「第22回 寿町フリー・コンサート」
2000.8.12 横浜市寿町 職業安定所前広場


渋さ知らズ


音楽を聴こうと思えば、CD屋に行きCDを買う。またはライブ会場に行き、チケットを購入しライブを見る。もはや誰も疑問に思うことも無くなったことである。そして毎日、買い物をしていても、居酒屋にいても音楽を耳にする。音楽が流れていない場所など何処にも無いと言えるだろう。でも僕は日本の町に音楽を感じることは殆ど無くなってしまった。垂れ流される音を聴いているとイライラするのだ。携帯の着メロや、店舗で流されるBGMなど、それが好きな曲であっても、自らが音楽を欲しいと思うとき以外に聴かされるものは「ノイズ」にもならない。

寿町。横浜、石川町と関内の中間に位置する町であるが、一般的には職業安定所があり、日雇いの労働に従事する人々が住む町だと言われている。通称「ドヤ街(宿というほど立派ではないからドヤと呼ぶ)」。もしくは「寄せ場」と呼ばれる場所である。「寿町は危ない町だから行ってはいけない」と呼ばれる場所である。
今から20数年前、喜納昌吉が寿町を訪れた際、「ここでライブをやりたい」という発言をし、町の夏祭りの一貫として職業安定所前広場で毎年開催されるようになった。フリー・コンサートの名前通り、無料。そして、出演者はノー・ギャラ。出演者、主催者、参加者は全て対等であることが基準となっている。偏見を払拭するために年に一回、若い人達に寿町の実態を見てもらい、寿町で生活をする人達と交流をする。それがテーマのコンサートである。

僕が初めて寿町に訪れた時。曲がり角を曲がり、会場に近づくに連れて、その町並みに「ここは日本なのだろうか?」という感覚に陥ってしまった。確かにコンクリートで作られた簡易宿泊所が並ぶ姿は日本の町なのだ。いくらかのハングルの看板を除くと、日本語の看板、見なれた自動販売機。でも僕はかつて訪れたバリ島の市場の雑踏を思い浮かべていた。湿度が高く、車道は車のためではなく、全て歩行者、否、道路上で寝ている人が最優先される風景にそう感じただけでなく、そこで見た人々の雰囲気に「アジアの雑踏」を感じたのだ。人と人の繋がりを感じない生活を送る日常とは正反対の、人の体温を感じる場所だった。このフリー・コンサートはいわゆるお盆の時期に行われるのだが、そう、これは僕の里帰り。自分の体内、奥深いところ、はるか彼方の記憶が、僕を寿町に足を運ばせるのだ。

 今年も開催されたフリー・コンサート。今年はレギュラーと可したソウル・フラワー・モノノケ・サミット、寿に加えてシーサーズ、そして渋さ知らズという超豪華なメンツが出演する。ただ超豪華だと思う人は今の日本では少ないだろう。しかし、少なくとも彼らが新作を出せば大手外資系のCD店でもとても目に付く場所に並んでいるのも事実である。それが流行りのJ−POPという棚に並んでいないだけであるが。
 会場に着くと、すでにコンサートは始まっていた。「ジャンベ・フラワーズ」である。アフリカの太鼓にジャンベと言うものがある。大きいものは首から紐でぶら下げて、胴体を足と足の間に挟んで素手で叩く楽器である。この「渋さ知らズ」のメンバー数人+αからなる集団は初めてライブを経験することとなる。多数の、ほんと、いったい何人いたのかわからないジャンベ奏者とサックスを中心にした編成で、既に会場はダンス・フロアとなっていた。
ポリリズムの快感。しかしアフリカ音楽の模倣ではなく、そこから流れてくるサックスの音色はあきらかに「日本語」だった。僕が好きな国内のジャズ、即興音楽家の大半は言語を使用しなくても「日本語」を感じる人達である。その泥臭さ、下世話さ、怪しさ。それがたまらなく好きなのだ。 「渋さ知らズ」で御馴染みの佐々木彩子さんが短パンで太ももにジャンベを挟んで叩く姿は、エロスだ。ジャズにエロスが無くてどうする。
 寿町でのライブは参加者と演奏者の掛け合いが楽しい。コール&レスポンスというか漫才である。今日も演奏者に対して、尊敬の念を込めて声がかかる「阿呆!」
 「ジャンベ・フラワーズ」が終了し、僕は一旦、ステージの裏へ行く。といってもステージ裏は公道なのだが。そこを友人は「チル・アウト・スペース」と名付け、アスファルトの上に身体を預ける。誰もシートなど敷きやしない。これが寿町流。ビールや焼酎、屋台の焼き鳥などを口にしながら、年に一回、ここで会う仲間たちと歓談。時折、寿町のおっちゃんらが混じり、日頃のコンサートなどでは絶対に無いであろう交流を行う。といっても酒を振舞うだけで簡単に交流は出来るのであるが。
 この寿町はバンドのセッティングなど殆どない。出演者が自ら行うのがパターンである。「チル・アウト・スペース」の横にはソウル・フラワーの河村や奥野がセッティングの準備を行っている。寿町の出演者は、このコンサートに出ることを非常に楽しみにしているので、参加者と気軽に話をしてくれる。誰も金を払っているわけではないのに。しかし、そこでも漫才ばかりであるが。
 「ブラジルUFO」というバンドが終了し、再び僕はステージ前へ。ソウル・フラワーである。例年であると司会は寿町のおっちゃん、確か「よねさん(まさか死んでいないよね)」なのだが、今年は参加者数の増大、安全上を考慮してなのか実行委員会の人が司会を勤める。当然、今回の出演者の中での知名度は段違いなので、参加者の興奮は大きい。ソウル・フラワーはフジ・ロック以来だから2週間ぶりであるが、今日はモノノケ・サミットでの出演。チンドン・ユニットである。ステージに中川が現れると歓声が凄い。そしてモノノケのスタートはいつもの「美しき天然」である。セッティング時間なし、PAシステムだって御世辞にも良いとは言えない。バランスは悪い。でもここに漂う雰囲気はそれを許容してしまう。音は確かにそこにある。何故なら、ここは、その音が鳴るべき場所なのだ。聞えなくても音はあった。



