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伯耆にてお寺訪問




●私の実家は岡山県倉敷市にある。寺を巡るようになってから知ったのだが、実家からそう遠くないところに『投入堂』という非常に珍しい(というか、たぶん日本でここだけ)お堂があるらしいのである。しかも、崖に張り付いている。崖の上じゃなくて途中に懸け造りみたく、置いてあるらしい。
そのお寺の名前は『三徳山三佛寺』

寺の縁起に因れば慶雲3年(706年)、役行者(えんのぎょうじゃ)が3枚の蓮の花びらを投げ、『佛教に縁のある所に落ちるように』と祈ったところ、1枚が大和吉野(金峯山寺)へ、1枚が伊予の石鎚山へ、そしてもう1枚が伯耆の三徳山に落ちたのでこの地を修行の行場として開いたのが始まりであるという。その後、嘉祥2年(849年)、慈覚大師によって、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来が安置されたので、『天台宗三徳山三佛寺』と称するようになった。(美徳山と呼ばれる事もあり)
また、三徳山の始まりも、役行者が絶壁に神窟を開き、『子守』『勝手』『蔵王』の三ヶ所権現を安置した事に因るという。
当時には、堂社が41宇、坊舎3000軒、寺領1万町余りもあったというが、源平の戦争で兵火にあい衰微したという。鎌倉時代に源頼朝の命によって再興したが、南北朝時に再び戦火で焼かれた。足利義満によって再興後、戦国時代に再び戦火で焼かれ、慶長4年(1599年)、鳥取城主宮部中務卿継潤法印によって再建された時には、堂社11宇、坊舎3舎、寺領100石であったという。

 で、問題の『投入堂』であるが、これは※役行者が麓で作ったお堂を、法力によって岩窟に投げ入れたという伝説からその名が付いたらしい。
※)そもそも役行者が法力によって投げ入れて作ったという伝承がいつから世俗に広まったかはよく解っていないが、明治期にはその呼称が定着していたと言う。
歴史的には永和元年(1375)の棟札に「蔵王殿」とあるから、本来は修験道の建築として蔵王殿と呼ぶのが適切と思われる・・・参考 週刊朝日百科・国宝の美19号
この役行者という人は、日本の修験道の祖と言われる人で、(実在していたかどうかは問題ではなく)日本中の至る所の開山伝承に名が上がっている。
伝承では、役行者は、大和葛城地方の名族賀茂氏の出身と言われ、名を『小角(おづぬ)』、葛城山にて修行三昧に耽り、その後吉野へ入ったという。
仙人になって昇天したとか、天狗になったとか色々な言い伝えが残っていて非常に面白い。
さて、役行者を開祖とする修験道は、日本古来の山岳信仰に、神道・佛教・道教・陰陽道などが混ざり合って成立した日本固有の宗教である。言い換えれば、山(自然)の中に入って、そのパワーをいただくことである。ただ入ればいいわけではなく、『命がけの苦行と修練によって罪と穢れを贖い、大自然の霊気に接して新たな生命を得る喜びを自覚し、理屈無しに即身成仏を体験する。』
また、修験道の本尊は役行者が感得した蔵王権現(ざおうごんげん)である。【スキー場で有名な蔵王は蔵王権現を祀る事から名が付いた】
役行者が山上ヶ岳(吉野)で今の世に相応しい仏の出現を祈ったところ、釈迦(過去)、千手観音(現在)、弥勒菩薩(未来)に続いて、忿怒すさまじい姿の蔵王権現が天地を轟かせてあらわれたといういわれがある。
蔵王権現の怒りは悪を粉砕し、衆生を救済せんとする慈悲の怒りだという。その姿は、一面三目二臂(1つの頭に3つの目2本の腕)、怒髪天を突き、青黒色の身体に虎皮のパンツ、右手・右足を上げ、片方の手に金剛杵を持ち、片方の手の印を剣印(ピースサインの中指と人差し指をくっつけた様な)にする。
(膚の色、三眼、そして虎のパンツを履き、苦行三昧に耽ると言う姿から、インドのシヴァ神がモデルではないかと私は思っている)
と言う事で、役行者縁のこの三佛寺にも蔵王権現は祀られている。なにしろ投入堂は別名を蔵王堂と呼ばれ、※かつては7体の蔵王権現が祀られていたのだからね。でも、今は麓に下ろされて宝物殿に納められている。
※)7躯のうち6躯は檜の一木造り。正本尊は檜の寄木造りで仁安3年(1168)の胎内文書が入っている。像高115cm、康慶(運慶の父)の作とする説もある。
・・・・・
という長い前置きはおいといて(笑)
帰省した折りに、行ってみる事にしてみた。実家からの自動車走行距離は約150Km。そのうち高速道路が100Kmに満たないので、『通勤割引サービス』が使える。(o^^o)
山陽道から岡山道に入って北上し、中国道に合流、その後、米子道に入った直ぐの湯原ICで降りる。土曜日の朝だというのに、道路はめっちゃ空いてる。思わずアクセルを踏みそうになるのを堪えながら、時速90Kmで巡航。9時前に高速に入って、湯原で降りたのが10時。(高速料金:1300円也)ここからは国道313=>国道482とひたすら北上。国道179号に抜けて三朝温泉方面に曲がって県道21を東に走る。
三徳川沿いに走っていると、突然『三徳山』と掲げられた巨大な鳥居があらわれる。
山域に入ると、道路の周りは鬱蒼とした木々に覆われていて、走っているだけで心が洗われそう。車の窓を開けてみると、夏なのに涼しい。
もう少し行くと、『三徳山投入堂』と書かれた道路標識が目に入いってきた。
 
