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運慶作・阿弥陀如来座像

伊豆小旅行の巻 2007年8月



●仏像に詳しくない人でも、東大寺の南大門の金剛力士像を作った運慶や快慶の事は知っているはずである。
彼ら『慶派』と呼ばれる仏師軍団は元々は奈良・興福寺を拠点に活動していたわけであるが、当時はさほど目立つ仕事をしていたわけではなかった。
平家全盛の頃は主に京都を拠点としていた仏師(円派/院派)達が巨大なスポンサーをバックに華々しい活躍をしており、奈良を拠点にしていた慶派に回ってくる仕事の殆どは古仏の修理だったらしく貧乏暮らしをしていたと想像できる。
※注※これら3派の祖は和風の仏像を作り始めた康尚という人物で、その息子が有名な宇治・平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造った定朝。
この定朝は寄木造を確立したしたことでも知られています。その孫に当たる頼助という人が奈良に移り、興福寺を中心に仕事をしました。
この頼助が運慶ら奈良仏師の祖であると言えるでしょう。一方、京都には定朝の弟子達が分派したものがあり、長勢を祖に円勢=>長円と続く系統の『円派』と院助=>院覚と続いていく系統の『院派』がありました。

しかし、平安末期の源平合戦で源氏が勝利したことに因って、立場が逆転する。
平家や公家連中からの援助を失った事、源氏を調伏するための仏像を注文されたりしていた京都仏師達に鎌倉方が仕事を頼むはずがなかったからである。
そうして、1186年、平家が壇ノ浦に滅亡した翌年・・・北条時政の招きにより運慶が伊豆に赴くことになる。


2007年夏、我々は、熱風地獄の東京から逃げるように東名高速に乗った。好天気の週末だというのに道路は予想の外空いていた。
我々の目的は伊豆で温泉を浴びまくり豪華料理を食いまくることであるが、私の希望で行きしなに仏(ブツ)を観る。
仏教に目ざめたわけでも、仏に縋ろうというわけではない、ただ、その造形美に惹かれているからである。
平たく言えば、フィギアを観る感じに似ているかな。日本人が造るフィギアは世界でも評判が高い。リアルだし非常に細かい造作がされている。
それは、1000年以上も昔から我が国に伝わる文化なのだ。仏を観ればことさら強く感じるのである。
途中、足柄SAで朝飯替わりの餅を食べ、一服する。F1フェラーリ・グッズの即売展示場が設置してあったりしてちょっと見てみる。
相棒が美味しそうなアイスを食っているのが羨ましくなって、抹茶アイスを食ってみたり。朝市で売られている野菜の品定めをしてみたり。
SAって結構、暇潰しができますよ。
その後、御殿場インターで下車し、韮山を目指す。北条氏のルーツとも言えるこの地に構える願成就院。伊豆箱根鉄道韮山駅又は伊豆長岡駅から徒歩15分らしい。
国道136号を南下していれば巨大な案内看板があるだろうから安心である。なんといっても運慶作が5尊も居られるのだから。と思っていたのは大間違いだった。(笑)
左手に韮山駅をやり過ごし少し走るが、どうやら行き過ぎてしまっていた様で、案内の看板なんぞ何処にもありゃしないじないの。
ただ単に見落としただけなのではと思うが、巨大看板が無かったのは事実。コンビニの駐車場でUターンして、ゆっくりと車を走らせていると、ありました!看板が!!
にしても、小さい案内板なので行かれる方は注意が必要ですぞ〜!

さて、この地韮山は、北条氏が拠点としていた土地であり、時の当主北条時政は、流罪で蛭ヶ小島に送られてきた源頼朝を自分の娘の婿として迎えた。
罪人を自分の娘婿に取るのは、当時としては非常に勇気のいることだったろう。それはまた、奇貨居くべしの格言通りの大博打であったに違いない。
平家打倒の挙兵から力を貸し、その時打ち合わせなどに使われた大日堂の地が願成就院の故地であったとされている。
平家打倒を成し遂げ、1つの大願を成し遂げた後、続く奥州藤原氏打倒を祈願する意味で1189年に願成就院は建立されたと言う。
寺建立の3年も前に運慶を奈良より招いて仏像を作らせたのは、実に準備周到な事だったのである。
運慶は阿弥陀三尊(中尊・阿弥陀如来座像のみ現存)、毘沙門天立像、不動明王立像とその2脇侍であるコンガラ/セイタカ童子を作った。
それぞれの仏は本堂/毘沙門堂/不動堂に収められ、大伽藍を持つ巨大寺院であったのでないかと言われています。
1192年、鎌倉幕府が開かれ、その後北条氏は執権に収まることになる。大願は成就されたのである。

