アメリカの誇りシアトルスルー死す!


アメリカの3冠馬で唯一生き残っていたシアトルスルーが火曜日に逝去しました。
アメリカンドリームをその言葉通り具現化した馬。
無敗で3冠を制した唯一の馬。
種牡馬としても大成功を成し遂げた馬。
多くの人々に愛され続けた馬。
北米のサイトではこの訃報を知った人々が多くの想い出メッセージを寄稿しています。
同じ3冠馬でもセクレタリアートが派手で破天荒だったのとは異なり、シアトルスルーは実に淡々とレースに勝ち続けました。
日本で言えば、セクレタリアートがミスターシービーやナリタブライアンならシアトルスルーはシンボリルドルフと言ったところ。
無敗で3冠を制したところも同じですね。
シアトルスルーは1974年生まれなのでマルゼンスキーと同い年と言うことになります。
マルゼンスキーは不幸にもクラシック競走には出走できませんでしたが、種牡馬としてジャパンドリームを成し遂げたと言って良いでしょう。
同様に、シアトルスルーはその関わった人々にある種典型的なアメリカンドリームを成させました。

 ケンタッキーの小さな牧場ホワイトホース・エーカーズ牧場を経営していたベン・カスルマン氏にはマイチャーマーという牝馬がおり、この牝馬は2yo-3yo時にステークス勝利を含む32戦6勝という成績を残してくれました。
氏はこの牝馬の産駒に大きな期待をかけ、当時アメリカ最大のクレイボーン牧場の門を叩きました。
この牧場はボールドルーラーという当代随一の種牡馬を繋養していたこともあり、その系統の種牡馬を多く扱っていました。
当時のアメリカの生産者の夢はボールドルーラー系の産駒を生産することであったので是非とも種付けしたかったからである。
クレイボーン牧場の経営者の若きセス・ハンコック氏はこの小さな牧場のオーナーに敬意を払って対応しボールドルーラーの孫で新進種牡馬のボールドリーズニングを推薦した。
種付け料は5000ドルだったというから格安だったのだろう。
こうして1974年2月15日にシアトルスルーが誕生したのである。
カスルマン氏にとっては精一杯の良血馬であったが、客観的にみて地味な血統であったので、1975年のファシグティプトン・イヤリングセールに出したところ17500ドル(当時邦貨で500万円)で売れた。
シアトルスルーそのものはそれだけの収入しかもたらさなかったが、後にシアトルスルーが活躍すると母のマイチャーマーは高額で売れたし、近親馬達も高値でセリ落とされることになった。
金銭的な成功もあったが、それ以上にこの生産者カスルマン氏は大きな注目を集める存在となり、念願のケンタッキー州競馬委員会のメンバーとなることができた。
さて、シアトルスルーを購入したのはピアスンズ・バーン社という法人だったが、実のところは2組の夫婦であった。
ワシントン州の片田舎で製材所を経営していたテイラー夫妻:ミッキーとカレンはまだこの時30歳で、幼なじみの2人は大の競馬好き。
暇さえあれば近くの競馬場に通っていたという。
住まいはトレーラーという貧乏所帯。
その為国際便のスチュワーデスをしていたカレンさんの収入に多くを頼っていた。
が、石油危機と共に運命が動き出す。
結婚3年目の1973年に倒産した製材会社の森林をたった500ドルで購入したとたん、石油危機が生じて紙の価格が高騰し、その原材料となるパルプの値段も数倍に跳ね上がって、夫妻に経済的ゆとりができた。
そして74年にケンタッキーに馬を買いに行った時、獣医のジム・ヒル夫妻と出会い、馬選びの相談に乗ってもらうことになる。
テイラー夫妻はヒル氏の人柄と見識に敬服し共同で馬主活動をしたいと提案し法人を作った。
主にテイラー夫妻が資金を提供し、ヒル氏が馬選びや管理のための知識や技能を提供するという変則的な共同運営であったが、得てしてこう言うのがアメリカドリームの実現には欠かせないものである。
シアトルスルーという馬名は、テイラー夫妻の出身地シアトルとヒル氏の出身地であるフロリダの湿地帯の別名スルーに因んだものである。
管理するターナー師は藤澤調教師のような人で、馬の状態に合わせたレースしかさせない人で、多くのオーナー達と対立してきた。
1976年9月20日、シアトルスルーはデビュー戦を迎えた。
ベルモントでの未勝利戦(6F)に出走した同馬はJ.クリュゲ騎手を鞍上に5馬身差で圧勝してしまう。
レース後、ある調教師が10万ドルで売ってくれと申しで、3日後には30万ドルというより好条件での売却話を持ちかけてきたがカレンさんは断った。
シアトルスルーは2週間後の一般戦(7F)に出走し、今度も3馬身半差で楽勝した。
自信を持ったターナー師はG1シャンペンS(8F)に挑戦する。ここにはG1を勝ち上がった馬が2頭出てきたが、シアトルスルーは1番人気になった。
スタートから先行したシアトルスルーは400m過ぎから先頭に立ち、そのまま後続を離して9馬身3/4という大差で楽勝してしまった。勝ちタイムの1分34秒4は当時の2yoレコードで、彼はこの年の2yoチャンピオンに選ばれた。
温暖なフロリダで冬を過ごしたシアトルスルーはターナー師の期待通りに素晴らしく成長していた。
3月に一般戦(7F)に出走し9馬身の差を付けて逃げ切り、続くG1フラミンゴS(9F)でも楽々と先行して4馬身差で勝ってしまう。
ダービーのトライアル戦G1ウッドメモリアルS(9F)に進んだシアトルスルーは今度はスローペースを先行しこれまた3馬身1/4放して楽勝してしまう。
