『許された時の中で』

昨日、とあるアーティストのコンサートへ出かけた。僕がそのアーティストのステージを見るのは初めてで、ビデオやCDなんかで予備知識はつけたものの、完全に初心者状態であった。

僕にとって、今回の一番の楽しみはそのステージ全体の演出であった。どうやって約2時間のステージを演出するのか、どんな風にステージが展開されていくのか、それが見たかった。今まで話しにしか聴いていなかったが、見せてもらったビデオのおかげで、その興味はますます大きくなっていった。

実際、最後まで見て、久しぶりに楽しめるステージだという感想をもった。こうやって、ステージ全体を見渡すような見方で臨むもの久々だったせいもあるのだろうが、とにかく楽しかった。僕が想像していたほどの演出効果は施されていなかったが、それでも見ている間、ずっとワクワクしていた。次回のステージもチャンスがあれば、是非見てみたいと思う。次はどんな趣向が凝らされたステージになるのかが、今から楽しみだ。

そのコンサートで、考えさせられることが一つあった。それは、ステージの一番奥に飾られた時計だった。僕の記憶では、入場した時には、現在時刻とピッタリあっていたはずなのだが、コンサートが終わる頃には約1時間半ほど進んでいた。その時計によれば、このステージは3時間程行われたことになっている。実際には2時間程のステージであったのに、だ。

僕がこの時計が進んでいることに気付いたのは、コンサートの終盤に差し掛かったところだった。とはいえ、実際時計を持っていない僕にしてみれば、正しい時間を確認できるものはない。判断できる基準は、「こんな遅い時間までコンサートやるわけがない」という、過去の経験に基づくものしかなかった。しかし、その基準を除けば、そのくらい時間が経っているのかもしれないと感じられるほど、僕の気持ちは充実していた。よく、楽しい時ほど時間が早く過ぎると言うが、まさにその通りの心境だった。
「もう、こんなに時間が過ぎたのか・・・。」
実際、時計が進んでいることに気付くまで、そんな風にしか考えられなかった。

このコンサートが始まった時、アーティストがこんなことを言っていた。
「時間なんて、所詮人間が勝手に作ったものですから。」
コンサートが終わって、その言葉にえらく納得してしまった。

まったく狂うことなく刻みつづける時間。そして、それを認知させるための時計。どれもが、人間が作り上げたものだ。生きていく一つの基準としてはとても大切なものなのだろうが、何より大切なのは、自分の心の中にある時計だと改めて思った。

決して絶対的ではなく、自分が感じたままに進んでいく時計。もちろん、全てのことを、自分の心の時計に併せて生きていく訳にはいかない。しかし、楽しかったり、嬉しかった時に感じる時間の早さ、辛かったり、淋しかったりしたときに感じる時間の遅さ。きっとそんな感じ方って、とても大切にしなければならないように思えるのである。そして、そのペースを充分に感じとって、遅い時には遅いなりに進んでいけばいいのだ。「急げ!」と言われたところで、どうにもならないことだってある。そんな時には、急ぐことよりも、その心の中にある時計が進むペースを感じとることが何よりも大切だと思うのである。

僕が腕時計が嫌いな理由はそこにあるような気がする。許される時くらい、感じたままに時を過ごして、心の充電をしたいと感じているのだから・・・。



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