※注釈:後日、再訪した居りにご住職にお伺いしたところ『阿弥陀三尊・不動三尊・毘沙門天の7尊全てが最初から同じ堂宇にお祀りされていた』と言うこと。
中尊に観音菩薩を置いた不動・毘沙門のケースはよく見られるが、願成就院の場合、非常に珍しいかたちである。


国道136号線から、看板の所を曲がって直進する事約100m、願成就院の山門がひっそりと構えていました。
車を、駐車場に停め、回りを見わたすと、直ぐ背中まで迫る守山の緑と五月蠅いほどの蝉の声が我々を出迎えてくれ、じりじりお天道様が真上に居られる。
煩悩だらけの我々を急かすよう、境内に進めようとする。この駐車場に立てられていた案内看板によると、
 
 
創建当時の願成就院は七堂伽藍に池を配した壮大な寺院だったそうで、駐車場のあるここは『南塔』の跡地ではないかと推定されているらしいです。
詳しいことは寺のパンフに次のように書かれています:
『当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。(略)寺の創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(729年)5月15日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の事跡を伝える「吾妻鏡」の記録から、文治5年(1189年)源頼朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、2代執権北条義時公・3代執権北条泰時公の3代にわたり、約半世紀の歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄を極めた。その伽藍構成は、奥州平泉に藤原3代の偉業として伝えられる、中尊寺・毛越寺・無量光院3寺院の中の毛越寺を模したもので、山門を入ると大きな池があり、その池の中島に掛けられた橋を渡って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。
(略)又、現在の願成就院境内を中心に裏山を含めた一帯は、毛越寺の他、京都の浄瑠璃寺など全国で7ヶ所しかない藤原時代特有の寺院様式の貴重な遺構として、国の史蹟に指定されている。』

それが、何故にこの様に衰退してしまったか?大きな原因は戦火であり、伊豆はやはり所詮一地方であるということであろう。
先ず室町時代の堀越公方茶々丸と北条早雲との戦の煽りを受けて多くの堂塔が灰塵に帰し、その後の豊臣秀吉の小田原攻めの折りの韮山城攻撃の際、再び戦火に見舞われ、益々寺運は衰えたとパンフに書かれている。ついでだが焼き殺された茶々丸のお墓も寺院内に置かれている。
ここが京都や奈良ならば、その都度復興も直ちに行われ、時の権力者達によって篤く祀られたであろうが、地方ならではの悲運である。
やっと江戸時代に入って宝暦3年(1753年)、寺の荒廃を嘆いた北条美濃守氏貞が仏像などの修理を行い復興に努めた。とされ、現在の本堂は寛政元年(1789年)に仮本堂として建立された。
時代は降って昭和30年以降、東京浅草人を中心として、この寺にある貴重な文化財を守る事を目的とした講社が組織され、現在の大御堂が再建されたと言うことだ。
 
今は駐車スペースとなっているが、かつては壮大な南塔が建っていたと考えられている。
山門は撮影者側後ろにある。
 
 
駐車場から山門に向かう途中、大発見のお〜いお茶!の投句コーナー。偶然にも、お〜いお茶を飲んでいたのは吉兆か!(笑)
山門は寺の起源からは想像もできないほど小さく建てられていた。まあ、これも地方の良さかも知れない。大げさすぎるものは必要ないのだ。
この無常感を大切にすることが重要なのだ。
山門の右側に鳥居が見えるが、これは守山八幡宮高い石段が頂上までつづいている。※私は山岳宗教は苦手なので(笑)、今回は遠慮した。
山門をくぐると、これまたこぢんまりとした境内が広がっていて、左の方に北条時政公の墓がある。正面には大御堂が見え、その中に5体の仏が奉られている。