有名な『国宝投入堂』は知る人ぞ知る非常に見るべき価値のあるものなのだけど・・・知る人自体非常に少ないのか・・・私以外の自動車に出会わない。
というか、湯原で高速降りてから、4〜5台の車しか見てない。(激笑)
もしかして、今日は営業してないのか?などととても不安になってくる。
まあ、でも、取りあえず行くだけ行ってみよう〜ってな感じで走っていくと、ちょっと開けた所に到着。
三佛寺駐車場と書かれていたので、ここで正解だな、と車を止めてトイレに。しかし、他に停車してる車Nothing!トイレの横に簡単な案内板があり、見てみた。
によると、もう少し行くと『投入堂遙拝所』があって、麓から投入堂を見る事ができるスポットがあるらしい。
それは、是非行ってみるしかないですな。荷物からキャメラを取り出して、テクテク歩き出す。
にしても、森の匂いは良い!昨日の雨で綺麗に洗われている事もあるが、空気が透き通っている。
2分ほどで、遙拝所に着いた。見上げたとたん、思わず笑いがこみ上げてきましたよ。岩肌に綺麗に収まっている投入堂。
どういう方法で、あんな堅固な場所に材を運び込んだのか?神話にあるように、役行者が『投げ入れ』でもしない限り無理じゃなかろうかと・・・。
凄い!を超えた笑いであったのは確かだ。備え付けの望遠鏡で覗いてみると独特の懸け造りの様がよ〜く解る。
懸け造りの足場は固定されているわけでなく、岩盤の上に載っているだけ。何本も下ろされた脚を横材でトラス状に組む事で自立している。
数年前までは、投入堂の真下まで行けたそうだが、高校生が滑落して死ぬという事故が起きたため、現在は少し離れた所まで登山できるらしい。
(と言うか、真下まで行こうとした高校生の勇気を讃えたい。命綱でもない限り、無理のような気がする)
 
遙拝所を堪能した後、三佛寺に行って、御朱印を戴き、お土産/グッズを物色の予定でいた。
ところで、この地域では三徳山・投入堂を世界遺産にという動きがあるらしく、至る所に看板が出てる。
私見を言わせて貰えば、世界遺産の格なんぞ、全く必要はないです。
@交通の便が良くない上に、道路は1本しかない。駐車場も多くの車を捌ききれない。一般自動車の立ち入りを禁止して、移動バスオンリーで運び込んだとしても、それだけの人々をもてなす場所がない。
A近くには三朝(みささ)温泉があるので、そこにはお金が落ちるだろうが、お金のために、自然環境や貴重な文化財を犠牲にして良いのか。という疑問がある。
Bそれに、元来、修行の場であり、決して無意味に人が大挙して来るべき所ではないと思う。

