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お堂、多すぎです!(◎-◎)

ぶらり平泉の巻・・・その3


E中尊寺(ちゅうそんじ)
 正午頃に高舘を後にして、中尊寺に向かう。大体3分くらいで着く。で、町営の駐車場が2ヶ所あって、第2の方はちと遠いので第1の方に向かってみたのだが・・・すでに満車!(笑)
平日なのになんでやねん!?どうしても遠い方の第2には停めたくなかったので、国道4号線沿いにあるお土産屋さんが個人で用意してくれている駐車場に車を入れた。
歩道橋を左折して入る第1駐車場は満車状態でした。 月見坂登り口付近 歩道橋を渡って、参道に向かう。
有名な「月見坂」はここから始まって、本堂まで560m。金色堂まで800mあるという。
土門拳の写真集で見た月見坂(1960年代)はとても魅力的だったが、いまの月見坂は名前のみだと言っても良いだろう。
歩きやすいようにコンクリートが敷かれ、杉の大木のはみ出していた根っこも取り除かれ、垣根さえできている。
古寺に参ると言うよりは、整備された観光地に来たって感じで、人は多いし、うるさいしでげんなりしてしまった。
樹齢300年の杉の木にしても、創建当時は無かったわけだし・・・。
これじゃ、世界遺産登録はされないだろうし、しちゃダメだよとかなんとか言いつつも、折角来たんだからなるべく沢山のお堂を廻って御朱印をいただこう。
団体旅行の一団がお参りを済ませて下山していた。 それにしても人が多い。どこぞの老人会の催しものか知らんが、旗を持ったガイドさんに率いられた団体が多数いる。
 行きかう人もまばらで、出合った時に「こんにちは」と声がかけれるようなお参りがやはり良い。
奈良の古寺では今でもそういう出会いがある。室生寺などはことさら良かった。
この中尊寺は寺のパンフによれば;
天台宗東北大本山。山号は関山。開山は慈覚大師(850年)。12世紀の初め、奥州藤原氏初代清衡公が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営す。
その主旨は、前九年後三年の役で亡くなった多くの人の霊を慰め、仏国土を建設するものであった。
14世紀に惜しくも堂塔は焼失しているが、金色堂は創建寺のものであり、3000余点の国宝や重要文化財を伝える平安美術の宝庫です。