※注釈:再訪した折りに、頂上の展望台まで登ってみました。20分くらい掛かった。頂上までのルートは3つあるのだが、ここからのが1番キツイと言うことを、展望台で会ったお爺さんに教えて貰いました。道無き道を上がることになるので、滑り止めの靴は必須。雨などで地盤が緩んでいるときはのぼらない方が吉。3月の朝9時に登りましたが汗だくになりましたので、お茶など水分補給もした方がいいです。天気が良ければ富士山はとても近くに見えます。

確か、拝観料は300円だったはずだが、何処で払えばいいのかなと、『上の札場で受付をしています。』とはどういうことなのか?
もしかして・・・上の札場って、あれじゃないよね?と相棒共々大爆笑!
そんなアホな私を置き去りに、由緒正しき平家の末裔である相棒は、ご先祖様の1人である時政公の墓前に脚を早めた。
田舎百姓の血を引く私もついでにお参りしてみたり。今まで五月蠅かった蝉も一瞬だけ唄うのを止めてくれた。

我々二人は大御堂の方へ脚を進めた、途中、開山800年記念行事として行われた石堀500羅漢造立の案内を見る。これは、私達一般人も参加できるらしく、ユーモラスな羅漢達があちこちに配されていた。高さは約1m位。
夫婦の像を造ったもの、観音さんを刻んだもの、大橋巨泉の群(笑)、果てはアニメのキャラまで、バラエティーに富んだ羅漢達が寺の裏山の斜面にまで並べられていた
感覚としては、デカイおみくじや絵馬のようなものかな〜。寺の運営に少なからず参加する、そういう気持ちの発展系に違いない。
 
北条時政67歳にて鎌倉より当山に隠世し仏塔を建立して、敵味方、犠牲将士の冥福と滅罪の浄業を達成し墳墓を此処に止む。
享年78歳。
 
よし、大御堂に向かうぞ!
大御堂とは言うものの、かなり小さい。しかし、この中に5体の仏が居られると思うと武者震いがしてくる。
『上の札場』とはここの右側にある受付であったので、心底安心した。案内の女性が仏像について説明してくれる。
大御堂入って真正面に、阿弥陀如来座像が居られる。
印を組んだ両手の指先、前面の螺髪と肉ケイ(如来の頭髪と頭頂部の盛り上がった部分をさす)部分が失われていたが、堂々とした豊かな量感ある体躯は往時そのまま残っている。
身体のあちこちに、傷や表面の漆が剥げた痕があり、蓮台も光背も失われている。幾度もの戦乱をくぐり抜けて今あるのだと改めて感じさせる。
先の茶々丸と北条早雲の戦火の折りに、この本尊を運び出そうとして倒し、その時に指先と頭部を傷めてしまったんですよと案内の女性が申し訳なさそうに話してくれる。
おそらくだが、その時本尊の2脇侍も失ってしまったのではないかと予想できる。茶々丸が住んでいた堀越御所はここから目と鼻の先であるから、避けられないことではあったのだろう。
元々の印は阿弥陀の9印の中でも中品中生(ちゅうぼんちゅうじょうと読む)であったと女性は言う。
これに関しては、私にも少し知識はある。阿弥陀の印には9種類あり、それは上品上生から下品下生までを指す。
この『品』は信仰心を『生』は善行を意味する。平安時代の阿弥陀如来像は上品上生や上品下生の印を結ぶものが多かった。
信仰心がものすごく厚い人達だけが救われるのであると。それは上品な貴族だけに受け入れられていたからにほかならない。
末世の時代を生きた彼らにとっては台頭してくる武士や天災や流行病には信仰心と善行でしか対処できなかったからとも言える。
信仰心も高く善行も良く行う社会ならば、国の乱れは少なくなるだろうからね。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像等は当然ながら上品上生の印を結ぶ。
 しかし、運慶はこの地では中品中生の印を結ばせた。信仰心も善行も程々の人も救おう、普通で良いのだ!と。
これは武家の生活にピッタリとマッチしたものであったし、激動の時代を生き抜かなければならない当時の民衆達にも同様だったはずである。
 