 今回のモノノケはクラリネットの大熊亘が欧州ツアー中であり、チンドンを担当するこぐれみわは大熊亘夫人であるので同行中なのか不参加。これはかなりモノノケにとっては不利なもので、中川自身も「練習したら悲惨なものになった」なんて言っていた。そう、僕が聞いたモノノケの中でも、今回は一番酷かった。にも係わらず、場内は興奮状態。フジロック効果としてダイブ者まで出た。しかも「満月の夕」で。早速、主催者がダイブの禁止を告げる。通常のライブと異なりおっちゃんらがいるので危険である。だが最も危険なのはステージが壊れてしまうことである。寿町のステージは朝から寿町のおっちゃんらが組んだ物である。業者がしっかりと強度を考慮して組んだものではない。通常ビデ足場の許容荷重は200キロと労働基準局で決まっている。1ヶ所に数人がジャンプをすればとても持つ物ではない。この「満月の夕」でダイブ、しかも寿町でというのは僕が今回のフリー・コンサートで唯一「違和感を感じた」ものだった。

 
曲と曲との間、僕の友人はボ・ガンボスの「トンネル抜けて」を歌い出す。すると周囲も続く。ボ・ガンボスのどんとが今年、帰らぬ人となったが、どんともまたこの寿町を愛していた。酷い声の合唱を耳にした中川はニヤリと笑っていた。モノノケが「さよなら港」で終了したが場内の拍手は続く。アンコールだ。「がんばりたくない人もがんばりましょう」で「がんばろう」。中川は何時もこの曲で「拳を開きましょう」と歌う。前衛的身体表現であり、世界中から賞賛される暗黒舞踏の巨人、大野一雄先生は「開いた拳は、他人を表面、内面だけでなく全生命力、全宇宙的に愛するということを表現している」と語ったことが在る。中川が阪神淡路大震災後の被災地をモノノケ・サミットとして歌いまわった結果、辿り着いた境地。そう、中川ほど気持ちに染み入る歌を歌うヴォーカリストは日本に何人もいないと思う。
 続いて「シーサーズ」。モノノケに多大な影響を与えたユニット。先ほどの「チル・アウト・スペース」とステージ前を行き来しつつ、聴く。だが友人の一人が酔いつぶれてしまっているのでちょっと様子を見ていたのであまり記憶にない。僕も酔っていたし。
 そのままトリ前の「寿」まで休憩。もう一つバンドが演奏していたが「寿」〜「渋さ」という流れは体力の消耗が激しくなるのが予想され事と、やはり色んな人と話をしたいこともある。ソウルフラワーの伊丹英子=英坊にフジのライブの感想を話したり、フジのBBSで僕の書いた寿町の書きこみを見て初めて寿町に来たという人から声を掛けられたのでしばし立ち話をする。お相手の方、かなりのご満悦。僕も嬉しい。

 「寿」。ナヴィーと言う類まれなるヴォーカリストがいる。沖縄音楽にゴスペル、ソウルを融合させたと言ったらわかりやすいだろうか。バックはファンク。ギターに至ってはヴァーノン・リードのようである。この僕のお気に入りの一つであるバンド、やはりナヴィーの聴衆への煽り方はいつも素晴らしい。「がじゅまるの木の下で」「我ったーネット」など代表曲、「安里谷ユンタ」といった沖縄民謡(でもアレンジはファンク)。僕の嫌いな「花」もナヴィーなら許せてしまう。和製R&Bなんてのが垂れ流されているが、僕はUA以外、全て聴く気がない。何故ならナヴィーにこそ、その称号はふさわしいと思うからである。流行りのアレンジャーを連れてきて、ブラコンまがいの曲をやってる姉ちゃんのどこにアレサ・フランクリンの遺伝子を感じるというのだ。「お前はお前の歌を歌え」ば良いのに。