という事らしい。
現在、ここに建っている多くのお堂はほとんどがここ最近(とは言っても200年くらい前)のものであり、見るべきところはあまりない。
ただ1つ、金色堂を拝見するために多くの観光客が来ているのである。
私のように、スタンプラリーよろしく御朱印集めに燃えている輩もいないだろうけど(笑)。
 月見坂をテクテクと登り始めてすぐ、「弁慶堂」が見えてくる。
建物の中には、数体の弁慶像が祀られていているのだが、1番古いのは弁慶自身が作った像だと信じられている。
本堂:本尊は阿弥陀如来  弁慶堂 笑っちゃイケナイのだが、弁慶像の側に、多くの武器が立てかけてあって(奉納品ってことか?)、芝居で使うような模造刀や弓、長刀等、鉄砲以外の武器は全部あった様な気がしたが、鍬や鎌のような農耕具まで置かれているのには参った(笑)。
この「弁慶堂」・・・正式には『愛宕堂』と言いい、本尊は将軍地蔵で、「火伏の神」として祀ったもの。本尊の傍らには、義経と弁慶の像を安置したと案内板には書かれている。
しかし、地蔵に兜や武器を持たしちゃイケナイよ!
とても手を合わせる気にはなれなかった・・・。
でも、御朱印だけはちゃっかりともらった。
なかなかの達筆で『弁慶堂』と書かれていた。
「弁慶堂」の斜向かいには「地蔵堂」が、そしてその向かいに「薬師堂」がある。
「地蔵堂」は、なかなかの雰囲気があって、灯明でオレンジ色に照らされているお地蔵さん達は優しいお顔をしていらっしゃる。
「地蔵堂」列びに設置されているお土産物売り場にて御朱印をお願いしたが・・・あらかじめ書いてある朱印を貼り付けるって・・・これはいけませんよ〜・
世界遺産登録をしようとするなら、こんな事で手を抜いてたらダメですよ。
観光客が多いから一々書いていたのでは、間に合わないとか思うんだろうけど、それは間違い!
書いて貰うのを待つってのも大事なんだから・・・。
書くのが面倒だ・書ける人がここにはいないなどと言う理由でこの様になっているのなら論外。
(今回、頂いた御朱印のうち、貼り付けシステムが4枚。ちゃんと書いてくれたのが4枚。)
「薬師堂」には慈覚大師作と伝わる薬師如来が日光・月光菩薩を従えて3尊形式で祀られている。
ここの薬師さんは目に効くという事だ。
 さて、天台宗東北大本山中尊寺の「本堂」には阿弥陀如来が本尊として祀られている。
本堂自体は明治42年(1909)に再建されたもの。非常に沢山の人達で賑わっていた。
その本堂の側には、「峯薬師堂」・「不動堂」・「大日堂」とこぢんまりとしたお堂が並ぶ。
このあたりから一段と人が増えてくる。金色堂は近い!
だが、その前に『讃衡蔵(さんこうぞう)』と呼ばれる博物館に入る事にする。
讃衡蔵とは、奥州藤原氏3代に共通する「衡」をとって、彼らの偉業を讃える宝蔵と言う意味。
平成20年に新築され、3000点に及ぶ国宝・重要文化財のほとんどがここに収蔵されているらしい。
入って正面に3体の丈六座像が鎮座しており、結構な迫力。
薬師・阿弥陀・薬師の3尊形式で座っておられる。
中央の阿弥陀は、元は本堂の本尊、片方の薬師は元峯薬師堂の本尊。
その他には、大日如来座像や渡海文殊菩薩の像らもある。
文殊菩薩像は、あらたに黄金に塗り直されてぴっかぴかだった・・・。
国宝に指定されている中尊寺経や金光明最勝王経等もあるにはあったが・・・本物はどこかに出張しているらしく・・・コピーがガラスケースに入れられていた。
中尊寺創建当時の記録によれば、中尊寺には翼楼を伴う檜皮葺堂(釈迦堂、金堂)、3基の三重の塔、2階建て瓦葺きの経蔵、2階建ての鐘楼が建ち、池に臨んで反橋や斜橋が設けられていた。さらに、高さ3丈(30尺:約9m)の金色阿弥陀像と9体の丈六阿弥陀像を安置して高さ5丈!に達したという二階大堂(大長寿院)が建てられ、やがて百体釈迦堂、光堂(金色堂)等も加わわったといわれている。
「中尊寺建立供養願文」で、清衡はこう言っている。『この寺を建てたのはひとえに鎮護国家の為である。私は、東夷の遠酋・俘囚の上頭として、幸いに戦のない平和な時代に生きる事ができ、俘囚の人々、奥羽両国の民、さらに粛慎・ユウロウ(沿海州からサハリン方面の住人)の人々までも平和のうちに管轄してきた。この恩に感謝して大伽藍を建立する。これにより、官軍・夷狄を問わず戦乱で死んだ者の御霊は浄土に導かれ、辺境の蝦夷の地も仏土となるであろう。』と
(参:週刊朝日百科 国宝の美3号)
金色堂受付入り口 後ろに見えるのが新・覆堂 「金色堂」は、天治元年(1124)の建立で、中尊寺創建当時の唯一の遺構。奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされた後、金色堂が風雪で朽ち始めていたのを痛ましく思った鎌倉幕府よって、金色堂をカバーする『鞘堂(覆堂)』が作られた。
が、昭和38年(1963)、新しい鉄筋コンクリートの覆堂が作られたために、ちょっと離れた所に移築されて現在残る。
金色堂は、方3間の小さなお堂であるが、藤原道長の法成寺以来展開した建築・美術・工芸が一体となった阿弥陀堂建築の粋が凝らされた存在であり、戦後の文化財保護法に基づく国宝建造物第1号となった。
堂内は、内外共に金箔貼り。
内陣廻りの部材や須弥壇は蒔絵の技法で金が蒔かれていて、その上に螺鈿で宝相華文が描かれている。
4天柱にも同様に螺鈿細工で宝相華文が描かれ、蒔絵で菩薩像までも描かれている。
建物を支える斗と言われる組み物にさえ螺鈿細工が入っていると言う念のいれよう。
覆堂:手前から入場して反対側に抜ける 中央須弥壇に祀られている仏像は;
阿弥陀・観音・勢至の3尊、左右に六地蔵が3体づつ列び、持国・増長の2天
その中央須弥壇後方左右にも壇があり、それぞれが2代基衡・3代秀衡の壇とされて、阿弥陀3尊及び天部の像が祀られている。
(全部合計で33体の尊像が祀られている)
建築用材は高野槇が用いられているらしく、しかもこれらは福島県が北限で平泉には存在しない。
また、螺鈿に使用されている夜光貝は沖縄以南でしか採れなかったと言うし、まさに金に糸目を付けないと言う言葉は金色堂のためにあるのかもしれない。
「柱といわず頭抜といわず長押といわず、すべての構造材を彩ることなど、今の建築常識では、ただあくどい建築装飾だと考えられるかもしれないが、金色堂に見られるものは、構造と装飾という二元的な主従関係ではない。構造と装飾とが分かちがたく一元的に一体化しているのである。それは金色堂自身が、実は極楽浄土そのものの造形化であるということである。つまり、時代の理想を目に見えうるもの、手にさわりうるものとして具象化したのである。(古寺巡礼:土門拳)」
900年も昔に、これだけのものを作った藤原清衡という人物の大きな夢と気迫を感じざるをおえない。
当時の平泉は、豊富に採れる砂金や駿馬、北方や宋との貿易で莫大な富を築いており、その富に引き寄されるように中央から人が訪れ、文化・技術が伝えられた。
富の一部は中央に貢がれ、治外法権的な世界がほぼ100年間にわたって平泉に花開いた。
しかし、毛越寺のところでも書いたが、人の欲望には限りがない。1つ貰えば次は倍欲しくなる。
平泉を知れば知るほど、我慢できなくなる。
理想的だった「みちのく王国」も現実のまえに滅ばざるをえなかったのである。

