あの忌まわしい災害から、もう4年が経とうとしている。4年と言われれば、そんな気もするし、つい最近起こったことのようにも思える。そのくらい僕の心の中には、あの震災の日のことが心に残っている。 あの日、1995年1月17日。「成人の日」が日曜日だったために振替休日があり、その日が一週間の始まりの日だった。当時、6:30起床の生活をしていたのだが、週の最初の日は早朝ミーティングがあったため、6:00に起床するようにしていた。6:00に起きて、テレビのスイッチを入れてみると、いきなり近畿地方の地図が画面上に現わる。 とりあえず会社へ。 神戸に住んでいる知人もいる。きっと大丈夫であろうが、京都にも、大阪にも、多くの友人や大切な人がいる。すぐにでも、向こうへ行くなり、連絡をとりたいと思った。でも、どうしようもなかった。電話はパンクしてるし、今すぐ京都に戻るわけにもいかない。それまで味わったことのないような不安が襲ってきた。 その日どんな仕事をしていたか、殆ど覚えていない。唯一覚えていることといえば、集金があって、手が震えて、ハンコが仲々押せなかったことだ。 東京にいる僕。何もできないでいることに、怒りや憤りを通り越して、何とも言えない虚無感が襲った。それからというもの、しばらくの間、僕の頭の中から、あの恐ろしい光景が離れなかった。 しばらくの間、会社でも嫌な思いをした。全社的なカンパの要請。ぐちぐち文句をいいながらやる人や、とても現地の人には聞かせられないような冗談をいいながらやる人がいた。その度に、僕は嫌な思いをしてきた。そして、東京からも、現地の支店・営業所復興への救済人員が出ることが決まって、「休みがてら実家に帰って、行ってくれば?」と笑いながら言われたとき、ぶっ飛ばしてやろうかと思った。それからしばらくの間、人の善意に不信感を感じずにはいられなかった。思い出がいっぱいつまっている神戸、そして関西。それを置いてきて、東京で暮らしている僕。向こうにいる友達や大切な人から「大丈夫」って言われても、その本当の気持ちを察することができない自分が嫌だった。すぐにでも戻りたい。そして、家族を始め、みんなの顔を見なければ、安心することなんてできなかった。 そして、2月。それだけの理由で京都に帰った。それで初めて安心できた。しかし、神戸にだけは行けなかった。あの思い出の土地の変り果てた姿を直視することはできなかった。直視することが怖かったのである。あの震災後、僕が神戸に行けるようになるまで、2年以上の時間がかかった。 去年のG.W.に仕事で神戸にいった時、まだ僕の心の傷は癒えていないことがわかった。その前の年にいった時と同様に、すっかり何事もなかったかのような表情を取り戻してはいたが、僕の記憶の中にある姿とは違った。やるせない、とても複雑な心境。2度目であっても、その気持ちが変わることはなかった。 あの日、あの場にいなければ、わからないことも沢山あると思う。でも、あの場にいなかったからこそ、感じる気持ちだってある。僕はそれを、嫌というほど味わった。そして、それから4年。新聞にそのことが書かれてあることを見て、改めてその時のことを思い出した。 あの震災から多くのことを学んだような気がする。その中でも、一番重要に思っていることは、「人間いつ、どうなるかわからない」ということ。先の人生なんて、何の保証もされていないということだ。それは決して、悲観的に捉えているのではない。今日一日を精一杯生きることが大切だということだ。 一日の中で、当然、やり残したということはあるのだけれども、自分で納得できるのであれば、それでよいと思う。人生という、長い目で見れば一話完結型のストーリーの最後には、必ず「やり残し」の章が存在するのだから・・・。ただ、そのやり残したことに対して、後からグチグチ言わないことが大切なのだと思う。自分で納得して、悔いなき一日の幕を降ろす。そんな積み重ねが、いつ終わるかわからない人生なのだろうと思う。 あれから4年。その後、あの震災のような大惨事は起きていない。そのことをありがたく思うと同時に、改めて、あの震災から学んだ多くのことを心に刻むのであった。 |