- プリークネス物語 -

全てはニュージャージーの北部に住んでいたミンシー(Minisi)というインディアンに起源しました。
彼らは自分達の場所を ”プラ-クア-レス”(Pra-qua-les)と呼んでいたが、それは”ウズラの森”を意味しました。
それがいつの間にか縮まって”プリークネス”(Preakness)と綴られるようになったと言うことです。
その過程で”プレッキネス”(Preckiness)と呼ばれたが、これは・・・1776-77年の冬にジョージ・ワシントン将軍が自分
の部隊を滞在させていた場所をこう呼んだことに由来します。
その100年後、競走馬オーナーのミルトン・H・サンフォード氏(Milton H. Sanford)によってその名は受け継がれることになりました。
彼はニュージャージーに1つ、ケンタッキーにもう1つ牧場を持っていたのだが・・・それらをプリークネス(Preakness)と呼んでいました。
インディアン達が”ウズラの森”と呼んでいた場所にあったからです。
今日、その遺構をニュージャージー州、プリークネスに見ることができます。
サンフォード氏はレキシントンを父にベイリーフを母に持つ1頭の2歳馬をA.J.アレクサンダー氏から購入したのだが、
その牡馬(ケンタッキー、ウッドバーン牧場産)にプリークネスという名を付けました。
-その名が今も不朽の名声を受け続けるとはつゆも思わなかったろうが-
プリークネス号はベイリーフの8番目の仔で2000ドルしたと言われる。
1870年、ピムリコ競馬場がオープンされた時、4歳になったプリークネス号はデビュー戦を迎えることになる。
ディナー・パーティー・ステークス(Dinner Party Stakes)に出走した彼は不格好な姿を”荷馬車馬”と笑われはしたが、
レースには見事勝利した。そして、彼の名は歴史に刻まれることになる。
プリークネス号に乗っていた英国人騎手-ビリー・ヘイワード-(Billy Hayward)の名も現在も残っており、それはピムリコ競馬場に
隣接する通りの名前になっている。
プリークネス号は1870年にはこの1回しか出走していなかったのだが、ピムリコ競馬場に名をとどめるには十分であった。
3年後、メリーランド・ジョッキー・クラブは彼を讃え、新設されたばかりのレースに”プリークネス(Preakness)”を冠しました。
尚、プリークネス号が勝ったディナー・パーティー・ステークスは現在ディキシー・ハンデ(Dixie Handicap)と名を変えて行われてる。
その後、プリークネス号は9歳までアメリカで走りました。
131ポンドを背負ってボルティモア・カップに勝ち、サラトガ・カップ(2 1/4マイル)ではスプリングボック号(Springbok)と同着となった。
翌年、プリークネス号はサンフォード氏によって英国に送られ、英国が認めた最初の米国馬の1頭となりました。
最終的に種牡馬としてハミルトン公爵(Hamilton)に買われていきました。
年を取るごとにプリークネス号は怒りっぽくなり、扱いにくい馬になった。
ハミルトン公爵も半分嫌になりかけていたのだが、案の定、ある日怒りにまかせて撃ち殺してしまった。
プリークネス号は死んでしまったが・・・彼の名前はアメリカのクラシックレースの名として永遠に残り、また、
彼の死を契機に、動物の扱いについての英国の法律が改正された。