『風呂』

久々の大雨だった。こうして少しずつ夏はその姿を消していき、秋が訪れるのであろう。そして、いつの間にか冬がやってきて、寒さに耐えるという、最も苦手なことに挑まなくてはならなくなる。そうして、一年が終わっていく。全く、時の流れは早いものだ。

僕は秋という季節が苦手だ。冬ほど苦手意識はないものの、どうも精神的に参ってしまう季節なのである。それまで青々と繁っていた緑が、すこしずつ黄色を帯び始め、やがて枯れていく。そして木々からは次々に落ち葉が舞い落ちてくる。そんな風景の中を過ごしていると、何故か切なくなってくる。それに輪をかけてよくないのが、「秋の夜長」ってやつだ。「読書の秋」「食欲の秋」「スポーツの秋」・・・。秋という季節はいろいろ例えられるが、僕にとっては「考えごとの秋」になってしまう。普段からあれこれと考えてしまう性格ではあるが、「秋の夜長」がそれを助長してしまう。そして、やがてやってくる冬に対する憂鬱・・・。今年は一体どんな秋を送ることになるのだろうか。

僕はよく風呂場で考えごとをする。秋が訪れて涼しくなってくると、必然的に入浴時間が長くなってくる。ということは、それだけ考えごとをする時間が長くなるということである。よく湯船につかると疲れがとれるという話しをきくが、とれるのは何も体だけの疲れではない。僕にとっては湯船は、心や頭の疲れまでとれてしまう、なんとも不思議な場所なのである。湯船というところにいる限り、つかるという行為を除いて、体は何もしなくていいわけであるから、どうしても頭が働いてくる。そうして、僕はその日一日のことなんかを考えたりしている。かといって、真剣に考えごとをしているわけではなく、なんとなく疲れが抜けていくのを感じながら、ぼんやりと考えているのである。しかし、そんなときほど、いろんなことが見えてきたりする。

仕事なんかでもそうだと思う。集中してやっていることが行き詰まったとき、一旦その仕事から離れてみる。そして、少し頭を休める意味もこめて、先に違うことを片付けてしまう。それから改めて本命の仕事に取りかかってみると、違った角度からその行き詰まりの原因が見えてきたりすることがある。そう考えてみれば、やはり心の余裕、気持ちの余裕というものの大切さがよくわかる。きっと、力み過ぎはよくないんであろう。

人間、走れる時に走ることはすごく大事なことだと思う。以前はそうして走りに走って生きてきた気がする。でも、以前の生活のなかで走るのを一旦辞めて、自分が走ってきた道を振り返ったとき、残っていたものは、ここまで走ったきたという事実だけだった。経験、苦労、忍耐・・・。そういったことももちろん大切なことなんだろうけど、それだけが積み重なっていっても、満足というところには行き着けないであろう。あのときもうすこし気持ちに余裕があったら、時に立ち止まって、自分を確認できたのであろう。事実、そこからもう一度走り出すまでには、かなりの時間がかかった。だから、今は走りつつも、ちゃんと休息をいれるようにしている。マラソンでいえば給水みたいなものだろうか。自分がどこに向かって走っているのか、そのペースはどうか、そして、自分を見失っていないかを考える。

僕にとって、そういったことを考える一番の場所が風呂。こうして僕の長風呂生活が再び始まろうとしているのである。



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