『鈍る感性』

久しぶりにいろんな曲を聴いてみた。懐かしいアーティストしかり、ジャンルしかり。そうすると、頭の中に様々な映像が浮かびあがってきた。何だか、とても懐かしい感覚。こういう感性が随分と鈍っていたことに気付かされる。

僕は中学生のころまで、プロモーションビデオを作ることに憧れていた。しかし、どういう訳だか、その夢を全く追いかけることなく、大人になってしまっていた。いや、大人どころか、ありきたりの高校進学の道を選び、大学を出たといったほうが当てはまっているだろう。当時、いろんな夢があった中で、一番非現実的な夢だったせいかもしれないが、こうして思い出すまで、そんなことが夢だったということすら忘れていた状況だ。

そもそも絵心がない僕にとって、頭に浮かんだシーンを絵コンテにしたりすることは不可能である。しかし、頭の中では、登場人物やシーンの設定、展開はしっかりとできていた。MTVなんかで放送されるビデオクリップを見ては、僕なら違うものを作ると、考えていたものだった。

当時の環境といえば、わが家にあったビデオは一台のみ。それも、祖父母の寝室の隣の部屋にあったテレビに繋げられていたので、録画したビデオを見返すこと自体が大変なことだった。おまけに、MTVのような番組が放送される時間は深夜。祖父母が起きてこないことを祈りつつ、イヤホンをして、録画しながらこっそり見るというスタイルだった。そして、その録画したテープを次の週の放送が始まる直前に見返し、またタイムリーに番組を見るという繰り返し。だから、一番活動的になれるはずの昼間といえば、CDやカセットテープを聴いて、前に見ているビデオを頭に思い浮かべては、一人議論をしていたのである。

結構、思い入れの深かったアーティストの場合、シングルカットされていない曲であっても、勝手に頭の中でビデオクリップを作っていた。数にしてみれば、結構なものだったと思う。きっと大笑いするくらい陳腐な作品だったのかもしれないが、それでも、そうして頭の中に次から次へと浮かんでくることを楽しんでいた。

僕が高校になって、ビデオがわが部屋にも入ってきてからというもの、好きな時に映像と音とを同時体験できるようになった。僕が待ち望んでいた環境ではあったのだが、それが逆に僕の感性を鈍らせたような気がする。そういう状況になって、見る量や時間は以前よりも増えたのだが、思い浮かぶ場面の鮮明さは極端に薄れたように思う。

これって、いろんなことに当てはまるように思える。今や、その気になれば不自由せず、望んだ環境を手にすることはできる。でも、それがなんだか僕自身の喜びとか、悲しみとか、くすぐったさとかの感覚を鈍らせているかのように思えるのである。決して僕は、アナログ至上主義者ではないし、懐古主義者でもない。しかし、便利すぎることが、何かが叶った時に得られる副産物のようなものを感じとる能力を低下させているように思えるのである。

心の中にいる人を含めて、僕の周りにいる40才代の人たちが、とてつもなくかっこよく見えるのは、そのせいかもしれない。例えばギター。テクニックでついてこれる人は大勢いるのだろうけど、「音」という面ではまずかなわないように思う。もちろん絶対音感とかも関わってくるのだろうけれど、これって、世代的な音感の違いなんだと思う。譜面とか映像がなくて、頼りになるのは自分の耳だけ。そうやって聴いてきたからこそ生まれる音感。だから、コピーフレーズを弾いている時よりも、アドリブで弾いた時に、その人のうまさだとか、個性がより感じられる。そんな意味でも、最近、そういう感性(勘性?)って、とても希薄になってしまっているような気がする。

想像力とか、頭の中でのイメージということ自体、とても大切なことなのだろうが、そこから派生する様々な感覚との繋がりというのも決して忘れてはならないように思う。そんなことをついつい感じてしまうような時間を過ごした。



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