---- 処分問題を考える ----


●19世紀の中頃、アイルランドにはバードキャッチャーという素晴らしいサラブレッドがいました。
競争生活から引退した彼は種牡馬としても優秀な産駒を送り出し成功していました。
が、彼が28歳になり、種付け作業を上手くこなす事ができなくなった時、
オーナーのディズニー氏は「では廃用にしよう」と言い、使いのものを警察に向かわせ
屠殺すべき馬がいるから拳銃を携帯して牧場に来てほしいと要請した。
そして、砂場に穴を掘り、その側にバードキャッチャーを連れてきて射殺した。
おそらく、偉大な競走馬で偉大な種牡馬として歴史に語られる馬としては最もあっけなく、冷酷な死であったろう。
このバードキャッチャーの死が報道されるとイギリス人達は一斉にディズニー氏を非難した。
馬の射殺自体はそんなに珍しいことではなく軍馬などの場合はこのような合理的で簡便な方法をとるのが普通である。
ディズニー氏はおそらく以前から馬の処分をこのような方法で行っていたと思われるし、繋養先のグルームたちも
淡々と処分の準備をしていたところから、珍しいことではなかったと思われる。
ではなぜそのように問題になったかと言うと、アイルランドにはそれまでにバードキャッチャーほどの名馬がいなかったことが、イギリス人との考え方の食い違いになったと考えられる。
イギリスでは偉大な競走馬はただの馬ではなく大きな名誉と歴史的価値を背負った存在である。
しかしながら、アイルランドではまだ、サラブレッドもただの産業動物でしかなかった。
また、農耕民族のイギリス人は馬を特別視する傾向があり、擬人化して考えやすい存在であった。
が、多少とも騎馬民族の影響を受けて、馬の扱いが日常化していたアイルランドでは馬が珍しいものではなく、
実用家畜として処分する対象でしかなかった。
いまでも、騎馬民族のハンガリーや騎馬民族の影響の強いドイツやイタリアと、農耕民族のイギリス、フランスでは
馬への感傷的な愛情に大きな相違がある。

ここで、現代の日本に舞台を移しましょう。
日本でも偉大な成績を上げたサラブレッドは競馬ファンから大きな尊敬を受け、競馬関係者にとっては歴史的価値をもちます。
そのようなサラブレッドのオーナー達は余生の世話をし、馬達が安心して暮らしていける様に努力しています。
ここで問題なのは、一流の競争成績を上げられなかった、あるいは種牡馬として期待はずれに終わってしまった馬の余生があまりにも悲惨だということです。
「サラブレッドは血統が全てであり、種を伝えていけない馬は淘汰される。」
というのは良く解るのですが、だからと言っていとも簡単に処分していいという事の理由にはなっていないのではないでしょうか。
日本のサラブレッド生産は海外とは少し違っていて、「売れる馬」をつくろうとする傾向が強いこともその要因ではないでしょうか。
生産者達は流行の血統を付けることに必死になっている様に思われます。
ということは、自然、生産に占める種付け料は大きなウェートを占めることになり、馬の生産コストは大きな額となります。
そうした馬達が全て売れるわけで無く、また、不況の影響もあって安い値段に買い叩かれてしまうのが現状です。
300万の種付けで生産した馬が100万でも売れないということは珍しいことではありません。。
特に小規模牧場の状況は非常に苦しい。
生産すればするほど自らの生活を苦しくしていく。
そのような小規模牧場の生産馬に馬の余生をどうにかしろと言ってみたところで無理な話なのです。
オーナーとしてもそのような牧場に愛馬を預けることもできず、結局処分してしまうことになるのでしょう。
日本にも余生の世話をしてくれる牧場があることはありますが、そこもすぐに飽和状態になるでしょう。
つまり、この問題の大きな原因は、強い馬をつくろうとしない事、生産過多なこと、活躍すべきレース数が少なすぎる事、
輸出されないこと、馬を受け入れてくれる環境が少なすぎること、生産を伴わない馬主が多すぎることではないでしょうか。
昨年、今年とクラシックを勝った馬の母系は日本に根付いた血統でした。
マイナー血統と言われている種牡馬達をもっと大事にすべきではないでしょうか。
スーパークリークやナイスネイチャのような血統こそ今の日本には必要ではないかと思います。
我慢強さとか踏ん張りといった能力は彼らのような種牡馬からこそ伝わると思うのですが。
外国の状況に少し触れてみましょう。
アメリカでは1年に約3万5000頭のサラブレッドが生まれ、そのうちの70%が少なくとも1度公式のレースに出走します。
が、日本では1年に約1万頭のサラブレッドが生まれ、その中で中央で登録される馬約3500頭、地方で登録されるもの約4000頭です。
アメリカでは170の競馬場があり、レース数は6万5000レースもあります。
一方、日本では中央のレース数は3200余りしかなく、地方を加えてやっと2万6000レースです。
ちなみにイギリスでは1年に5500頭余りのサラブレッドが生まれ、レース数は3800レース。
フランスでは4000頭に対して4300レース。
オーストラリアでは1万7000頭に対して23000レースあります。
競馬場の数もイギリス59、フランス266、オーストラリア404で十分環境が整っていると思われます。
生産牧場の数も日本とは桁が違うほどあり、競争を終えた馬、繁殖から引退した牝馬、登録をされなかった馬などの世話や処分は生産者、オーナーの責任で行われます。
「Breeding For Racing」にはこう書かれています。

「繁殖牝馬としてまったくだめになってしまった場合、良い落ち着き先を見つけてやるか、安楽死させるかする。
これは、パブリックオークションに出して不幸な運命のもとに追いやるよりも、ずっと思いやりのあることだ。
勿論、手放す馬達の全員に安全で幸福な落ち着き先を見つけてやることは不可能だが、それでも、1頭の牝馬を
不幸な運命のもとに追いやるのと、彼女を安楽死させることによって財政的損失をこうむることとの間で、
なるべく望ましい方法を見つけるべく、私達にできることは少なくない」
「ときには、パブリックオークションよりもいくぶん安い価格ながら、再売却しないという条件つきで売れる場合もある。
私達は過去に二度、この方法をとる機会に恵まれた。」
「年をとった牝馬や能力的にだめだという牝馬は安楽死させるのが最善である。結局のところ十把一からげで
買われて食肉にされるのがおちだからだ。」
「生産者にとって大きな働きをしてくれた牝馬は引退させ、死ぬまで心地よく過ごすことができるようにすべきである。」
「ラパイヴァ(名馬ブリガディアジェラードの母)は19歳で繁殖生活を引退させたが、それから数年間我々はできるだけのことをしてやった。
引退したラパイヴァは実際の年齢の半分くらいに見えるようになり、離乳期の当歳や2歳馬の素晴らしい保母となり、
出産の経験のない牝馬や不妊の牝馬達の良い仲間となった。
素晴らしい繁殖牝馬が年老いてなお出産をつづけ、疲れきり、地面に膝を落とし、その表情に歳月の色を濃くにじませている…
こんな光景は見ていてとてもつらいものだ。」

これは、イギリス人のサラブレッドに対する考え方を代表していると思われます。
サラブレッドは決してペットではありません。
農耕馬や愛玩用の馬とは分けて考える必要があります。
このことは、世界では常識なんだよ、とイギリス人は私達に言っているような気がします。



参考文献「伝説の名馬」「季刊名馬」「第28回パリ競馬会議報告書」など