 寿が終了した後、セッティング中、ステージの上のほうでおっちゃんがパンツを下ろし物体を手になにかを叫んでいる。場が整った! そのまま「渋さ知らズ」を待つ。
 不破大輔率いる大集団。いったい誰がメンバーなのかわかる人がいたら紹介して欲しいと言うぐらいメンバーが多い。RCサクセッションでも御馴染みのテナー奏者、片山広明、ROVOで御馴染み勝井祐二(ヴァイオリン)、元ミラーズ、フリクションで知られ現キノコスモ、トランスDJであるヒゴ・ヒロシ(ベース)、あとはもう誰がいたのかさっぱり憶えていない。無数のパーカッション、ドラムは2人、ベースも2人、キーボード、エレキ・ギター、フランスの変態バンド=マグマを彷彿させるコーラス隊、大量のホーン。そして色っぽいミニ・スカートのダンサー2名、暗黒舞踏の踊り手4人。全部で何人だか数えられない。
 広場をホーン隊が練り歩きステージに登場。相変わらず不破大輔は猥雑さを漂わせて指揮を行う。指揮棒による指揮ではなくジェスチャー。大天才サン・ラーやフランク・ザッパを思い浮かべる。特に口ひげからしてザッパか。


一曲目が「本多工務店のテーマ」。客席モッシュ大会。テーマ部大合唱。誰だこんな凄いバンドを「ジャズ」としか見ていない連中。かつてのジャズは客席との掛け合いが盛んだったと言う。いつのまにか芸術に祭り上げられ、カクテルが似合う音楽になってしまった。そんなものと「渋さ」をいっしょにするな!
曲はスピード感にあふれる曲が中心だ。スカのリズムで参加者の身体が一つとなってうねる。後方へと弾き飛ばされた僕は、おっちゃんらと輪になってジェンカを踊る。寿町のかつての顔に「じゃがたら」というバンドがあった。江戸アケミという凄まじい男がヴォーカリストだった。没後10年以上になるが、彼も寿町を愛した。「ロックが中産階級の慰め物になってたまるか!」との思いで寿町で歌った。その熱演におっちゃんらは、どう反応したら良いかわからず、坂本九で知られるジェンカを踊った(じゃがたらのビデオ「ナンのこっちゃい」で確認できる)。モッシュ・サークルなんて言葉がなかった時代に。肩を組むなんて労働運動みたいで寒気がするのだが、ここでは、やはり自然となってしまう。足が地に着いた音楽への返礼とばかりに。
 流行とも無縁で、殆どメディアで取り上げられない「渋さ」であるが、世界的に有名なドイツのメールス・フェスティヴァルではメイン・ステージのヘッド・ライナーなのだ。日本での評価が不当に低い。こんな集団、世界に二つとないよ。サン・ラ、ザッパ、チャーリー・へイデンのリヴェレーション・ミュージック・オーケストラ(不破の書く郷愁感を感じさせるメロディーはこのへイデンの試みたスパニッシュ民謡のジャズ・アレンジを思い浮かべる)、日本アンダーグラウンド・シーンに影響を強く与えたジョン・ゾーンとトム・コラが伝えたユダヤ民謡クレツマーへの日本からの返答。日活ロマン・ポルノ的な猥雑さ(そうアダルト・ビデオではない)。

 例年に比べるとフジロック=ソウル・フラワー効果で若者率が上昇した感。コンサートの主旨がどれほど達成できたかわからない。でもあの場所に行った人が増えたのは嬉しいことだ。フリー・コンサートと同じ日、寿町の出演者全員のCD売り上げを単体で遥かに超えるバンドがいくつも集まったイベントがあった。どちらが正しいかなんて意味はない。僕にとっては圧倒的に寿町の方が魅力的なのだ。意味があるのだ。アイルランドのパブでは誰ともなく音楽を奏でるという。町に音楽が生きている。僕はそれを寿町で体験するのだ。すべてのロック・バンドは寿町にあこがれるべきであろう。そこには嘘出鱈目のハイプ記事も、音楽ではなくアーティストのキャラクターを押し付ける音楽雑誌も、お金を出してクリップを垂れ流すテレビも無いのだ。アーティストの実力のみで勝負できる。歌一本、グルーヴ一本で勝負。アーティスト冥利に尽きると思わないか?
 
 祭りは終わった。僕の夏は終わった。おっちゃんらはいつも名残おしそうである。そう、僕らは年に一回しかここへ行かない。結局コンサートを楽しんでお終いだったりするのだ。ここへ行く事を自分の免罪符としているかもしれないが、でも僕はここへ来るのが嬉しい。集まる人たちの肩書きなど一切無関係の場所。そしてそこで流れる「生きた音楽」「真のストリート・ミュージック」。僕にとって寿町フリー・コンサートは自分が立っている場所を確認する場であるのだ。アスファルトの上に何も敷かないで横になって眺めると、自分の立っている場所はおっちゃんらと同じ場所なのだ。
 
 頭の中にはソウル・フラワー・ユニオンの「ホライゾン・マーチ」が流れる。踊って行こう、何も逃げ出さないから。
おっちゃん、来年も会おうな。


HOME