世界遺産としての『価値』はあると思う。しかし、ブランドに弱い日本人の気質を考えると、認定はされない方が好ましい。
つい最近も、平泉の中尊寺が世界遺産登録に失敗したらしいが、それは良い事だ。
あそこだって、今でさえ、駐車場の数は足りてない。今以上に人を増やしてどうするのか?参道に人が溢れて、参拝自体を時間制で分けるなんて事になってしまうんじゃないの?金色堂に到っては、一瞬しか見えないとか・・・ありえそう。
・・・・・・・・・・・・・・・・閑話休題・・・・・・・・・・・・・・・・・
三佛寺の参拝受付はちょっと石段を上がった所にある。いつの間にやら参詣の人達が沢山いるじゃないの!
ここで、御朱印をお願いして、上の宝物館を見に行こうとした時、社務所の人が、
投入堂まで行かれますか?そこの注意書きを見て貰えれば判りますが、独りでの登山はできなくなっていますのでご了承してくださいね。
とおっしゃる。
その注意書き看板を見てみると
●登山時間;本堂から投入堂まで約700m。往復1時間30分。  (※後記:片道1時間30分位は平気でかかる)
●近年滑落事故が多発しています。今一度ご自分の足元を確認ください。  (つい1ヶ月前にも1人死んでるらしい)
滑落イコール死である。足元をご確認してくれと言うわりには
●底にスパイクや金具の付いた靴などの登山用シューズ・ピッケル・ストックの使用は禁止されている。 (登山受付事務所でワラジを借りる事ができる)
●酒を飲んでの登山を禁じる。  (とてもじゃないが、酔った状態で登るのは無理、確実に死ぬ)
●投入堂参拝への修行登山される際には『必ず』2人以上、荷物は持ってこないか、両手が使えるリュックサックなどをご使用してください。
この『必ず』という文字は後から看板に貼り付けていて、元々は『できるだけ』であったことが容易に推測される。
1人で登山して、滑落した場合、社務所側で把握できないのでこうなってますとその人は言っていた。(滑落する人は結構な割合で出るらしい)
そして、ここが肝心なのだが『三徳山は修行の場所であり、木の根や岩や鎖をよじ登る等、場所によっては多少険しい箇所がございます。』
木の根や岩をよじ登る?鎖?これって、吉野や石鎚山の修験の場所と同じではないか。で、後書きになるけど、決して『多少険しい』ではなかった。『かなり険しい』に変えた方が絶対によい思うのだがどうだろう。
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私は1人で来ていたし、両手は空くようにリュックを背負ってはいるが、中にはキャメラだの三脚だのペットボトル等入っていてかなり重い。
残念だな、登れないやと思う反面、安堵感が沸いてくるから不思議だ。
取りあえず、本堂に参って宝物館を堪能した後、(投入堂に安置されていた7体の蔵王権現や、観音菩薩などを見仏した)出てきた所に、土産物屋があり、その少し登った所に『登山受付事務所』があった。

どんな人達が登るんだろうかと、興味本位に覗いたのが間違いの素(笑)。

知らないうちに、他のパーティーに付け加えられて登る事になってしまったのでありました。
そのパーティは大学生とその先輩が引率しており、女性も1人参加していた。関西圏に近いので、よそよそしい感じは微塵もない。
突っ込みボケは当たり前だのクラッカーであったことは嬉しかった(激笑)。短い時間だが、お世話になる事にし、準備を整えて登山口に向かう。

