『言葉』

言葉を用いた表現というやつも、なかなか厄介なものである。頭に浮かんだこと、考えていることを、相手に伝わるようにしなければならない。もちろん聞く側にいる人も、相手が伝えようとしていることを把握しようとしなければならない。そう考えると、頭で考えていることが直接やりとりできれば、コミュニケーションってどれだけ楽になることなのだろう。でも、そうやって何かをうまく伝えようとしている人の、しぐさや表情、口調なんかに魅力は隠されているような気がする。それが言葉の上に重なって、その人らしさがにじみでてくるのだと思う。

僕は他愛もない会話やおしゃべりが好きだ。小さい頃は親も先生も、そして自分も認めるくらいに「おしゃべり」だった。「沈黙は金」などとよく祖父なんかに教えられたが、まるで逆行するかのようだった。でも、黙っていて、自分が考えたり、感じたりしていることを感じとってくれというのも変なものだ。やっぱり何かを伝えようと思えば、言葉を使うのが一番便利な道具なのだろう。でも、よくないことにその頃の僕は、人の話しに耳を傾けるという能力に欠けていた。とにかく自分が考えていることを伝えることしかできなかったように思う。

何年か経って、ようやく僕も、人の話しを聞くことができるようになっていた。それは、悩み事相談を受けるのが好きになったというわけではなく、人の話しの中には、いろんなヒントが隠されていることに気付いたからであろう。それは、もちろん表情や口調なんかも含めて、その人を知るって意味でも大切なことだし、自分の考え方なんかにも影響してくる、大切な機会だと思う。最近気を付けていることは、相手が全て話し終えるまで、できるだけ口を挟まないこと。そうやって話しを聞いていると、時々はっとする場面に出くわすときがある。なんともない言葉が、ふっと心の中に入ってきて、思ってもみなかったことに気付かされることがある。きっと、それが言葉の持つ魔力なのだろう。

意見を交す場所でも、同じようなことがあてはまると思う。最後まで相手の意見を出させてあげて、一旦頭の中で解釈する。それからでもこちら側の意見をだすのは遅くない。そうしていると、自分の意見との食い違いだとか、自分の意見のおかしなところが見えてくる。それから意見を出すほうが、案外的確だったりするのである。しかし、いつもそんな風にできないから、困ったものだ。生まれもったかどうかはわからないが、「おしゃべり」の血は残っている。仕方ない、ゆっくり行くしかないのであろう。

時に、人は会話の受け答えの中で、傷ついたり、励まされたりする。例え、その言葉を発した本人に何らかの意図があろうとなかろうと、ほんの一言がその人の傷として残ったり、心の支えとして残ったりすることがある。もちろん僕の心の中にも、そういう言葉はたくさん残っている。これからもそんな会話の中で、いろんな言葉が飛び交い、いくつかの言葉が心に残っていくのだろう。

例え、それがどんなにくだらない会話であろうとも。



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