Hall of Famer Bill Shoemaker Dead
●名誉の殿堂入りしている伝説の名ジョッキー、B.シューメイカーが10月12日に永眠いたしました。
享年は72歳でした。
4度のケンタッキーダービー制覇。40年以上にわたる騎手生活。
氏はサンタアニタ競馬場の近くにある自宅で睡眠中に亡くなったと言うことなのだが、長年の友人であるP.ギャラハー氏によれば、医者は自然死だったと言ったそうである。
シューメイカー氏は1991年に自動車事故を起こしてからは首から下がマヒ状態であった。
今年は2月に1943年にカウントフリートで3冠を達成し、騎手と調教師の二役で唯一ケンタッキーダービーに勝ったことがあるJ.ロングデン氏(享年96歳)が亡くなっており、競馬界にとって2番目に大きな死を迎えたことになる。
シューメイカー氏はこのロングデン氏の6032勝という大記録を1970年に破った。(1970年9月7日にデルマー競馬場)
そして、記録を8833勝まで伸ばして引退。
この記録は1999年にL.ピンカイジュニア騎手によって破られたが、長期にわたり金字塔として君臨してきた。
『彼は私の人生の中で最も偉大な人間であった。』
と現サンタアニタ競馬場のジェネラルマネージャー、C.マッキャロン氏は言う。
『馬と話す能力も凄かったが、人々に対する哀れみも誰にも劣ったことはなかった。』
身長たったの4フィート11インチ(約150cm)の小柄な男は『ザ・シュー』の愛称で親しまれ41年間にもわたって騎手生活を続けました。
しかも、アメリカで最もレベルが高いと言われる南カルフォルニア地区を本拠地にしていた。
1986年、54歳にしてファーディナンドに騎乗し、巧騎乗でケンタッキーダービーに優勝。
これは、今でも破られていない最高年齢のダービー制覇の瞬間だった。
しかも、前回のダービー制覇は1965年のラッキーデボネアでのものだった。
他に1959年にトミーリーで1955年にスワップスで同レースを制している。
写真提供サンタアニタ競馬場
しかし、氏にとって最も有名なダービー騎乗は第83回ダービー(1957年)だったであろう。
氏は名馬ギャラントマンに騎乗し、ゴールラインを目前にしていた。
追ってくるのはB.ハータック騎乗のアイアンリッジ。
優勝は目と鼻の先だった。
しかし、最後のハロン棒を過ぎたとき、シューメイカー氏はゴールと勘違いして立ち上がってしまった。
慌てて追い出したが・・・ハナ差届かず敗れてしまった。
この結果、シューメーカー氏は15日間の騎乗停止処分を課せられることになる。
しかし、オーナーのR.ロウ氏は落ち度はなかったとして5,000ドルの賞金と新しい車を彼に贈った。
5週間後、同騎手を背にしたギャラントマンはベルモントSを8馬身差で圧勝した。
その他に騎乗した名馬にはソードダンサー、ダマスカス、ガンボウ、スペキュタクラービド、ボールドビダー、ラウンドテーブル、アクアク、エクセラー、ジョンヘンリー、フォアゴー、キャンディスポッツ、ジャイプール、等々。
1990年2月3日のラストの騎乗は全国放送され、サンタアニタ競馬場は64573人もの大観衆を迎えた。
大勢が見守る中、パッツィーグランドフォッグに騎乗した彼は4着でゴールに入った。
現役生活41年で騎乗した数は40350回。
通算勝利数は8833勝。
米国リーディング10回。
シューメイカー騎手の騎乗は、馬の上でずっと静かに座っていて、それは『まるで歌を聞いているか詩集を読んでいるか』のようだったと、氏の妻のシンディーは言う。
それがひとたび勝負所に差し掛かると『ジーン・ケリーが踊っているかのような』華麗な鞭さばきを見せたという。
シューメイカー氏は1931年8月19日テキサスのファーベンズにて生を受けている。
高校時代はボクシングやレスリングをしていたが、身体が小さかった事もあり騎手を目指すことを決心する。
高校を中退した彼は月75ドルと寝床を用意してくれるラ・プエンタ牧場に行き騎乗生活を始めた。
初の勝ち鞍は初騎乗の1949年4月20日。サンフランシスコ近くのゴールデンゲートフィールド競馬場であった。
ついでに最後の勝ち鞍はほぼ41年後の1990年1月20日だった。
『40年やってきた。長すぎたよね。そろそろ他のことをする時期だと思う。』
と、引退時にコメントしている。
調教師生活を始めた翌年の1991年に自動車事故で首から下がマヒした状態になったが、車椅子に乗ったこの調教師は管理馬アルカンドゥーとファイヤーザグルームでこの年のG1ベヴァリーヒルズHを1-2フィニッシュ。
師にとって初のG1勝利を飾った。ファイヤーザグルームはこの年ベヴァリーDとウィルシャーHに優勝している。
師が管理した他のトップホースにはマルチ重賞勝ち馬のグレンケイトや1994年のストラブSの勝ち馬ディアゾやシルキーらがいる。
1997年に調教師を引退後は競馬ミステリー小説を書くなどしていた。