 
この本尊・阿弥陀如来像の両脇に居られるのが、毘沙門天と不動明王である。
彼ら毘沙門天・不動明王とその2童子の胎内から卒塔婆形の銘札が発見されたために、運慶の作だと言うことが判明したわけであるが、そんなものは見付からぬとも、素晴らしい仏には違いない。
本尊の胎内からは何も発見されなかったんですよと女性は残念そうに言う。
が、ここより3年後に運慶によって造られた鎌倉・浄楽寺の阿弥陀三尊の本尊や運慶晩年に造った奈良・興福寺の北円堂の弥勒如来像と比べてみてもそのお顔の表情、印を結ぶ両手の作り、精緻な指の表現力等、非常に良く似ているし、ここの本尊も運慶作であることは間違いないことだと思われる。
まあ、そんなことはどうでも良いのだ。運慶が造ろうが造るまいが、素敵な仏にはかわりはない。
当時は金きらきんであったのだろうけれど、金箔が落ち漆面が現れた優しい感じがまた良い。
しっとりと落ち着いた感があり、といって、大寺院の仏の様な迫り来る圧力もない。ただひたすら優しいのである。
 
本尊向かって右に居られる毘沙門天
一言で言って、すげ〜格好いい!是非とも欲しい仏である。^^;
運慶の造る毘沙門天は他のどの毘沙門天にも似ていない。天才・運慶のなせる技なのか。
※注※ここの像の3年後に造られた鎌倉・浄楽寺の毘沙門天(運慶作)はここの像にそっくり!和田義盛夫妻の発願で運慶により造られた像は秘仏である。
元来北方を守護する毘沙門天は、この地より北方に位置する奥州藤原氏討伐の願いを掛けて造られたものであろうが、その様な怨念のようなものはこの仏からは一切放出されていない。
一般的な毘沙門天に見られる憤怒の表情ではない。藤原氏に睨みをきかせているようなキツイ眼光も微塵もない。
実に清らかに涼しげに我々を見ていらっしゃる。ちょっと下ぶくれな顔の形やユーモラスな踏まれている2匹の邪鬼。踏まれながらも、毘沙門天の武器である三叉戟(トライデント)をしっかりと支えているのが笑える。奈良の寺院に納められている天平時代の邪鬼は非常にユーモラスであり、それらと普段から接していた運慶ならではの表現力なのではないかと私は思った。
私が見るに毘沙門天は推定年齢21〜22歳の若々しい青年だと思う。この張りのある膚の感じはどう考えても20代前半だ。
エネルギッシュこの上ないのである。それはやはり、嵌入された玉眼に負うところが大きい。
リアリズムを追求すると同時に、やはり仏で重要なのは目であると。仏の種類によって玉眼の色を変えたり、敢えて玉眼を使わなかったり。運慶は巧く使い分ける。
※例えば、本尊の阿弥陀如来像に玉眼は入っていない。悟りを開いた如来が穏やかに参拝者を迎えるに当たって、ギラギラとした眼光は必要ないから。
※)ところが、ここ願成就院の本尊阿弥陀如来像には玉眼を入れた痕跡があり、3年後に制作した浄楽寺の阿弥陀三尊像には始めから使われていない事がわかっている。だとしたら、最初に玉眼を入れてみたけれど、イメージと違っていたために外したのであろうか?
そして800年を経て来たとは感じさせない彫りの鮮やかさ。元々は彩色されていたらしいのだが、色が落ちて尚いっそう精緻な彫りが表面に露わになっている。
鎧や髪の毛の部分の彫りの角は今もって丸くなっていない。檜の寄木造ということらしいが、檜って凄いんだな〜。
良い素材・良く切れるノミ・卓越した技術・・・そして、出来上がった仏を護っていく信仰心。どれ一つ欠けても、この像はここに今居ることはなかったろう。
ここに来る前まで、全然仏に興味の無かった相棒も感動しきり。すげ〜よ、すげ〜よを連発している。私はこれ欲しいぃ〜を連発(笑)。
そんな我々を見ていた案内の女性も微笑みを絶やさない。いい像でしょう〜と声を掛けてくる。まるで我が子を誉められたように喜んでいる姿は、非常に微笑ましかった。
こうして我々2人は、毘沙門天から沢山のパワーを貰った。
 次は煩悩を焼いて貰う番だ。
本尊の左側に居られるのが不動明王とその眷属の2童子。不動尊は紅蓮の炎を表した光背をバックにして立って居られる。
不動尊の両目は大きく開かれ、牙は両方共に下に向いている。眉間に3本の皺を寄せ、眉を逆立て前面を睨んでおられる。
まさしく憤怒の表情をしているのだが、恐いと言うよりも勇ましくて格好いい。
右手に剣、左手にケン索を持ち、実に堂々とした体躯。フラバン茶が必要なくらいせり出した下っ腹。(笑)
脇侍共々左脚を少し開き気味にし、身体を右斜め後ろに引き気味に立って居られる。
解りやすく言えば、『休め』の体勢。800年もこの姿勢だと腰を痛めるよね。などとつい無駄口を叩いたりしてみる(笑)。
本来はもっと低い位置に置かれていたかもしれないな。それは、不動の眼差しが拝観者を見下げるようになっていなかったから。
お陰で、炎で煩悩を焼かれている感じは全然せず、かえって、その涼やかな玉眼嵌入の瞳のせいかもしれないが、冷ややかな炎で焼かれている感じがした。
夏の暑さも、冷気に焼かれて、この御堂内は非常にすごしやすい。
不動尊の手足となって働く2体の童子、コンガラ童子(右側)、セイタカ童子(左側)の表情は対照的で面白い。
コンガラ童子は温厚な性格で少女っぽい顔つきをしていて左手には蓮華を持ち、我々を静かに見つめている。
一方、セイタカ童子は腕白小僧そのもので、右手に宝棒を持ち、左脚を力強く踏み出し、身体を右に捻って顔は左を向き、眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げている。
言うこと聞かない奴は殴るぞ!と言わんばかりの様子。かといって、恐い像ではなく、非常に可愛らしい感じ。
この2体の静と動のバランスがとても良い。

