいた。
オデュッセウスはディオメデスに、いったんやり過ごしてから退路を断ち、捕らえようと提案する。
二人はいったん別れて、それぞれ戦死者の遺体の間に身を隠した。
これに気づかぬドロンは二人の前を走り過ぎたが、しばらくして物音を聞いた。
誰かが自分を呼び戻そうとやってきたのか、と思ったが、敵とわかると、一目散に逃げ出した。
オデュッセウスとディオメデスは猟犬が小鹿を追うようにドロンを追跡し、船陣まで追い詰める。
アテネ女神は、アカイア勢の誰かが気づいてドロンを撃ってディオメデスの手柄が奪われるのを危惧し、
ディオメデスに気力を吹き込んだ。
ディオメデスは叫んだ、
「止まれ!さもなくば槍で撃つ!」
そして槍を投げた。故意に的を外したその槍はドロンの右肩をかすめて地面に突き刺さった。
ドロンは気力も萎え、蒼白になって涙を流し、追いついた二人に命乞いをした。
「どうか殺さずに、生け捕りにしてください。身の代を払います。
家には青銅も黄金も、精錬した鉄もあります。私がアカイア勢の船陣で生きていると知れば、
父はその中からあなた方に莫大な身の代を支払うでしょう」

オデュッセウスは言った。
「殺しはしない。だが、これから尋ねる事に偽りなく答えろ。
おまえがただ一人陣営を離れてこの船陣に来たのはどういうわけか、話してみよ。
戦死者の遺体を剥ごうとしたのか、ヘクトールが敵情を探らせるためにお前を遣わしたのか、
それともおまえが勝手にそういう気を起こしたのか」
ドロンは答えた。
「ヘクトールが人の心を惑わすようなことを言って私の頭を狂わせたのです。
あの人は高貴なるアキレウスの駿馬と戦車を恩賞に約束し、
私に船陣の状況を探って来いと命じたのです」
機略縦横のオデュッセウスはにやりと笑った。
「つまりおまえはアキレウスの馬と戦車という大それた恩賞がほしかったわけだな。
しかし、あの馬は、女神の子であるアキレウス以外には乗りこなせぬ駿馬。
では次の問いに答えよ」
続いてオデュッセウスは、ドロンにトロイア軍の配置や動向について訊いた。
ドロンは、ヘクトールがイーリオン建設の祖イーロスの墓の傍らで評議していること、
警備を行う特別の部隊は存在せぬこと、トロイア軍は眠らずに見張りをしているが、
諸国の援軍部隊は警備をトロイア軍に任せて眠っていること、を告げた。
さらに問いただされ、来援部隊の配置についても事細かに語った。
そしてトロイア軍に潜入したいなら、新たに到着したトラキア人の陣からがよいと勧める。
その王はエイオネウスの子レソスで、素晴らしい馬を所持していることも語った。
「・・・・・・ところで私の身は、あなたがたがその場へ行かれて、私の話が正しかったか確かめられるまで、
船へ連れてゆくか、縄で縛ってこの場へ残すか、どちらかにしていただきたい」
豪勇ディオメデスはドロンを睨んで言った。
「ドロンよ、いろいろとよいことを教えてくれたが、逃げられるなどとは思うな。
今お前を解放したり逃がしたりしたら、後々までわれらが船陣へ来て、様子を探ったり、また戦ったりするだろう。
だが今、私の手にかかって命を落とせば、もはやアカイア軍の煩いにはなるまい」
ドロンは急いで命乞いをしようとしたが、次の瞬間、ディオメデスの太刀がドロンの首を撃った。
ドロンの首が転がると、二人はその武具を剥ぎ、その戦利をパラス・アテネへ捧げて感謝を捧げた。
そしてそれらをギョリュウの葉陰に隠すと、トラキア人の部隊へと向かう。

二人はトラキア軍に潜入した。ドロンの言うとおり、見張りはいない。
二人はレソスと、彼の駿馬を見つけた。
オデュッセウスはディオメデスに言った。
「さっき殺したドロンが話していたのはあの男、そしてあの馬だ。
さあ、ここでおまえの凄まじい力を見せてくれ。武器を手にしながらぼんやり立っているのはおまえらしくないからな。
馬の綱を切るか、敵を片付けてくれるなら、馬は私が引き受けよう」
そのとき、眼光輝くアテネはディオメデスに力を吹き込んだ。
ディオメデスは太刀を抜くと、辺りのトラキア兵たちを無差別に撃ち殺し始めた。
そのさまは、さながら獅子が家畜の群れに襲い掛かるよう。
オデュッセウスは、彼が斬り倒した兵士達を片付けていた。
(レソスの馬は戦場に来たばかりなので、死体におびえる。二人が馬を奪って返る際、馬がおびえないため)
十二人を撃ったディオメデスは、十三人目にレソスを撃って息の根を止めた。
オデュッセウスは駿馬を奪うと弓で叩きながらトラキア陣から引き出す。
戦利品を剥ぐか、さらに多くのトラキア人を撃つか思案を始めたディオメデスは、
女神アテネに諭されて潔く引き返すことにした。
二人は飛ぶように退却し、アカイアの船陣に向かった。
銀弓持つアポロンはこの情景を見てパラス・アテネに腹を立て、すぐにレソスの従弟ヒッポコオンの目を覚まさせた。
ヒッポコオンは信じられぬ惨状に愕然とする。トロイア軍もこれに気づき、陣中は大騒ぎとなった。

二人はドロンの武具を回収すると、意気揚々と凱旋した。
この物音を真っ先に聞きつけたネストールが言う、
「アルゴス勢の諸将よ、足の速い馬の蹄の音が響いてくる。
オデュッセウスと豪勇ディオメデスが、トロイア勢から奪った馬をここへ曳いてきたものであればよいのだが、
それともアルゴス勢に名だたる勇士に何か良からぬことが起こったのではないか、心配でならぬ」
言い終わらぬうち、二人が姿を現した。彼らが馬から降り立つと、一同は歓喜して手を差し伸べ、ねぎらいの言葉をかけた。
ネストールは、彼らの曳いて来た駿馬に驚き、二人の武勇伝を聞きたがる。
オデュッセウスは馬のこと、偵察の一部始終を語って聞かせる。
そして、二人は戦利品を携えて陣屋に戻り、それから海に入って体の汚れを洗い流した。
海から上がると、今度は湯船に入って湯浴みし、それからオリーヴ油を肌にたっぷりと塗ると食膳に着き、
混酒器から甘美な酒を酌むと、アテネに献酒した。


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