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無駄話など少々 |
【無駄話 #001】・・・阿修羅展にて 2009年に東京と九州で開催された、興福寺の十大弟子、薬王・薬上菩薩、及び八部衆の出開帳・・・所謂『阿修羅展』であるが・・・・
史上初めてこれだけの仏尊が東京にやって来るという事で、これは行かねば!と友人家族を引き連れて国立博物館に行ってみました。
わざわざ平日を狙って行ったにも拘わらず、長蛇の列で、入り口にたどり着くまで一時間くらい待たされた。
仏像を拝観する為に並んだり・待ったりすること自体経験のない私はそれだけで全く辟易としてしまいました。大看板に『ASHURA』と書かれているのを見て二度目のガッカリ・・・。
阿修羅自体が元々古代インドのアスラが仏法に取り入れられたのだから、サンスクリット語表記通り『ASURA]』とすべきだろう。英語文献でもASURAなんだからね。主催者の興福寺の方々何とか出来たんじゃない?
中に入って思ったのは、主催者が来客数を大きく読み違えていたんじゃないかという事。通路は狭いうえに順路になっているので後戻りも出来ず、エアコンの効きも悪いのか汗がだらだらと出てくる始末。
随分昔、モナリザがやって来た時や上野のパンダの時の混雑具合とあんまり変わらなかったような気がする。(平日でこうなんだから、休日だったらと思うとね〜)
タイトルが示すとおり、国宝・阿修羅像だけは別扱いにされていて、別室に展示され(るのは別に構わないと思う。見に来ている人達の関心は阿修羅像だけであろうと思われるから)、雰囲気を盛り上げるために薄明かりでムード満天。
これが、寺院で信仰の対象として祀られている状態ならばそれで良いと思うが、手が触れるような間近で隅々まで見て貰いましょうという意向があったなら、この展示方法は大失敗だと言って良い。
実際に手が届く距離で見た私本人が言うのだから間違いはない。照明が暗すぎて良く見えないんですよ。国宝のしかも乾漆像というデリケートな仏様に強い明かりを当ててくれとは言わないが、普通の蛍光灯で良かったのでは?と思うんだよね。
阿修羅像を見た後、お土産物売り場にて物色してる時、どこかの家族連れが『あら、この絵はがきの方がお姿がよくわかるわね』と言っているのを聞きましたよ。
実にその通りだよ!とんだ笑い話だ。
何のために見に来たのかわからないでしょ、これじゃ!
それと、見に来る人達はもう少し勉強してきて欲しいと思うわ。釈迦十大弟子や阿修羅を除いた残りの7部衆には全く興味を示さないってどういう事よ!薬王・薬上菩薩の素晴らしさをなぜに無視するのよ。
阿修羅像はあどけない少女の様な華奢なお姿をしているしミステリアスで魅力的だ。美術的には素晴らしい国宝いや世界宝であると思う。
が、シャリープトラやラーフラらの十大弟子やガルーダやガンダルヴァ達が仏尊的に劣っていることはないだろう。
バラモンの神々に時に対抗し、インドラ(帝釈天)らと戦闘を交えたと言われるアスラ達(アーリア民族がインド半島に侵入してくる以前からその地で信仰されてきた神々)。
その彼らを、バラモン教をある意味否定する立場で生まれてきた仏教が取り入れて守護神としての地位を与えたのはよく解る。がそれ以上でもそれ以下でもない。
今回の出開帳で興福寺が一体幾ら儲けたかなどと下世話な事は言いたくはないが、物見遊山的に人を集めるのは止めて欲しかった。
しかし、間近で見る事のできたガルーダは可愛かった。母のために天界まで赴き、神々を敵に回す危険を冒しながらも霊薬アムリタを奪取した後、ビシュヌやインドラと一戦を交え、それがかえって親交を深める事となり、その行動には私心はなくただひたすら母のためにアムリタが必要であったと言い、霊薬を自分で使う事もせず、インドラに返してしまうと言う純粋さ。世界を制圧する力を持ちながらも、それをひけらかす事をしない鷹揚さ。それらが全てこの小さな尊像に込められているのである。【無駄話 #002】・・・秘仏について思う事 秘仏とは、文字通り秘せられた仏である。
本来、仏像とは礼拝されるために存在するが、何らかの理由に因って厨子の中に収められ、数年に1度、或いは仏の縁日に因んだ日にのみ開帳されるという秘仏になることがある。
中には、絶対秘仏と呼ばれて、全く開帳されない仏となってしまうこともある。
長野善光寺の阿弥陀三尊は絶対秘仏とされ、誰も目を触れる事はできない。と言っても、最初からそうだったわけではなく、おそらくは鎌倉時代以降であると考えられている。
と、言うのも、霊験灼かなる『善光寺式阿弥陀』は全国に150体以上の模刻像が存在しており、製作年代が判明している最も古いものが甲府善光寺に収められている像(建久6年:1195)である事。(もっと古い像があるかもしれないが)
その後、1250年頃から1330年の80年間が模刻の最盛期だったとされているので、少々乱暴だが、この時期に秘仏化されたのではなかろうかという説があるからである。
その像様は、いわゆる一光三尊形式と呼ばれるのもであり、舟形の光背を背にして、観音・阿弥陀・勢至菩薩の三尊形式を成す。
飛鳥時代に、百済から献納された我が国最初の仏像が、蘇我・物部氏の争いによって、難波の堀にうち捨てられたものを、信濃の住人・本田善光が拾い上げて草庵を作ったと言うのが善光寺の起源とされている。
爾来、戦国時代には武田信玄によって、甲府に。その信玄が信長・家康に敗れた後には、岐阜へ。秀吉の天下にあっては京都の方広寺へ。家康が尾張へと、数度の移動を強いられたが、1598年に元の信濃善光寺に戻ったといわれている。
で、本尊は絶対秘仏で、直接拝む事はできないが、お前立ち(本尊のレプリカ・・・とは言っても鎌倉時代の作)は6年に1度開帳され拝む事ができる。
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