一通り、仏を観た我々であったが、そこを去りがたく、再び毘沙門天から観返して堪能した。
毘沙門天の右側の離れたところには、昭和になって寄進された小さな吉祥天像が祀られていた。奥さんなんだからもっとくっつけばいいのにね。
元々はそれぞれ別の御堂に祀られていた仏が、この様に一堂に会しているのはとても贅沢な事だし、秘仏にされていないので、いつでも見ることができるのは素晴らしいことである。
東京からも近いのだし、興味ある方は是非来られたし!観る価値は1億円以上あると思うよ!

※注※
不動明王は梵名をアシャラナータといい。この名はヒンズー教シヴァ神の異名がそのまま仏教に取り入れられたものである。
仏教ではこの尊に如来の使者(教令輪身)としての性格を与え、後には大日如来(密教では最高至上の絶対的存在)の使者となり、真言行者を守護するものとなった。
無動使者・不動使者とも称される。不動とは即ち堅固なる菩提心の意。
性質は卑しく、奴隷三昧を誓願して如来に奉仕する役割を負わされている。頭の上に蓮台を載せるのもその為である。故に、大日如来の教令輪身として凡夫の前にあらわれるという。
また、行者の残飯を好んで受け取るとされるが、この卑しいおこないも、人間に元からある業煩悩を示すものという。
いずれにせよ、容姿といい性格といい、卑賤なる事この上ないのが不動明王である。しかし、それらを超越して通俗に広く浸透し、篤い信仰を得て造像された比類無き尊なのである。
一般に明王は動のイメージでとらえられる。これは静のイメージを備えている如来と対極をなす。盤石の岩座の上にどっしりと立ったり・座ったりする不動明王の場合は、身体的なアンバランスさで動のイメージを生み出している。
左目をすぼめる天地眼。
左右の牙を上下の反対方向にのばす上歯牙下唇。
左肩に伸びる辮髪
などが不動明王に見られる特徴である。ここ願成就院の不動尊は辮髪を左肩に伸ばす以外は上記の特徴は見られない。
一方、3年後に造られた鎌倉・浄楽寺の不動尊(運慶作)には上記の特徴が全部表現されている。実に面白いものである。
不動明王の眷属には8大童子が付属することも少なくない。高野山金剛峰寺には運慶作の8大童子が遺されている。

