寮美千子『ノスタルギガンテス』論          


 

 エッセイ「小説の面白さ」でも書いたように、言葉は現実を単純化し、流通しやすくするための記号です。たとえば僕が頭に浮かんだイメージを誰かに伝えようとするとき、それを一旦言葉にしてしまった時点で、様々な可能性が切り捨てられてしまいます。自分が考えていることすべてを正確に相手に伝えることは、言葉という道具を用いている限り、原理的に不可能なのです。

 『ノスタルギガンテス』の主人公=語り手、草薙櫂は、この言葉の機能をよく自覚しています。彼は、どんなに「メカザウルス」や「ノスタルギガンテス」が素晴らしいと思っていても、それを積極的に誰かに伝えようとはしません。その理由は、決して語彙が足りないからではなく(櫂は小学生としては異常と思えるほど言葉を知っています)、それを言葉にした時点で、伝えようとしているイメージから乖離してしまうことを知っているからです。櫂が自分が感じていることを他人にしゃべりたがらないのは、彼の中にある、いわばオリジナルのイメージを重視するあまりの行動なのです。

 作中には、言葉について櫂と対照的な態度をとる人物が二人登場します。一人は命名芸術家、もう一人は写真家です。この二人の人物は、それぞれに言葉の機能を自覚していますが、櫂のように伝えることを放棄してはいません。両者とも、独自の方法で何かを伝えようとして行動します。
 命名芸術家の場合、それは「名づける」ことによってなされています。彼は「名づける」ことの意義を次のように説明します。

  • 「この木だってそうだ。名づけられなければただのゴミ置き場と呼ばれるだろう。世界中に生えるケルティス・シネンシスのありふれた一本にしか過ぎない。簡単に伐り倒されてしまうだろう。けれど、名づければ違う。それは新しく生まれる。創造されるんだ。名づけるものは創造者だ。人は絵を描く、彫刻を彫る。そうやって創り出したものに名づける。ぼくは世界を歩く。見つけだし、そして名づける。それは絵を描くのと同じ行為だ。ぼくは世界を掘り出す彫刻家だ。つまり、神だ。わかるか。そして、はじめて人々の目にこの木が見えてくる」

 ここでまず注目すべきは、「名づける」ことの比喩として、彫刻が用いられていることです。何かを言葉にするという行為は、オリジナルのイメージから様々な可能性を削り取り、流通しやすいように形を整える作業に他なりません。前出のエッセイでも触れましたが、このことは彫刻を作ることに近い行為です。ここで彫刻の比喩が用いられていることは、命名芸術家が言葉の機能に自覚的であったことを示しています。

 また、「名づければ違う。それは新しく生まれる」という言葉にも注目すべきです。言葉の機能は、イメージを切り取るだけではありません。たとえば、ある人がセントバーナードを思い浮かべながら「犬」という言葉を発したとき、それを聞いたある人は柴犬を、ある人はコリーを、ある人は隣の家のポチを思い浮かべるでしょう。これは、「犬」という言葉が、受け手に受け取られたとき、発信者の中にはなかった別のイメージを作り出していることを示します。

 命名芸術家が利用しようとしているのはまさに言葉のこの機能です。なにかを「名づける」ことによって、まずそれを世界から切り出し、次にそれを流通させることで新たなオリジナルのイメージを作り出そうとしているのです。(このことから、彼がマスコミに出たがる理由がわかります。言葉の流通を活発にし、数多くのイメージを作り出すためです)命名芸術家は、櫂が重視するオリジナルのイメージを伝えようとはしません。自分の中のオリジナルを描くことは始めから放棄し、ひたすら新しいイメージを作り出そうとするのです。

 言葉の機能を自覚していながら、これと対照的な態度を取るのが写真家です。写真家は次のように語ります。

  • 「けれどもね、櫂、誰が本当に何物かをつくりだす神を求めているだろう。そんなもの、誰もほしがってはいないさ。恐ろしいんだ。見たこともない新しいものをつくりだす神なんて、怪物と同じさ。みんな新しいものを求めているように言うけれど、それは嘘だ。みんなは、いまのままの世界で安住していたい。だから、求めているのは創造神じゃない。世界を映す鏡なんだよ。思っても見なかった角度で現実が切り取られていれば、やつらは喜ぶ。使い古した世界が新鮮に見えてくるからだ。それで十分なんだ」

