『手紙』

姉が子供を産んでからというもの、本人や実家の両親からの手紙が増えた。内容はと言えば、その子供の近況報告がほとんどなのだが、実際育てている姉と、端から見ている両親との見解の違いが、何ともおもしろい。しかし、なかなかその子に会えない僕からすれば、その子の確実な成長ぶりを知ることができる、貴重な情報である。

そんな手紙を通してわかることは、姉は姉で、いつの間にか、立派な主婦となり、立派な母親としてたくましく生きているということ。両親が心配するほど、姉も子供ではない。姉が結婚して、もうすぐ4年。両親が見ていないところで、今までとは違ったスタンスで生き、今までになかったたくましさを身につけたように思う。

姉は、きっと直接話しをしたら言わないであろうことを手紙で書いてくるし、両親だって、僕と会った直後に、会った時には言わなかったことを題材に手紙をよこしてくる。面と向かって言うのが恥ずかしかったり、照れくさかったり。そんなところに、温かさのようなものを感じてしまう。

僕は、手紙を使ったやりとりが好きだ。単なる情報のやりとりだけではなく、その人の筆跡を通して、言葉ではわからないその人らしさを感じとることができるからだ。字が汚い部類に入る僕だって、手紙となれば、字の汚さも僕らしさを演出する大切な要素だと思っている。封筒を見ただけで、何となく誰からの手紙かが想像できたり、封を開けるまで、何が書かれてあるのか、あれこれと想像してみたり。一通の手紙でも、それを読むまでの過程に、いろいろと楽しみがある。

手紙を書くということは、億劫な作業だ。しかし、その億劫さを乗り越えて、自分の筆跡で、下手であろうとなかろうと、自分の気持ちを伝えようと書いている姿が想像できるところが好きなのである。

かつて親しくしていた人が、「手紙だと億劫で書き始められないけど、Eメールはスイスイ書けるところがいい」と言っていたことがある。僕は、決してEメールを否定しないが、単純にそうして比較できるものでもないように思えるのである。かつて電話ができ、遠くにいてもリアルタイムに話しができるようになって、コミュニケーションは飛躍的に円滑になった。そして今や、家を留守にしていても、携帯電話ですぐに話しができるようになり、Eメールで手軽にメッセージが送れる。ただ、ここまできたら、単純に便利さの比較をしても仕方がないように思える。その便利さだけが誇張されて、それまでのアナログなメディアが否定されることが嫌なのだ。それぞれにそれぞれの良さがあり、適した場面で、その役割を果たしていけばいいだけのこと。お互いのいいところをうまく利用していけば、より深いコミュニケーションが取れる。そのうち、Eメールを書くことすら億劫だと言われはじめ、また新たなるメディアが登場するのかもしれないが・・・。

しかし、どのメディアを使おうとも、気持ちを言葉に置き換える段階で、何か変圧器にでもかけられたかのように、全てが表現し切れなくなってしまったりして、じれったさを感じたりしてしまう。だから、僕にしてみたら、顔を突き合わせて話しすることが一番の方法。話しをしているときの表情が、その伝え切れないことの補完をしてくれると思っている。

手順を考えれば、人と会うということは、一番面倒かつ億劫なものなのかもしれない。しかし、僕からしてみれば、この過程も手紙と同様に、楽しさを感じられるものなのである。



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