因みにコンガラ童子セイタカ童子はこんな具合。

追記)
10世紀初頭、平安時代に天台僧・安然がまとめた不動明王の基本的特徴を不動十九観と言い、以降の不動明王の造像に大きな影響を与えていると思われる。
@・・・不動明王は大日如来の化身である。
A・・・不動真言の中に阿(ア)・路(ロ)・?(カン【口へんに含】)・マン(牟へんに含)の4字がある。
B・・・常に火生三昧に住する。
C・・・童子形で身は卑しく肥満している。
D・・・頂きに七沙髻がある。
E・・・左に辮髪を垂らす。
F・・・額に水波のような皺がある。
G・・・左眼は閉じて、右眼を開ける。
H・・・下の歯で上の唇を噛んで、上の左唇をつき出す。
I・・・口は堅く閉じる。
J・・・右手に剣を持つ。
K・・・左手に索を持つ。
L・・・行者する者の残飯を食べる。
M・・・大きな盤石に安座する。
N・・・色は醜い青黒。
O・・・奮迅して忿怒の形相。
P・・・迦楼羅炎をまとう。
Q・・・倶利伽羅龍に変身して剣にまとわる。
R・・・2童子に姿を変え、給仕する。

参考・密教の美術(東京美術)

寺のパンフに因れば:
阿弥陀如来座像:重要文化財。寄木造。像高143.5cm
毘沙門天像:重要文化財。鎌倉初期。寄木造。像高147cm 玉眼嵌入 運慶作
不動明王像:重要文化財。鎌倉初期。寄木造。像高136.5cm 玉眼嵌入 運慶作
コンガラ童子像:重要文化財。鎌倉初期。寄木造。像高78cm 玉眼嵌入 運慶作
セイタカ童子像:重要文化財。鎌倉初期。寄木造。像高82.6cm 玉眼嵌入 運慶作

とある。
全像共にかつては国宝だったが、再指定で外されて重要文化財とされたと女性に教えて貰った。おそらく、江戸時代に修理されていることが引っ掛かった理由であろうが、信仰の対象物である仏像が壊れれば修理するのは当たり前のことであるし、それがあったから今ここに残っているのである。
国宝指定で修理費の一部が国庫から出るらしいのだが、そういう意味ではこれら日本国の宝は是非とも再び国宝指定にしていただきたい。
税金がこの様に使われるのなら喜んで払いますよ。これから後800年後の諸君達に残せないようなことがあれば最大の不幸であるのだから。
しかしだぞ、国宝指定を受けたらちゃんとした収蔵庫にしまわないとダメだって話も聞くので、見仏者にとっては喜ばしいことでもないな〜。
今なら手の届く距離で見ることができるし、御堂内は外光がそのまんま入ってくるので明るくて見やすい。


