- The Legend Dancing Brave Die ! -

●"一生に一頭の馬"(once-in-a-lifetimehorse)と呼ばれた伝説の馬・・・ダンシングブレーヴが17歳の生涯を閉じました。

1986年度の凱旋門賞馬、オーナーのアブダラ王子をして"最も傑出した馬"と言わしめたダンシングブレーヴが1991年から繋養されていた日本で死亡しました。
死因はおそらく心臓発作であろうと言われています。
JBBA(日本生産者協会)のスポークスウーマンによれば

「本当に突然の事でした。前の日までは元気だったのに・・・。多くの新聞では死因は心臓発作だと言われていますが、本当の死因は検死の結果を待たないと解らないのです。」


とのことでした。

ダンシングブレーヴは2000ギニー、エクリプスS、キングジョージS、凱旋門賞の勝利によって80年代最強の4歳馬と呼ばれました。
彼はアメリカの2歳馬セールで20万ドルの値をつけられ、オーナーのアブダル王子に買われました。
その王子も彼の死を悼みコメントしました。

「1986年の凱旋門賞・・・ラスト2Fの爆発的な末脚は今でも鮮やかに蘇ってくる。」

1986年の凱旋門賞・・・ベーリング、トリプティク、シャルダリ、アカテナンゴ、シャーラスタニ、・・・シリウスシンボリ等の強敵を完膚なきまでに葬り去りました。
その結果、140ポンドという最高のレーティングを与えられました。
これは70年代のブリガディアジェラードとミルリーフ以来のことでした。

主戦騎手のパット・エデリー(Pat Eddery)は興奮した様子でコメントしました。

「凱旋門賞は凄いの一言だね!あの時は異常に自信があったんだ。私はベーリングの後ろから行き・・・最後の1Fで11頭の馬を抜き去った。
私はあの様な偉大な馬と関わりを持ててとても幸せだったと思うよ!素晴らしい気性と何とも言えない運動性能・・・本当にファンタスティックな馬だった! 彼の様な素晴らしい馬には2度と会えないでしょうね。」

ダンシングブレーヴは10戦8勝・・・しかしながら最も想いで深いのは負けたレース・・・1986年ダービーである。
単勝3倍(1番人気)で迎えたダービー。スターキーを鞍上に後方から行った彼は、直線で素晴らしい末脚を炸裂させたがシャーラスタニ(Shahrastani)に半馬身及ばなかった。
スターキーはその後エクリプスSまで乗り続けたが、エデリーに乗り替わられてしまった。
そしてエデリーの手綱によってキングジョージSを勝つ事になる。
当時の調教師であるハーウッド師はスターキーに対する批判に沈黙を守った。

「ダービーは・・・ま、言ってみればバカげたレースだったということさ! 負けたけど明らかに勝ったシャーラスタニより優れた馬だったよ。」

と彼は言う。

***OTEF注***
ダンシングブレーヴの父リファールが名マイラーであったため、ダービーの距離に対する不安視も少なからずあり、スタミナ温存の意味も含めてスターキーは後ろから行ったのではと思われる。
乗り間違いではないが、負けたのはマズかった。
この辺の厳しさは日本とは雲泥の差がある。

「ダンシングブレーヴは5月うまれで、3歳3ヶ月になるまでは競走馬になれるとは思えなかったよ!しかし、7月に背中を軽く押してみたら、少し違っていた・・・何か特別な物を感じたさ。」

この牡馬は3歳時に2レースしか走らなかったのだが、既にこの時ハーウッドは並々ならぬ物を感じていたらしい。

「最初のレース―サンダウンにおける3頭立て―だったけど、スターキーは馬から下りるやいなや"この馬は僕のダービー馬だ!"なんて言って来たんだ。」

しかしながら・・・彼のレースキャリアはアメリカでアンチクライマックスを迎える事になる。
ダンシングブレーヴは1番人気で臨んだBCターフにおいて4着に敗れてしまった。
考えられる原因はカリフォルニアの暑さと脱水症状、ベストな状態ではなかった事。

引退した彼は1400万ポンドでシンジケートされ1987年からニューマーケットのダーラムホールで繋養されました。
しかし、1991年電撃的にJRAにトレードされました。売却金額は300万ポンド。その後JBBAの静内スタリオンステーションに繋養されていました。
今までに2度死の淵から復活してきたこの名馬ももう既にこの世にいません。
彼の10世代の産駒は少なくとも31のステークスを勝っている。
最も有名な産駒はダービー馬:コマンダーインチーフと伊ダービー馬:ホワイトマズルであるが・・・2頭とも日本に買われてしまった。

ダンシングブレ―ヴの血を世界に戻す為にも日本の生産者、馬主、調教師達の努力を期待します。
決して、日本に埋もれさせてはいけません!