 元禄2年(1689)5月13日、中尊寺に詣でた芭蕉が詠んだ一句は殊に有名である。

 五月雨の降りのこしてや光堂

しかしながら当時の金色堂は覆堂の中にあったはずで、直接は見えない金色堂をそぼ降る五月雨の中にひきだして詠いあげたのは、芭蕉の詩人としてのイメージである。
鎌倉末期に作られたというその覆堂は今は木立の中に移築され、人々は中に入って涼をとったりできる。
残念でならないのは、どうしてこの覆堂を金色堂とセットにして保存しようとしなかったのだろう。
金色堂と共に800年近くもここにあったものを切り離してしまったのは悲しい事である。
土門拳の写真に見る木立の中にひっそりと立っている覆堂は素朴であり、周りの自然に融けあっていて安心感さえあったのに。
覆堂内部にてくり広げられる異世界の極楽浄土とのギャップ・・・まったく素晴らしい演出だったと思うのだが。
旧・覆堂:鎌倉時代建立 重要文化財指定
経蔵:建物自体が重要文化財 現在の悪趣味な覆堂は、お堂というよりはただの収蔵庫だ。
一方通行の順路に従って人々は入り口から出口へ向かう。
そして、ガラスケースに入れられた金色堂に対面する。
文化財保護法だか何だか知らんが、鉄筋コンクリートの建物の中に保護しているはずなのに、その上更にガラスケースに入れてるとは・・・。
そこまでする必要があるのか?と言いたい。立ち止まってゆっくりと観る事も許されないのである。
これでは壇の下に安置されている藤原3代のご遺体・泰衡の首級もお怒りではないだろうか・・・と思ったりする。
 金色堂を出るとすぐのところに経蔵がある。名前のごとく、お経を納めていたお堂。
かつては国宝の「紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんこうしょいっさいきょう)」略して「中尊寺経」が納められていた。
※注)紺色の料紙に金泥と銀泥で1行づつ書き交えた一切経。8年の歳月をかけ、約200人の僧侶によって作られたと推定されている。
現在、讃衡蔵に収蔵されている渡海文殊尊像は元はこの経蔵に祀られていた。
 この後、弁財天堂に寄ってから下山したわけだが、今の中尊寺には「現代」が入り込みすぎているのではないかと思った。
綺麗に整備された参道、鉄筋コンクリートの建物、ガラスケースに入った金色堂、果ては、銀行のキャッシュコーナーまである。
キャッシュコーナ〜〜〜〜! これは、観光地としては正常な進化なのかもしれないが、お寺の姿勢としてはどうなんだろうか。
癒しのために参詣しても、そこが普段生活している環境と変わりがなければ癒しにならないのではないだろうか。







     今、私は無性に室生寺に行きたいと思いはじめている。
   
   
(あとがき)
中尊寺金色堂は、昭和の大修理でほぼ創建寺の姿に修復された。800数年の歴史を経て、淡い光を放っていた金色堂内陣は3万枚の金箔によってきんきらきんに塗り込められてしまった。
朽ちかけていた四天柱の螺鈿飾りや緑青の浮いた孔雀文は、美しく作り直され、金ぴかに磨かれてまばゆく光っている。
私はこうした文化財の修復方法は決して正しいとは思わない。私達は、日本人が生み出した文化の、数百年の歴史に頭を垂れたくて古寺・社・仏像を訪れるのであって、金ぴかの金色堂を見たって感動はしない。
人は、今まさに、朽ち果てんとするものを前にした時、数百年の歴史に思いを馳せることができるのである。
写真家土門拳はこれについて、「中尊寺ー形あるものは亡びる」と題したエッセイを書いている。

 「形あるものは亡びる」、亡びるものは亡ばしめよう。剥げ落ちる金箔は、剥げ落ちるにまかせておけばよい。「形あるものは、命あるものは、いつかは亡びねばならない」ものなのである。
亡びつつも美しさは衰えることなく、そして昇華する一瞬においても、美は消え去りはしないのである。



【中尊寺(ちゅうそんじ)】天台宗東北大本山。山号は関山。
住所:平泉町衣関202(中尊寺事務所)
連絡先:TEL 0191-46-2211
拝観料:800円(高校生:500円、中学生:300円、小学生:200円)年中無休 8:00〜17:00(11月11日〜3月は8:30〜16:30)
駐車場:有料(町営駐車場が2ヶ所)
JR東北本線平泉駅から岩手県交通バスジャスコ前沢店行き、又は水沢行きで5分、中尊寺下車。巡回バス「るんるん」でバス停中尊寺下車、徒歩15分。

※注)料金・駐車場情報等は2008年時のものです
 
※参考文献※
「四天王」学研ムック神仏のかたち2、週刊朝日百科国宝の美3号、「土門拳 古寺を訪ねて 東へ西へ」小学館文庫、「仏教を彩る 女神図典」西上青曜 著 朱鷺書房、その他お寺のパンフ類


月見坂入り口付近にある『弁慶の墓』 月見坂入り口付近食堂で食べたわんこそば





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