宿入橋をすぎると、小さな社の『十一面観音堂』がある、ここで、登山の安全を祈願して先に進む。
※十一面観音堂:県指定保護文化財。一間社春日造の小祠で、銅板葺(旧こけら葺)の建物。隅飾り金具や木製菊紋釘隠、六葉金具や懸魚、降懸魚などの細部に意匠を凝らしており、江戸時代中期の様式を留めている。
すると、いきなり、急勾配の登り、道などというものは無いので、岩や生えてる木の根に捕まりながら、少しづつ登る。
尾根に出ると、カズラ坂が出現、狭い尾根を這いつくばるようにして登っていく。登り切ってホッとしていると次はクサリ坂
汗はポタポタと垂れてくるし、眼下は150mの崖なので、身体が縮こまって上手く動かない。
クサリから手を放したり、脚が滑ってしまうと、確実に逝っちゃうだろうなとか、思いながら登る様は、『自我を捨て、仏にのみすがる心』を喚起させる。
やっとの思いでクサリ坂を登り切ると、『文殊堂』に着く。崖の上に懸け造りされており、縁があるので上がる事はできるが、手摺りなどはない。
※文殊堂:重要文化財。正面3間、側面4間の入母屋造りで、背面妻中央に軒唐破風をつけたこけら葺の建物。外部は、全部面取り角柱で板壁、1間の落縁がついている。内部に立つ柱は円柱で、前の1間を礼堂とし、背後の1間中央に厨子を配している。厨子扉の金具に『檀那南条備前守天正8年3月吉祥日』(1580年)の銘がある事から建立の時代が判る。
高所恐怖症な私には絶対に無理(悲)。勇気を出してキャメラを取り出して写真を撮ったが、手は震えていた。
そこからは、狭い尾根の上をまた這いつくばるようにして少しづつ登るわけだが、その最中、目前の岩肌に『木の札が』くくられており、
『先月、ここで滑落事故が起きております。こちらを避けてお登りください。』と書いてあった。読まなきゃ良かったと思ったが後の祭り。
身体が硬直して動かなくなってしまった。やばい、やばい、やばいぞ〜!何か他の事を考えよう。・・・そうだ、マダイ。鳥取のマダイ釣り場ってどこだろう?山陰とかだと、漁港の近くでも釣れたりするかも〜。などと、何故にマダイなのか解らないが、一心不乱にその事だけを考えた。で、考えながら少しずつ登っていって、木が生えている所まで行けた。木が生えていると、下が見えにくいので恐怖心が薄れるのだった。
ちょっと行った先に『地蔵堂』があった。文殊堂と同じく崖上に懸け造りされている。
双方共に見事な社であり、建築時の苦労が偲ばれる。
※地蔵堂:重要文化財。正面3間、側面4間の入母屋造で、背面軒唐破風つき、こけら葺の建物。周囲に1間の縁を付けているが、断崖に臨んでいるのに勾欄は無い。柱は、厨子の周囲の4本だけを円柱とし、その他は面取りの角柱。内部の天井は、切妻形の化粧屋根となっており、美しい輪違い飾りの斜め格子と格子戸で礼堂と内陣を仕切っている。その斗の組み方や木鼻意匠などから室町末期の作である事を思わせる。
次に到着したのが『鐘楼』。重さ2トンの吊り鐘が設えてある。ここまでくると、感動を越えた呆れた笑いがこみ上げてくる。
2トンの吊り鐘をここまで運んでくるとは、恐るべし修験者。修験者はみんな超能力でも持ってるんじゃないからしらとさえ思った。
記念に鐘を打ち鳴らして、投入堂へと進む。
※鐘楼:県指定保護文化財。大正14年(1925年)の修理で、大半の部材が取り換えられているが、一部に古材も再利用されており、枠肘木の曲線や柱の面取りなどに古制がうかがわれ、鎌倉時代の力強さを伝えている。
ここからの道は『馬の背』『牛の背』と言われる、狭い尾根で、湿った粘土質の土上を歩く事になるので凄く滑る。両側は木が生えてるとは言え崖なので、注意深く一歩一歩のろのろと登っていく。
そこを越すと、地層の境目にできた崖に、『納経堂』、『観音堂』、『元結掛堂』が続き、『不動堂』が立つ岩角をまわると、オーバーハングした岩窟の中に『国宝投入堂』が姿を現す。
 
※納経堂:重要文化財。春日造りの1間社。こけら葺で、庇には縁を付けるが階段はなく、極めて簡素な建物。平成14年、年輪年代法による測定で、1082年に伐採された材が使用されている事が判り、平安時代後期の建物である事が判明した。

観音堂:県指定保護文化財。納経堂に続く岩窟内にある。三間四方の入母屋造で両側に千鳥破風を付けた銅板葺(旧こけら葺)。
正面側の3方にに縁を巡らし、正面の縁の一部を懸造りとしている。奥の2間を内陣、表の1間を礼堂とし、内陣中央奥に厨子を置いている。内陣の造りは文殊・地蔵堂と通ずるところがあり、平安時代の名残を留めてはいるが、江戸時代初期のものと考えられている。

※元結掛堂:県指定保護文化財。観音堂の脇に位置する。春日造りの1間社。こけら葺で、庇に縁を付けるが、階段はされており、その造りは納経堂に似る。しかし、梁や破風、懸魚などの様式は、江戸時代初期のもので、観音堂と同時代の建立と思われる。

※不動堂:県指定保護文化財。こけら葺、春日造りの1間社。庇には縁を巡らし勾欄も付いている。一部に古材を残してはいるが、江戸時代末の建物と考えられている。

投入堂(奥の院):国宝。付属の愛染堂:重要文化財。棟板、その他古材が国宝に指定されている。
庇の大面取りの角柱や身舎の円い柱をそのまま床下に延ばして急斜面に流れる岩上にとどかせ、無造作に打った筋交いで互いにつなぎ止めた手法は、この建物を岩窟に貼り付けたような格好にしており、懸造りの妙を見る思いである。
正面1間、背側面2間の※流造り、檜皮葺の建物は、両側に庇屋根と隅庇屋根をつけてすこぶる複雑な構造となっているが、着想卓抜な意匠である。
柱の間に勾欄をはめ、広縁を正面と手前の側に鍵の手にめぐらせて、眼下に断崖を、遠くに四隅の連山を望ませる。
堂の向かって左側に、方一間の切妻造りの小さな社:愛染堂を作って調和を図っている。年輪年代法による測定によれば、投入堂・愛染堂の部材が11世紀末に伐採された材である事が判っている。

