『読書』

電車のなかでの読書はやはり気が散る。ましてや僕は音楽を聞きながらであるからなおさらのことである。しかし、そんな状況のなかでも、ふと耳へと流れるメロディを忘れる時間がある。そんな時僕は完全に本の世界に入り込んでいる。その時音楽は周りの雑音を消すためのいい耳栓代りとなっている。

相変わらず、僕は小説は読まない。これは、別に小説に恨みがある分けではない。おそらく、性というやつであろう。どうも、感情移入しやすい僕にとっては行き帰りの電車のなかで小説を読むことは苦痛なのである。もっとわかりやすく言えば、電車の中というところは僕が小説を読むのに適していない空間なのである。その変わり、小説を読む時は、わが家でステレオも切って、集中して一気に読む。という訳で、いつも僕が手にしているのはエッセイの類のものである。しかし、それだったら簡単に読めるからというわけではない。おそらく、場面に入り込まなくても、筆者の言いたいことが端的に伝わってくるからであろう。

ちなみに、僕は以前は全くといっていいほど読書はしなかった。はっきり言って嫌いなものの一つだった。学校の宿題で読書感想文というやつがあるとどうしようもなく嫌で、さっさと読み上げて、適当な感想を述べたものである。だから、いつもお決まりの文面が並ぶ。「〜はよかったです。」「〜だったと思います。」そんな語尾の繰り返し。その文を読む先生方もさぞかし退屈しただろうと思う。

それほどまでに嫌いだった読書を始めたのは、ちょうど1年前くらいのこと。ひょうんなきっかけで購入した、今流行の心理学関連の本を読んで以来だ。何故かその1冊をよんで以来、ものすごいスピードで、その心理学者の本を片っ端から読んだ。そしてその流れを汲んで、エッセイを読むようになった。以前、読んでいた心理学の本は、なるほど納得、関心させられることが多かったが、どうも自分の言葉での表現が少なく、題名が変わっても、行き着く結論は同じ様なところにあると感じていた。そんな矢先に、某著名作家のエッセイ集を読んで、えらく感動した記憶がある。その飾り気のない自分の言葉で書かれた文面には、妙に惹き付けられる感じがした。ましてや、「自分は矛盾しているかもしれない」などと断わりを入れられているのである。僕はそんな姿勢に人間味を感じたのである。

僕は人間という生き物は矛盾を抱えた存在であると思っている。長いようで、短い人生の中で、考え方が変わったりしていくのはごく当然のことである。終始一貫、自分の考え方を変えずに生きていける人なんて、この世の中にはいないであろう。そんな自分という存在に偽りをもって、一生強がって生きていく人もいるであろうが、僕はそんな疲れる生き方はしたくない。自分の弱さや醜さと共存して生きて行きたいと思っている。人が期待するほど、人間というものは強くはできていないのだから。だから僕は、自分の弱さを認められる人っていいと思う。きっと、弱さも人間の魅力の一つなんだろう。それに、そういう人ほど、本当の意味で強い人が多いようにも思う。

そんな訳で今、その作家のエッセイを読み続けている。そろそろ今読んでいる巻も終わり。また探しに行くとしよう。



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