思いっ切り大御堂を満喫した我々は、大御堂裏手にある宝物館に行ってみた。
そこには厨子に入れられた政子地蔵菩薩座像がいた。これは北条政子七回忌を供養して3代執権北条泰時公によって奉納されたものらしい。
さすが尼将軍と呼ばれただけあるのだ。女性なのに地蔵になっている。左手に宝珠を右手に錫杖をお持ちになっていた。
政子の資料としては、この寺の近くに政子産湯の井戸というものが残っていて、見に行ってみたが、石碑は立派なモノが立っていたのだが、肝心の井戸は新興住宅地のどん詰まりにあった。親近感ありすぎるぞ。(笑)
大御堂の毘沙門天・不動明王・2体の童子の胎内から発見された卒塔婆形の銘札4枚(重要文化財)もここに展示されていて間近に見ることができた。
そこには運慶が北条時政の依頼でそれらの仏を造ったことが記されていて、重要な資料となっている。
800年も前に書かれたとは信じられないほどの保存状態の良さ。虫に食われたような痕もない。凄い!
凄いんだけど、この宝物館って冷房効いてないし、窓もないのでメッチャ暑い。汗が噴き出してくるのが止まらない。
なので、さっさと逃げ出して大御堂の受付の場所まで戻ってきた。そこで交通安全のお守りと仏像の絵はがきセットを購入。
相棒もお守りを買ったみたいだった。その絵はがきセットには、大御堂にはない阿弥陀如来座像も入っていて、これは何処に居られるのでしょうかと女性に聞いたところ、本堂の方に居られるらしい。
観ていきますか?と声を掛けて貰ったのでお言葉に甘えて本堂にお邪魔することにした。
茅葺き屋根の本堂は寛政元年に建立されたもの。ここの阿弥陀さんは現役バリバリの信仰対象仏らしく、立派な天蓋を備えている。
本堂の奥、板張りの須弥壇(しゅみだん)上、蓮華の蓮台の上に座られていた。我々は、手前の畳の間に正座して下から見上げていた。
すると、お祖母ちゃんがやってきて、仏の説明をしてくれた。誰が造ったか判らないが、鎌倉時代に造られたらしいこと。
蓮台や光背は当時のまま残っていること。仏の眉間にあるビャクゴウは新しいモノに換わっていることを教えてくれた。
現役の仏にはやはり迫力がある。暗闇に置かれているから益々そう見える。
お祖母ちゃんが仏の側まで行って観てご覧なさいと言ってくれたので、我々は本当に間近でじっくりと観察する事ができた。
顔の一部に金箔が残っていて、往時の金ぴか姿を想像することもできる。印は上品上生を結んでいらっしゃる。
大御堂の本尊が目を閉じているように見えるのに対して、こちらの仏はうすく目を開き確かな瞳で参拝者を見下ろしている。
光背は蓮の花を全体にデザインした舟形で、台座にしっかりと取り付けられていた。
大御堂の本尊は指と頭の部分が壊れているが、ここの本尊は壊れたところもなく美しいでしょう。と3度お祖母ちゃんは繰り返した。
あちらの本尊に対抗心を燃やし、私の本尊の方が勝っていると言ってるようだ。(実に微笑ましい)
仏像に勝ち負けなどあろうはずはないのだが、そう主張するお祖母ちゃんの姿は意地らしくて可愛いい。
普段は観ることのできない仏を観せてくれた優しいお祖母ちゃん。感謝です。

こうして、豊かな時間を我々は過ごせたわけであるが、これは全て素晴らしい仏とそれを暖かく見守っている素晴らしい人達のお陰だと思ってよい。
良い仏は良い人を選ぶのである。

沢山のエネルギーを貰い受け、折角煩悩を焼いて貰った我々であるが、この後、煩悩の固まりである温泉&豪華料理へ旅立って行ったのであった。
しかし、心配には及ばないのかも知れない。
維摩経(ゆいまきょう)で有名な維摩居士は在家信者の長者であったが、彼は家族もあり、酒も飲むし、博打もする。(飲む打つ買う)
王侯貴族とも自由に語り、子供とも親しむ自由闊達な論客であった。
彼は釈尊の『法』について次のように説いている。

『かつての仏教では貪りや憎しみや愚かさ等を否定する(避ける)ことを目標として修行したが、むしろそのような煩悩の中にこそ悟りのヒントがある。・・・泥沼にこそ美しい蓮の花が咲く。悩み多ければこそ清らかな悟りの道が開ける。』

良いこと言うぜ、維摩ちゃん!
しかし、これは信仰心があっての話だと言うことを肝に命ずる必要があるのだが・・・。^^;

 
願成就院から北に3キロほど行ったところに、頼朝が流罪で送られた蛭が島がある。ちょっとした休憩場になっていて食事などもできる。
若き頼朝はこの場所から政子の所まで通っていたらしく、初々しい二人の銅像が建てられていた。しかし、その姿を撮影する前にデジカメの電池切れ(悲)。
旅行に行くときは絶対に予備の電池を持っていきましょうね〜!^^//

※伊豆・願成就院:伊豆箱根鉄道の伊豆長岡駅又は韮山駅より徒歩15分。境内の見学は無料。大御堂・宝物館の拝観料300円。
御堂・宝物館内の写真撮影は不可。(このページの仏の写真は絵はがきや書物の写真をデジカメで撮影したモノです。)水曜日休館。
住所:静岡県伊豆の国市寺家83-1





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