※)流造り・・・神社建築様式の1つ。屋根に反りを付け前方に長く伸ばして庇とする形式
その姿は、土門拳が『日本一の名建築は何かと問われれば、わたしは躊躇無く三佛寺投入堂を真っ先にあげる』と、その著『古寺巡礼』に書いてある通り、素晴らしいの一語に尽きるものであった。
※有無を言わさぬシンプルさとでも言うか、質実剛健な飾り気のない素朴さ。お堂の眼前は何もない崖になっていて、建ち方自体とても潔い良い。
※)シンプルと書いてしまったが、それは初見の一瞬の感想であり、細かく見ていくと非常に複雑な組み方をしている。屋根は変化に富んだ檜皮葺で組まれており、懸け造りに使われている柱の長さも長短様々である。屋根の角度を途中からより緩やかにして庇としている所、部材の面取りの大きさ等。非常に優美である。金に糸目を付けず建立された中尊寺金色堂や平等院鳳凰堂などの華麗な装飾美とは対極に位置する建築物と言える。平安後期の技法や細部の要素が絶妙に組み込まれた建築と言えるが、仏堂ではなく、神社本殿であるとも言えず、むしろ細部装飾をほとんど持たない寝殿造りの住宅に類した建築と見るべきであろう。こうした形式にした理由は、山の神である蔵王権現を祀る建築、或いは蔵王権現と一体となって参籠する行者のための空間だと言う事に求められるかもしれない。(参・週刊朝日百科・国宝の美19号)
宿入橋から行程700m、標高差200mの険しい山道を登ってきた価値は充分すぎるほどあった。
『それは訪れる人をして漸くたどり着き得た聖地を思わせ、ここに至る苦難の果として得られた仏との感応に清浄への法悦を思わせ、浄土との思いを抱かせるのである』
(『三徳山とその周辺』鳥取県の自然と歴史-4-鳥取県立博物館刊)と、書かれている事の一部は体験できたと思う。
すがる物のない岩伝いの道、特に高所恐怖症な私には、全くもって『自分の力』を信用できない、もう、仏の力に任せるしかない。という心境。
登り切った事自体が『奇跡』なのであって、これが、仏の存在を実感した事になるのかもしれない。登山して良かったと改めて思う。
是非、皆さんも身体が動くうちに来てみた方が良いですよ!
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登りで、散々恐怖心と戦ってきて、頭の中がバカになったのかどうか判らないが、下山の時は全然怖くなかった。
馬の背・牛の背はスキップしながら走る始末だし、そのお陰で滑って転けてしまったのだが・・・。怪我もなく (^_^;)
修験で言う、『自然からのパワー』なのか、感覚の麻痺なのか・・・。尾根の岩肌も立ったままスッスと歩き降りたし、木の根から根にジャンプしたり、でアッという間に宿入橋まで到着。橋の下の清水で喉を潤して、元気モリモリ!
事務所で、パーティーの皆にお礼かたがたお別れの挨拶をした後、さ〜て、土産物を物色だ!(笑)『いや〜ホントにお世話になりました』m(。、)m
三徳山の手ぬぐいとTシャツを取りあえず購入。だが、食べ物の土産は売ってないようだった。
でも、下の方に、もう一軒お店があったような憶えが・・・。
そこは茶店であったので、NHKの『きょうの料理』で紹介された名物『三徳山豆腐』と『山菜そば』を食べた。
水が綺麗な所の物だけに、実に美味かった。
社務所に頼んであった御朱印を受け取って、山に一礼をして帰途に着く。

帰りがけに、三朝温泉の日帰り客用の温泉を浴びて、コンビニの玄関口に並べられた地元の野菜をいくつか買った。
小玉スイカくらいの巨大なトマトやナス、カボチャなど面白いもの多々。時計を見れば午後4時過ぎ。夕方の『通勤割引』に丁度間に合う。
途中、SAで焼きたてパンを頬張ったり、餅を食らったり、家への土産を買い込んだり、とても満喫できた今回の見仏であった。
  
 ※三徳山三佛寺
〒682-0132 鳥取県東伯郡三朝町三徳 Tel:0858-43-2666
本堂までの参詣:大人400円、子供200円。受付時間:午前8時〜午後5時
投入堂登山:志納金大人200円、子供100円。(参詣料にプラスして必要)登山受付:午前8時〜午後3時
荒天の場合登山を禁止する場合あり。原則として冬季は登山禁止。





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