 ここには、「思っても見なかった角度で現実が切り取られていれば」という一節があります。写真家が用いているのは、言葉ではなく写真という手段ですが、フレームによって現実を切り取り、単純化するという原理は、言葉と同じです。このことから、写真もまた、言葉の隠喩であるということができます。但し、その手法は、言葉によって新しいイメージを作り出していくのではなく、現実を「思っても見なかった角度で」切り出してみせ、それを数多く重ねていくことで(たとえば、作中では「ノスタルギガンテス」の写真を数多く撮っている)オリジナルのイメージに近づいていこうというものです。

 この発想の根底には、写真は客観的にものを映すのだという、写真家の迷信があります。彼は、どこまでをフレームに入れるか、また、どんなタイミングでシャッターを切るかといった部分に、写真を撮る側の主観が働くことに自覚的ではないし、撮られた写真が流通したとき、人によってそれぞれのイメージを作り出してしまうことにも鈍感です。そのため、作中で「ノスタルギガンテス」の歴史が写真によって再構築されたとき、写真家の自信とは対照的に、櫂は嫌悪を示します。なぜならそれが、櫂にとっては、すでにオリジナルからかけはなれたものとなっていたからです。
 櫂は次のように語ります。

  •  神社のように、コンクリートの箱のひとつひとつに鏡がある。その鏡は同じ風景を映しだす。風景はただ映っていればいいんだ。そしてそれが、本物よりももっとほんとうのことになる。そのことを考えると、ぼくは気分が悪くなった。
     チャンネルを切り換えると、一瞬ぼくが映った。そのとたん、ぼくは本当に吐いた。

 テレビに映った櫂の映像は、それを見ている不特定多数の人の中に、様々なイメージを引き起こし、「本物よりもほんとうのこと」を生み出し続けます。オリジナル=「本物」を重視する櫂は、そのことに耐えられず、吐いてしまうのです。

 作品の中で、櫂はオリジナルを伝えきれないことを嘆き続けます。言葉の機能を自覚していて、それが無駄だとわかっていても、ひたすら「本物」を指向していきます。しかしその願いはもちろん、成就されることはありません。この作品が救いのなさや閉塞感を感じさせるのは、冒頭の櫂の位置と結末の櫂の位置が同じところにあるからです。言葉の機能を充分に自覚していながら、「本物」への指向を捨てきれない櫂は、言葉の問題を考えるときに必ずあらわれる境界線の上に立ち続けます。櫂の心が救われることがあるとすれば、その境界線を越えたときだけです。命名芸術家や写真家のように、一度「本物」への指向を放棄し、言葉についての自分なりの対処法を確立できるか。それが、櫂に与えられた今後の大きな課題なのです。


 櫂は言葉、ひいては文学の境界線上(帯には「文学の境界線」とある)にいますが、作者である寮美千子は、それを踏み越えたところにいます。なぜなら、本という媒体で自ら言葉による伝達を試みているからです。

 櫂は境界線上に立ちながら物語を語り、寮美千子は境界線を踏み越えた場所から作品を記述します。この、語り手と作者との位置の相違は、そのまま作品の主題と手法のねじれとなってあらわれます。そのねじれが浮かび上がらせるのは、作者が、「文学の境界線」を越えた場所から「文学の境界線」上を描くという構図です。

 寮美千子は、自分がかつて立っていた場所を記述します。それは、「本物」を追求することを一旦放棄した彼女にとってみれば、自分の故郷に帰ったような、過ぎ去った昔を懐かしむような気持ちになる行為だったでしょう。このように考えてくると、『ノスタルギガンテス』という題名に込められた新たな意味が浮かび上がってきます。

 造語の元となった「ノスタルジー」の意味は、「昔を懐かしむこと」です。寮美千子は、この作品の中に、「文学の境界線」という場所と、そこに立っていたかつての自分に対する「郷愁」=「ノスタルジー」を封入したのではないでしょうか。(2000/2/17)

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