この結果を受け、本番のG1ケンタッキーダービー(10F)では単勝1.5倍に圧倒的な1番人気として迎えられた。
スタートで遅れをとったが直ぐに先頭に並びかけた。向こう正面で一息入れてフォーザモーメントを先に行かせたが、最終コーナーでフォーザモーメントが一杯になると、そのまま先頭に立ち引き離して直線に入った。
ゴール前でランダスティーランが追い込んできたが1馬身3/4だけシアトルスルーが先にゴールインしていた。
2週間後のG1プリークネスS(9.5F)には快足先行馬のコーモラントの出走でシアトルスルーには不利だろうと言われたが、案の定、2頭の競り合いでレースは進んだ。
しかし、手綱を引き締めたままのシアトルスルーはコーモラントを振り切った。
最後にアイアンコンスティテューションが追い込んできたが追いつくことはできず、1馬身3/4差で2冠目を奪取した。
3冠目のベルモントS(12F)は7万人の大観衆がつめかけた。
4年前に3冠馬となったセクレタリアートのファン達は、シアトルスルーが3冠馬となることを歓迎していなかったし、フランスから裸一貫でやってきて今や3冠ジョッキーになろうとしているクリュゲ騎手、ワシントン州の片田舎からやってきてアメリカ競馬史上最強馬のオーナーになろうとしているテイラー夫妻や強い信念と共に競走馬を育ててきたターナー師、そしてたった17500ドルで買われたシアトルスルーというシンデレラホースの話題は新聞やTVを賑わせていた。
レースは楽々と先行したシアトルスルーが第3コーナーで他馬を引き離しにかかり、ランダスティーランに4馬身の差を付けて優勝。
ここにアメリカ史上初の無敗の3冠馬が誕生し観衆達は熱狂し祝福を送った。
しかし、夢はいつか覚めるもの・・・。
続いて出走したG1スワップスS(10F)でJ.O.トビンの4着に敗れる。
ターナー師は反対したらしいがオーナー達が遠征を望んだ結果だった。
これによってオーナーと調教師との関係は崩れ、4yoになったシアトルスルーはD.ピーターソン師の元に移籍する。
5月のアケダクトの一般戦(7F)、サラトガでの一般戦(7F)を楽勝した1977年の年度代表馬シアトルスルーだったが、9月のパターソンH(9F)でドクターパッチスという馬にクビ差敗れてしまう。
ここで槍玉に挙がったのは鞍上のクリュゲ騎手で、次走のG1マルボロCではコルデロ騎手に乗り換わることとなった。
このレースは1978年の3冠馬アファームドとの-史上初めての3冠馬対決-となった。
この時、シアトルスルーは初めて2番人気になったが先行してアファームドの追い込みを許さず3馬身差で勝った。
続くG1ウッドワードS(10F)では強敵エクセラーを軽々とあしらい4馬身差で逃げ切った。
BCが無い時代に最も大きなレースだったG1ジョッキークラブGC(12F)で再びまみえた3頭であったが、今度はエクセラーがハナ差の勝ちとなった。
シアトルスルーはアファームドのペースメーカーとして出走していたライフズホープを激しくやり合ったため一杯になったが、そこからド根性でエクセラーに詰め寄っての結果だった。強い!
その後、G1スタイブサントH(9F)に出走し優勝したシアトルスルーは引退する。
通算成績17戦14勝。獲得賞金額120万ドル。・・・しかし彼の物語は始まったばかりであった。
4yo時の2月に既に1200万ドルでシンジケートが組まれていたが、これは当時の世界レコード。
オーナー達はこの時半分の権利を600万ドルで売却していた。
1979年から種牡馬生活を始めたシアトルスルーの種付け料は最初の4年間、15万ドルに据え置かれた。
が初年度からスルーオーゴールドなどの活躍馬を出したとたんに22万5000ドルに跳ね上がった。(83年)
翌1984年には50万ドルに急上昇。この年、イヤリングセールに上場された17頭が平均価格130万ドルで売却され、この年のリーディングサイヤーが確定すると1985年の種付け料は75万ドルの値を付けた。
この頃、英ロバート・サングスターはシアトルスルーの1株を300万ドルで購入したというが、全部で40株のシアトルスルーの価値は1億2000万ドルという計算になる。こんな馬はもう出ないであろう。
2002年の種付け料は28歳という高齢でありながら30万ドルが設定されていました。(高ぇ〜〜〜!)
こうしてアメリカンドリームを実現させてくれた同馬はあの世に旅立ってしまったが、大往生と言って良いだろうと思う。

3冠馬が潰えてしまった年に新たな3冠馬が誕生するなんて事もあるかもしれない。
奇しくも2002年のケンタッキーダービー馬ウォーエンブレムの走りは実にシアトルスルーに似ている。
死して尚アメリカンドリームをなさしめるのか!?・・・アメリカ競馬から目が離せなくなってきました。

※日本で走った代表産駒にはタイキブリザード、ダンツシアトル、ヒシナタリー、マチカネキンノホシなどがいる。
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脊髄の手術後、静養中のシアトルスルー(4月11日) 史上初の無敗の3冠馬の誕生!-ベルモントS-
写真はThe Blood Horseから借用
参考文献『伝説の名馬』『競馬種牡馬読本2(宝島社)』
自分の銅像を不思議そうに見るシアトルスルー

2002/5/9 UP