『おじさんとして』

先月、わが姉に待望の第一子が産まれた。予想していた通りの男の子。難産だったらしいが、時々実家から入る経過報告の電話で、母子ともに健康の知らせを聞いていたので、安心はしていた。

そうして、一ヵ月が過ぎた。仕事の関係で休みはとれなかったのだが、おばあちゃんの初盆ということもあって、土日で帰省した。実質、27時間程度の滞在。日本中を駆け回るビジネスマンか、芸能人なみの慌ただしさである。

一ヵ月目にしての初対面。この子について、いろいろと聞かされていたが、やっぱり実際に見てみないと、しっくりこない。そうして、実家に着くやいなや、自分の子供でもないのに、ドキドキしながら部屋へと向かってみた。

赤ん坊は、姉に抱かれていた。小さくて、目元がダンナそっくりである。姉が寝かそうとしているのとは裏腹に、手足をバタバタと動かして、元気そうなしぐさを見せてくれた。その一つひとつが、何とも可愛いい。

そんな姿を見ていると、嫌なこととか、余分な力が抜けてくる気がした。実際子育てをしている姉にとっては、何かと大変なことが多くて、力が抜ける時というのも、ほんのわずかしかないのであろう。そんな意味では、男親というのは、いいところばかりもっていけるのかもしれない。いやいや、それは僕があくまで第三者として見ているからのだろう・・・。いろんなことを考えながら、この子を眺めていた。きっと鏡に映せば、ニヤニヤしたスケベオヤジかのような顔をしていたのだろうと思う。

しかし、違和感を覚えずにはいられないのだが、間違いなく、姉は母親になっってしまったのだ。5月に会った時にはまだ大きかった、あのお腹から産まれてきた子供なのだ。そして、僕は間違いなく、「おじさん」となってしまったのだ。

しかし、今まで抵抗していた「おじさん」という響きも、姉の子供となると受け入れてしまう。むしろ、こっちから「おじさん」ということをアピールしたくなる。かつて、僕と同世代の親戚に子供が産まれてきた時には、他人ごとのようにしか思えなかったし、年に一回くらいしか顔を会わさない子供から、「おじさん」などと言われた時には、「お兄さんっ!」と、むきになって、すぐに訂正させていたのだから不思議なものだ。

姉が抱いてもいいというので、すこし抱かせてもらったのだが、首が座っていないので、恐る恐るにしか抱けない。案の定、僕に抱かれるやいなや、泣き出してしまった。それでなくとも泣き虫なこの子。それがこのビクビクした腕に抱きかかえられたものだから、火がついたかのように泣いてしまった。そして、姉にバトンタッチすると、「何かありましたか?」っていうような顔をして、ピタっと泣きやんでしまう。一ヵ月といえども、姉の手つきは慣れたものだ。

この限られた時間、彼とてお腹が一杯になったら眠ってしまう。だから、僕は彼と姉が元気な間、できる限り一緒にいるようにした。
「僕は、君とちょっとだけ血のつながった、おじさんなのだ。年に何回かしか会えないけど、そのことを忘れないでね。」
そんな気持ちを目一杯伝えたかったのである。

両親とは違って、僕はここには住んでいない人なのだ。だから、こういった会える機会は大切にしないといけない。これもまた、一期一会なのである。

姉は、この子が口をきけるようになったら、僕のことをあだ名で呼ばせたいらしい。でも、僕は素直に「おじさん」とか、関西人らしく「おっちゃん」なんて呼んで欲しい。その方が親しみを感じる。

次に会えるのは、正月になるのだろうか。できればそれまでに、もう少しゆっくりと休みをとって、彼の成長を見てみたい。帰省する楽しみが、また一つ増えたという訳だ。その頃にはきっと首もすわっていて、僕も怖がらずに抱き上げられることだろう。

早く「おじさん」って呼んでね。
そして、何年か経ったら、一緒に走って遊ぼうね。



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